《6》星彩が煌めく ٢
中央部に上方向に盛り上がった曲線形状をした白い柱が一定の間隔に並ぶ中庭に面した廊下に可愛らしい声が響く。
「ベガーー!あたし、三日月学級だったぁ!」
その言葉を言い終わる前にスピカはベガに突進するように抱きついた。柔らかな金髪と露のような黒髪を揺らしベガはスピカごと倒れそうになったが、アルタイルとリゲルが支えてくれた。
「スピカ!ベガが潰れちゃうでしょ、何してるの。まったく…よかった、私は満月学級で。この子のお守りなんて御免だもの」
スピカを後から追いかけてきたミラはベガの隣にいたアルタイルとリゲルを見て顔色を変えた。
「お久しぶりです。アルタイル公世子殿下、リゲル候世子様」
ミラの言葉を聞いた周りの生徒達は騒めき、自然と後ろに下がって道を開けていた。ミラの声色がお人好しな世話焼きで親しみやすい姉御肌な人物の印象から途端に公人のような印象に変わった。
「学院では皆平等に学徒だ。かしこまる必要はないよ」
アルタイルが微笑むと、先程までの緊張したような空気が和らいでいくのを感じていた。
「俺もアルも、家の話題出されるの好きじゃないから。身分は学院内なら特に気にしなくていい」
その時、上級生らが男子と女子に別れるよう指示する声が聞こえた。周りはこちらに視線を寄越しながらもぞろぞろと移動し始めている。
「じゃあ、またね。ベガ」
「またね〜」
アルタイルの手の振り方は公務などで帝族が公に姿を表すときの振り方に近かったが、リゲルはひらひらと軽く手を振って上級生の男子生徒の元へと歩いて行った。
「ベガってばもしかして実は凄い人?あの二人と知り合いだったなんて…。でもワルドゥなんて家名、私は知らないし…」
ミラが考え込み始めると、ベガとスピカは顔を見合わせた。
「「ミラの方が実は凄い人?」」
ミラは自分が凄い人と形容されたのを照れるように頬を赤らめた。何度も別に大したことないと付け加えてはいたが、ミラはレオ伯爵位を賜った家の娘だと言った。
「それにしても、ベガが話しかけられてるのを見てびっくりしたわ。私が知らないだけでいいところのお嬢さんだったのね」
すっかりベガはミラにとって同類と認識されていたが、慌てて首を振った。
「私は違うわ」
「そうなの?じゃあ、何処で!どうやって!知り合ったの?」
ミラは握手したときのスピカ並みに顔を近づけてはベガの肩を掴んだ。呑気にスピカは「ミラもベガの目見たかったんだね」と言っている。
「偶然、列車でアルタイルと出会ったの。再会も偶然だしリゲルに至っては初対面よ」
「あの二人がいいって言ったからいいけど…学院の外じゃ、絶対に様付けしなさいよ!私ベガとお別れしたくないから」
ミラは涙目になっていた。ベガの隣にアルタイルとリゲルがいるのを見た時、何かベガが失礼なことをしでかしてしまったのではないかとかなり気を揉んだらしい。
「ミラ」
ベガはミラのふわふわした猫っ毛を撫でた。安心させるように。
「もう手遅れかもしれない」
知らなかったとはいえ、ベガは【ファム・ファタール】内でアルタイルとはかなり親しげに話した。中には失礼にあたることもあったかもしれない。貴族だったという情報を知って答え合わせをするように思い返せば、侍女のクララの対応も腑に落ちるところがある。
「アルタイル殿下はサジタリアス大公殿下の一人息子で、リゲル様はジェミニ侯爵家の嫡男──って帝国の一般常識じゃない。まぁ、よほど高位の貴族じゃなければお顔を拝見したことがないから仕方がないとは思うけど」
「ミラは顔を見たことあったからわかったの?」
スピカは顔をこてんと傾げて尋ねる。くりくりとした大きな瞳は好奇心に満ちて青く光った。
「私も遠くから見た程度だからまさか…とは思ったの。でもあんな美丈夫は高位貴族の家しかないとは思ったわ」
「ミラは様付けしなくていいの?」
ベガは不安になってミラの顔を見た。その顔は一瞬だけ驚いたように目を開いた。
「私はいいの。リゲル様も言ってたでしょ。学院内では皆平等に学徒だって。それに、もう私達友達だから」
高貴な家柄に生まれ、付き合う人間は選べと剪定された箱庭で暮らしてきたミラとって初めて自らできた友人だと照れたようにミラは言った。
同じ年くらいの令嬢同士が集まった茶会の余興で自分を勝たせるために仕組まれたものだと気づいたとき、途端に輝きが色褪せたという。
「私は家の関係ない所で友達を作るって決めたもの」
行きましょう?と、ミラはベガとスピカの手を取った。もう廊下の人は疎になっていて、殆どが上級生の元に集まっている。三人は並んで女子生徒の集まりまで行くと、上級生の指示に従い列を成し、寮まで移動した。
女子寮の玄関広間は吹き抜けになっており、金色に鈍く光る螺旋階段が中央にあった。この螺旋階段こそがスィン・アル・アサド学院女子寮の象徴と言っていい。
ドーム状の天井からはシャンデリアが吊るされ、壁の流麗な装飾は絵画の中に迷い込んでしまったかのようだった。室内の至る所に花が飾ってあり、女性らしい柔らかで華やかな空間だった。
「新入生の皆さん、改めて入学おめでとう。私は寮長を務めています、ツィー・トゥーランドット・リーです。何かあれば私か、副寮長のヴィンデミアトリクスに尋ねてください」
神秘的な黒い髪に涼しげな目元をした上級生、ツィーは新入生の前に立つとその玲瓏な声を響かせた。新入生の纏める役割をしていたので寮長であったことにベガは納得だった。
ツィーの隣には穏やかそうな悪く言えば愚鈍そうな上級生が控えており、ベガは彼女が副寮長だと目星をつける。あまり人の上に立ち纏めるような人物には見えなかった。
「彼女がヴィンデミアトリクス・イナブよ。うちに出入りしている商人の娘だから顔だけ知ってるわ。彼女見た目からは想像つかないけど野心家で兄を押し退けて家を継ごうとしてるから父親の後をついて回ってる…って噂よ」
ミラは小声で教えてくれたが、ベガやスピカだけでなく近くにいた新入生達まで耳を傾けていたようだった。
「部屋を確認して各自荷物を──」
ツィーが言葉を紡ぎ終わる前にその言葉は聞こえた。
「寮長が属領人だなんて…天下のスィン・アル・アサドも落ちたものね。不正でもしたのかしら」
それはミラのように小声で決して大きな声ではなかったが、皆敏感に音を拾ってしまったかのようだった。空気が凍りついたようになった。誰もが口を開かず、ツィーも説明の続きを口にしなかった。
「私は実力で寮長に選ばれました。そこに恥じるような後ろ暗いことはありません。気に入らないのならどうぞ、入学初日ですが退学の準備を進めたらどうです?」
ツィーの黒曜石のような瞳は真っ直ぐ一人の新入生の少女を射抜いていた。ベガはその冷えつくような空気と一人を吊し上げるような厳しい視線に驚いたのもあったが、属領人蔑視を始めて目にしていた。恐れのような感情がベガを覆っていくようだった。
「あの子、たしか帝国貴族の末席に連なる家の子じゃないかしら。矜持だけは高いのよね」
ミラがぼそりと呟いた。ミラが具体的な家名を出さなかったのは気を遣ったのかそれとも本家が爵位を持っているだけで彼女は分家の出身なのかもしれない。
「皆さん。寮長になると経歴に箔がつきます。寮長は五年生から六年生がなります。寮長になるためにはまず学級長なんかを経験しておくといいでしょう。級長は一年生からなれますから頑張ってください」
ツィーはにっこり微笑んだ。多少無理矢理だったかもしれないが説明の流れに戻した。
「退学する気がない人は部屋を確認して荷物を運んでください」
その指示に従わず、不満を垂れる人物はあの少女でさえも居なかった。きっと誰もがこう思っただろう。鮮烈な実力社会に自身が放り込まれてしまったと。
ある者は希望を感じ、またある者は不満を燻らせるだろう。帝国は表向き、実力社会となっていてたとえ属領出身であろうとも成り上がることは可能とされている。
実態は一部の資本家の台頭と貴族の特権が維持される男性優位型の社会だ。学院の女子寮という閉ざされた社会は女子だけで構成された稀有なものだった。
今まで家の特権に甘えてきた貴族は不安を募らせるだろうし、平民や属領人は期待に胸を膨らませるだろう。
ベガは自身の気持ちがどちらに属するのかわからなかった。簡単に二分にできるものではないかもしれない。
「学級は別れたけど部屋は一緒みたいね」
ミラは部屋を確認すると遠い目をしていた。寮は四人部屋で四隅に寝台と机がある。空間を仕切れるように寝台には円形の天蓋が垂れていた。深い青の布には銀糸で星が刺繍され、夜空のようだった。寮長、副寮長になると浴室付きの個室が与えられるらしい。
ベガ、ミラ、スピカは同室だった。寮は学年関係なく振り分けられるため、同学年がこんなにも揃うのは珍しいことだった。
スピカは早速荷物が入った鞄を開け、また何も置かれていない拭き清められた机に物を配置していた。
「多い多い多い!こっちに流れ込んでくる」
スピカの机には猫の飾りだったり何処かの部族の面だったり、学業との関係がわからなそうなものばかりが並び、多すぎてミラの方まで侵食していた。ミラは慌ててスピカの方に物を押し返す。
ベガは必要最低限のものしか鞄には入っていなかったし、一番の荷物であったエステルはシリウスの部屋に置いてきている。今頃は寝ているのだろうか。ベガは今までずっと一緒にいた自分が離れて少しでも寂しがってくれていないかと思いを馳せた。
四つめの寝台、ベガの隣はまるで拒絶するように帳が閉められていた。
「スピカと学級が一緒だったのは嬉しいけどミラとも離れちゃったわね」
ぽすん、と寝台に腰掛けベガは呟いた。合同授業があるとリゲルは言ってくれたが少し心細かった。シリウスの授業はそもそもベガは受けられない。
シリウスはベガに勉強を教えてくれたが、教壇に立つ姿はまた違うのだろう。
「別れちゃうだろうとは思っていたから、覚悟はできてたけど。ちょっと寂しいかも」
ミラは自分の方まで溢れてきたスピカの荷物を押し返しながら「スピカって整理整頓下手なのね」と溜息を吐いていた。
「ミラってば学級が分かれるってわかってたの?」
私服を鞄から取り出していたスピカはいつのまにか、レンズに目が描かれた眼鏡を掛けていた。これで居眠りをしてもばれないらしい。
「満月学級は伝統と格式を重視する傾向があって、由緒正しい貴族を中心に構成されるのよ。他人に薄情…個人主義だから団結力や協調性に欠けてるって言われてる。個人の才能を磨き、研ぎ澄ますには最高の環境だけど秀才と紙一重の変人が多く在籍する…って噂!ただの噂よ」
ミラはあくまで噂であることを強調したが、ミラの偏見が詰まっているようにも見えた。
「ねぇ、ミラ。三日月学級は?」
スピカは私服の整理を早々に諦め、ベガの隣に腰掛けた。
「三日月学級は将校の子女を中心にしているから、血の気が多い印象ね。大体の問題児はここよ!ただ誠実な人が多いし、団結力は高いわ。新月学級は新興の富裕層で主に構成されてるわ。狡猾で陰湿な奴が多いけど身内には甘い。そのかわり排他的で外に対して冷酷ね」
属領人は三日月学級と新月学級に振り分けられるらしいが、最近は学級の特色や垣根は薄れてきており満月学級に属領人が入る事や逆に貴族出身者が他の学級に入ることもあるらしい。
「うる…さい」
掠れた女の声が聞こえ、ベガたちは一斉にその声が聞こえてた場所を見た。閉じられていたはずの帳が少しだけ開いていて、その隙間から白い手が覗いていた。
「私以外全員一年かよ。ついてない」
気怠げに顔を覗かせたのは燃えるような赤毛の少女だった。榛色の瞳はじろりと此方を一瞥した。細い首にまとわりつく髪にふっくらとした唇は色っぽく、何より彼女は胸元がはだけた生地が薄い寝間着姿だった。
きゃっと声を上げてしまったのはミラだった。顔を赤らめ目を手で覆っている。赤毛の少女は別に女同士だからいいだろうと恥ずかしがる様子はなかった。
「なっ…なななな、なんて格好をしているんですか」
ミラは顔に熱が集まって舌を噛みそうになりながらも毅然とした態度で上級生に注意した。
「寝てたんだから寝間着なのは当たり前だろ?」
赤毛の少女は髪をかきあげ、それでも落ちてきた前髪を息を吹いて上にあげた。
「もう、お昼近いですよ」
ベガはどこを見ていいのかわからず視線を彷徨わせた。たとえ女同士でも目のやり場に困るほど白い肌が見えていた。ここでふとベガは気づく。上級生は先ほど大広間に集まっていてそのほとんどが新入生と一緒に寄宿舎へと帰ってきた。しかし目の前の少女の寝癖と頬についた敷布の跡を見るに随分前からここで寝ていたように見える。
「新学期初日なのに寝ていたんですか?」
ベガが尋ねると赤毛の少女は面倒くさそうにしながらも一応答えてくれた。
「私がそんなこと気にするわけないだろ」
くぁっとあくびを噛み殺した少女を見てミラは呆れたような顔をしていた。年上だからといって無条件に尊敬できるわけではなかった。
「私はクラー・アルガール。前の部屋の住人は一人が卒業、二人は私の同室が嫌だからって新学期から部屋を変わっちゃった。よろしく」
けたけたと悪戯っ子のような少し馬鹿にしたように笑ったクラーはそれだけ言うとまた帳を閉めて寝てしまった。
「曰く付きの部屋に当たっちゃったかもね」
スピカの言葉にミラもベガも賛同はしなかったが内心では大いに頷いた。二人も同室を嫌がられるとはどんな苛烈な性格だろうと不安になった。
ベガ達は最初の数日は警戒していたものの、クラーは部屋には殆ど居らず居ても寝ている事が多かった。外出禁止になるはずの就寝時間に姿が見えないこともあったが、自然とそう言うものだと不思議に思わないようになっていった。
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「ローザ女帝は帝国の中興の祖であり、これから続く黄金時代を築き上げたお方ですね。ベラトリクス皇女殿下に与えられた娯楽用のロサ・ペルシカ小宮殿もローザ女帝の御代に建設されたものです。教科書の左上を見てください」
歴史学の教師の声が教室に響く。後ろの方へ行く方高くなる階段状の教室の丁度真ん中あたりにベガはスピカと並んで座っていた。
教科書の左上には件のローザ女帝の肖像画。その隣には白亜の外壁に貴石をはめ込んで模様をつくる象嵌細工のロサ・ペルシカ小宮殿の写真がある。
「ローザ女帝はとても進歩的な考えをお持ちで、非貴族層からも優秀であれば積極的に登用しました。疫病や悪天候に強い穀物や飼料の開発を全面的に支援し、属領への輪栽式農法の導入といった農業改革に始まり銀行の設立、医療や交通、都市計画などインフラの整備。様々な魔術研究を盛んに支援し、魔術研究の母という異名も持ちますね」
スピカがやけに熱心にノートを取るのでベガはちらりとスピカの手元を見るとローザ女帝の睫毛を一本一本描き足し、目力を強めている最中だった。
「スピカ、駄目よ。怒られるわ」
歴史学の教師であるトゥレイス・カイカブという男は気の弱そうな優男の風貌から予想がつかないほど愛国心が強く、このような落書きを目にすれば烈火の如く怒るだろう。
女子生徒からは優しくて素敵と人気だが、男子生徒からはナヨナヨしていて気持ち悪いと評判の男である。もっともその噂は三日月学級内でしか聞かないのだが。
かつかつと足音を鳴らしてトゥレイスは教室を周る。ローザ女帝に関しては彼の実家のカプリコーン男爵位をローザ女帝の御代に賜ったことから思い入れが強いらしい。
「大丈夫だよベガ。ばれないようにやってるし、ばれてもとっておきの言い訳があるから」
いつもぎりぎりを生きるスピカにベガは毎回ひやひやさせられている。植物を育てる課題の時に、配られた種をスピカが向日葵の種と勘違いしてぽりぽりと咀嚼していた時などベガは心臓が潰れてしまうかと思ったほど驚かされたものだ。
「魔術研究は貴族達を中心とする宮廷派と民の精神的な支えである神鳥教会派に分かれ、競争的研究資金を出すことでお互い高め合い発展してきました。この制度を確立したのもローザ女帝ですね」
他の部分は教科書をなぞるだけのトゥレイスだが、ローザ女帝の時代になると教科書に載っていない余談までしっかり解説する。
「魔術の軍事転用を主眼に置いた宮廷派は神鳥教会派とは折り合いが悪く…。宮廷派は教会派と比べ庶民の生活に直結する分野の研究は冷遇されがちだったのですが、ここにローザ女帝が光を当てました。現在の医療や社会保障の礎を築いたのはローザ女帝です」
教室を大体一周したトゥレイスは教壇に戻り黒板に白墨で線を引いて文字を強調させた。トゥレイスがスピカとベガの近くを通った時、ベガだけ緊張してスピカは特に何とも思っていないようだった。
描きたしたのが睫毛だったこともありばれなかったのだろう。これが髭だったりしたらうまくいかなかったはずだ。ベガは張り詰めていた息を吐いた。どうして私がひやひやしなければならないのだろうという呆れと共に。
「カイカブ教授は歴史の美しいところばかりを切り取って、ローザ女帝が大勢の愛人を囲ってたことなんて一切触れなかったね」
スピカは睫毛を描き足すのをやめると、パタンと教科書を閉じた。気がつけばスピカの足は秒針の音に合わせて左右に揺れていた。壁に掛かった時計を見ればもうすぐ授業時間が終わる事がわかる。
「ローザ女帝の時代は華美な文化が持て囃されチューリップの栽培・鑑賞が盛んになりましたね。今回の課題は、ローザ女帝の御代から現在に至るまでの歴史、つまり帝国がどのような軌跡を辿ったか。ローザ女帝の時代と現在の違いなど自分の考えをまとめてください」
そのとき教師の声をかき消すほどの大きな鐘の音が鳴り響いた。授業の終わりを告げる鐘だ。尖塔の鐘楼から学院全体に響き渡る。
「期限は次の蕾ノ日までです!」
鐘の音に負けないように付け足された言葉をどのくらいの生徒が聞いていたのだろうか。鐘が鳴った瞬間にほとんどの生徒は鞄に教科書を入れて席を立っていた。ベガの横に座っていたスピカも同じだった。休日を間近に控えた蕾ノ日の最後の授業。皆が急くのもわかるような気がした。
「終わった〜!ベガ〜、週末は外出許可をとって遊びに行こうよ」
伸びをしているスピカにベガは鞄に教科書をしまいながら首を傾げた。
「課題を出されているのよ?まずは図書館で調べ物…」
今度はスピカが首を傾げる番だった。
「期限は一週間あるんだよ?そのうち六日は遊んで最終日にやれば良くない?」
そもそも課題をやらないという選択をスピカが取らなかったことにベガは安心した。
「私は早めに終わらせたいからスピカの考えとは相容れないわ」
教室を出たところでベガ達はミラと合流した。
「三日月学級は歴史学だったの?じゃああの課題が出たのね」
「ええ。今から図書館に寄ろうと思うの。ミラもどう?」
スピカは課題という単語にうんざりした表情を浮かべていたが、ミラはそうでもなかった。むしろ勉強を楽しんでいるようにも見える。
「私も行こうと思っていたの」
「え、やだ──」
「スピカも、行きましょう?」
ミラは満面の笑みでスピカの首を縦以外に降らせることを許しはしなかった。「同室の子が課題を提出しなかったなんて、連帯責任にされたらどうするのよ!」と言っていたが元々ミラはお節介な気質なのだろう。自身がレオ伯爵家の娘として完璧に育てられてきたからこそ、他人の粗が気になるのかもしれない。
他人にばかり世話を焼いて自分のことが疎かになる人は往々に存在するが、ミラは自分のことを完璧にこなして他人の世話をやけるほどに余裕があった。
帝国最大級の蔵書数を誇るスィン・アル・アサド学院の図書館はドーム型の建物だった。床から天井まで古今東西のあらゆる書物が揃い、薄暗い室内には硝子製のランプが揺れている。
歴史的価値のあるものは総じて日光に当ててはいけないらしく、貴重な原本は直で見ることは叶わず保存されているだけで貸し出されるのは写本である。
机の上で頭上までうず高く積まれた古書達が来訪者を出迎えた。埃とカビ臭いような独特の匂いが鼻をつく。
分厚い黒革の研究書などが、ずっしりと並んでいた。やはり研究機関ということもあり、専門的なものが多い。活版印刷技術が発達したことにより書物の価値は下がり庶民にも流通するようになった。
「選択肢が膨大過ぎるとどれから手をつけていいのかわからなくなるわよね」
ベガは壁一面埋め尽くされた本棚を見て呟いた。スピカは文字に拒絶反応でも起こしそうな顔をしていたし、ミラさえもベガと同じく迷っているようだった。
スピカは本の渦に酔ったと近くのソファに座り、ミラは覚悟を決めたように本棚に向かった。ベガは司書からもらった図書館の地図を睨みながら何処に歴史学の本があるかを探していた時、後ろから声がした。
「あれ、ベガも図書館?」
白金色の髪に菫色の瞳をした少年、リゲルが大量の本を抱えてそこにいた。
「リゲル…様?」
「リゲルでいいって」
積まれた本の山を抱えているため、今にも崩れそうな危うさがあった。
「あ…えっと、何冊か持つの手伝おうか?」
ベガはおずおずと手を差し出した。いつ本が崩れてきても受け止められるように。
「ありがと。でも大丈夫。一人で持てるし、女の子に持たせるってかっこ悪いじゃん。逆なら喜んで手伝うけど」
本を床にぶち撒ける大惨事になるよりは猫の手ならぬベガの手でも無いよりはましかと思ったが、リゲルにはリゲルなりの信念のようなものがあるらしい。
ベガには理解できなかったが自分をよく見せようと意地を張っているのではなく、幼い頃からそう教育されてきたかのような自然さだった。
「もしかして歴史学の課題?」
「そうなの。何から手をつけていいか分からなくて」
よく見ればリゲルが抱えているのは難しそうな歴史書の類だった。
「俺はアルと一緒に調べてるんだ。よければベガも一緒にやる?」
「是非ご一緒したいわ」
ベガの返事を聞くとリゲルは歯を見せて笑い、手は塞がっているので顎で方向を示した。その先の席には本の山が山脈のように連なり視界を覆っていた。
「アル〜、頼まれてたの持ってきた」
「ありがとう。そこ置いといて」
リゲルが手にしていた本達を机に置くと、その衝撃で本の山がかすかに揺れた。アルタイルはこちらに目を向けず、目を左右に流すように動かしては速い速度で頁を捲っていた。
ベガは近くにあった本を一冊手に取る。分厚くてずっしりと重い。それはどうやら過去の新聞を纏めたもののようだった。
「これも必要なの?」
ベガの声にアルタイルは驚いたようにベガを見た。その時には頁を捲る手は止まっていた。
「ああ、それは新聞で当時の様子を調べようかと。歴史的な事件の当時の空気感の一端でも掴めないかなと思って」
ベガが手に取ったのはその一部で、リゲルが抱えていたのは殆ど新聞の纏めだった。他にもアルタイルの周りには「カプリコーン男爵領の工業の興亡」などがあった。
「カプリコーン男爵領ってカイカブ教授の家の領地よね」
「そうそう。あの家をローザ女帝と絡めて褒めとけば点数貰えるって先輩から聞いた」
リゲルが悪い顔で笑っている。打算に塗れた笑顔なのにその表情は眩しいほどいい笑顔だった。
「こっちは比較的新しい本ね。『鉄道王』だわ」
ローザ女帝の時代からかなり離れた、ベガ達が生きる時代の方が近い時代の書物だった。鉄道王とは先帝の異名で、彼は皇太子時代に工学・地理学・水理学を収め学者としても活躍した。砂漠の交易国として交通には敏感であったため彼は鉄道に傾倒した。
彼は国中に鉄の道を敷く野望を抱え、ついには帝国鉄道建設局の特別顧問に就任し、鉄道の発展に尽力した。ローザ女帝が魔術研究の母と呼ばれるなら、先帝は砂漠鉄道の父である。
「先帝陛下って凄い人なのね」
【ファム・ファタール】も元を辿れば先帝の恩恵とも言える。先帝や歴代皇帝の輝かしい経歴が出てきたのなら当然話題に上がるのは現在のカノープス帝だ。
「現在の陛下はここ数年、公の場に姿を現さないから心配だよね」
庶民にとって雲の上の人であるのでベガはあまり気にしたことはなかったが、アルタイルは心配そうに呟いた。リゲルは新聞のまとめを捲りりながら「俺の母親からは子供が心配するようなことじゃないって言われてるから、アルも思い詰めるな」と言っていた。
失礼ではあるがあまり輝かしい経歴を残していないカノープス帝の印象は「慈愛の薔薇」と呼ばれたベラトリクス皇女の悲劇が強く残っている。
高位貴族の家柄であるアルタイルやリゲルはベガより思うところがあるのだろう。ベガ達の世代は当時をよく知らないが、十二年前それはもう太陽が二度と登らないかのような衝撃を与えたという。
ベラトリクス皇女の死をきっかけにかは分からないが、カノープス帝は徐々に表から姿を消し、政治を大宰相にすべて任せている。特にそれで庶民の生活に支障が出ないので、不満の声が上がることは少ない。
近所のトッファーフの爺も「大宰相様様だなぁ」と言っていたことをベガは思い出す。たとえ母后政治だろうと傀儡であろうと、暮らしが豊かなら庶民は文句は言わない。
カノープス帝は体の弱い皇后を一途に愛し亡くなった後にも皇后を迎えなかった。子供がベラトリクス皇女しかおらず、そのベラトリクス皇女も亡くなってしまったことで直系の血筋はカノープス帝で終わりとされている。そのことで暗君と呼ばれることもある。
ベガは他の新聞を纏めた書物を手に取る。頁を捲ればそこに彼女はいた。「ベラトリクス様、薨去」という記事にベラトリクス皇女の写真がある。まだ十代後半の若い少女が映っていた。
艶やかな黒い髪に、芯の強い瞳が全体的に儚げな容姿の中に生きる活力が漲っているように見えた。誰もが平伏すような存在感、まるで不屈の花のような強かな美しさが写真越しにも伝わってきた。
アルタイルもベガの見ていた記事を覗いてからベガの顔を見た。
「ベガって少しベラトリクス様に似てるように見える」
美しい女性に似ていると言われ、ベガは少し照れたがすぐにお世辞だということに辿り着いた。
「にっ…似てないわよ!私こんなに美人じゃないもの」
ベラトリクス皇女の顔を大輪の花に喩えるならば、ベガは道端に咲いた雑草のようなものである。「似てると思うけどな〜」とリゲルも言い出し、ベガは退路を塞がれてしまったように感じた。
どう足掻いても、ベガの「似ていない」という主観の主張はアルタイルとリゲルの「似ている」という客観的な意見に敵わないだろう。
話題を逸らしたくてベガは頁を捲る。次に偶然止まった頁にはラト・イスリアの名家、マルタ家の悲劇を取り扱った記事だった。凄惨で強烈な事件はラト・イスリア国内に留まらず、帝国にまで渡ってきていた。
マルタ家の長女誘拐事件。悲劇の子として名を刻んだのはアルキオーネ・マルタ。彼女は標準より小さく軽い体で生まれ落ちたがために生後二週間ほど医術師の診察を受けながら検査をする必要が生じた。
空白の十分。医術師が目を離した十分、揺籠に揺られていたはずの赤子は忽然と姿を消してしまった。記事は家族の悲しみの訴えを掲載していた。
母親は体調を崩して遠くへ療養に行かねばならなかったし、父親のマルタ卿の顔は痩せて酷くやつれ唇は乾燥し、見る影もなかった。
傷付いている家族に無遠慮に質問を投げ掛けていく記者に、この記事は何処のものだろうと確認すればレウコテア社のものだった。
記事の中にはアルキオーネ・マルタの特徴も描かれていた。まだ赤子だったため髪の色はわからないが、家族と同じく青い瞳をしていたという。
「この子、生きてたら俺たちと同じ歳くらいかな」
リゲルはその記事を見てポツリと呟いた。
「まだ死んだと決まったわけじゃないわ」
ベガは咄嗟に言い返すようになってしまったが、世間からはリゲルの意見が一般的だろう。十年、アルキオーネ・マルタは見つかっていない。
仮に生きているとして誘拐されたのなら、何処にいるのだろうか。一説には誘拐された子供の殆どは帝国に流されるという。属領人は帝国内では不当に賃金が低く設定されているため、いい労働力だ。
這い上がるために高等教育の資金を稼ごうとも、自分の手元に残るのは雀の涙程度。女なら娼館、男なら違法薬物の売人に身を落とす者もいるという。
違法な移民仲介業者が、誘拐した人間を売ったり臓器を抜いたり──は属領では珍しくない。
「赤ん坊の時の容姿なんて十年経った今、役に立つのかな。成長すれば瞳の色が変わってるかもしれない」
そう言うアルタイルの綺麗な灰色水晶の瞳は、青よりメラニン色素が多い。しかし瞳の奥には青のような寒色を感じないこともない。瞳の色を確認するために、アルタイルを見つめすぎたベガは顔を逸らした。目があったアルタイルが微笑んだような気がしたからだ。
リゲルの菫色の瞳は青い瞳が光の当たり方によって菫色に見えているだけだろう。しかし、青である時よりも菫色である時の方が多いように見えた。
スピカの瞳はやや緑がかった碧のため、青よりメラニン色素の多い緑と青の中間なのだろう。ミラの瞳はメラニン色素が多い茶色だが、ツィーのような黒曜石に見えるほどメラニン色素がない明るい色でクラーの榛色は緑と茶色が混ざった、茶色に次いでメラニン色素が多い色だ。
シリウスがベガの瞳を誉めてくれた際に急に勉強会が始まってしまった時に覚えたのだ。最初は何故シリウスとベガの目の色が違うのかと言う疑問からだったのだが。
「早く見つかって欲しいわ…ね…」
その時、ベガの視界の両端で光が爆ぜたような気がした。身体中を悪寒と灼熱が交互に駆け巡る。体が内から破裂したがっているような、または潰れてしまおうとしているような。
四肢の先端から燃えているように感じる。指先から鑢で肉を削られているかのようだ。爪も肉も骨も、神経も関係なく。血が溢れることはない。削れても目に見えぬ速さで回復して、一見何も無いように見える。
──『発作』だった。
遠くから聞こえる悲鳴を最後にベガは目を閉じた。