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婚約破棄の歴史は学びましたか? 殿下、三百年前から同じ失敗を繰り返しておられます

作者: シオン
掲載日:2026/09/08


南方共和国から届いた、九人目の初代大統領に関する調査依頼。


それを引き受ける直前、エミリア・フォン・アルヴェインのもとへ、もう一通の手紙が届いた。


差出人は、東方にある小国ラグナリア王国の王立学院。


封筒には緊急と記され、内側には一枚の卒業祝賀会への招待状が入っていた。


「婚約破棄の立会人になっていただきたい?」


エミリアは手紙を読み、首をかしげた。


向かいに座る研究員ニコが、嫌なものを見たような顔をする。


「なぜ婚約破棄へ立会人が必要なのです?」


「王国側の説明によると、歴史院の専門家が立ち会うことで、正当な手続きであると証明したいそうです」


「婚約破棄に、歴史院の専門知識が必要でしょうか」


「婚約を破棄される令嬢が、わたくしの弟子だからでしょう」


少女の名は、エレナ・フォン・クライス。


ラグナリア王国の侯爵令嬢であり、王太子アーノルドの婚約者だった。


三年前、エレナは帝国歴史院へ留学した。


王国の古い法律を研究し、失われた土地所有記録を復元するためである。


歴史院で彼女を指導したのがエミリアだった。


エレナは真面目で、努力家だった。


一冊の古文書を読むために古代語を学び、何度失敗しても資料の修復を諦めなかった。


ただし、素直すぎるところがあった。


王太子から国のためだと言われれば、自分の時間や財産を差し出してしまう。


多少理不尽な要求をされても、未来の王妃として耐えるべきだと考える。


「以前の祖母に似ております」


エミリアがつぶやく。


「伝説の悪役令嬢セレスティア様に?」


「婚約破棄される前の、ですが」


エレナは歴史院で、悪役令嬢たちの記録を数多く読んでいた。


婚約者の功績を奪った王子。


公金を使い込んだ王家。


偽物の証拠で王位を奪おうとした大公。


神託を利用して献金を集めた大神官。


歴史から他人の名を消した者たち。


過去の失敗を学び、自分は同じ目に遭わないと話していた。


それでも手紙によれば、彼女は罪人として断罪されようとしている。


「王国側は、何を根拠に婚約破棄を?」


「エレナが学院の聖女をいじめたそうです」


「また聖女ですか」


「また、とは?」


「こちらの話です」


聖女とされる少女の名は、リリア・コレット。


地方の子爵家に生まれ、光魔法の才能を認められて王立学院へ入学した。


傷を治すほどの力はないが、暗い場所へ光をともすことができる。


それだけでも希少な魔法には違いない。


ところが王太子アーノルドは、彼女を初代聖女の再来とたたえ始めた。


リリアが触れれば病が治る。


彼女が祈れば作物が実る。


近くにいるだけで魔物が逃げる。


そのような噂まで広めた。


実際に何かが起きているのかは、まだ分からない。


「エレナ本人からは?」


「こちらです」


二通目の手紙を開く。


文章は短かった。


『先生。婚約を破棄されること自体に、異議はございません』


『ですが殿下は、わたくしが復元した土地所有記録を偽物と断定し、焼却しようとしております』


『記録が失われれば、国民二万人が土地を奪われます』


『どうか、歴史の立会人としてお越しください』


エミリアは立ち上がった。


「参りましょう」


ニコが驚く。


「南方共和国は?」


「九人目の大統領へは、調査官を先に派遣します」


「一月の休暇は?」


「すでに終わりました」


「三日前に?」


「十分休みました」


「三日しか休んでおりません」


エミリアは机の引き出しを開けた。


母リディアから贈られた請求書が、きれいに束ねてある。


そのうち十枚を旅行鞄へ入れた。


「今回は婚約破棄の立会いだけですよね?」


ニコが尋ねる。


「念のためです」


「十枚も?」


「土地を奪われる方が二万人おりますので」


「足りますか?」


「足りなければ現地で増刷します」


三日後。


エミリアはニコ、法務官二名、歴史資料の鑑定官、国際騎士団の護衛とともに、ラグナリア王国へ入った。


王都へ向かう街道の両側には、広大な麦畑が広がっている。


しかし畑で働く農民たちの表情は暗かった。


街道沿いの村に立ち寄ると、家々の扉へ赤い紙が貼られていた。


「こちらは?」


エミリアが村長に尋ねる。


「立ち退き命令です」


「理由は?」


「我々が暮らす土地は、王家のものだそうです」


「これまでは?」


「クライス侯爵家から借り受けた土地として、毎年税を納めておりました」


「土地の所有記録は?」


「三十年前の火災で焼けたと聞いています」


だからエレナは、焼け残った古文書を集め、所有記録を復元していた。


彼女の調査によれば、この地方の土地は王家のものではない。


開拓した農民たちとクライス侯爵家による共同所有である。


王家は勝手に売ることも、住民を追い出すこともできなかった。


「なぜ、急に立ち退きを?」


村長は周囲を確かめ、声を落とした。


「鉱石が見つかったのです」


畑の地下から、希少な魔法鉱石の鉱脈が発見された。


王家は外国の商会へ採掘権を売ろうとしている。


だが所有権が農民と侯爵家にあれば、王家は自由に契約できない。


そこで復元された記録を偽物とし、土地を王家の直轄地へ戻そうとしているのだ。


「婚約破棄と土地の記録がつながりましたね」


ニコが言う。


「エレナ様を罪人にすれば、侯爵家も処罰できる」


法務官が続ける。


「侯爵家の財産と土地を没収し、記録も偽造されたものとして処分できます」


「そのための聖女でしょうか」


現時点では、まだ推測にすぎない。


エミリアは村長へ尋ねた。


「リリア様の奇跡について、何かご存じですか?」


「聖女様が祈った畑だけ、雪害を受けなかったとか」


「こちらでも?」


「いいえ。王都の近くの村です」


「病を治したという話は?」


「王太子殿下の側近が、高熱から回復したそうです」


「聖女が治したのですか?」


「そのように聞いております」


エミリアはすべてを記録した。


否定もしなかった。


信じもしなかった。


確認すべき項目が増えただけだった。


王立学院の卒業祝賀会まで、あと二日。


エレナは王都の侯爵邸で軟禁されていた。


罪人としてではない。


婚約者の身の安全を守るため、という名目だった。


屋敷の門は王家の兵士に囲まれ、手紙も荷物も検査されている。


ただし正式な逮捕命令はない。


「保護と言いながら、外出も連絡も禁じる」


エミリアは門番へ調査許可証を示した。


「昔から、監禁する方々が好む表現ですね」


兵士は面会を拒もうとしたが、法務官が命令の根拠を尋ねると答えられなかった。


王太子殿下の命令。


それだけだった。


「現在の国王は、どなたです?」


法務官が確認する。


「国王陛下です」


「王太子に、侯爵令嬢を裁判なく拘束する権限は?」


「存じません」


「知らないまま従っている?」


「命令ですから」


「違法な命令である可能性を、今お伝えしました」


兵士たちは顔を見合わせた。


最終的に門は開かれた。


応接室で待っていたエレナは、三年前より少し大人びていた。


淡い金髪をまとめ、青いドレスを着ている。


疲れてはいたが、弱り切ってはいない。


「先生」


「お久しぶりです、エレナ」


「来てくださったのですね」


「立会いを求められましたので」


「婚約破棄を止めてくださるのですか?」


「いいえ」


エレナは少し驚いた。


エミリアは彼女の向かいへ座る。


「婚約を続けたいのですか?」


エレナは答えなかった。


「殿下を、まだ愛しておりますか?」


「以前は」


「今は?」


「分かりません」


エレナは膝の上で手を握った。


「国を良くしたいと語る殿下を、尊敬しておりました。わたくしが古い法律を学びたいと言えば、応援してくださったのです」


「土地の記録を復元するまでは?」


「はい」


鉱脈が見つかったのは、半年前。


外国商会は採掘権の対価として、王家へ百五十万金貨を提示した。


財政難に陥っていた王家にとって、喉から手が出るほど欲しい金だった。


だが、エレナの復元した記録によって、土地が王家の所有ではないと判明した。


「殿下は、最初に何と?」


「国のために記録を破棄してほしいと」


「お断りしたのですね」


「はい。あの土地には十二の村がございます。住民を追い出せば、二万人が家と仕事を失います」


「その後、リリア様に関する事件が?」


エレナはうなずいた。


最初は、リリアの教科書が破かれた。


次は制服が汚された。


廊下で足をかけられた。


茶へ薬を入れられた。


事件が起きるたび、近くにエレナの持ち物が残されていた。


侯爵家の紋章が入ったハンカチ。


エレナが使う封蝋。


歴史院の特殊なインク。


「分かりやすいほど、わたくしにつながる物ばかりです」


「分かりやすすぎるとは思わなかったのでしょうか」


「殿下は、証拠が多いほど疑う必要がないと」


「証拠の数より、入手経路が重要なのですが」


リリアへの嫌がらせが始まった頃、王太子はエレナへ最後の提案をした。


土地記録を燃やし、王家へ忠誠を誓え。


そうすれば、リリアを側妃として迎えるだけで、婚約は継続する。


断れば、エレナを悪役令嬢として断罪する。


「随分と直接的ですね」


ニコがあきれた。


「殿下は、ご自分が歴史を学んでいると考えておられます」


エレナが答える。


「どういう意味です?」


「歴代の婚約破棄で王子たちが失敗した理由は、準備不足だったからだと」


部屋が静まった。


「準備不足?」


「契約書を読まなかった。帳簿を確認しなかった。証拠を用意しなかった。だから自分は同じ失敗をしないと」


エミリアは額を押さえた。


「何を学んだのでしょう」


「表面だけね」


法務官がつぶやく。


歴代の愚かな王子たちは、証拠や契約を軽視したから破滅した。


それは間違いではない。


だが本当の問題は、婚約者を道具として扱い、他人の財産を奪おうとしたことだ。


アーノルドは、そこを理解していない。


「殿下は証拠を用意されたのですね」


「はい。わたくしの侍女三人が、嫌がらせを命じられたと証言する予定です」


「実際に命じましたか?」


「いいえ」


「なぜ証言を?」


「家族を人質に取られております」


「記録は?」


エレナは一本の髪飾りを外した。


内側に小さな記録魔石が埋め込まれている。


「一人の侍女が、命令された会話を記録しました」


魔石から、男の声が流れた。


『舞踏会で証言すれば家族を解放する』


『拒めば、お前の父親を鉱山へ送る』


アーノルドの側近の声だった。


「王太子本人の命令だと分かる記録は?」


「ございません」


「では、側近が勝手にしたと言い逃れられます」


「そのために、明日の夜にもう一度話し合いがございます」


「どなたと?」


「殿下と、わたくしです」


婚約破棄の前夜、最後の機会を与える。


アーノルドはそのように伝えてきた。


「危険です」


護衛騎士が言う。


「だからこそ、参ります」


エレナは静かに答えた。


「記録を燃やせば婚約を続けると、殿下ご自身の口から言わせます」


「なぜ、そこまでなさるのです?」


エミリアが尋ねる。


「婚約を破棄されることが怖いからではございません」


エレナは窓の外を見た。


門の向こうには王家の兵士がいる。


「わたくしが逃げれば、殿下は侯爵家を反逆者として処分します。土地記録も奪われ、村の方々が追い出されます」


「ならば、わたくしたちが記録を保護します」


「原本は王立学院の地下書庫です」


エミリアの表情が変わった。


「なぜ、侯爵家で保管しなかったのです?」


「殿下が、王国の歴史資料として提出するよう命じました」


「すでに奪われているのですね」


「はい。ただし、封印の解除には、わたくしの魔力署名が必要です」


だからアーノルドは、エレナへ記録を破棄させようとしている。


彼女が拒めば、罪人として処刑し、死後に侯爵家の魔力印を接収する。


「原本を確認します」


エミリアは立ち上がった。


「地下書庫へ入る許可は?」


「わたくしが署名した寄託契約に、研究指導者の立会権が記されています」


「研究指導者は?」


「先生です」


エミリアは契約書を確認した。


確かに、自分の名と魔力印がある。


名前を消された事件の後、すべての重要文書に複数の立会人を記載する制度を作っていた。


過去の自分に助けられた形だった。


その日の午後。


エミリアたちは王立学院の地下書庫へ向かった。


書庫長は入室を拒んだ。


「王太子殿下から、明日の舞踏会まで誰も通すなと命じられております」


「寄託契約をご確認ください」


「王太子殿下の命令です」


「契約では、研究指導者に立会権が認められています」


「次期国王の命令が優先されます」


エミリアは契約書の次のページを開いた。


「王家が正当な手続きを経ず資料の閲覧を妨害した場合、所有権は寄託者へ即時返還される、とございます」


書庫長が目を瞬いた。


「つまり?」


「あなたが入室を拒むなら、土地記録は学院の資料ではなく、エレナ様の所有物へ戻ります」


「そんな条文は知らない!」


「署名がございます」


書庫長は自分の署名を見た。


顔色が変わる。


「契約締結時、説明いたしました」


「覚えていない!」


「書面にも残っております」


「細かな条文まで読む時間がなかった!」


「それは、わたくしの責任ではございません」


後ろにいたニコが小声でつぶやく。


「原点へ戻った感じがしますね」


「何か?」


「いいえ」


地下書庫の扉が開かれた。


土地所有記録は、最奥の保管室にあった。


分厚い革表紙の十二冊。


開拓当時の契約書。


住民の名簿。


税の支払い記録。


王家と侯爵家が結んだ共同管理契約。


保存状態も良く、復元箇所には使用した資料と修復方法が細かく記されている。


鑑定官が一冊ずつ確認した。


「偽造ではありません」


「断定できますか?」


「はい。紙、墨、封蝋、魔力印はすべて年代と一致します」


「復元箇所は?」


「元の文字を推測した部分には、異なる色のインクが使われています。原文と復元部分を区別できる、適切な修復です」


エレナは記録を偽造していない。


むしろ、後世の者が誤解しないよう細心の注意を払っていた。


「複製を作ります」


エミリアは宣言した。


書庫長が慌てる。


「認められません!」


「契約で許可されています」


「王太子殿下が!」


「契約書に殿下の署名もございます」


「殿下は内容をご存じなかった!」


「ご自分で読まなかったことを、こちらの責任にされても困ります」


複製作業には夜までかかった。


十二冊すべてを写し、帝国歴史院、侯爵家、王国法務院、各村の代表へ一部ずつ保管する。


もう、原本一つを燃やしても事実は消えない。


「婚約破棄の前に、勝負は終わったのでは?」


ニコが尋ねる。


「まだです」


エミリアは最後の写しへ証明印を押した。


「リリア様の件が残っています」


土地の記録を守るだけなら、このまま帝国へ持ち帰ればよい。


だが、エレナへ濡れ衣を着せた者。


証言を強要された侍女。


そして聖女として祭り上げられたリリア。


全員の事実を明らかにしなければならない。


婚約破棄前夜。


エレナは王宮の小会議室へ向かった。


同行者は認められなかった。


けれど髪飾りの記録魔石には、帝国歴史院の認証が施されている。


会話を改ざんすることはできない。


部屋にはアーノルドとリリアがいた。


アーノルドは金糸の入った正装を着ていた。


明日の舞踏会を待ちきれない様子で、余裕の笑みを浮かべている。


リリアは白いドレスを着ていた。


顔色が悪く、目を伏せている。


「最後の機会だ、エレナ」


アーノルドが机へ一枚の書類を置いた。


土地記録の焼却同意書だった。


「これへ署名しろ。そうすれば婚約破棄は取りやめる」


「リリア様は?」


「側妃として迎える」


「わたくしが拒否した場合は?」


「明日の舞踏会で、お前の罪をすべて明らかにする」


「どのような罪ですか?」


「リリアへの嫌がらせ。聖女に対する不敬。そして、王家の土地を自分の家のものと偽った罪だ」


「土地記録は専門家の鑑定を受けています」


「専門家など、金を払えば何とでも言う!」


「では、リリア様への嫌がらせについて、証拠は?」


「お前の侍女が証言する」


「証言を強要された可能性は?」


アーノルドの笑みが深くなった。


「誰が、そのようなことを証明できる」


エレナは彼を静かに見た。


「殿下は、歴代の婚約破棄事件を学ばれたと伺いました」


「当然だ」


アーノルドは胸を張った。


「過去の王子たちは愚かだった。何の準備もせず、女の涙だけを信じた」


リリアの肩が小さく揺れた。


「私は違う。証人も用意した。契約書も確認した。お前が言い逃れできないよう、すべて整えた」


「わたくしが記録を燃やせば、土地を外国商会へ売るのですね」


「国の利益になる」


「二万人の住民は?」


「移住させる」


「どこへ?」


「辺境には土地が余っている」


「雪に閉ざされ、農業ができない地域です」


「国民なら国王の命令に従うべきだ」


「補償金は?」


「鉱山が利益を出した後で考える」


「商会から受け取る百五十万金貨の使い道は?」


アーノルドは不機嫌そうに眉を寄せた。


「お前には関係ない」


「国のための契約では?」


「私が国王になった後、必要なことへ使う」


「具体的には?」


「新しい王宮の建設だ」


「現在の王宮に問題が?」


「古く、狭い」


エレナは部屋を見回した。


小会議室だけでも、村の集会所より広い。


「王宮の建設で、国民の暮らしは良くなるのでしょうか」


「王家の威信が高まる!」


「それだけですか?」


「外交にも必要だ!」


「どの国から要望がございましたか?」


「細かいことばかり聞くな!」


アーノルドは机をたたいた。


「お前は署名すればよい!」


「お断りいたします」


部屋の空気が変わった。


「何?」


「土地記録は焼却いたしません」


「婚約を破棄されるぞ」


「受け入れます」


アーノルドの表情が固まった。


「侯爵家も処分する」


「法的根拠は?」


「王家への反逆だ!」


「正当な所有権を主張することが?」


「私へ逆らうことが反逆だ!」


エレナは静かに息を吐いた。


かつて、国を良くしたいと語った青年は、もう目の前にいない。


あるいは初めから、自分が国を良くするのではなく、自分が称賛される国を作りたかっただけなのかもしれない。


「殿下」


エレナは最後に尋ねた。


「土地記録を偽物とするため、わたくしへ濡れ衣を着せたのですか?」


「順番が違う」


アーノルドは勝ち誇ったように答えた。


「お前が記録の焼却を拒んだから、罪人にすることにしたのだ」


リリアが顔を上げた。


「殿下」


「何だ」


「そのような話は、聞いておりません」


「お前には関係ない」


「エレナ様がわたしをいじめたから、処罰するのではないのですか?」


「それも理由の一つだ」


「嫌がらせは、殿下の側近が命じたのでしょう?」


アーノルドの顔色が変わった。


「何を言っている」


「教科書を破ったのも、制服を汚したのも、側近の方です」


「黙れ!」


「わたしは嫌だと申し上げました!」


リリアの声が震える。


「それでも従わなければ、弟を学院から追放すると言われました!」


「誰に吹き込まれた!」


「誰にも!」


「ならば、なぜ今になって逆らう!」


リリアは白いドレスの胸元を握りしめた。


「聖女になれば、家族を豊かにしてやると言われました」


涙が頬を流れる。


「傷を治せなくても、光を出せれば十分だ。ほかの奇跡はこちらで用意するから、笑っていればよいと」


雪害を免れた畑は、王家の魔術師が結界で守っていた。


病から回復した側近は、事前に熱を出す薬を飲んでいた。


魔物が逃げたのは、討伐隊が先に周辺を掃討していたからだ。


すべて、リリアを聖女として祭り上げるために作られた奇跡だった。


「わたしは、初めは嬉しかったのです」


リリアは認めた。


「皆がわたしを見て、聖女様と呼んでくれました。殿下も、わたしが特別だとおっしゃいました」


「ならば、今までどおりにすればよい!」


「エレナ様を処刑すると知るまでは」


「処刑?」


エレナが尋ねる。


アーノルドは目をそらした。


「土地記録が本物だと主張し続けるなら、反逆罪を適用する」


「婚約破棄だけではないのですね」


「国の未来のためだ!」


「その国に、二万人の住民とわたくしは含まれないのですか?」


「犠牲は必要だ!」


リリアは後ずさった。


「殿下は、わたしのことも処分なさるおつもりですか?」


「何を馬鹿な」


「鉱山を手に入れた後も、聖女は必要ですか?」


アーノルドは答えなかった。


その沈黙で十分だった。


リリアには本物の治癒能力も、神託を受ける力もない。


偽物の奇跡が暴かれれば、王家の信用を傷つける。


土地を奪う目的を果たした後、すべての捏造をリリア一人の責任にして切り捨てるつもりだったのだ。


「明日の舞踏会へ出席します」


リリアが告げた。


「そして、すべてを証言します」


「お前の言葉など、誰も信じない!」


「構いません」


「家族がどうなってもよいのか!」


「すでに保護されております」


アーノルドの顔が凍った。


リリアはエレナを見た。


「申し訳ございません。エレナ様が帝国の調査団を呼んだと聞き、助けを求めました」


今朝、リリアは使用人を通じてエミリアへ手紙を送っていた。


彼女の家族はすでに帝国大使館で保護されている。


「裏切り者!」


アーノルドがリリアへ手を伸ばした。


エレナが間へ入る。


王太子の手が、エレナの肩を突き飛ばした。


その瞬間、会議室の扉が開いた。


国際騎士団の護衛がアーノルドの腕をつかむ。


「おやめください」


「なぜ、ここにいる!」


「部屋の外で待機しておりました」


「盗み聞きか!」


「エレナ様に危害が加えられたため、介入しました」


「私は王太子だぞ!」


「それは暴行を許可する身分ではございません」


護衛はエレナとリリアを守る位置へ立った。


「明日、覚えていろ!」


アーノルドは腕を振り払い、部屋を出ていった。


最後まで、自分の計画が崩れたとは思っていないようだった。


翌夜。


卒業祝賀会の大広間には、王国中の有力者が集まった。


国王夫妻。


貴族。


学院の教師。


外国の大使。


土地の売却契約を結ぶ予定の商会代表。


そして、十二の村から選ばれた住民代表。


彼らを招いたのはアーノルドだった。


大勢の前でエレナを断罪し、土地が王家のものだと認めさせる。


その上で外国商会との契約を発表し、自分の功績としてたたえられる予定だった。


楽団の演奏が止まる。


アーノルドが広間の中央へ歩み出た。


隣には、白いドレスを着たリリアが立っている。


ただし、彼女は王太子の腕へ寄り添っていなかった。


少し離れ、固い表情で前を見ている。


アーノルドは気づかなかった。


「エレナ・フォン・クライス!」


彼は声を張り上げた。


「貴様との婚約を、ここに破棄する!」


広間がざわめく。


エレナは静かに一礼した。


「承知いたしました」


「待て」


アーノルドの眉が寄る。


「何でしょう」


「それだけか?」


「婚約破棄を承りました」


「罪を認め、リリアへ謝罪しろ!」


「わたくしが何をしたと?」


「白々しい!」


アーノルドは用意していた文書を掲げた。


「貴様は聖女リリアを嫉妬し、何度も嫌がらせを行った! さらに偽の土地記録を作り、王家の財産を奪おうとした!」


「証拠は?」


アーノルドは得意げに笑った。


「過去の愚かな王子たちと、私を同じにするな」


広間の片隅で、エミリアがわずかに眉を上げた。


「私は、すべての証拠を用意している!」


三人の侍女が連れてこられた。


顔は青ざめ、震えている。


「この者たちは、エレナから嫌がらせを命じられたと証言している!」


「侍女の皆様」


エレナは三人を見た。


「今も、その証言をなさいますか?」


三人は答えられない。


アーノルドが声を荒らげた。


「答えろ!」


一人の侍女が泣き出した。


「申し訳ございません!」


彼女はアーノルドではなく、エレナへひざまずいた。


「嘘です! わたしたちは何も命じられておりません!」


「何を言っている!」


「家族を人質に取られました!」


「誰に?」


「王太子殿下の側近です!」


アーノルドは側近を振り返った。


「貴様、勝手なことを!」


側近の顔が引きつる。


「殿下のご命令でした!」


「黙れ!」


「エレナ様を罪人にすれば土地を奪えると、殿下がおっしゃったのです!」


広間がざわめく。


アーノルドは叫んだ。


「証拠はあるのか!」


エレナが髪飾りを外す。


「ございます」


記録魔石から、昨夜の会話が流れた。


『お前が記録の焼却を拒んだから、罪人にすることにしたのだ』


アーノルド自身の声だった。


広間が静まり返る。


「偽物だ!」


「帝国歴史院の認証つきです」


エミリアが前へ出た。


「記録の改ざんはできません」


アーノルドが彼女をにらむ。


「お前が作ったのだろう!」


「では、専門家に鑑定させましょう」


「必要ない!」


「真偽を疑ったのは殿下ですが」


笑い声が漏れた。


アーノルドは顔を赤くする。


「土地記録も偽物だ!」


十二冊の複製が運び込まれた。


「原本は王立学院の地下書庫にございます」


エミリアが説明する。


「帝国歴史院、王国法務院、第三国の研究者による鑑定を受け、すべて真正と認められました」


「鑑定官を買収したのだ!」


「鑑定は公開で行われました。記録映像もございます」


「原本を破棄すれば」


アーノルドは言いかけ、口を閉じた。


遅かった。


「原本を破棄なさるおつもりなのですね」


「違う!」


「複製は、十二の村を含む二十七か所へ保管済みです」


アーノルドの顔から血の気が引いた。


「許可していない!」


「寄託契約に認められております」


「そのような契約は無効だ!」


「殿下の署名もございます」


契約書が掲げられる。


確かに、アーノルドの署名と魔力印があった。


「私は細かな条文まで読んでいない!」


その瞬間、大広間のあちこちからため息が漏れた。


過去の婚約破棄事件を学んだと豪語した男が、結局は契約書を読んでいなかった。


「殿下」


エレナが静かに尋ねる。


「歴代の王子たちの失敗から、何を学ばれたのですか?」


「何?」


「契約書を読むべきだと学ばれたのでは?」


「読む時間がなかったのだ!」


「では、何も学んでおられませんね」


広間から失笑が起こった。


「黙れ!」


アーノルドはリリアの腕をつかんだ。


「聖女が被害を訴えている! この女の言葉なら、民も信じる!」


リリアはその手を振り払った。


「わたしは聖女ではありません」


「何を言っている!」


「人を癒やす奇跡も、作物を実らせる力もございません」


「余計なことを言うな!」


「奇跡は王家が作りました」


リリアは広間に集まる人々を見た。


「わたしが祈った畑には、事前に王宮魔術師が結界を張りました。病から治ったとされた方は、薬で熱を出しただけです。魔物も騎士団が先に追い払っていました」


農務大臣が立ち上がる。


「その結界費用は、どこから?」


エレナが一冊の帳簿を示した。


「凶作対策費からです」


ざわめきが怒声へ変わった。


今年、三つの地方で凶作が起きている。


農民への補助が足りないと説明されていた。


その金を偽物の奇跡へ使っていたのだ。


「いくらです?」


「合計二十八万金貨です」


「待て!」


アーノルドが叫ぶ。


「国民の信仰を高めるために必要だった!」


「その国民が、食料を失っております」


「鉱山が手に入れば、すべて取り戻せる!」


外国商会の代表が口を開いた。


「土地の所有権が王家にないのであれば、採掘権契約は結べません」


「私が次の王だぞ!」


「だから何でしょう」


「王が、土地を所有する!」


「こちらの国法では、王も私有地の所有権を侵害できません」


「法は変えればよい!」


その一言で、国王が立ち上がった。


「アーノルド」


低い声だった。


王太子は一瞬だけ黙る。


「父上。すべては王家のためです」


「私は、農民の土地を奪えと命じていない」


「ですが百五十万金貨が手に入ります!」


「その金で何をする」


「新しい王宮を建てます!」


王妃が扇を取り落とした。


その計画を、国王夫妻は知らなかったらしい。


「現在の王宮を、どうするつもりだ」


「古くて見栄えが悪いのです!」


国王は自分が座っていた豪華な玉座を見た。


黄金。


宝石。


巨大な大広間。


数百人を収容できる舞踏会場。


どう見ても、狭くも粗末でもない。


「凶作対策費を偽の奇跡へ使い、二万人から土地を奪い、新しい王宮を建てる」


国王は息子を見た。


「それが王家のためだと?」


「王家の威信が高まれば、国も豊かになります!」


「具体的に、どのように?」


「外国の客人が感動する!」


外国大使たちが一斉に目をそらした。


その光景に、笑いが広がった。


アーノルドは怒鳴る。


「笑うな! 私は次期国王だぞ!」


「いいえ」


国王は王冠へ手を置いた。


「今、この場をもって、お前の王位継承権を停止する」


「父上?」


「事件の全容が明らかになるまで、王太子としての権限も凍結する」


「私を見捨てるのですか!」


「国民を見捨てようとしたお前が、それを言うのか」


騎士団長がアーノルドの剣を預かるため、近づいた。


王太子は一歩後ずさる。


「待て。婚約破棄は取り消す!」


エレナは首を横へ振った。


「お断りいたします」


「私は王太子へ戻る!」


「それと婚約は関係ございません」


「お前は私の王妃になるため、何年も学んだのだろう!」


「いいえ」


エレナは、かつての婚約者を見た。


「国と民の役に立つために学びました」


「私が王でなければ、その努力が無駄になる!」


「殿下の妻になることだけが、わたくしの人生ではございません」


「だが、私を愛していた!」


「以前は」


アーノルドの顔が固まる。


「今は違うというのか」


「正確には」


エレナは少しだけ考えた。


「わたくしが愛していた方と、目の前にいる方が同じ人物であるか判断できません」


「同じに決まっている!」


「国を良くしたいと語った殿下は、民から土地を奪おうとはなさらないでしょう」


「王として必要な判断だ!」


「では、あの頃から本心を隠しておられたのですね」


「違う!」


「どちらでも結構です」


エレナの声に、もう迷いはなかった。


「変わってしまった方であれ、最初から偽っていた方であれ、わたくしが婚姻を望まないことに変わりはございません」


「私を捨てるのか!」


大広間に、あきれたような沈黙が落ちた。


婚約破棄を宣言したのはアーノルドである。


「殿下」


エレナは穏やかに微笑んだ。


「婚約を破棄してくださったのは、あなたです」


「取り消すと言っている!」


「わたくしは受け入れたと申し上げました」


「王太子の命令だ!」


「先ほど権限を停止されました」


失笑が広がる。


アーノルドは今度こそ顔を真っ赤にした。


「エレナ!」


「気軽に名をお呼びにならないでくださいませ」


「私はお前の婚約者だ!」


「過去形です」


広間の隅で、エミリアはわずかに笑った。


何世代たっても、最後には同じ言葉へたどり着くものらしい。


だが今回のエレナは、母や祖母から答えを教わったわけではない。


過去を学び、自分で考え、自分の言葉として選んだ。


「まだ終わっていない!」


アーノルドが叫んだ。


「エレナが私を陥れたのだ! 歴史院の女も共犯だ!」


エミリアが前へ出る。


「証拠は?」


「すべて、お前たちに都合よく用意されている!」


「殿下がお作りになった証拠は?」


「何?」


「エレナ様の侍女へ虚偽の証言をさせ、リリア様の偽の奇跡を作り、土地記録を偽物と断定なさいました」


アーノルドは答えない。


「それらは、殿下に都合よく用意されたものでは?」


「私は王太子だ!」


「それは答えではございません」


「お前たちの一族は、婚約破棄のたびに王家を滅ぼしている!」


「今回は、わたくしの一族の者は婚約しておりません」


「弟子も同じだ!」


「では、殿下はエレナ様が何者であれば、財産を奪ってよいとお考えです?」


「それは」


「アルヴェイン家の者でなければ?」


「違う!」


「歴史を学んでいなければ?」


「そういう意味ではない!」


「反論できなければ?」


「黙れ!」


アーノルドはエミリアへつかみかかろうとした。


騎士団長が腕を押さえる。


「放せ!」


「権限停止中です、殿下」


「私は王子だぞ!」


「身分は残っております。暴行が許される権限は、初めからございません」


王太子は騎士たちに囲まれた。


王妃が国王へ近づく。


「どうか、処刑だけは」


「まだ裁判も始まっていない」


国王の声には疲れがにじんでいた。


「フェリクスやオスカーのようにしてはなりません」


エミリアが告げる。


「何の話だ」


国王が尋ねる。


「過去の婚約破棄事件では、王家が身内を守るために罪を隠し、国民の信頼を完全に失いました」


「息子を即座に処刑せよと?」


「いいえ」


エミリアは首を横へ振った。


「正当に裁いてくださいと申し上げています」


「王族であることも考慮せず?」


「王族だから罪を重くする必要も、軽くする必要もございません」


「では、何を見る」


「行ったことを」


アーノルドが再び叫ぶ。


「私はまだ何も奪っていない!」


「未遂なら許されると?」


「実際、土地は残っている!」


「止められたからです」


エレナの侍女たちは家族を人質に取られた。


リリアも家族を脅され、嘘の奇跡を演じさせられた。


凶作対策費はすでに使われている。


何も起きなかったのではない。


計画が完成する前に、被害を止められただけだった。


「それでは、殿下」


エミリアは鞄を開いた。


「暫定の損害額を確認いたします」


「暫定?」


凶作対策費、二十八万金貨。


侍女の家族を不当に拘束した費用と賠償。


偽の奇跡へ使った王宮魔術師の人件費。


土地記録の再鑑定と複製費用。


住民を移住させるために先行支出された金。


外国商会との契約解除費用。


合計、六十三万金貨。


「お支払いくださいませ」


「なぜ私が!」


「すべて殿下の私的な命令によって発生した費用だからです」


「王家が払え!」


国王の顔が険しくなる。


「公務ではないと、たった今認定された」


「私は国のために!」


「王宮を建てるためだろう」


「王宮は国のものだ!」


「計画書には、王太子夫妻専用宮殿と記されております」


法務官が建設計画書を掲げた。


寝室は四十。


大浴場が六つ。


私設劇場。


人工湖。


競走馬用の厩舎。


国民が利用できる施設は一つもない。


「必要な設備だ!」


「どなたに?」


「私に!」


静寂の後、大広間が笑いに包まれた。


アーノルドはそこで初めて、自分が口にした意味を理解した。


「違う! 今のは」


「言葉のあやでしょうか」


エミリアが尋ねる。


「そうだ!」


「これまで、多くの方が使ってこられた便利な表現です」


過去の失敗を学んだはずの王子は、台詞まで歴代の愚か者と同じだった。


裁判は一月後に開かれた。


アーノルドは、自分は側近にだまされたと主張した。


側近は王太子に命じられたと証言した。


互いに提出した手紙によって、二人が最初から共謀していたことが証明された。


アーノルドから側近への手紙。


『過去の王子たちは証拠を残したから失敗した。命令は口頭で行う』


側近からアーノルドへの返事。


『承知しました。ただし約束された報酬については、書面をいただきたく存じます』


アーノルドは側近への報酬だけ、正式な契約書にしていた。


内容は、エレナを有罪にした後、土地の一部を側近へ与えるというものだった。


「証拠を残さないよう命じた手紙が、証拠になりましたね」


ニコが傍聴席でつぶやく。


「歴史的価値のある失敗です」


エミリアは真面目に記録した。


リリアは自分の行為をすべて認めた。


自分から嘘をついたこと。


聖女と呼ばれて嬉しかったこと。


王太子に利用されていると分かってからも、家族を守るために従い続けたこと。


彼女には二年間の社会奉仕と、偽の奇跡について公に訂正する義務が課された。


エレナへの謝罪だけで、すべてを終わらせることは認められなかった。


「許していただけますか?」


判決後、リリアはエレナへ尋ねた。


エレナはすぐに答えなかった。


「今は、まだ分かりません」


「そうですか」


「ですが、あなたがどのように責任を果たすかは見届けます」


リリアは深く頭を下げた。


「はい」


彼女は凶作に苦しむ地方へ向かった。


偽の聖女としてではない。


小さな光魔法を使える、一人の支援員として。


彼女の光は病を治せない。


作物も実らせない。


けれど暗い診療所を照らし、夜間に薬を運び、寒い避難所で子どもたちを安心させることはできた。


奇跡ではない。


それでも役に立つ力だった。


一方、アーノルドは王位継承権を正式に剥奪された。


王族としての最低限の生活費を除き、個人財産は賠償へ充てられる。


残った六十三万金貨の債務については、労働による返済が命じられた。


働く場所は、土地を奪おうとした十二の村だった。


最初の仕事は、立ち退き命令によって途中で放棄された灌漑用水路の修復。


「私は王子だぞ!」


作業初日、アーノルドは監督官へ叫んだ。


「元王太子殿下であることは存じております」


「ならば、鍬など持たせるな!」


「では、帳簿の整理をなさいますか?」


「数字は苦手だ!」


「土地記録の修復は?」


「古い文字など読めん!」


「住民への補償申請書の作成は?」


「そのような細かい仕事は任せる!」


監督官は困った顔で尋ねた。


「では、何ができますか?」


アーノルドは答えられなかった。


王になるための教育を受けてきた。


国を導くと語ってきた。


歴史上の王子たちを、無能だから失敗したと笑ってきた。


けれど自分一人でできる仕事は、何もなかった。


「水路の土を運んでください」


監督官から籠を渡される。


「重い!」


「村の方々は毎日運んでおります」


「私は同じではない!」


「そうですね」


監督官は作業表を見た。


「村の方々は、ご自分の生活を守るために働いています。あなたはご自分の債務を返すためです」


村人たちが笑った。


アーノルドは籠を投げ出した。


「エレナを呼べ!」


「侯爵家当主はお忙しいので」


「私が困っていると伝えろ!」


「婚約は破棄されております」


「取り消した!」


「受け入れられておりません」


「以前は私を愛していた!」


「現在の話をしております」


何度叫んでも、エレナは来なかった。


託された手紙も受け取らなかった。


代わりに返ってきたのは、返済状況の通知書だった。


『今月の返済額、銀貨十二枚』


『残債、六十二万九千九百九十八金貨と銀貨八十八枚』


あまりの残額に、アーノルドはその場へ座り込んだという。


エレナはクライス侯爵家の新たな当主となった。


父が病気を理由に引退し、正式に娘へ爵位を譲ったのである。


彼女は十二の村との共同所有契約を更新した。


鉱石の採掘を完全に拒むことはしなかった。


住民と環境が守られる範囲を調査し、鉱山利益の半分を地域へ還元する条件で、別の商会と契約した。


住民には移住するか、鉱山事業へ参加するか、農業を続けるかを選ぶ権利が与えられた。


採掘利益は、学校、診療所、水路の建設へ使われた。


王家が一度だけ得ようとした百五十万金貨より、長い年月をかけて多くの富が地域へもたらされた。


卒業祝賀会から三年後。


エミリアはラグナリア王国を再訪した。


新しく建てられた資料館の開館式へ招かれたためである。


中央には、復元された土地所有記録が展示されていた。


説明板にはエレナ一人の名だけではなく、資料を守った者全員の名が記されている。


焼け残った紙を保管していた村長。


失われた文字を覚えていた老人。


復元を手伝った研究員。


複製を作った書記官。


虚偽の証言を拒んだ侍女たち。


そして、偽の聖女であったことを認め、証言したリリア。


「ご自分の名を、もっと大きく記してもよかったのでは?」


エミリアが尋ねる。


エレナは首を横へ振った。


「わたくし一人では、復元できませんでしたから」


「あなたが始めた仕事です」


「はい。それも事実です」


エレナは自分の名も消さなかった。


過度に小さくもしなかった。


自分の功績を隠すことと、他人の功績を認めることは違う。


エミリアが長い時間をかけて学んだことを、エレナも理解していた。


「先生」


「何でしょう」


「殿下との婚約が破棄された日、少しだけ怖かったのです」


「何が?」


「わたくしの人生が、そこで終わるような気がして」


王妃になるために学んだ。


王太子を支えるために努力した。


そう信じていた時間が長かったからだ。


「ですが、終わりませんでした」


エレナは資料館の窓から外を見た。


学校へ向かう子どもたち。


鉱山と村を結ぶ新しい街道。


農業用水路。


診療所。


婚約者としてではなく、侯爵として彼女が守った土地が広がっている。


「殿下の物語から降りただけだったのですね」


「ええ」


エミリアは微笑んだ。


「自分の物語は、そこから始められます」


「先生も?」


「わたくしも、祖母も、母も」


「歴代の悪役令嬢は、皆そうなのですね」


「少し違います」


「何がです?」


「悪役令嬢だから、自分の人生を取り戻したのではございません」


エミリアは資料館に集まる人々を見た。


「自分の人生を取り戻した女性が、権力者から悪役令嬢と呼ばれただけです」


開館式の後、リリアも姿を見せた。


以前の白い聖女服ではない。


地方支援員の簡素な制服を着ていた。


「エレナ様」


「お久しぶりです、リリアさん」


二人の間には、まだ距離があった。


すべてを水に流し、親友になったわけではない。


リリアが嘘をついた事実も、エレナが傷ついた事実も消えない。


それでもリリアは逃げずに働き続けた。


地方の診療所で三年。


光魔法を使い、夜道を照らし、記録の整理を手伝った。


「こちらを」


リリアは一冊の記録簿を差し出した。


凶作対策費の使用報告書だった。


誰に、何を、どれだけ届けたか。


細かく記録されている。


「来年度から、支援事業の管理を任されることになりました」


「そうですか」


「エレナ様へ、監査をお願いしたいのです」


「厳しく確認いたしますよ」


「そのためにお願いするのです」


エレナは記録簿を受け取った。


許したとは言わなかった。


リリアも許しを求めなかった。


ただ、自分の仕事を確認してほしいと頼んだ。


言葉ではなく、行動を見てほしいと。


それが二人にとって、新しい関係の始まりだった。


資料館を出ると、ニコが待っていた。


「エミリア様」


「何でしょう」


「南方共和国から、三度目の催促が届いております」


九人目の初代大統領。


二百年前の建国者でありながら、今も生きているとされる人物。


「一月後に読むと約束した手紙ですね」


「すでに三年過ぎています」


エミリアは目をそらした。


ラグナリア王国の事件。


記憶王事件の後処理。


忘史資料室の設立。


研究員の育成。


さまざまな事情が重なり、南方共和国の調査を後回しにしていた。


「九人目の大統領は、まだ生きているのでしょうか」


「先方によれば、先週も議会へ出席したそうです」


「二百年以上?」


「外見は二十代のままだとか」


「魔族でしょうか」


「本人は人間だと主張しています」


「不老の魔術?」


「それも否定しているそうです」


「では、同じ名前を継承している?」


「歴代大統領全員が、同じ人物だと証言しています」


謎は増えるばかりだった。


エミリアは小さく息をついた。


「分かりました」


「今度こそ向かいますか?」


「はい」


「請求書は?」


「なぜ必要だと思うのです?」


「二百年間、大統領給与を受け取っていると書かれています」


エミリアは足を止めた。


「総額は?」


「概算で、一千二百万金貨です」


エミリアは無言で鞄を開いた。


エレナが笑う。


「原点へ戻っても、最後は請求書なのですね」


「まだ不正と決まったわけではございません」


エミリアは請求書を一枚取り出した。


「ですから、これは念のためです」


「一枚で足りますか?」


「足りなければ現地で増刷します」


三代目悪役令嬢は、南へ続く街道を見た。


原点へ戻った婚約破棄は、エレナが自分の人生を選んだことで終わった。


歴史を学ぶとは、過去の失敗を笑うことではない。


自分が同じ立場へ置かれたとき、同じ選択をしないことだ。


アーノルドは過去の王子たちを愚かだと笑いながら、彼らと同じ欲を抱き、同じ言い訳を口にし、同じように契約書を読まなかった。


エレナは違った。


婚約破棄を、自分の人生の終わりにはしなかった。


誰かに救われるのを待たず、証拠を集め、自分だけでは守れないものを仲間へ託した。


だからこそ、過去を繰り返さずに済んだ。


「参りましょう」


「どちらへ?」


ニコが尋ねる。


エミリアは二百年前の共同宣言書を持ち上げた。


「不老の大統領へ、長期政権についてお尋ねしに」


そして、もう片方の手には請求書を持つ。


「もちろん、二百年分の給与明細も確認いたします」

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