(11) 相対整列臨場 中
「顔を出しすぎるなよ」
床に腹ばいになり、娘とならんで1階をのぞいた。うす暗い、おおきな空間だった。中央に、大量の木箱。壁際に毛布の山。何人かの子供が寝ている。作業場がいくつかあり、そのどれもで、子供が働いている。大きな台と大量の袋があるところでは、顔に布をまいた子供が、袋詰めなどの作業をしているのが見えた。ところどころヒューマンや獣人の男が立ち、仕事を見張っている。子供が、全部で15ほど。見張りは5。小さな作業場である。他勢力の襲撃や憲兵の立ちいりにそなえ、作業場をひとまとめにせず、いくつかにわけているのだろうと思った。
マヤは、表情のない子供たちの顔を、しばらく見つめていた。
幼児と呼ぶほうがふさわしいものが多かった。やっと、1人で着替えができるようになったくらいの子供。汚れた布を顔にまき、ただ、手を動かしている。こなければよかった。マヤはそう思いはじめていた。子供たちの目。ここにいたころのマヤが、今のマヤを削りとり、すべてが元にもどっていくような感覚が、体をつつみはじめた。
アファーリと世界をまわり、どこの街にも掃きだめがあることを知った。金のあるものたちが出ていき、建物だけが、脱け殻のように残った区画。。悪政、失政によって基準からはじきだされたものたちが空いた土地に集まり、寄せ集めの建材で虫の巣のようになった区画。為政に、すべてがうまくいく日はこない。賢人が命をかけてまとめあげた街からも、貧民街はなくならない。マヤは、それを見た。そして、どこも、うまくいかない為政のしわ寄せは、真っ先に加護なしにむいていた。加護なしは、法や税と言ったもののなかで生活できず、盗み、売春、薬、そういったものとともに生きていた。
だが、貧民のなかに、住む世界を変えたものたちがいた。
貧民は、無知ゆえに貧民である。無知は、目の前の欲望にしか意識がむかない。積み重ねることの着実なよろこびと、積み重ねたものの作用を知らないからだ。なにかのきっかけで、積み重ねることを決意したものは、孤独にそれをつづけるなかで、やがて、ちがう世界と出会い、ちがう世界とむすびつきが生まれ、積み重ねの理由と作用がよりたしかなものになる。そして、そのときにはすでに貧民ではなくなっている。様々なところで、マヤはそういう場面と出会った。
自分がそういう人間ではないことに、いつしか気づいた。
波刃。この街でそう呼ばれていたころ、アファーリと出会い、叩きのめされ、拾われた。孤独な積み重ねが、マヤを、貧民から世界をまわる傭兵へ押しあげたわけではなかった。1人でなにかを積み重ねるということがどういうものか、本当は知らない。なにもないところから、どうやってむすびつきをつくればいいのか。積み重ねる決意はどこから生まれるのか。本当はなにもわかっていない。もう一度落ちれば、ふたたびすくいあげてくれるものが現われないかぎり、掃きだめをさまよいつづけるのではないか。気がつけば、心のどこかで、そのことをおそれるようになっていた。
マヤはいたたまれなくなって、視線をそらし、隣の娘に目をやった。娘の目は、1階を観察している。なにを感じているのかはわからなかった。
元々、庇護されたところで生まれたもの。掃きだめで生まれても、自分の力で世界を変えたもの。マヤは、そのどちらでもない。大事に育てられた、役人の娘。ねたんでいるのか。自分にそう問いかけた。
「子供たちは、どこから来たのですか」
「奴隷市場で買い叩かれたものが多いだろう。みんな体は小さいし、病弱そうだ。あとは、借金のかわり。薬のかわり」
「薬のかわりとは」
「親が、子供で支払うってことさ」
娘は、粉を詰めている作業場を見つめている。
「薬というのは」
「麻薬だよ。まさか麻薬も知らないわけじゃないだろうね」
返事はなかった。
「もういい」
マヤは娘から視線をそらした。麻薬など、物心ついたときからそばにあった。理不尽だという思いが、体をつつんだ。怒りは、もう、よくわからないものになっている。
隅に、木箱で仕切られ、ここからではなかが見えないところがあった。娘はしばらくマヤを見つめていたようだったが、体を起こし、そちらに移動しはじめた。マヤもそれにつづく。そこがなんなのか、マヤには想像がついていた。移動するにつれ、繰りかえし、なにがきしむ音がきこえはじめた。体が2つ見えた。白い大きな体が、小さな褐色の体におおいかぶさっている。見なれた光景だ。マヤはそう思おうとした。だが、体のなかが冷えるような感覚は、すぐに全身に広がった。絶望と、怒り。心が割れる。マヤは目をそらした。大丈夫だ。自分に言い聞かせた。傭兵なんだ。もう、こことは縁のない、世界をまわる傭兵なんだ。娘をみた。娘は、これまでと同じように、表情のない顔でその光景を見ていた。
「なにが見える」
マヤはきいた。しばらく待っても、返事はなかった。
「なにが見える」
娘は仕切りのなかを見つめたまま動かない。娘の体から、魔力がふくらみはじめた。
「馬鹿野郎。おさえろ。見つかるよ」
発光がはじまった。マヤは娘を引きずってその場からはなれた。
「落ちつけ。呼吸をふかくとれ」
ベッドの音が聞こえないところまでもどり、しばらく、そのまま2人で座りこんでいた。
「落ちついてきくなら、あいつについて説明してやる」
宙を見たまま、娘の首が、縦に動いた。
「いいか。リブイみたいなのはたくさんいるんだ。この街にもいるし、他の街にもいる。今、ここでリブイを殺しても、こういう子供の数は、実際はほとんど減らない」
銀色の瞳は、宙を見つめたまま動かない。
「落ちついてきけよ。いいね。買った奴隷のなかから、気に入ったものを手元に置く。リブイは子供しか相手にしない。子供なら、男の子供でも犯す。このなかにいるのはすべてリブイの相手だろう。そうしながら子供に麻薬の仕事の手伝いをさせている。子供が大きくなると、麻薬漬けにして、それをえさに、子供にできない仕事をやらせたり、兵隊としてつかう」
気持ちが沈みはじめていた。鼻をあかしてやっているという気持ちと、やり過ぎているという気持ちがぶつかりはじめていた。なにより、これは、怒りにまかせた行動だった。活動の目的から外れている、そのうしろめたさが、気だるさとなって体をつつんでいた。こんなことをする資格は自分にはない。それを思い知るためにやっているような気がした。
返せ、という声が聞こえた。なにかが倒れる音。怒鳴り声。マヤは声のほうを見た。毛布の山のまえに子供が倒れている。タシュ。見張りの足にしがみついているのが見えた。誰からどうやって盗んだか聞かれている。こたえたが、嘘だとわかる下手な作り話だった。見張りが集まってくる。ならなぜ隠す。怒鳴られ、蹴りとばされた。タシュはうずくまったまま、返事をしない。
額が大きすぎたか、とマヤは思った。組織のしきたりがどうなっているのかわからないが、娘の金が、タシュに不用意な行動をとらせたのは間違いなかった。なんの金だ。他の見張りが蹴りつけ、髪をつかむ。隣から、魔力と発光を感じた。腕がつかまれた。なにも変わりはしないんだよ。心のなかで答える。自業自得だ。これくらいのことにかまっていたら、身がもたない。だが、いくつもの心がぶつかりあいはじめていた。歯をかみしめた。よくあることだ。心のなかで繰りかえし、反対の手で、娘の手をつかみかえした。よくあることだ。自業自得だ。そう言おうと、口を開きかけた。
「じゃあこうしよう」
腕がはなれた。
娘の体が、したに落ちていった。
馬鹿野郎。マヤは声に出しかけた。行くしかない。おなじように、空中に体を投げだす。娘の体が、木箱のうえを転がって床に落ちるのが見えた。マヤは、両手足で木箱に落ち、一度勢いを殺してから飛びあがった。木箱を飛びこえながら逆手にダガーを抜く。落ちた音は倉庫中に響いている。見張りが集まっているうちにやるしかない。頭を、戦いに切りかえなければならない。自分と敵。それ以外のことを考えれば、待っているのは死だけだ。見張りたちの輪の外側におりる。すでに5人とも剣を抜いている。口々になにか言っているが、耳にははいらない。一番近いものが、3メートルほどの距離。3人がならび、2人がうしろ。うしろのオーク。自分と同じか、それ以上にできる。5人は多いな。小声でつぶやいた。
2人のヒューマンが、剣を突きだしながらせまってきた。マヤはダガーを順手に持ちかえ、さがりながら左右に動いた。2人がすぐに縦に重なった。馬鹿だね。心のなかで言い、力をいれて床を蹴った。ダガー。まえの男が受けの姿勢になる。反対の手で顔をはたき、すぐにさがった。男の表情が怒りに変わり、剣をあげて飛びかかってきた。斬りおろしを横にさけ、十分な体重で、こめかみに肘をいれた。男が沈むあいだにダガーを逆手にもどし、両拳を顔のまえでかまえる。うしろの男。細かく剣をだしてきた。マヤは位置をかえながら反撃し、剣をはらいつづけた。慎重だが、他にはなにも感じない。攻めるのをやめ、足をとめて、剣をはらうたびに手打ちで顔をはたいた。2度。3度。怒りで、動きがすこしずつ雑になってくる。さがりながらすねに蹴りをいれると、声をあげ、追ってきた。剣をもつ手に飛びつき、膝。男が腹をおさえてかがむ。こめかみ。拳を突きいれた。男は声もあげずに沈んだ。
「ライチ」
叫んだが、返事はかえってこない。娘は、木箱のむこうだ。
魔力がふくらむと、性格が変わるのか。アファーリの持つ力と同じようなものか。わけがわからなかった。マヤは舌打ちした。とんでもない状況にしてくれたと思った。また、2人で出てきた。ヒューマンと獣人。今の2人より強い。そのとき、2人のあいだから、オークにむかって打ちこむ体が見えた。光る体。鉄の棒。棒が払い落とされる。粉がまい、オークが顔をおさえて腰をかがませた。低いうなり声。オークの顔が白く染まっている。ヒューマンと獣人がうしろをむいた。マヤは駆けだしていた。左。ヒューマンの肩に両手をかけ、飛びあがって右の獣人のこめかみを蹴り飛ばした。落ちながら体に力をいれ、ヒューマンの髪をつかむ。体重をかけ、思いきりしたに引いた。頭をつかみなおし、壁に叩きつける。
オークが、むやみに剣をふりながら、うしろへさがっている。マヤは、素早くオークのうしろをとり、首をしめあげた。気絶したのをたしかめると、娘とタシュの体を引きずりながら、すばやくまわりを確認した。作業場のあたりで、子供たちがひとかたまりになり、こちらの様子をうかがっていた。倉庫の入口。扉が開いている。見張りの2人がなかにはいってきている。目が合うと、2人は外へ駆けだしていった。
「馬鹿野郎」
娘の体は、強くにぎっただけで折れそうなほどだった。発光と魔力が急激に弱まっている。
「頭がおかしいのか。戦ったことなんかないんだろう」
「あなたが、こんなに強いと思わなかったから」
娘がくずおれ、床に手をついた。息があがっている。
「おまえ、なんなんだよ。加護なしじゃないのかよ」
「わからない。甘いものが食べたい」
「こんなときに」
なに言ってんだよ。そう言おうとしたとき、気配を感じて、マヤはふり向いた。仕切りのなかから、リブイが出てきていた。大きな、肥えた体。うすい夜着を1枚はおっただけの姿。マヤは、ダガーを鞘にもどした。
「傭兵になったんじゃなかったのか。波刃のマヤ」
高い声でリブイが言った。マヤは、この声が嫌いだった。声だけではない。心の醜さがそのままあらわれたような、表情、体、すべてが嫌いだった。だが、昔から、殺したいと思ったことはない。関わりたくない。それが、この男にたいする感情だった。どんなことがあっても、この男をとりまく世界とつながりを持つことだけは、嫌だった。
「そう。傭兵だ。リブイ、これは、ちょっとした事故なんだ」
マヤは倒れている5人を、手でしめした。
「その証拠に、誰も死んでいない。殺してない。わかるだろ」
リブイはだまってきいている。何歩かこちらへ近づき、倒れている自分の部下たちをながめた。
「ちょっと、のぞきにきただけなんだ。それは謝る。自治府も、憲兵も関係ない」
線のような目が、マヤを見つめてきた。あごをさすっている。リブイ自身はひとひねりだが、この男に手をだすと厄介なことになる。それをマヤは知っていた。
褐色の肌が見えた。木箱の陰。半身だけを出し、こちらを見ている。リブイと同じように、夜着1枚の姿。マヤは、リブイから目をそらさなかった。女児の顔も、体も、話し声も知りたくない。リブイに犯された女児。そんなものを、受けいれられない。心がきしむのがわかった。思いだしかけている。忘れろ。言い聞かせた。昔のことも、女児のことも、忘れろ。マヤは体に力をいれ、5人のむこうに倒れている少年を指さした。
「けど、あの子はもらっていきたい。どうも巻きこんじまったみたいでね。もう、あんたのおもちゃでもないから、いいだろ」
リブイが現れたら言おうと思っていた言葉を、マヤは、ただ言った。逃げている。だが、心が、どうにもならない。逃げる以外の感情がはいりこむすき間が、どこにもない。褐色の肌が、マヤの心を押しつぶそうとしているかのようだった。解決などどこにもない。汚れたら、終わり。自分は一度拾われ、次はない。ならば、ここから早く出なければならない。
「いいだろ。つれてけ」
リブイが、高い声で言った。視界の隅で、褐色の体がゆれたのが見えた。見れない。見たくない。だが、なにかが、マヤの心を押した。女児は、おどろきの表情でリブイを見ていた。ああ。汚れたものも、外へ出たいのか。ぼんやりとそう思った。おこがましい。汚れたものが外へ出たいなんて、おこがましい。その仕切りのなかへ、早くもどれ。自分のなかから湧いてくる感情を、マヤはぼんやりとながめた。もうだめだと思った。アファーリ。ファター、アスクシャフェン、ビドハ。二度と、かれらと会うことはできない、と思った。
「リブイ、彼女も、一緒に行きたいようです」
近くで声がした。娘の声。娘の手が、リブイのうしろを指さしている。リブイが振りかえる。もう一度こちらをむき、娘、マヤと視線をうつした。険しい表情だった。
「なんだ。なんでこんなのを連れている」
「箱いりのお嬢様さ。街のすべてが見たいというから連れてきた。リブイ、すまない。もう帰るから、ここはこれでおさめてくれないか」
「ずいぶん、まるくなったんじゃないか」
「ああ。まるくなった。大人になった。けど、どうも性分みたいだね。命知らずだけは、ちっとも変わらないんだよ。どうしてだろうね。命知らずだけは、ちっともね」
言いながら、リブイを見つめた。しばらく見つめあった。リブイが、手をひらひらと振る。
「貸しも借りもいらない。いい。さっさと出ていけ」
リブイは背をむけ、仕切りのほうへ歩きだした。女児。マヤは、女児が、自分を見ていることに気づいた。リブイとの話はついた。あとは、タシュをつれて帰るだけだ。話はついた。マヤは頭のなかで、その言葉を繰りかえした。
「あんた、どのくらい強いんだ」
うしろからだった。小さな、かすれ声。タシュ。弱い。心のなかでそう答えた。
「あの子を連れていくことは、できないのか」
頼む。もうそれ以上話しかけないでくれ。心のなかで、マヤはうめき声をあげた。顔がゆがむのを、必死でこらえた。
「行くよ」
マヤは、ようやく、そう言葉にして、入口のほうへ歩きだした。娘が発光しはじめているのが、視界にはいった。勘弁してくれ。心のなかで繰りかえした。視界がぼやけている。入口の扉。それだけが見えた。娘が、リブイにむかって歩きだした。勘弁してくれ。頼む。体がしびれている。歯を食いしばった。なにも考えられない。なにも受けいれられない。マヤは入口の扉にむかって足を動かしつづけた。
「ただでは、なにも手にはいらない」
娘がなにか言った。誰に話しているのかわからなかった。
「自分の足で、こちらに走ってこい。走るのは簡単だ。足を動かすだけだからな。そうだろ。つまり、問題は恐怖だ」
マヤは足をとめた。問題は恐怖。その言葉が、マヤの心にひっかかった。
「自由を手にいれるために、おまえは恐怖を、味わう必要がある。リブイにさからうという恐怖だ。おまえがさからう。そしてリブイが怒り、乱暴におまえを犯す。何度も何度も犯しつづける。光景が目にうかぶな。さあどうする。逃げるなら、恐怖が通り道だ。逃げるなら、一度かならず恐怖につつまれる。さあ、恐怖をとおってここまでこい」
マヤは振りかえった。女児が、走りだすところだった。リブイの手が女児の腕をつかむ。光る体が走りこんできている。光る腕が肘を突きだし、リブイのわき腹にめりこんだ。
女児。黒い髪。褐色の体。
涙で、ゆがんだ顔。
白い夜着をひるがえし、まっすぐ、むかってくる。
マヤは腰をかがめ、両手をひろげていた。
救われないという恐怖か。自分のまわりにも、この子のまわりにも、救われないという恐怖が、道となってひろがっているのか。抱きしめながら、思った。そこを、走りぬける。ただ、走りぬけなければならない。救われるかはわからない。道をぬけなければ救われないことだけが決まっている。すでに地獄なのか、と思った。自分も、この子も、すでに汚れている。すでに地獄にいる。そこから考えるしかないのか。すでに地獄にいるなら、出るしかないじゃないか。光る体が、あとを追ってきていた。
「覚悟しろよ。ここからようやく本番だ」
娘が、マヤのダガーを抜き、女児に差しだした。女児が目を見ひらき、首をふる。娘は強引に女児ににぎらせると、マヤの上着に手をいれ、ナイフをとりだした。
「いいか。自分でけりをつけろ」
反対の手で、マヤから引きはがし、リブイのほうをむかせる。
「こわいか」
女児の目から涙がこぼれた。
「こわい」
「もっと言え」
「いやだ、こわい」
「なにがこわい。こんなもの」
娘がリブイにむかっていった。ナイフの持ちかたも、走りかたも、まるでなっていない。だが、ためらいのなさが、リブイを気圧していた。リブイが、おびえた表情で、さがりながら、両手をまえに出した。娘は、ナイフをもたない手を突きだしながら走っている。その手に、リブイの手がからんだ。娘がリブイの手を切りつける。リブイがうめいて下がった。腕、足、脇。体の外側を、切りつけていく。リブイが叫び、手を横に払った。ナイフをもつ腕、顔。娘の体がまとめてなぎ倒され、床に転がった。リブイはナイフを蹴り、娘に馬乗りになると、首に手をかける。マヤが走りだそうとしたとき、横を、タシュが通りすぎた。ナイフ。両手でにぎられている。リブイの背中。タシュが飛んだ。叫び声。リブイが振りかえった。ナイフが肩に沈みこんだ。リブイの高い声。うしろに手をまわすが、手がとどかず、暴れだした。光る体。立ちあがっている。喉をおさえ、咳きこみながら、こちらをにらみつけている。こい。そう言っている。
「おいていく」
マヤは言っていた。
「とどめをさしてきな。できなければ、おいていく」
「やだ」
絶叫だった。マヤの服をつかみ、激しく体をゆらす。だが、マヤは女児の目を、ただ見つめた。
「名前は」
「カノン」
「カノン。あたしも犯されて育った。今、おまえに会うまで逃げつづけてた。けりをつけなければ、一生つづくよ」
カノンの手をおおい、ダガーをしっかりにぎらせた。体を押しだす。カノンは足に力をいれ、前にでない。
「やだ。できない」
「ひとりであいつから逃げてきた。おまえならできるよ」
「できない。こわい」
「やるしかない。けりをつけてこい」
「やだ。できない」
「なら犯されつづけるしかないじゃないか」
叫んでいた。いつの間にか、マヤの顔も涙でぬれていた。だが、心は、不思議なほど冷たく、かたかった。マヤは手をはなし、カノンからはなれた。
「やだあ」
「カノン、お別れだよ。ライチ、タシュ、いこう」
「いやだ」
カノンが絶叫し、ダガーを投げすてた。獣のような声が小さな喉から鳴っている。ライチはしばらくカノンの様子を見ていたが、ナイフを拾い、こちらへ歩いてきた。タシュは動かない。
「タシュ、あんたも置いてくよ。はやくきな」
「まてよ」
獣のような声が聞こえつづけている。入口まできた。マヤは扉のまえで立ちどまり、振りかえった。タシュは動いていない。
「これはカノンの戦いだ」
怒鳴った。タシュが、ようやく歩きだした。リブイが肩のナイフに手をかけたのが見えた。ナイフを捨て、肩をおさえながら、カノンにむかって歩きだす。
「逃げたのは許してやる」
「こないで」
獣の声だった。カノンはダガーを拾い、両手でまえへ突きだした。
「さからえばどうなるか、見てきたな。それに、行くところがあると思っているのか。親に捨てられたおまえに」
「死ね、カノン。自由を手にして死ね」
ライチの声。
しばらく間があった。
獣がほえ、駆けだしていた。リブイが横によけ、カノンの手をつかみ、突き飛ばした。すぐに立ち上がり、カノンはふたたびほえた。涙で濡れ、髪のはりついた顔に、リブイをにらむ獣の目があった。タシュのナイフ。拾い、ダガーと2本もちになった。ナイフをやみくもに振りまわしながら、リブイに突っこむ。2人の動きが、とまった。ダガーが、リブイの下腹に沈みこんでいる。
リブイの両手が、カノンの首にかかった。
「カノン、はなれろ」
マヤからは背中しか見えない。カノンは動かなかった。
「カノン」
上着をめくり、地を蹴る。
指先の感覚。
体重の移動。前の足。
腕、手首の振り。
うしろの足が地についたときには、ナイフはすでにリブイの額の中央にあった。大きな、肥えた体が、ゆっくりうしろに倒れる。マヤは駆けだした。カノン。手と足が、がたがたとふるえている。マヤは、うしろからカノンを抱きしめ、血にそまった手を、自分の手でおおった。
「よくやったよカノン。これから生きよう。これから、一緒に生きよう」