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婚約破棄されましたが、父が目を覚ましたのでご心配なく

作者: 入多麗夜

 曇りひとつない声だった。


「……婚約を、解消させてほしい」


 どこか他人事のような口ぶりで、レオノール゠フィルヴィスは言った。


 応接室には、セリス゠グランディエと彼の二人きり。薄く開かれたカーテンから差し込む午後の陽射しが、深い紅の絨毯に静かに影を落としている。しかし、その穏やかさとは裏腹に、室内の空気は張りつめ、冷たく、どこか痛みを含んでいた。


 彼女の父――グランディエ侯爵が倒れてから、もう十日が過ぎていた。病床から起き上がれず、爵位の継承すら現実味を帯び始めた今、屋敷の空気も、周囲の視線も沈黙と緊張に包まれていた。


 そんな中で訪ねてきた婚約者が、今まさに告げたのは、別れだった。


 セリスは目を伏せたまま、一呼吸を置いた。


「……理由を、うかがっても?」


「君には、もっとふさわしい未来がある。僕のような人間じゃ、その期待に応えられない。だから……」


 だから何だと言うのだろう。

 彼女はもう、その続きを聞くつもりはなかった。


 彼は誠意ある言葉を選んでいた。だがそれは、彼女を思ってのことではない。ただ“悪人に見られたくない”という、卑小な防衛でしかない。


 彼女は分かっていた。

 レオノールは――最初から、彼女を愛してなどいなかったのだと。


 彼が求めていたのは、彼女の笑顔でも言葉でもない。

 グランディエ侯爵家の“令嬢”という肩書きであり、父が持つ絶大な影響力であり、つまりは――地位と金とを支える、名の重みだった。


 愛の言葉を囁いたのも、優しげな態度を取ったのも、すべては“条件”が整っていたから。

 父が健在で、侯爵家の後継が確実であったあの頃には、彼の目は確かに彼女を見ていた。


 けれど、父が床に伏した瞬間に、その眼差しは冷めきった。


「……そう。わかりましたわ」


 静かに立ち上がる。ドレスの裾がさらりと揺れ、レオノールの視線がわずかに泳いだ。


「お申し出、承知いたしました。ご決断に異論はありません」


 セリスの声は冷たくもなく、怒りを含むでもなく、ただ淡々としていた。


 その声音が逆に、レオノールの心に小さな棘を刺した。彼はかすかに肩を竦めると、椅子から立ち上がる。


「ありがとう、セリス。君はやっぱり……優しい人だ」


 そう言った彼の笑みに、もう彼女は何も返さなかった。


 扉が閉まる音は、やけに軽かった。

 それが、すべてを物語っているように思えた。


 セリスは誰もいなくなった部屋に一人、しばらく立ち尽くしていた。

 怒りも、悲しみもなかった。感情がどこかに置き去りにされたような、そんな静けさだけが心に残っている。


 ――優しい、ですって。


 思わず、わずかに唇が歪む。

 都合のいいときだけ差し出され、用が済めば切り捨てられる。それが、彼にとっての「優しさ」なのだろう。


 彼の求めていたものが、彼女の中にはもうないと知った瞬間、彼は手を引いた。

 それだけのことだった。


 彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、目を閉じた。


 まぶたの裏に浮かぶのは、寝台に伏した父の姿。そして――遠い昔の記憶の中の、母の微笑み。


 母は、病弱な人だった。

 だが、花のように柔らかく、言葉の端々にあたたかさを湛えた女性だった。


「セリス。人の言葉は、時に飾られすぎてしまうけれど……本当に伝わるのは、行いだけよ」


 あの人は、そう言っていた。


 ――行いだけが、真実を映す。


 レオノールの優しさも、言葉も、すべては「誰かに見せるため」のものでしかなかった。

 そして自分は、それを見抜きながら、見ないふりをしていた。


 彼が初めて花を贈ってくれた日、彼女は気づいていたのだ。

 その視線は、自分の瞳ではなく、背後の父を見ていたことを。


 セリスは立ち上がり、ゆっくりと応接室を後にした。

 長い廊下を歩きながら、胸元で静かに手を握る。


 ――感情は、後にしよう。

 今はただ、父の娘として、為すべきことを見定めなければならない。


 セリスは静かな足取りで廊下を進んだ。家中に響く音は、衣擦れと、時折軋む床板のきしみだけ。


 父の寝室の扉の前に立ち、しばしその場に留まる。開けようか、引き返そうか――答えの出ない沈黙が、そこにあった。


 寝台に伏した父の姿を見るのが、怖いのだ。


 かつて一言で会議室を沈黙させた声。

 歩くだけで廊下の使用人が背筋を伸ばした背中。

 それが今や寝台の上で沈黙している。


 医師は「容体は安定しています」と言った。だが、“安定”とは“回復”ではない。諦めの言葉だと、セリスは知っていた。


 静まり返った廊下に、風の音が微かに入り込んでくる。

 窓の隙間から差し込む光が、扉の縁に細く落ちていた。


 セリスは扉に手をかけかけて、ふと動きを止めた。

 手のひらが、じんわりと汗ばんでいる。


 扉の向こうにいるのは――もう、自分の知っている父ではないのかもしれない。

 そう思った瞬間、喉奥がかすかに締まる。

 けれど、逃げ出すわけにはいかなかった。


 母がいなくなってから、父は変わった。

 言葉はさらに少なくなり、笑うこともなくなった。

 その分、背筋はより真っすぐになり、振り返ることさえ稀になった。


 娘としての甘えを、彼はほとんど受け入れなかった。


 だが、誕生日の夜だけは必ず、仕事を早く切り上げて帰ってきた。

 遅い時間でも、ドアをそっと開けて、「おめでとう」と一言だけ告げてくれた。


 その声が、今も耳の奥に残っている。


「……父上」


 小さく名を呼んで、セリスは扉を押した。


 部屋の中は、昼だというのに薄暗く、薬草と清潔な布の匂いが入り混じっていた。

 寝台には、痩せ細った父の身体。

 動かない胸、閉じられたままの瞼。


 そっと近づき、椅子に腰を下ろす。


 手を伸ばしかけて、思いとどまった。

 握るには、あまりにその手が――遠かった。


 けれど、ここにいることだけは、きっと伝わると信じた。


「お加減、いかがですか」


 答えが返ってくることはないと知りながら、それでも言葉にした。

 返事のない会話を、彼女はこれまで何度も続けてきた。


 そうして、いつかまた父のまぶたが、静かに開かれる日を――

 ほんのわずかでも、信じていた。







 王都西部の公爵邸で催された舞踏会は、表向きには“夏の訪れを祝う会”という名目だったが、実態は貴族たちの政治的な駆け引きの場であった。


 セリス゠グランディエは、深い青のドレスに身を包み、ゆるやかに挨拶を交わしながら、控えめに会場を進んでいた。

 彼女の歩みには淀みも迷いもなかったが、目線の奥にある空気は、明らかにいつもとは違っていた。


「……あれが、グランディエ侯の娘? まだ顔を出すなんて、なかなか図太いこと」


 ひそひそとした声が背中越しに聞こえる。

 わざとらしく口元を隠しながら、数人の令嬢たちが笑いをこらえているのが見えた。


「まあ、父上があんな状態では、“どなたか”とのご縁談も難しいでしょうね」

「昔はずいぶんと気取ったものだけど。今じゃ、ただの“令嬢だった人”じゃなくて?」


 声は小さい。けれど、はっきりと耳に届くように話されている。


 セリスは、そのまま何事もなかったかのように、一人の夫人に挨拶をして通り過ぎた。


「ご機嫌よう、侯爵夫人。お変わりなく?」


「あら、グランディエ嬢……ええ、まあ、なんとか。ご尊父様の容体……お気の毒に」


 その“お気の毒に”という響きは、まるで終わった人間を見るかのようだった。


「ありがとうございます。おかげさまで、静かに過ごしております」


 セリスの言葉に、夫人はわずかに表情を曇らせた。それは、“平然としていること”への戸惑いか、あるいは苛立ちか。


「まあ……ご立派ね。わたくしなら、とてもそんなふうには……」


 言葉を濁しながら、夫人は礼を欠くような中途半端な会釈でその場を離れていった。


 昔ならあり得なかった。

 彼女がグランディエ侯爵の娘である限り、誰もがそれなりの礼をもって接していた。

 だが今、その“後ろ盾”が揺らいでいる。

 貴族社会において、それは即ち、“攻撃してもよい”という合図でもあった。


「やっぱり、あの父親、随分と強引だったものね」

「うちの家が昔、地方の徴税で割を食ったのは、グランディエ家のせいだって聞いたわ」

「私の父も、侯爵には苦労させられたって」


 まるで今まで積もらせてきた怨嗟が、一気に解き放たれるようだった。

 父が健在なうちは決して口にできなかった不満や軽蔑が、彼の不在と共に、彼女へと向けられている。


「まあ、まあ……これはこれは。グランディエ…じゃなくて、“おひとり”のご登場とは、ちょっと意外ですわ」


 あからさまな皮肉を口にしたのは、侯爵家の令嬢――マルセラ゠ヴォルスだった。

 かつて父が退けた政敵の一族であり、セリスとは同年の女ながら、かつては挨拶程度しか交わしたことがなかった。


 その声音は甘やかで、けれど明らかに見下すような響きだった。


「ご機嫌よう、ヴォルス嬢」


 セリスは微笑みを浮かべたまま、小さく会釈を返す。


「レオノール様は……あら、もう“元”でしたか。うっかりしていてよ。まだ少し前の出来事でしたから、つい昔の呼び方で」


「ええ。いずれ忘れられることですから、どうぞお気になさらず」


「それにしても……あの方も、お気の毒に。消える前にご決断なさるとは。誠実なのか、賢いのか……それとも、計算違いだったのかしら?」


「ええ、どちらかと言えば“正直”だったのでしょうね。自分が何を見ていたか、ようやく気づいただけのこと」


 セリスは微笑みを崩さぬまま、視線をまっすぐに返す。


「おかげさまで、わたくしも彼に何を期待すべきだったのか、はっきりと分かりましたわ」


「ふふ、相変わらずお強い言葉。でも――そうやって背伸びなさるたびに、お母様の出自が浮かびますわね。あの、田舎者のご令室……でしたかしら?」


 一瞬、空気がぴたりと凍った。


 周囲の令嬢たちは顔色を変える者、目を逸らす者、それでも興味深そうに耳を澄ませる者と、反応はさまざまだった。


「……出自の話をなさるなら、まずは品位をお確かめになってからがよろしいかと」


 セリスの声は低く、静かだった。けれど、ほんのわずかに言葉の端が震えているのにマルセラは気づいた。


 セリスの母――マルティナは、平民出身だった。


 本来、貴族社会においては許されざる結婚だったが、グランディエ侯爵がすべてを押し切り、妻とした。


 彼女の人柄は評判で、表立って蔑む者はいなかったが、それはあくまで“侯爵夫人”としての後ろ盾があったからにすぎない。

 その後ろ盾が崩れかけた今、かつての軽蔑は、あからさまな言葉となって牙を剥く。


「まあ。そんな顔をなさって。……気になさっているの? “薄汚い血の娘”と呼ばれることが」


 その瞬間、場の空気が明確に変わった。


 幾人かの令嬢が息を呑み、視線を泳がせる。


  セリスは何も言わなかった。 だが、それを“勝利”と見なすほど、浅はかな貴族がこの場には多かった。


「お気の毒に。でも、あなたはもう“守られる立場”ではないのだから。覚えておいた方がいいわ。貴族社会は――甘くはないのよ」


 扇子をぱたりと閉じる音が、やけに響いた。

 マルセラはそれきり、踵を返して人垣の奥へと消えていった。


 残されたセリスは、ひとり静かに視線を落とした。

 感情が動く前に、ただ、深く息を吸い込んだ。






 会場の喧騒を背に、セリスは静かにバルコニーへと歩いた。

 夜風が頬を撫でる。きらびやかな光と音楽の熱から逃れるように、冷たい空気の中に身を置いた。


 ここまで怒りも悲しみも見せなかった自分を、誇るべきか、それとも哀れむべきか。

 考えるふりをして、ただ息を整えていた。


 母の声が、ふと脳裏に甦る。


 ――誰に何を言われても、背筋だけは伸ばしなさい。貴族である前に、あなたは“わたしの娘”なんだから。


 “平民の娘”などと、何度陰でささやかれたか分からない。

 それでも母は気に留めるそぶりもなく、いつも穏やかに、静かに笑っていた。


 高貴とは血筋の話ではない、と、母は何度もそう言った。

 それはただの慰めではなく、生き方だったのだと、今ならわかる。


 セリスは手すりにそっと手を置いた。

 指先がわずかに震えていた。自覚はなかったが、確かに心は揺れていたのだ。


「……らしくないわよ、セリス」


 聞き慣れた声に振り返ると、そこにはミレイナ゠セラフォードが立っていた。

 翡翠色のドレスの裾を揺らしながら、彼女はため息交じりに近づいてくる。


「さっきの、見てたの?」


「ええ。見ていたわ。……できれば、扇子であの女の顔をひっぱたいてやりたかったけど」


 冗談めかした言葉に、セリスはかすかに口元を緩めた。


「それは貴族らしからぬ行いだこと」


「だからこそやってみたくなるのよ。品のない令嬢には、同じ手で返すのが一番利くんだから」


 ミレイナは隣に立ち、夜風に身を任せながら小さく呟いた。


「……悔しかった?」


 セリスは答えなかった。けれど、それが答えになっていた。


 しばしの沈黙ののち、ミレイナは懐から小さな包みを取り出した。


「これ、あなたに渡そうと思ってたの。ほんとは今夜の話題にするつもりじゃなかったけど……もう隠すの、やめる」


 差し出されたのは、茶色い布に丁寧に包まれた、小さな陶器の壺だった。

 封を開けると、独特の薬草の香りが、夜風に乗ってふわりと広がる。


「これは?」


「東の地域に伝わる薬よ。正式な名はちょっと覚えきれなかったけど、“血と気を整える粉”なんですって。……縁談の関係で、使節団と話す機会があってね。貴方のお父様の持病の話をしたら、特別に分けてくれたの」


「それを……私に?」


「試してみてほしいの。もちろん、医師の許可を得たうえでね。でも――希望があるなら、信じたいじゃない」


 ミレイナはそう言って、微笑んだ。


 セリスはそっと壺の蓋を閉じる。


「ありがとう、ミレイナ。本当に。……医師に相談してみるわ」


「うん。無理強いはしないけど、使えるなら、ぜひ試してみて」


 風が二人の間を通り抜けていく。

 その一瞬の静けさの中で、セリスは小さく息を吸い込んだ。


「もし……これで父が目を覚ましたら、きっと私は、泣いてしまうと思うの。ずっと、泣かないようにしてきたけれど」


「……たまには泣くのも良いと思うよ。だって貴方は、強すぎるもの」


 そう言ってミレイナは、そっとセリスの肩に手を置いた。

 その温もりが、心の中の冷たい壁を、少しずつ崩していくようだった。


「……泣くのは、もっとみっともないことだと思ってた」


「違うわ。泣くのを我慢するのも強さだけど――素直に泣けるってことも、ちゃんとした勇気よ」


 風が、バルコニーの欄干に掛けられた蔦を揺らす。

 セリスはそっと顔を上げ、空を見た。夜の雲のすき間から、ひときわ強く光る星がひとつ、こちらを見下ろしていた。


 その光に見守られるように――セリスは、いつの間にか泣いていた。







 翌朝。グランディエ邸の奥、主治医が控える書斎には、二人の気配があった。


 一人はセリス。

 そして、もう一人は初老の医師、トマス゠エルラント。


 彼は慎重に陶器の壺の蓋を開け、鼻を近づけると眉を寄せた。


「……これは、東方の生薬ですな。香りから察するに、鹿茸(ろくじょう)竜眼(りゅうがん)黄耆(おうぎ)……このあたりの漢方が調合されているようです」


「副作用は?」


「刺激が強すぎる類ではありません。即効性には期待できませんが、気血の巡りを整え、体の底から体力を引き出す性質があります。……ただし、あくまで民間療法の域を出ません。ご承知の上で、ということになりますが」


「ええ。奇跡を期待しているわけではありません。ただ……“まだ何かできる”と思える時間が、ほしいだけです」


 セリスの静かな口調に、トマスはふっと目を細めた。


「では、今夜より少量ずつ、煎じて投与してみましょう。……効果が出るかどうかは分かりませんが、何もしないよりは、ずっといい」


「ありがとうございます、先生」


 セリスは深く頭を下げた。



 最初の投与は、その日の夜だった。


 煎じた薬は、深い琥珀色をしていた。独特の苦みと薬草の香りが寝室に漂う。

 セリスは湯気の立つ茶碗を両手で支え、父の枕元に膝をつく。


「……お父さま。少しだけ、お飲みになってくださいね」


 静かに、慎重に、口元へと運ぶ。

 わずかに喉が動いたように見えた――それが錯覚かどうかも分からぬほど微かな反応だったが、確かに彼女の目には映った。




 ◇




 その後、医師の指示のもと、薬は少しずつ量を増やしながら、三日、四日と数ヶ月と続けられた。


 ある日の朝――それは、何気ない瞬間だった。


「……閣下の、まぶたが……わずかに、動きました」


 執務に戻っていた医師トマスの声に、セリスは振り返った。

 書類を手にしたまま、彼の手が震えていた。


「本当なのですか?」


「はい……確かに、ほんのわずかでしたが。反応があったのは、初めてです」


 部屋の空気が変わった。

 長らく張りつめていた重苦しい沈黙が、少しずつほぐれていく。


 その日のうちに、父の口元にもかすかな動きが現れた。

 言葉にはならなかったが、医師は「回復の兆し」と断言した。


 その報せは、瞬く間に屋敷内に広がった。

 そして――噂の形を取り、屋敷の外へも、静かに流れ出していく。



 数日後。

 王都のセリス不在の社交界では、 ある名が、再び人々の口に上り始めていた


「グランディエ侯が、意識を取り戻したらしい」

「東方の珍しい薬が効いたそうよ」

「娘が看病を続けていたと……まあ、泣かせる話じゃなくて?」


 口には出さぬまでも、誰もが“終わった人”と見なしていた名が、再び社交界に囁かれ始める。

 そしてそれは、かつてグランディエ家を見下していた者たちの間に、小さな焦燥を生みはじめていた。


 それは決して大きな声では語られない。

 けれど、舞踏会の隅、茶会の席、手紙――噂は、どんどんと広がっていく。


 そしてある午後、マルセラ゠ヴォルスは、その噂を耳にした。


「……グランディエ侯が、快方に?」


 侯爵家の令嬢が手にしたティーカップが、わずかに揺れた。

 向かいの席にいた友人が、目を伏せながら告げる。


 「ええ。まだ寝たきりらしいけれど、医師が“目を覚ました”って。……東方の漢方薬が効いたのだとか。セリス嬢が看病を続けていたそうよ」


 マルセラは、扇子の骨をぎゅっと握った。


「……ふうん。薬のせい、ね。まったく、運がいいわ」


 唇に浮かぶ笑みは崩さなかった。けれど、その言葉からはどこか悔しそうにしているのが伝わった。


「グランディエ家が本当に回復したら……立場を変える家も、出てくるかもしれませんわね」


 友人の何気ない言葉が、さらに苛立ちを募らせる。

 自分こそが“正しい未来”を選んだはずだったのに――その未来が、ぐらりと揺らぎ始めている。


 一方、別の屋敷。


 レオノール゠フィルヴィスは、執務机に置かれた手紙に目を通していた。

 表情は平静を保っていたが、目だけが明らかに読み飛ばすことなく文面をなぞっていた。


 “グランディエ侯、意識回復の兆しあり”――


 手紙をそっと伏せる。

 だが指先には、かすかな震えが残っていた。


「……まさか、本当に」


 言葉は、誰に届くこともなく、静かに空気の中へ消えていった。


 父の快復の報せは、目に見える変化をもたらした。

 セリスが客間に通される回数が、明らかに増え始めたのだ。


 書簡、手土産、取り次ぎの依頼――

 ほんの一週間前までは、訪れる者の姿などなかった玄関が、今や絶え間なく揺れていた。


 中には、先日の舞踏会で彼女を笑っていた令嬢の家からの使いもあった。


「ノルデン子爵家より“お見舞い”の品が届いております。……“どうかご気分を害されませぬように”との言伝を預かっております」


 執事の声に、セリスは微笑をひとつ浮かべた。


「ご丁寧に。“お心遣い、光栄です”とお伝えください」


 皮肉なものだった。

 つい先日まで、まるで厄介者のように扱っていたくせに――

 父が目を覚ましたとたん、手のひらを返したように“心配”を装う。


 だが、それが貴族社会というものだと、セリスは誰よりも理解していた。

 力ある者には笑顔を、力を失えば唾を――それが“礼儀”の名を借りた冷酷さ。


 けれど、そんなものに感情を揺らがせるほど、彼女はもう脆くはなかった。


「それと、マルセラ゠ヴォルス嬢より、訪問の申し出がございます。“ご不快でなければ”とのことでしたが……いかがなさいますか?」


 執事が差し出した文には、簡素な筆跡で名前だけが記されていた。


 セリスは、ほんの一瞬だけ目を細める。


「……“あいにく本日は取り込み中”と、お伝えして。明日も、明後日も。しばらくは忙しいふりをしていただいて結構よ」


「かしこまりました、お嬢様」


 執事は深く頭を下げ、音もなく去っていった。


 セリスは窓辺に立ち、そっとカーテンを払う。

 光の差す庭先には、変わらぬ花々と、少しだけ色めいた空気が広がっていた







 レオノール゠フィルヴィスがグランディエ邸の門をくぐったのは、父の快復が広く知られた、ちょうど一週間後のことだった。


 深緑の外套に身を包み、以前と変わらぬ物腰で執事に名を告げる。

 だがその顔には、どこか迷いと緊張があった。


 そう伝えられたセリスは、応接室へ向かう足を一度だけ止めた。


 応接室に入ると、彼はすでに立ち上がっていた。


「……ご無沙汰しております、セリス嬢」


 その口調は、あくまでも丁寧だった。

 だが“元婚約者”としての距離感が、言葉の端々ににじんでいた。


「そちらこそ、よくいらっしゃいましたわね。……ご多忙でしょうに」


 セリスは穏やかに微笑んだ。


「まずは、グランディエ侯のご快復、心よりお喜び申し上げます。……本当に、何よりのことでした」


「ご丁寧にどうも。奇跡のようなものでしたけれどもね」


 レオノールは、少し視線を逸らした。

 その手には、封をされたままの小箱が握られている。


「……今日は、その……謝罪に参りました」


 セリスは何も答えなかった。ただ、彼を静かに見つめていた。


「当時は……あなたのことを、冷静に見られなかった。自分の立場ばかりを考えて……情けない話ですが……」


「ええ、情けないことでしたわね」


 はっきりと返された言葉に、レオノールは小さく息を呑んだ。


「でもそれは、もう終わったこと。お気になさらず」


「……セリス嬢。もし、今からでも、償えることがあるなら――」


「ありません」


 その一言に、言葉は止まった。


「償いは、望んでいないの。過去を戻されても困るだけですから」


 セリスは立ち上がり、微笑んだ。

 ただ、その笑みは、以前よりもずっと冷ややかだった。


「レオノール様。あなたが差し出す“誠意”は、どうぞこれから築く“未来”の方にお使いくださいませ。……わたくしの未来には、もう必要ありませんので」


 彼女はそういい、応接室を後にする。


 レオノールは、言葉を失ったまま頭を下げた。

 彼の手にあった小箱は、ついに渡されることなく、そのまま持ち帰られることとなった。







 春の気配がようやく街に満ちはじめたある日――

 グランディエ家にも、ひとつの新しい知らせが届いた。


 セリスの友人のミレイナ゠セラフォードの縁談が、正式に取り決められたのだ。


 相手は、王都南部に広い領地を持つ伯爵家の嫡男。

 誠実で穏やかな人物との評判もあり、ミレイナ自身が納得の上で応じた話だった。


 その知らせを届けに来た彼女は、いつものように笑っていた。

 けれどその笑みの奥には、少しだけ寂しさがにじんでいた。


「セリス。わたし、少し遠くに嫁ぐことになるわ。王都からは馬車で半日くらいかな」


「そう……おめでとう。貴方が幸せそうな様子を見て安心したわ」


 二人は並んで中庭のベンチに腰掛けていた。

 冬を越した木々の芽吹きが、ゆっくりと季節の変わり目を告げている。


「ミレイナ、本当にありがとう。薬の事。あれがなければ、父はもう目を覚まさなかったかもしれないわ」


「良いの良いの! そんなの気にしないでよ」


 彼女は芝生の一角を軽く蹴って、声を弾ませる。


「マルセラが悔しそうな顔してたの、見た? まるで噛みつきそうな犬みたいな感じだったわ! あれはもう、最高だったわよ。いい気味ってこういうことを言うのね」


 セリスは苦笑しつつも、否定はしなかった。


「……まあ、たしかに爽快ではあったわ」


「でしょ? しかもね、私もちょっと“おいしい思い”をさせてもらったんだから、お互い様よ」


「“おいしい思い”?」


 セリスが眉をひそめると、ミレイナは少しだけ顔を赤らめて肩をすくめた。


「グランディエ侯が、わたしの縁談に後押ししてくれたの。あの薬の件が、信頼に繋がったらしくてね。“見識ある娘だ”って推薦してくださったんだって。すごいでしょ?」


「……本当に、父が?」


「そうよ。貴方だけじゃなくて、わたしまで守ってくれたのよ。なんて、ずるいぐらい素敵なお父様」


 セリスはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。


「……あの人らしいわね」


 父の容体は、医師の言葉を借りれば「順調」だった。

 すでに松葉杖を使って歩けるほどに回復しており、毎朝の散歩も欠かさなくなっている。


 また、業務も少しずつ再開しており、その過程で大きな恩を受けたミレイナの家であるセラフォード家に対しても、自らの言葉で礼を述べ、縁談の後押しをしていたのだ。


 ミレイナは両手を腰に当てて、胸を張った。


「だから、わたしが薬を運んだとか、そんなのはもう帳消し。結果的に、わたしたちにとって大正解だったんだから」


 セリスは笑った。柔らかく、穏やかに――どこか、昔のような少女の笑みで。


 門前に馬車が停まり、荷を積んだ従者たちの声が軽やかに響いていた。


 出発の時が、近づいている。


 ミレイナは振り返り、屋敷の門前に立つセリスを見つめた。

 春の日差しが二人を照らし、淡い光がその輪郭を優しくなぞっている。


「じゃあ、わたし、本当に行くわね」


「ええ。幸せになるのよ」


「なるつもり。ちゃんと、努力する。……でも、寂しくなったら、手紙出してもいい?」


「もちろん。いつでも歓迎するわ」


 ミレイナは一歩近づき、そっと抱きしめた。


「あなたが、あなたでいてくれてよかった。……私、この先何があっても、絶対に忘れないから」


 セリスも、静かにその背に手を回した。


「私こそ。あなたがいてくれたから、ここまで来られた」


 別れの言葉は多くない。けれど、心の奥底には、伝えきれないほどの想いが流れていた。


 ミレイナが馬車に乗り込み、帷が下ろされる。

 ゆっくりと、車輪が動き出す音が響いた。


 セリスはその背を、いつまでも見送っていた。

 

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