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《5》星彩が煌めく ١

 硝子製の天井から燦々と陽の光が歩廊ホームに降り注いでいた。ここは帝都アンドロメダの駅舎である。


 列車から降りたベガは胸いっぱいに帝都の空気を吸い込んだ。おそらく帝都で生まれ帝都で育ったベガだったが、四歳か五歳の時にシリウスが迎えに来てくれてからずっとアリエス辺境伯領で暮らしていたため、帝都に戻ってきたのは実に五年ぶりくらいである。


 「やっと着いたわね。シリウス」


 「ああ。まったくだ」


 ただでさえ長距離の移動だったが、途中で列車強取トレインジャックなんて事件に巻き込まれてしまったので余計に時間がかかった。血が出ていたベガの左頬の傷は今では跡さえ見えない。


 首都アンドロメダは城郭都市であり、何重もの無骨な日干し煉瓦と土で固められた壁が円形に取り囲む都市だ。何度も侵略し侵略された歴史から有事の際は都市全体が巨大な要塞に成る作りになっている。


 都となる前は軍の冬営地として栄え、一度路地に迷い込んだら、慣れていないかぎり大通りに出ることは至難の業である。壁を作ったきり古い壁を壊しもしないでまた新しい壁を建てるものだから見通しが悪く空も狭いアンドロメダは、だからこそ軍事要塞としての価値が高い。


 あまり美しくない都市のように思える帝都だが、砂漠や草原に自生する蔓性の薔薇であるロサ・ペルシカが帝都のあちこちで陽に顔を向けている花の群生を見ることができ、石畳の割れ目から覗くわずかな土、干からびた荒野で根を張っている。


 日向ぼっこをしている野良猫たちが眺められるのも帝都のいいところだ。街中の至る所に猫用の餌や水が置かれている。ベガは帝都育ちのため、猫はこういうものかと思い込んでいた。


 帝都は街そのものが非常に緻密なつくりをしているため汽車は都のなかを走ることができず、列車は壁の外側にある駅に到着した。


 列車内からは吐き出されるように人のが降りてきては波を作っているようだった。シリウスの手を握っていなければベガなんて流されていってしまいそうである。


 シリウスもベガが踏まれたりしないように気をつけていたし、エステルは肩に乗っていては危ないと判断したのか籠の中で大人しくしていた。


 「乗合馬車で行くの?」


 駅を出てすぐにある半円の形をした広場には辻馬車や乗合馬車が停まっていた。ベガはあたりを見渡した後シリウスを見た。


 「スィン・アル・アサド学院が迎えの馬車を寄越してくれるらしい。少し待とうか」


 シリウスはそう言って広場の長椅子ベンチを指差した。長椅子ベンチに座りながら、ベガは列車内で買った麵麭パンを千切って鳩にあげたりした。

 シリウスは鳩に囲まれて感情を削ぎ落としたような顔になっていた。もしかしたら鳩が苦手なのかもしれないとベガはシリウスの新たな一面を発見していた。


 「くるっくー!シリウス、もしかして鳩は苦手?」


 鳩の鳴き真似をしただけでシリウスの顔から一層表情が抜けていく。


 「ベガ、鳩のフンには病原菌が含まれているんだ。触らないように」


 普段まったく弱味を見せないシリウスの思わぬ一面に歳より少し幼いような印象を受けた。流石にずっと鳩に囲まれているのは可哀想なのでベガはさっさと麵麭パンを鳩にあげた。


 シリウスが立ち上がると一斉に鳩は飛び立ち、一気に視界が開けたように感じる。鳩が飛び立った後に見えたのは太陽を象った紋章が付けられたエメラルド色と金色で飾られた二頭立ての立派な箱馬車だった。


 「ベガ、行こうか」


 麵麭パン屑を払っていたベガの手を掴み、シリウスは歩き出した。ベガは空いた手にエステルが入っている籠を持っていたがいつの間にか重さが消えており、そのかわり肩にその重さがかかっていた。


 馬車は帝都の街中を抜けて走る。小窓からは遠くからでもわかるくらいに煌びやかな宮殿が見えた。帝都は皇帝が住まう宮殿を中心に広がってる。


 しばらくして、その宮殿に負けず劣らず巨大な…それでいて装飾は教育の場にふさわしく極力無駄を削いだ目に優しい建物、スィン・アル・アサド学院の前に辿り着いた。


 基本的な帝国建築を踏襲し、棗椰子の木が揺れる広い中庭を取り巻くようにして回廊が建ち教室や実験室、職員室が並んでいる。その隣には寄宿舎があり、その奥の入り口から見えない敷地からは教育機関ではなく研究機関の領域になる。


 シリウスの手を借りて、馬車から飛び降りるようにして地面に着地したベガが最初に見たのは正面玄関でこちらを見る男の姿だった。


 オリーブ色の金で縁取られた長衣を纏う男の髪には白髪が僅かに覗き、老獪そうな目元には薄らと皺が刻まれていた。


 「待っていたよ。バナフサジュ先生」


 「わざわざお出迎えありがとうございます。ザーファラーン学院長」


 冷たい風が背中を撫でるような緊張がベガの身を包んだ。スィン・アル・アサド学院の学院長フェルカド・ザーファラーンは書記官僚を経て学院長になった人物である。

 ベガは学院に関する資料の簡素な紹介文の中にあったフェルカドの経歴を覚えていた。そのまま書記官長となるべき人物だったと言われていたのも知っている。


 帝国の上層部にいた人間の眼光はこんなにも鋭くなるのかと縮み上がっていた。シリウスは自分の論文が特に学院長が絶賛してくれたと話していたから、優しそうな人物を思い浮かべていたためベガの想像は真っ先に裏切られた。


 「ファム・ファタールが事件に巻き込まれたと知って心配したよ。何せ、君達がそれに乗って来ると聞いていたから」


 あの事件から帝都に着くまでの時間で、ファム・ファタールの強取事件は何社もの新聞の一面を飾っていた。特に歴史は浅いが国内有数の出版社であるレウコテア社はこの事件を面白可笑しく書き立て、途中停車の駅で買った新聞を見てシリウスは苦い顔をしていた。


 『帝国軍の対応が後手に回った理由ワケ』『給料泥棒?帝国軍の現状』『乗客が既に犯人を制圧?』などの見出しが大々的に載っていた。中には乗客へのインタビューが掲載されており、シリウスとベガは自分達が記者に捕まり顔写真が掲載されなかったことに安堵したのだった。


 シリウスは「あんな低俗な記事は好まない」とすぐさま破り捨てていた。


 「とにかく、ようこそスィン・アル・アサド学院へ。歓迎しよう。他の教職員への紹介はまた後ほど行う。まずは寮へ荷物を置いて来るといい。送られてきた荷物は運び込まれているから」


 フェルカドはシリウスからベガに視線を移すと、目線を合わせるように屈んだ。


 「入学おめでとう……少し早いが。学生用の寮の部屋分けは新学期に入ってからなんだ。少しの間だが、教職員用のバナフサジュ先生の部屋で過ごしてくれ。家族で入居される先生方もいるから部屋の広さについては大丈夫な筈だ」


 「ありがとうございます」


 フェルカドがベガに向ける視線には観察対象に対する好奇心と同情のようなものが滲んでいた。もちろん、学院長なのだからベガの事情は知っているだろう。

 

 しかし今までシリウスと大した魔力を持たない平民の中で過ごしていたベガにとって自分が同情の視線を向けられるほど「可哀想な子」であることに気づいた。

 その視線は新鮮であると共に、心の奥に言い表せない靄のようなものを作り出した。


 フェルカドはまるで優々と池を泳ぐ鴨のような足取りでそのまま校舎の中に消えていった。ベガとシリウスは割り当てられた教職員用の寮の建物に入ると管理人から鍵を受け取った。


 部屋は一家族が住むには少し手狭な気はしたが、二人暮らしなら十分な広さだった。浴室と小さな台所キッチンと備え付けの家具があった。


 直接持ってきた荷物以外は全て運び込まれていたが、ベガの分だけまた部屋を移るからか一箇所に纏められ運び出しやすいようになっていた。

 ベガやシリウスは自分の荷解きからではなく、まずエステルの居住環境を整えてやることから始めた。


 しばらくして荷解きを終えるとシリウスはベガの日除けの布を持ってきた。それを見てベガはシリウスが出掛けるのだと気づいた。しかもベガも一緒に。


 「ベガ、制服を仕立てに行こうか」


 嬉しさのあまりベガはシリウスに駆け寄ろうとしたが、スカートの裾を踏んで転びそうになった。慌てた様子のシリウスが受け止めてくれたことで怪我ひとつしなかったが。


 「あ…ありがとうシリウス」


 「まったく慌てん坊なお姫様だ」


 言葉では叱っているはずなのにシリウスの表情は穏やかだった。むしろ口元が緩んでいるようにも見える。


 出掛ける際は学院側から馬車を出してくれるようだった。教師にも生徒にも優秀な魔力配列を持つ高貴な人が多いからという理由だった。


 帝都アンドロメダ、アタナシア通り。セレス商会の本店など有名な店が立ち並ぶ、帝都の大通りにその店はあった。時の皇后に寵愛された職人が設立した帝室御用達の仕立て屋『月下美人』はスィン・アル・アサド学院の制服を請け負っている他にカシオペヤ歌劇団の衣装制作も請けているという。


 この店で盛装を仕立てるには一着で四輪馬車一台分掛かると言われ、貴族や豪商にしか手が出せない。その中ではスィン・アル・アサド学院の制服はお手頃な値段だったが、そもそも制服を必要とする学院の学生になること自体狭き門のため依頼する人間は少なく大抵の人間には手が出せなかった。


 内装から店員に至るまで一級の彫像の如く美しく、ベガは店内に入ると借りてきた猫に大人しくなってしまった。


 「採寸致します」


 店員の音楽を奏でるかのような声にベガは緊張で固まった。微動だにせず、店員からすれば随分測りやすい時間だっただろう。シリウスは待っている間、高価そうなソファに座らされ濃い紅茶と棗椰子デーツの実を出されていた。


 採寸が終わると、二週間後には出来上がると説明された。新学期には間に合いそうで、ベガは店に入ってから緊張で呼吸が浅くなっていたがやっと息を吐けた。


 店を出た後は馬車の御者にはしばらく休憩していいと伝え、歩いて久しぶりの帝都を観光した。シリウスはベガをベラトリクス孤児院の近くには行かせないように行き先を決めていた。ベガにとってあまりいい思い出がないことに気がついているのかも知れなかった。


 孤児院を懐かしむこともなければ、出て来る話は服はずっとお下がりだった、発作のせいで食事を食べ損ねることがあった、病気について理解は得られなかったなどそういう嫌な思い出ばかりだった。


 慈恵病院であるベラトリクス施療院に併設されているベラトリクス孤児院の周りは金融業や商業で栄えた街区から離れ比較的貧しい層の住民達が暮らす街区にある。


 帝都観光の要とも言える商業区から出なければ、ベラトリクス孤児院の建物などお目にかかることはないが、シリウスはそちら側に近い場所には行かないように気を遣っているようだった。


 商業区の中でもベラトリクス孤児院のある街区に近くなれば建物は古風なものに変わる。それを見ただけでもベガの中に眠る嫌な記憶が蘇るかも知れなかった。


 帝都の巨大な市場はアリエス伯領の市場と雰囲気は似ながらも何処か洗練された印象を受けた。美しいランプが店先に吊るされ、刺激的な香辛料の香りが漂う。硝子製の色鮮やかな香水瓶や宝飾品の類が品よく陳列され、綺麗に削られ加工された宝石やわざとそのままにされている石などが光に反射していた。


 エキゾチックな香りを放つ花束を凝縮したような石鹸やオリーブオイルの石鹸が山積みされ泥のパックなどが売っていた。蜂蜜やアロエの美容液なんかもある。

 

 「持ってきた石鹸が切れたらここで買えばいいわね」


 ベガは山積みされている石鹸の奥に薔薇の模様が描かれた包装に包まれた石鹸を見つけた。薔薇に菫に梔子などの甘い香りがむせかえるような空間だ。


 店の前で中の商品を覗いていたベガは店の奥で妖艶な店主の女が手招きしているのに気づいた。シリウスは他の商品を見ていたので気づいていないようだった。


 それなら丁度いいとベガは誘われるように店内に入る。


 「小さいお嬢様、何をお探しかしら?」


 癖のあるダークブラウンの髪が顔の周りを華やかに波打って飾り立てている三十代か四十代くらいの女性だった。手には小指や親指にまで金の指輪を嵌めている。

 

 「あのね、贈り物を探してるの。彼に」


 内緒にするようにベガはシリウスを指差した。店主の女はその声を聞き取るように顔を近づけて来る。


 「前にね、私が好きそうな石鹸を買ってきてくれたことがあるの。私嬉しかったから…私も何か贈り物ができたらなって思ったの。石鹸とか香水とか、香りのやつがいいわ」


 店主はそれを聞いてにやりと笑った。それはどう見ても「にこり」ではなく「にやり」だった。


 「随分情熱的ね。香水ならうちの品揃えが一番だよ」


 硝子製の香水瓶が並ぶ一画を指差した。


 「乳香、琥珀、伽羅、白檀、麝香…なんでもある」


 帝国人は香りを重要視する。家庭でも香が焚かれ、衣服に香りが移る。そこに香水の重ね付けによってその人独自の香りが出来上がるのだ。

 

 香水を送るということはとても強い独占欲の現れのため、店主は情熱的と表現したのだが、ベガはそのことには気づいていなかった。


 「さて、店前の男前はどんな香りが好みか知ってるの? 小さなお嬢様」


 「えっと…わからないの。私は薔薇が好きなんだけどね、シリウスは薔薇の石鹸は使ってないみたいなの」


 困ったように眉を下げるベガに店主の女は呆れのような笑いを漏らした。


 「あっ、あとこのくらいの値段でお願いしたいわ」


 ベガは衣嚢ポケットからビーズで飾られた財布を取り出した。中にはシリウスから自由に使っていいと与えられた金が入っている。

 あまり悩んでいる時間はなかった。ベガはシリウスが気づいていない間に購入して、驚かせたかったから。


 「小さい瓶ならそのくらいの値段だよ」


 シリウスの匂いを思い出してみても、それは家で焚かれている香の香りだったり清潔感溢れる石鹸──なんの香りかはわからないだったりで思いつかなかった。結局ベガは香水瓶が綺麗だったという理由で茉莉花ジャスミンのものを選んだ。


 ベガが購入し終わる頃にはシリウスはベガが何か買ったことに気づいて微笑みながら店前で待っていた。


 「シリウス。これあげる」


 ベガは先程店主に包んでもらった香水瓶を差し出した。何か日頃の感謝を伝える言葉を添えても良かったのかもしれないが、ベガは顔に集まる照れを隠すように視線を逸らした。

 

 シリウスの仄暗い眼睛は少しの驚きで揺れているように見えた。きっとお見通しだったに違いないけれど、ベガを喜ばせるために驚いたふりをしているのかも知れなかった。


 「ありがとうベガ。でも良かったのかい?自分が欲しいものに使えばよかったのに」


 「私がシリウスに贈り物をしたかったから」


 改めて口に出してみると少し恥ずかしい。実はもっと素直に感謝や好意を伝えたいのだが、ベガはすぐに赤くなってしまう。


 店の奥からにやにやと笑みを浮かべる店主の視線に耐え切れなくなったベガは「行きましょ」とシリウスの手を引っ張って店を後にした。



******



 金糸で縁取られたベール。それと同じ刺繍がで縁取られた釣り鐘状の外衣は飾紐で留められている。詰襟の紫黒の長衣はスィン・アル・アサド学院の学徒の証だった。

 

 今日のベガは浮かれていた。何度も鏡を覗いては自分の身に纏う服を見る。彩雲の月(くがつ)、学院の新学期初日である今日。新入生が浮かれない方が難しかった。


 「ベガ、準備できた?」


 ベガはこんなにも浮かれているのにシリウスは普段通りだった。普段通り清潔に身だしなみを整えた程度。

 ベガのように新しい制服があるわけでもなく、アリエス伯領で往診に向かう時のような格好だった。野暮ったい格好だというわけではない。シリウスはいつもベガから見れば格好良くて洗練されていた。


 冷たい近寄り難さというものはない。少しミステリアスな印象を与えるだけだ。


 ベガのお見送りに寝ていたエステルも眠そうな目のまま来てくれた。エステルはシリウスの部屋で生活することになる。学生用の寮に愛玩動物ペットは連れて行けなかったからだ。


 「準備は…出来てるのよ」


 思いの外不安そうな声が出たことにベガは自分が一番驚いていた。心の中は楽しみで満たされていると思っていたのに。


 「さっきから同じものを鞄から出したり入れたりを繰り返していたね」


 「私、思っていたより不安だったのかも」


 特別入学という本来ならいるはずのないベガがいるという罪悪感。魔法が使えない自分が異常だという劣等感。自分で自分に言い聞かせるように前向きな言動をしていた。

 

 「ベガ、帝都にくる前に私が言ったことを覚えている?」


 「シリウスは味方でいてくれるって言ったこと?」


 そう尋ねるとシリウスは優しく微笑んで頷いた。


 「何も不安に思うことはないよ」


 シリウスの手が優しくベガの頭を撫でた。ベガの特別入学は学院側も了承していることだし、後ろめたいことはないのかもしれない。それでも堂々と胸を張れるかと言われればベガには少し難しかった。


 きっとこの劣等感は一生ついて回る。シリウスと共にいた暮らしではベガは守られていたのだろう。


 もう一度、ベガは鏡の前に立った。鏡の前に立つたびに寝癖を直したり、皺を伸ばしたりしたのでもう治すようなところはない。それでも何かおかしなところはないかと探してしまった。


 忘れ物がないか神経質に鞄を何度も開いたり閉じたりして確認した。


 「よし、シリウス行きましょ!」


 無理矢理にでも声を張り上げなければベガは緊張で潰れてしまいそうだった。でも絶対的な味方のシリウスがいて、エステルもシリウスの部屋で待っていてくれる。


 シリウスは学院に来た次の日には歓迎会なるもので教職員全員と顔を合わせたらしい。ベガはこれからたくさんお世話になるであろう、ベガの治療チームである医術師達としか顔を合わせていなかったが、皆優しくしてくれて敵意など感じなかった。


 環境は決してベガに優しくないだろうが辛いことばかりではないかもしれない。その小さな予感に背を押され、ベガは部屋の外へと踏み出した。

 

 長期休暇中で人が少なかった学院は新学期に入ると活気が溢れた。市場のような乱雑な空気ではなく、軍隊のように揃えられた何処か静謐さも感じられた。


 こんなにも心が揺れ動いているのは新入生──ベガだけかもしれなかった。


 スィン・アル・アサド学院は今でこそ帝国最高峰の教育機関として名を馳せているが、元々は主に軍官僚を輩出するための士官学校の側面を持ち合わせていた。


 百年前の大陸戦争と呼ばれる大陸全土を巻き込んだ戦争で勝利を収めた帝国ではあったが、優秀な人材を多く失った。優秀な人材の保護と後進育成を目的として、入学年齢を大幅に下げ学院の門戸は貴賎を問わないことになっている。


 当時帝国では人材不足が深刻で女性から老人まで徴兵されたという。「使えるものは何でも使う」状態だった。

 貴族の責務として形式的に士官学校に入学する流れは現在の学院まで受け継がれ、女性の社会進出に伴い女性も入学するのが当たり前となった。


 女人政治として母后や寵姫、皇女が権力を握った時代が数多くあり実権を握った女性の殆どが女性の立場の改善を行ったため受け入れやすい土壌は既に出来上がっていたのだろう。


 女性の官僚の登用も進み、軍官僚の中にも女性の姿が珍しくない時代になった。真新しい制服に身を包む新入生は少年が多いものの中にはベガと同じく少女の姿もある。


 「シリウス、新入生ってこんなにいるの?」


 ベガは隣のシリウスを青い顔で見上げた。大勢の同年代の子供に囲まれるのは初めての経験だった。と言ってもベガは同年代より小柄なため周りはベガより一、二歳くらい年上に見えてしまう。


 「こんなに…って新入生は精々二百人程度だよ。今年は豊作とは聞いているけれど」


 十歳から入学し十七歳で卒業の七学年生で全寮制のスィン・アル・アサド学院。豊作、不作あれど学年の人数は少なくとも百人多くて二百人と決まっている。


 ベラトリクス孤児院は常に九十人くらいしか居なかった。自身の徳を積むために里親に名乗り出る人物が多かったからである。ベラトリクス皇女の名を冠した孤児院ということもあり、孤児を貰おうと考えた時の候補に出やすいのだ。


 「ベガ、私は教員側にいるから。頑張って」


 「新入生はこちら」という女教師の声の方向に向かってベガは優しく背中を押された。しかしすぐにシリウスの方へ振り返ってしまう。


 「私…ここから一人なの?」


 「新入生は皆一人で向かうよ」


 石造の広い廊下の先にある大扉の前に続々と新入生が集まっている。あの扉の先が広間であることをベガは聞いていた。新入生の中に保護者同伴の者は見当たらない。


 「シリウス…」


 思わずベガは目が潤んできてしまった。シリウスはベガを行かせようとはするが、その名残惜しそうな表情は狡いとベガは思う。


 肩に乗るエステルの重さが恋しくなった。自分は一人じゃないという安心感が今はない。


 「い…行ってきます」


 やっとの思いで新入生の人混みの中に入っていったベガは何度も何度もシリウスの方を振り返ったが、シリウスはベガが見えなくなるまでその場から離れない代わりに今にも泣きそうなベガの涙を拭うために駆け寄って来てくれることはなかった。


 ベガにとっては慰めにもならなかったが新入生の殆どは不安と期待を入り混ぜにしたような表情をしていた。一列に並ばされ、広間に入っていく。


 赤と青と白が複雑に絡み合って金で結ばれる壁、ドーム状の天井には夜空のような色と星の瞬きが広がっていた。


 「綺麗」と誰からともなく感嘆の声が漏れた。ベガも周りを見渡して、その美しさに息を呑んだ後自分に注がれる視線に気がついた。広間の美しさはその場にいた大勢の上級生が新入生へ向ける視線を一時的に気づかなくするくらいの力があった。

 

 広間の奥、数段高くなったその中心には学院長フェルカドの姿があった。広間の左右に上級生達が座り、入ってきた新入生は広間中の視線をその身に浴びた。


 教員達が座る近くに新入生用に開けられた場所があった。案内の女教師は新入生全員を広間に押し込んだ後、息を吐き手巾ハンカチで額の汗を拭っていた。

 「子供の相手は疲れる…」と呟いている。ベガはその女教師は子供と関わる今の仕事は向いていないのではないかと思った。

 

 「新入生諸君、まずは空いている席に各自座りなさい」


 フェルカドの声は大きくはないのに広間によく響いた。彼の声は腹の底に響くような重低音で、口を開くだけで周り空気には少しの緊張が走る。

 

 「入学おめでとう。諸君らは栄えあるスィン・アル・アサド学院の門を潜った選ばれし者である。入学に至るまでの努力を讃えると共に、心から歓迎しよう」


 その言葉が終わると割れるような拍手が広間を包んだ。


 「新入生は廊下に掲示されている所属学級の表を確認した後、上級生の指示に従って寮まで行くように。──では新任の先生の紹介を…」


 ベガはフェルカドの言葉は途中から耳に入って来なかった。シリウスの姿を見つけてしまい、小さく手を振る。シリウスは人目があるので手を振りかえしてはくれなかったがベガと目が合うとそっと微笑んでくれた。


 「今年の教授は当たりじゃない?」


 上級生の女子生徒達が俄に騒めきだす。静かに盛り上がる女子生徒に対して男子生徒は静かに盛り下がっていた。


 「かっこいい〜」


 新入生の女子の中にも顔を赤らめたり、視線を逸らす者もいる。


 「今、目があった!微笑んでくれた!」


 「馬鹿ね。あれは私に向かって微笑んでくれたのよ」


 周りでシリウスが褒められているとベガも鼻が高くなる。周りの女子生徒の呟きにうんうんと頷いた。


 ベガの左隣に座る新入生の少女も少し頬を赤らめながら話しかけて来た。


 「あの教授、かっこいいわね。私達一年生の授業を担当してくれるかしら…。あっ、はじめまして。私はミラ・バルセィーム」


 ふわふわとしたやや焦茶に近い栗色と優しい茶色の瞳の少女だった。絶世の美女というわけではないが、どう見せれば自分が可愛く見えるかを知っているような愛らしい顔立ちをしていた。得意げに釣り上がった眉が特徴的だ。ふっくらとした頬は薔薇色に染まっている。


 「私はベガ・ワルドゥよ。そう、シリウスはかっこいいの」


 「なんであなたが自慢げなのよ…?」


 自信満々に笑みを浮かべるベガにミラは呆れと困惑しているようだった。

 

 「あと、ベガ。隣の子寝ちゃってるわよ。まったく…学院長先生の話聞いていたかどうか怪しいわね」


 ベガの右隣に座っていた少女は前後にうつらうつらと船を漕いでいた。軽く肩を叩くと少女は色素の薄い睫毛に彩られた碧い瞳を開けた。月光のような金の髪は妖精のようだった。薄い眉毛は真っ直ぐで、鼻はどこか面白そうに上に向いている。全身の雰囲気から柔らかそうな印象を受ける。


 「あれ、私…寝てたぁ?」


 鈴を転がすような可愛らしい声がふっくらとした桃色の唇から溢れる。


 「しっかり寝てたよ」


 居眠りに関してベガが太鼓判を押すと、少女は眠い目を擦りながら首を傾げた。眠っていたことに関して納得いかないらしい。


 「ちょっとあなた、学院長先生の話聞いていた?これから新入生は掲示板がある廊下へ移動よ?」

 

 「んー…聞いてなかった」


 少女の返事にミラは信じられないものを見たという顔をした。


 「あたし、スピカ・リリー。よろしく」


 スピカが手を差し出して来たのでベガは握手を合わす。


 「私はベガ・ワルドゥよ」


 そう言った時、スピカは掴んでいたベガの手を引っ張った。ベガの眼前にスピカの顔があり、長い睫毛は当たりそうで息は掛かるくらいの距離だった。驚きのあまりベガは固まったままだった。


 「ベガの目、綺麗だね。海みたいだよ」


 「あ…ありがとう。スピカの目は春の湖みたいね」


 一括りに青と言ってもベガとスピカの瞳はまるで違う印象を与えた。スピカは儚い印象を与えるのに対してベガは何処か力強い印象を与えた。


 「ちょっと!急に引っ張ったら危ないじゃない」


 ミラはぷりぷりと怒っていたが、スピカは「あなた誰?」と軽く流していた。話が噛み合ってないともいうが。


 「ミラ・バルセィーム。覚えておいてね、スピカ・リリーさん」


 その後すぐに新入生達はまた一列になって移動することになった。巨大な掲示板に縦に長い表が三つ並んで掲示されている。表の前になると新入生の列は自然と崩れてしまい、ただの人混みになっていた。


 自分の名前を探すのが最優先でそれぞれ自分の名前を探していると、列の時三人一緒に並んで来たのにベガはスピカとミラも逸れてしまった。


 「えっと…ベガ・ワルドゥ、ベガ・ワルドゥ…」


 ベガの名前は一番左の表の中にあった。表の一番上には三日月学級アルテミスの文字と学級旗にも使われる三日月の紋章がある。


 「あ!あった」


 ベガが声を上げた時、同じくして「見つけた!」という声が聞こえた。てっきり自分と同じく、名前を見つけた誰かだと思ったがその声の主は人をかき分けてベガの手を掴んだ。まるでベガが消えてしまうような幻で、逃がさないように。


 「やっと、見つけた…!」


 灰色水晶の瞳がベガを捉えて離さなかった。


 「アルタイル?」


 蒸気機関【ファム・ファタール】で出会った少年がベガの目の前にいた。


 「アル〜、急に何処かに行くなよ!居なくなってびっくりするから」


 その後ろからアルタイルを追いかけるように白金色の髪と菫色に見える瞳の少年が姿を現した。


 「ごめんリゲル。でも今それどころじゃない」


 リゲルと呼ばれた少年はベガの方に視線を向け、つま先から頭まで視線を滑らせた。そして納得したように「ああ、なるほど」と呟いた。


 「アルってば大胆。入学初日からナンパかよ」


 「違う。前話した【ファム・ファタール】での女の子」


 それを聞いたリゲルはもう一度ベガを見た。


 「アルのお姫様は実在したのか…」


 「お姫様って?」


 そこでやっとベガは口を開けた。そのお姫様がなんとなく自分のことを指しているのではないかと思い至ったベガはアルタイルに手を握られていることもあり、ほんのりと頬が薔薇色に染まっていた。


 「アルがずっと【ファム・ファタール】での勇敢な女の子の話ばかりするからさ、俺が名付けた。俺はリゲル・グルディニヤ、以後お見知り置きを〜」


 「わ…私は─」


 ベガが名前を口にする前に、リゲルは遮るように口を開いた。


 「ベガちゃんでしょ?知ってる」


 慣れた様子でぱちんと片目を瞑って見せた。その動作が様になるほどリゲルの容姿は整っていた。


 「ベガまた会えて嬉しいよ。ずっと心配してたんだ。傷は大丈夫?」


 ベガの左頬には傷の跡はどれだけ探してもない。アルタイルは握っていたベガの手を見て小指があることを確認して、驚いたような顔でベガを見た。


 「指…大丈夫だったの…?」


 「えっと大丈夫だったの。ちょっと切れて、派手に血が出ちゃっただけから」


 本当はベガの小指は吹き飛んでいて、普通なら第二関節より先はないはずだった。医療設備のない駅で長時間、軍の事情聴取に拘束されていたため切り落とされた指を保管していたとしてもくっつけることは不可能だった。


 小指はベガが抱え込むように蹲った時に傷口は盛り上がって小指の形を再生し始めていた。身体中の熱が小指の先に集まるような激痛が走っていた。


 「とにかく無事で良かった。しかも僕ら同学年なんだね」


 「ええ!すごい偶然ね」


 リゲルが「感動の再会じゃん」と揶揄いを含んだような言葉にアルタイルは無意識にベガの手を握っていたようで少し頬を赤らめて「ご…ごめん」と消え入るような声で謝罪すると手を離した。


 「僕とリゲルは満月学級セレーネなんだけど…ベガは?」


 「私、三日月学級アルテミスなの。別れちゃったわね」


 「えー、残念。俺ベガと一緒の学級がよかったな〜」


 リゲルは肩を落とした。が、すぐに切り替えていた。


 「まぁ、合同授業とかあるし。学年が上がると選択授業で少人数制になったら学級とかほぼ関係なくなるらしいし!」


 シリウスが受け持つ授業は高学年から選択できる医学科の授業で成績優秀者しかそもそも選択できないらしい。医学科は工学科などと並んで最難関と称されている。


 「学級が離れても仲良くしてくれる?ベガ」


 アルタイルは眉を下げてベガに尋ねた。その様子が尻尾を下げる仔犬のように見えた。


 「勿論よ。私もまた会えて嬉しいもの」


 「俺とも仲良くしてよベガ」


 ベガは満面の笑みを浮かべて「勿論!」と答えた。

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