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《7》星彩が煌めく ٣

 白を基調とした清潔な空間でベガは目を覚ました。医務室は薬品独特の匂いが染み付いている。


 白いカーテンで閉じられた簡易寝台ベッドに寝かされていたベガは自分の腕から伸びた点滴に気がついた。新薬を試してから発作の頻度が減ったと思っていたが、人前で倒れてしまったことにベガは頭を抱えそうになった。


 「都合が悪くなったらすぐ発作?便利ね、それ」


 「病気だから可哀想で全部許されると思ってるの?」


 孤児院で投げかけられた言葉が思い起こされる。目の前にいたはずのアルタイルとリゲルは確実にベガが倒れたところを見ているだろう。虚弱だと馬鹿にされるだろうかと不安だった。


 カーテンが揺れて、少し開かれた。隙間からはシリウスがこちらの様子を覗いていた。


 「起きたんだねベガ。もう平気?」


 聞き慣れた声に安堵し、ベガは目尻に涙が滲んだ。何度経験しようとも発作の痛みは慣れない。体内を内側から虫が喰うような気持ち悪さと、先端から細切れにされるような激痛、視界が閉じて息ができなくなって眼球が飛び出すかのような苦しさ。


 きっとこの世の全ての痛みを凝縮しているかのよう。火炙りにされているような熱と車裂きにされているような激痛。体がバラバラに砕けたいのか、内へ内へと集まりたいのかよくわからない感覚だった。


 「シリウス…」


 慣れない生活に忙殺されるような日々でシリウスの顔をゆっくり見たのは久しぶりだった。学院内でシリウスを見かけるときは常に生徒たちに囲まれていたから。


 「ああ、痛かったね。よく頑張った。君はとても強い子だ」


 シリウスは優しくベガの瞳からこぼれ落ちる涙を拭った。そこでベガは自分が泣いてしまっていることに気づいた。


 「シリウスが私を見つけてくれたの?」


 ベガは思いの外、自分が欲深いかもしれないと思っていた。シリウスは学院の教授になったことによってみんなのシリウスになってしまった。ベガの…ベガだけのシリウスではなくなってしまった。


 皆の前で特別扱いして欲しいわけでもないし、シリウスに教授職を勧めたのは他ならぬベガであるのに。それでも、シリウスには自分だけのものであって欲しいとベガは思った。


 シリウスの中でベガは他の子とは違う特別な子だと思っていて欲しくて。シリウスがベガが倒れたと聞いて駆けつけてくれたならこんなに嬉しいことはないと思った。


 「男の子二人が運んでくれてね。今も医務室の前で待っていると思うよ」


 ベガが寝台から降りようとしたのをシリウスは止めた。まだ点滴が付いていることをベガは一瞬忘れていた。


 「私、幻滅されたかしら」


 ベガは孤児院の日々を思い出し、肩を落とした。魔法が使えないことを黙り、病気であることを隠し、普通の学生生活を送れてきたと思っていたのに。


 「こんなことで君の魅力は損なわれないよ」


 シリウスはカーテンを開けた。薬品が収納された巨大な棚や専門書が並んだ棚が現れる。そして、医務室の扉が開くとアルタイルとリゲルが顔を覗かせた。


 「よかった!ベガ、起きたんだ」


 リゲルは「心配した〜」と言いながら寝台に駆け寄ってきた。後ろからはアルタイルが銀色の盆を持って慎重に入ってくる。


 「倒れちゃって夕食、食べ損ねたでしょ?」


 寝台の横の机に置かれた盆の上には牛乳とバニラビーンズ、ココナッツミルクで煮た米に無花果イチジクなどのドライフルーツとピスタチオ、レーズン、アーモンド、ココナッツをまぶしたミルク粥と濃いめに淹れた紅茶だった。


 おやつにと、ジンジャークッキーやアニスクッキー、シナモンクッキーなどがいっぱい詰められた缶も添えられている。クッキーは水が豊富に手に入る地域などはしっとりとした食感だが、水が貴重な地域になればなるほどパサパサするようになる。


 持ってきてくれた食事からアルタイルとリゲルはベガが風邪か何かと勘違いしているのかもしれない。


 「ありがとう。なんだかお腹が空いてきたかも」

 

 ベガが食事を始めると、アルタイルとリゲルは自然と目を逸らした。食事をしている姿を見られるのは、食べにくいと思ったのかもしれない。ベガの食事姿なんて何度も見ているはずのシリウスでさえ、あまりベガを見ないようにして自然とカーテンを閉めてくれていた。


 カーテン越しに二人の会話が聞こえてくる。


 「……やっぱりミルク粥だけって足りないんじゃないの?あれはデザートに分類されると思うんだよね。俺の言う通り肉とかの方が良かったんじゃない?今日、羊肉の肉団子ミートボールの日だったのに」


 「いきなり、肉食べれるほど食欲がないかもしれないだろ」


 リゲルの発言から今日の食堂では羊肉とサフランなどの香辛料と玉葱の肉団子ミートボールと柘榴と蜂蜜ソース掛けだったらしいことが察せられた。惜しいことをしたと思いながらベガはアーモンドをちびちび食べていた。


 クッキーの詰め合わせはしっとりとパサパサの中間のようなサクサクした食感だった。ベガは少しカーテンを開いて、クッキー缶を差し出した。


 「一人じゃ食べきれないから、一緒に食べない?」


 「本当?実は俺も食べたかった!」


 リゲルは目を輝かせながら缶の中からジンジャークッキーを摘んだ。


 「僕たちも食べていいのかな…。ベガに…ってことでスピカがくれたんだけど」


 アルタイルは申し訳なさそうにしたが、シナモンクッキーを摘んで口に運んだ。そこでスピカの名前が出たことで、ベガは図書館にスピカとミラを置いてきてしまったことをやっと思い出した。


 「スピカやミラに何も言わずに居なくなっちゃったわ」


 二人は図書館から姿を消したベガを探してくれていたかもしれない。ベガは不安と申し訳なさでクッキーを食べていた目を止めた。


 「図書館でベガを探していた女の子二人には事情を話したよ」


 シリウスはいつの間にか医務室のちょっとした台所で紅茶を淹れていたらしく、蔦葡萄が描かれたカップに注がれた紅茶を二つ小さな机の上に置いた。

 アルタイルとリゲルも一緒にクッキーを食べることを見越していたかのようだった。


 「スピカやミラも心配していた」


 アルタイルがそう教えてくれた。少し安堵している自分がいることにベガは気がついた。もしかしたらベガはあの二人がベガが病気の発作で倒れたことを「仮病」だの「虚弱体質アピール」などと理解を示してくれないかもしれないと怯えていたのかもしれない。


 窓の外の景色は緩やかに夜へと移行し、冷たい夜が来る。ベガの身体にもう発作の痛みも後に引く気だるさも残っていない。


 「もう大丈夫だから、そろそろ寮に戻るわ」


 「大事をとって医務室に一泊してもいいが、もう大丈夫?」


 シリウスは心配そうに眉を下げた。学院に来てから発作が起こったのは初めてかも知れない。


 「発作ってやっぱり心臓の…?」


 アルタイルが不安そうにベガの顔を見た。【ファム・ファタール】で持病持ちで心臓が止まってしまうなどとベガは男に叫んだような気がする。そこからずっとアルタイルはベガが心臓が悪いと思い込んでいたに違いない。


 「心臓は大丈夫…だと思うの。原因不明の病気だから」


 「そっか…」


 アルタイルとリゲルとの間に微妙な雰囲気になりかけた時にシリウスが口を開いた。


 「それじゃ、もう寮に戻りなさい。就寝時間も近い」 


 そう言いながらシリウスはベガの腕から点滴を抜いてくれた。就寝時間になると、必要な分以外は消灯されてしまう。

 

 「女子寮まで送っていくよ」


 「そうそう、もう暗いし」


 アルタイルとリゲルが提案してくれたが、それを却下したのはシリウスだった。


 「女子寮まで送っていったら男子寮に戻る頃には就寝時間を過ぎているだろう。就寝時間に遅れるのを見過ごすなんて出来ないからね。今すぐ戻った方がいい。ベガは私が送るから」


 「先生がそういうなら」とアルタイルとリゲルは寮へと帰っていった。二人の姿が扉が閉まって見えなくなる。


 「……少し、大人気ないことをしてしまったかな」


 ぽつりとシリウスが呟いた。


 「何が?」


 「最近、ベガとゆっくり話す機会がなかったからね。送るまでの道すがら話したかったんだ」


 シリウスはベガの頭を優しく撫でる。ベガも少し恥ずかしかったが赤面しながらも正直に自分の気持ちを吐き出した。


 「私もシリウスとゆっくりお話ししたかったわ。なんだか久しぶりね」


 どちらからともなく手を繋ぐ。もし他人に見つかったとしてもベガはまだ幼い一年生なのだし、夜の闇が怖いからと言い訳すれば疑われないだろう。シリウスは女子生徒の間ではここ最近人気一位に躍り出た教師なのだという。こんな場面を見られれば嫉妬されてしまうように思えた。彼の瀟洒な雰囲気は女性をうっとりとため息を吐かせるものだとベガは知っていた。


 回廊は一定の間隔で明かりが灯っていたが中庭は暗く黒い影がぼんやりと浮かぶだけだった。夜空には猫の爪のように細い蜜色の月が昇っている。


 ベガは久しぶりにシリウスとゆっくり話をした。話したのは何げないことばかりだったが、学院に来てからは少なくなってしまったものばかりだった。


 「友達ができたようで安心した。…私? 私は、他の先生方ともなんとかやってるよ。最近は温室の一部を貸してもらえてね。ほら、授業用に温室や畑が幾つかあるだろう。そのうちの一つで植物を育て始めたりしている」


シリウスはベガが学級内で孤立しているのではないかと心配だったようだが、今日少なくとも四人の友達を確認したことで安心したようだった。


 「上手くできたらベガに見てもらいたい。失敗するかもしれないから気長に待っていて」


 誰とでも仲良くなれるのは美徳だが、アルタイルとリゲルとは適切な距離で友人関係を築くようにと忠告を受けた。虫がついたらかなわない…なんてシリウスは呟いていた。


 きっとアルタイルとリゲルは貴族出身だから気をつけろとミラと同じことを言っているんだろうとベガは理解した。広い敷地内だろうと寄宿舎と校舎は行き来しやすいように作られている。話しながらではあったが歩けばすぐに着いてしまった。流石に建物内までシリウスは入れないので玄関先で別れることになった。


 「シリウス…」


 別れるのが惜しくてベガは振り返る。そこにはいつも通りのシリウスがいて、離れる寂しさを感じているのはベガだけではないかと思わされる。同じ敷地内にいたとしても遠くから眺めることがほとんどだ。ベガの寂しさを見透かしたかのようにシリウスはまたベガの頭を撫でた。


 「時間がある時でいいから、私の寮の部屋に来ればいい。エステルも待っているから」


 鼻の奥が少しツンとしたが、泣くような子供じゃないところを見せたいと、ベガは唇を噛み締めて我慢した。起きた時に泣いてしまったのでここでも泣くわけにはいかなかった。


 「ばいばい、シリウス!」


 別れの言葉を告げたなら、もう振り返らずにベガは寄宿舎へと入った。扉が閉まる音が背中側から聞こえた。早く部屋に戻ろうとしたところで、ベガは呼び止められた。


 「ワルドゥさん」


 いつも後ろで纏められている雨に濡れたような艶やかな黒髪が今は下されていた。寝間着の上に肩掛ショールを羽織った姿のツィーが立っていた。

 

 ベガは就寝時間に遅れたことを責められるのかと、体を硬直させた。固まった体とは裏腹に心臓はけたたましく跳ねている。心音がツィーにも聞こえてしまうかもしれないほどに。そして名前を覚えられていることに冷や汗をかいた。


 「医務室から戻ってきたんですね。大丈夫です、ちゃんと報告を受けたので就寝時間に遅れたことついては責めません。同室のリリーさんが飲食禁止の図書館にお菓子を持ち込んだので、ワルドゥさんも気をつけてくださいね?」


 「は…はい、気をつけます」


 初日の印象が強いからか、毅然とした態度で言い返すツィーに少しの畏れと憧憬のようなものを抱いていた。孤児院で悪口を言われたままだったベガも何か言い返せたのではないかという勇気と後悔をこの人は意図せずベガに与えてくれる。


 様々な人種が行き交う交易都市で暮らしていたベガだが、やはりツィーのような焔華系の属領人はそもそも数が少ないのでその容姿は珍しいと言えた。閉鎖的な島国の焔華は属領下に置かれても大陸や帝国に移住している数が少ない。


 「あのっ!」


 立ち去ろうとしていたツィーをベガは思わず引き留めてしまった。赤い唇が微かに弧を描いているのを見て少なくとも表面上は怒っていないとベガは判断した。


 「初日のこと…なんですけど…気にしなくていいと思います!寮長になることは凄いことだし…えっと、すみません何言ってるんでしょう私…」


 口を開いてから後悔した。ベガは自分が何を言いたかったのか纏めずに衝動的に口を開いてしまったのだ。とにかく、属領人蔑視が薄い環境で育ったベガには新入生の少女の発言が衝撃だったのと、毅然としたツィーの態度に好感を抱いたのだ。


 ツィーは吹き出したように笑うと、顔をくしゃりとさせていた。貼り付けたような微笑みではなく、本当に笑っていたのだ。


 「心配しなくても大丈夫。私、爪の先ほども気にしてませんから。属領出身なのは確かだけれど、もう帝国臣民権を獲ているので」


 この若さで帝国臣民権を得ていることに驚きだった。スィン・アル・アサド学院にいる属領人達は臣民権獲得のために努力している最中であることが大半だ。

 臣民権を得る最大の近道は軍に入ること。しかしもう得ているなら他の道が開けてくる。


 「不思議そうな顔ね。私がこの学院に来たのは帝国官僚になって焔華人の立場をよくするため、って言えばいいかしら」


 「…凄いです。立派な志ですね」


 ツィーは複雑そうな表情を押し殺すように微笑むと今度こそ立ち去った。去り際に「クラーと同室でしたよね?彼女を見つけたら私のところに来るように言っておいてください」と言っていた。


 ベガはクラーが何かやらかしたのではないかと思いながら部屋へ戻るために螺旋階段を登り始めた。



******



 ガラス張りの温室。植物が咲き乱れ、鳥籠のような天井からも蔦や花が垂れ下がっている。その植物の森の一部、切り開かれたような場所に一枚板の木製の作業用の長机が並んでいた。


 揃いの制服を見に纏った少年少女が机を前に並んでいる。植物の汁などが染み付いた前掛エプロンをつけた教師が生徒の前に立つ。


 「ええ!皆さん、前回の授業では魔術加工が施された水をやれば数時間で芽が出て花が咲く種を育てて貰いましたね。食べてしまった人も…いますがね!」


 教師は厳しい目つきでスピカを見たが、ベガの隣にいたスピカは気にしてないように「ピーナッツみたいだった」と呑気に呟いていた。


 「かかる時間は短かったですが、魔法を使わない植物の育て方を体験しましたね。今回の授業では魔法で花を咲かせてみましょう」


 女教師は大量に瓶の入った木箱を机の上に置いた。生徒たちの歓喜の声が響いた。今まで座学が中心で実技の授業は行われていなかった。まず知識を詰め込ませてから実践させるのだろう。


 「この瓶のなかに魔法で花を咲かせてください。大きな瓶の方が評価は高いですが、欲張らず自分の実力に見合うものを選びましょうね。早く、大きく、美しい花を咲かせてください」


 男子生徒は競争するような大きな瓶を取った。中には謙遜して小さな瓶を取るものもいた。スピカは大きすぎず小さすぎずちょうどいい大きさのものを持ってきていた。


 「ベガ?」


 スピカは瓶を持ってこないベガを不思議そうに見た。


 「ワルドゥさんは、見学しておいてください」

 

 教師はベガの近くに来ると作業机から少し離れた木製の丸椅子を指差した。皆と同じようにしろと言われるのは困るが、あからさまに対応されるのも困った。現に温室中の視線をベガは浴びている。


 植物にさえ目があるかのような心地だった。もう周りの作業机を取り囲む同級生達は「何故見学なのか」をひそひそと話し合っている。


 「はーい!皆さん、始めてくださいね!」


 教師が手を叩きながら、開始を促す。ベガを見ていた者達も瓶に向き合い始めた。皆が一様に瓶に手を翳す。手の甲に浮かんできたのは日に透けた血管のような薄い青緑の紋様。


 『我、(こいねが)う』


 座学で習った、魔法を発動させる鍵のような役割を放つ言葉。のちに続く言葉は皆それぞれ違った。今回は「この瓶の中に花を咲かせよ」などの簡素な言葉だ。


 声…正確には音には霊力が宿り、文字には魔力が宿るとされる。古代では文字を記すのに獣の血を使い、紙は羊皮紙など動物由来のものを使った。それが魔術の生贄の代わりになり、文字を読んだだけで人を狂わせてしまうこともあった。


 声で紡ぐ魔法にももちろん代償は必要だ。手の甲に浮かび上がった紋様はやがて腕に巻きつく蛇のように何重の輪になって体に絡みつく。


 輪を形成しているのは微かに発光しているように見える豆粒状の文字。手の甲に現れた紋様も腕に絡みつく輪も、皆それぞれ違う。それは血筋──遺伝情報によって異なるものだ。


 遺伝情報の輪が糸のように現れ、編み上げていく。


 瓶の中にはそれぞれ花が咲き始めた。瓶に対して小さいもの、逆に瓶の中にぎゅうぎゅうに詰められたもの。枯れかけのものや色がなく半透明のもの、まだ蕾のもの、茎だけのものなど様々だった。

 

 立派な花を作り出したものは片手で数えられるほどだった。その片手に入るうちにスピカの姿もあった。彼女は綺麗な白百合を咲かせていた。


 「皆さん、だいたい出来ましたね。失敗しても落ち込まない!なんせ初めての人が大半でしょうから。魔法を使った後は酷く疲れます。無理せずしっかり休んで下さいね」


 魔法を発動させるというのは生命力とも言える魔力を自分から切り離すようなものだ。自身を形成する細胞を抜き出して、花の細胞に変換し顕現させるみたいなものだと習った。


 魔法の実践を伴う授業は生徒の健康を守るため、一年生の内は一日一授業までと決まっている。十分な休息を取れば魔力は回復するのだ。それは魔力の多い人の話しで、優れた魔力配列を持たない庶民なら魔法で筆を少し横に転がすだけでも三日は寝込む。それほどに燃費が悪い。


 同級生たちは作り出した花を見せ合ったり比べあったりして盛り上がっていたが、やがてその熱も冷めたのか見学になったベガの話題へと移った。


 「あー、疲れたー。見学の人は疲れてないだろうけど」


 肩を回しながら、同級生の男の子がチラチラとベガを見ながら馬鹿にしたように言った。その表情を見ればわざと意地悪く言っているのだとわかった。周りも堪えきれずに笑いを零している。


 ベガは言い返す言葉も度胸も持たなかった。ただ俯いて下唇を噛むしかなかった。握ったスカートが皺になって爪も食い込む。授業の終わりを告げる鐘が鳴り終わる前に、ベガは逃げるように温室を後にした。


 座学だけの授業から実技が組み込まれ始め、学級内の実力差が浮き彫りになって来ていた。座学は学級内でも一番だと自負しているベガだったが、実技ばっかりは駄目だった。

 成績が低いのではなく、成績が()()。逆に座学では劣等生気味のスピカは実技では学級内で上の方に入るくらいの成績を上げていた。

 

 実技だけ毎回見学の生徒がいるという噂から始まり、教師達も隠しはしなかったのだろう。いつの間にかベガが全く魔法を使えないが故に研究対象として入学したことが、数日経つ頃には全生徒に広まっていた。


 閉鎖的な空間だからこそ、学院内は娯楽に飢えていて噂話は瞬く間に広がる。実技の授業はベガだけ教室の隅に移されて見学する。時々、同級生達はベガの方見てはくすくすと笑うのだった。


 「どうして、実力が無いくせに入学できたの?」


 狡い、贔屓されている、などというベガを責める言葉を浴びるように掛けられてはベガは言い返せず俯くしかなかった。言い返すも何も、それは事実だったから。


 本当はわかっていたのだ。学院に認められたのはシリウスでベガはシリウスを逃さないためのおまけでしかない。様々な規則を捻じ曲げて「特例」でベガはこの場にいる。本当なら血の滲むような努力を積み重ね、才能にも恵まれた者だけしかいない場所に。

 

 積み上げられた古書と、ほろ苦い珈琲の香りが鼻をくすぐった。ベガの隣の椅子には砂漠狐のエステルが眠っている。学級内で浮いてしまったベガと実技では優等生のスピカはなんとなく離れてしまっていた。学級が別のアルタイルとリゲルは気をつけていれば顔を合わせないけれど、ミラは寮の部屋が同じなため顔を合わせることになる。


 酷い言葉を投げかけられるのが嫌で噂が広まり始めてからは寮に帰れていない。シリウスの部屋で寝泊まりしていた。

 他の教師達からはあまりいい顔をされなかったが、ベガの存在自体が規則違反のようなものなので今更規則違反を重ねたところで痛くも痒くも──ちょっとだけ嘘だ、本当は心が痛い。


 規則を守ることよりも、自分の心が出来るだけ傷つかない方を優先した。ベガは授業だけ受けて、逃げるように教室から姿を消す生活を続けていた。


 シリウスの部屋はベガが最後に見た時から少し様変わりしていて、一言で言うと生活感が増した。部屋には珈琲の匂いが少し染み付いたし、観葉植物や水槽なんかも増えていた。


 ベガは魔法の理論を纏めたノートを開く。それを幾度となくなぞっては自分も使えたらと夢想する。その時、砂糖を入れた珈琲がベガの目の前に置かれた。


 珈琲を置いたシリウスの反対の手にはシリウス用の砂糖が入っていない珈琲があった。シリウスはベガが開いているノートを見て申し訳なさそうに眉を下げた。


 「使いたい?」


 「…一度くらいは使ってみたいって思うわ」


 シリウスは傷ついたような顔をして、ベガの罪悪感を掻き立てた。


 「早く、治してあげたれたらいいんだけれど…。すまない、私の実力が足りないばっかりに」


 そこでベガはさっきの言葉が失言だったと気づいた。けれども、全然使いたいなんて思ったことがないと言っても嘘はすぐに見抜かれただろう。シリウスはいつも察しが良くてベガのことなんてお見通しなのだから。


 ベガはシリウスの顔が見れなくて、視線を彷徨わせる。傷ついた迷子の子供のようになった瞳を直視したく無いと思ったからだ。視線を彷徨わせた先で水槽の中のアメフラシと目があったような気がした。


 「そんなに気に病まないで。私、あなたにとっても感謝しているし…大好きよ、シリウス!」


 最後は元気付けるために勢いで言ってしまった。顔を赤くしているとシリウスは目を細めて眩しそうに微笑んだ。その場に流れたむず痒いような恥ずかしいような空気を誤魔化したくて、ベガは珈琲に口をつけて「まだ苦い。砂糖が足りない」と口を尖らせた。


 シリウスは「畏まりました」と笑いながら砂糖を足してくれた。シリウスがベガの好む味を間違えるはずはなかったから、随分甘くなってしまった。

 

 喉が焼けるような甘さを流し込みながら、ベガはノートを眺めていた。魔法を使ってみたいと思っているのと同時に諦めてもいる。消えない憧憬を抱えながら、自分の人生は掛け違えた釦のようなものだと思ってしまっている。


 魔法が使えたら、ベガの手の甲にはどんな形をした紋様が浮かび上がるのだろうか。そこから血筋を推測して、家族に会えたら…なんて考える。


 「ベガ…。今の君の状態は辛いだろうが、味方がいることを忘れてはいけないからね」


 「忘れるはずないわ。目の前にいるじゃない」


 ベガはノートから顔を上げて、珈琲のカップを持つ。しかしシリウスはそうではないと言うように軽く首を振った。


 「ベガ、寮に帰れていないだろう?」


 「帰れる訳ないわ。私の居場所はないもの。初めからなかったもの!」


 孤児院と同じだ。理解されず、異端は排斥される。才能が玉石混交だった孤児院よりも磨き上げられた玉石ばかりの学院の方が環境としては厳しいかもしれない。


 「決めつけるのは早いよ」


 ベガはシリウスが自分を寮に帰したがっているということを感じ取った。今まで一緒に暮らして来たのになんて薄情なんだろうとベガはシリウスを見る。


 「本当に居場所がないか自分の目で確かめてくるといい」


 シリウスは珈琲を飲み終わったら寮へと行くようにと言った。ベガは最後の抵抗に少しずつ飲むようにしたが、上澄みを半分ほど飲んだ時にはシリウスの言葉に納得しかけていた。


 スピカやミラと全く話さずに寮を出て来てしまった。もしかしたら、二人は幻滅しないかもしれない。二人がベガを悪く言っているところを見ていない。

 

 飲み終わった珈琲を机に置くと、ベガは椅子から立ち上がった。最初からベガが特別入学で魔法が使えないと知ったら幻滅させられると決めつけていた。


 シリウスの言葉が背中を押してくれるような気がした。ベガはどんな誹りも受け入れようと覚悟を決めた。努力をして来た人達にとってベガの存在は規則を捻じ曲げ、自分達の努力を無駄に感じさせるような忌まわしい存在だろう。


 「シリウス、私行くわ。ちゃんと正面から受けてくる」


 それが、規則も周りの努力も踏み躙っている自分の責任だとベガ思っている。

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