花束
死ぬときなんか予測できないわけだけれど、死ぬ直前に何か一言言ってくれればよかったのに、と思う。いや、それも不可能な事なんだろうけれど。
真新しい墓石の前には、既に鮮やかな色の花が飾られていた。私の前に、奈々さんが来たんだろうな、と考えながら、活けられていた花を乱暴に抜き取り、砂利道の上に投げ捨てた。右手に掴んでいた名前も知らない白い花を、捨てられた花の替わりに活けて、線香に火をつける。煙が細く、ふんわりと漂う。墓石に刻まれた彼の名前は、ややぼやけて見えにくくなる。
彼が死んで一週間が過ぎるけれど、私の生活に途轍もなく大きな支障は無かった。彼という存在が消えてしまっただけで、会社の上司は相変わらず面倒くさいし、妹の佳苗は、幸一とでも早く結婚しろ、とうるさい。彼との密会がなくなった以外、私の生活は平常どおりだ。流れは緩やかだし、掴みやすい毎日が送られている。
空は近くて、真っ青だ。ちぎれたような雲がふわふわと浮かんでいるだけで、その他には何も無い。風が吹けば馬鹿正直に木々はざわめき、小鳥は細々と囀る。私は大きな石がごろごろと転がった歩きにくい道をゆっくりと歩き、もと来た道を戻ろうとした。そこには白い清潔そうなワンピースを纏った奈々さんが、柔らかそうな髪をなびかせて立っていた。奈々さんは相変わらず、見とれてしまうほど美しくて上品そうだ。
「こんにちは、えっと……」
「島崎です。島崎麻耶」
「ああ、そうそう。島崎さんでしたね。改めましてこんにちは。三井奈々です」
私は軽く腰を曲げて、上品そうな奈々さんに挨拶の返事をする。奈々さんは唇の端を上に持ち上げて、作り笑いをした。その出来具合は実に良くて、私以外の人が見れば、心の底からの歓迎だと思うだろう。でも実際違う事を私は知っている。私だけが知っている。
奈々さんは砂利道の上を器用に歩いて私の元に近づき、先ほどよりくっきりとした笑みを浮かべて私を見た。私はそのくっきりとした笑みに威圧され、唾を飲み込む。
「美味しい喫茶店があるんだけど、お茶でもいかが?」
「……仕事があるんで」
「そんなことおっしゃらずに。コーヒー一杯くらい、飲んでいく時間はあるでしょう」
「はあ」
私は巧くかいくぐろうとしたが、奈々さんの巧みな話術によって連れて行かれることになってしまった。全然乗り気ではないし、出来ることなら一刻も早くこの場を離脱したいと思いながら、奈々さんの後を渋々ついていく。途中で何度も石に躓いて、足を捻っては転びそうになったが、何とかバランス感覚を保ち、奈々さんの車までたどり着く事が出来た。私は電車で着ていたので、奈々さんの車に乗せてもらうことになった。彼が生前、私と街をうろつくときに使っていた車と同じものだ。煙草の臭いを消すための消臭剤が、柔らかな香りを放っている。奈々さんは慣れた手つきで車を発進させる。春先なのに、ずっと日差しを浴びていた車は、暑いくらいだった。
「この近くに、ケーキの美味しいお店が在るのよ。よく彼と行ったわ」
奈々さんはよく、彼と奈々さん自身の付き合いを、私に話してくれる。車内でもずっと私はその話を聞かされて、はあ、とか、へえ、とか、ほお、とか曖昧な相槌ばかり打たされる羽目になった。車は颯爽と、交通量の少ない直線の道を過ぎ去り、あっという間に“奈々さんがよく彼と行った、ケーキの美味しいお店”に到着した。外装は少し草臥れてはいるものの、茶色で統一された店内はお洒落だったし、何だか落ち着いた。穏やかな木の香りもする。ウェイトレスが来たかと思うと、奈々さんは勝手にケーキセットを二つ頼んだ。「今日は私が奢るから」と、得意満面に彼女は言うけれど、私はさっぱりケーキが食べたいとは思っていないので、有難迷惑だ。寧ろ、ここから逃がしてもらったほうが随分感謝の意を表せるのに。そんなことを考えながら、私は奈々さんに軽く頭を下げる。シンプルな空間には、クラシックの滑らかな旋律が滑り込んで来る。
「今度はあなたのお話を聞きたいわ」
店が空いているせいか、ケーキセットは極短時間で運ばれてきた。淹れたての温かいコーヒーを口に運び、吸い込むようにして飲みながら、奈々さんは言った。
「私のお話?」
「ええ。あなたと彼のお話。どんな出会いをして、どんな恋をしたのか」
「はあ」
私は気が乗らないまま、興味津々な奈々さんの顔を押し込めることも出来ず、渋々と話を始めた。
私と彼が出会ったのは、入社のとき。私は彼のことは、ただの上司としてしか見ていなかったけれど、彼の方から色々と話をされて、次第に惹かれていったこと。付き合いだしたのは、入社してから一年目。丁度彼と奈々さんが結婚して三年目になる頃だということ。初めてデートをしたのは、ディズニーランドで、ミッキーと一緒に写真を撮ったということ。彼が奈々さんに、海外出張だと嘘を吐き、私と一緒にヨーロッパへ旅行へ行き、お土産にベルギーのチョコレートを買ってきたということ。初めてキスをしたのは付き合いだしてから三ヶ月で、観覧車の中という非常にロマンチックなシチュエーションだったということ。初めて彼と一緒に寝たのは、付き合いだして半年後、都内のラブホテルで、ということ。それからは週一回くらいのペースで密会しながら、会うたび寝ていたということ。――嘘偽りなく、口から零れ落ちる言葉の数々に、私ですら驚いていた。奈々さんは目を閉じながら私の話を聞き、ゆっくりとコーヒーを啜る。上品な容姿に伴った、上品な行動は、店内を流れるクラシックとぴったりマッチしている。
「色々私は、彼に騙されてきたのね」
話が終わった後、奈々さんはそう言った。遠くを見つめるようにして。私は「そうですね」と呆気ない返事をして、話し続けて乾いてしまった口内を、コーヒーで潤す。ショートケーキはすっかり生クリームが乾いてしまっていて、口に含むとボロボロ崩れた。
「あなたは綺麗なんだから、ボーイフレンドくらいいるんでしょう」
「はあ、まあ、一応」
ボーイフレンドという名称に当たるのは、きっと幸一のことをさすのだろう。幸一とは同じ年で、同じ大学だった。付き合ってくれ、と言われて頷いたものの、彼とはどこか違うものがあった。キスもセックスも、同様に。幸一と彼のポジションは、私の中で全く別物なのだ。
「それなのに、何でうちの旦那なんかに手を出したの?いくつも年上なのよ」
私から手を出したわけでは無いのだから、そんなことを訊かれても答えようが無い。私は目を伏せながら、はあ、とまたしても曖昧な返事をした。それにはいい加減気に障ったのか、奈々さんは眉を顰める。
「うちの旦那から言い寄ったとしても、振ればよかったじゃない。年老いた男なんだから」
そんなこと、わかっている。それが一般的には正しい判断であるということくらい。ただ、彼の場合特例だった。私には幸一がいようとも、彼は振ってはならない存在であることがわかった。だから、一緒にいたのだ。運命なんて、元々なぞだらけなんだから、解明しようとすればするほど、頭がおかしくなってしまうものなのだ。私は何も言わず、ただ奈々さんが鋭い声で言ってくる言葉を流すようにして、何度も頷くことしか出来なかった。奈々さんはテーブルを強く叩き、いきり立って私をにらみつけた。私はテーブルを叩いたときの音に驚き、急いで奈々さんの顔色を窺う。青筋の立った米神と、鋭い形相。むき出しにされた歯。憤慨していることくらい、誰が見てもわかる。ただこれは、尋常じゃない憤りの表れだ。
「いい加減にしろよ、このメス豚。男だったら誰でもいいってことかよ、このヤリマンが。くたばれ。人の亭主に手を出すなよ、クソ女。泥棒猫。死んじまえ」
奈々さんはこの世のものとは思えないほど汚らしい言葉ばかりを私に浴びせて、ずかずかと下品な歩き方をして店を出て行った。結局金は払っておらず、私が奢らされる身になってしまった。有言不実行とは、情けないにもほどがあると思いながら、渋々財布を取り出して、レジで会計を済ませた。乾いたショートケーキは、半分も食べられないまま、皿の上で寂しそうにたたずんでいる。店の外に出た私は、とりあえず最寄の駅を探すことにした。