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《4》溶けて消える星の瞬き ٢

 奇妙な、けれども穏やかな二人暮らしが始まった。血の繋がりもなければ、恋人でもない。医術師と患者という関係だったが二人は間違いなく家族になった。


 一人部屋を与えられたベガは浮かれていたし、鎮痛剤がある暮らしはとても穏やかだった。発作の激痛に呻く時間は鎮痛剤によって減った。それでも痛い時はシリウスが手を握っていてくれた。それに、動物療法アニマルセラピーだとしてベガに砂漠狐を与えてくれた。


 手探りでありながらも治療法を探す毎日はただ死を待つだけの日々より確実に生に向かって前進していた。


 痛みがないと笑顔が増え、何ごとも前向きになる。ベガは発作が起こらない時はシリウスのあとに雛鳥のようにくっついて周り、何か手伝えることはないかと聞いた。


 「十分手伝ってもらっているよ。それよりベガが好きなことをしたらいい」


 朝の日差しを浴びてシリウスはクッションが敷き詰められたソファに座って珈琲を飲んでいた。


 「私が好きなことをしているわ!全く…シリウスって生活に関していい加減ね」


 一緒に暮らしはじめてわかったことがある。シリウスは重度の仕事中毒者だ。仕事熱心なことはいいことではあるが、研究室に篭りきったまま中々出てこない。ベガがいなければ食事を抜くこともあっただろう。


 腰に手を当て叱ってみたが、ベガは心の中で自分がいなきゃ駄目な人だ…と呆れのような優越感のような感情が湧き起こっていた。


 ベガは台所キッチンに戻ると雛豆を煮込んでいる小鍋を覗き込む。身長が足りないので台に乗っている。ペースト状にして平たい麵麭パンと一緒に朝食にしようと考えた。

 山羊のチーズと一緒に食べたり、果物や薔薇のジャムを付けて食べるのもベガは好きだ。孤児院の食事は特別なことがない限り質素だ。そしてベガは発作のせいでよく食べ損ねることもあったので、こちらに来てから少し太ったように感じる。


 雛豆の小鍋の位置から台をずらして火にかけたフライパンに卵を流し込む。そこに切り刻んだ玉葱とトマト、ピーマンを入れてかき混ぜた。


 最初はシリウスはベガが危ないこと──つまり料理をすることをあまり良しとしなかったが、ベガが孤児院で女の子は料理と裁縫を習うと力説してからは渋々許してくれるようになった。


 料理をするようになってからベガはかなり上達したと自負しているが、シリウスはたとえ失敗した料理でもベガが作ったものなら美味しいと言って食べてしまうので本当に上達しているのかはわからないが。


 「よし、できあがり!」


 皿に盛り付けるため片手で小鍋を持つ様をシリウスは心配そうに眺めていた。小鍋を落として中身を床に撒くことも火傷をすることも、怪我をすることもなかった。それを確認し、朝食を盛り付け終わるのを見てやっとシリウスは複雑な刺繍が施された丸いクッションに座った。


 ベガはシリウスの向かいに座ると、二人で合わせるつもりは全くなかったが同時に指を額に押し当て食事の祈りを捧げた。


 「朝食を食べ終わったら何したらいい?シリウス」


 「まだ食べはじめたばっかりなのにもう食べ終わったことを考えているのかい?」


 香草を混ぜ込んだ凝結乳ヨーグルトがシリウスの口の中に消えていく。それは昨日ベガとシリウスが一緒にが作ったものだった。


 「ミルクを買いに行かなきゃいけないんじゃないかしら。もう少なくなっていたもの。おつかいしてくるわ」


 領都アストレアのなかでも田舎と形容されるこの土地は各家庭で家畜を飼っている。そこから採れる乳を飲んだり乾酪チーズなどに加工し釜で焼いた麵麭パンを食す。


 しかしベガ達が暮らす屋敷に家畜はおらず、せいぜい動物と言えば最近やって来た砂漠狐のエステルくらいなものだった。なので近所──近所と言っても家が小指の爪くらいに見える位置──の家からミルクを買っていた。


 ベガの目の輝きにシリウスが折れたのか、「行っておいで」と微笑んだ。

 朝食を食べ終わったベガはシリウスに日除けの布を頭から肩にかけて巻いてもらう。財布が入っている鞄を肩から下げた。シリウスはベガのスカートの埃を払い皺を伸ばす。


 「かわいい?」


 ベガはシリウスの前でくるりと回ってみせる。特に華美に装ったわけでではない。幼い子供に合わせた実用性重視の衣服である。


 「かわいいよ」


 それでもシリウスはベガを褒めてくれた。実はこの問いはベガが服を着替えるたびに行われる恒例のようなものだが、毎回心の底から褒めてくれる。その声色に変わり映えしない問答への飽きは見えない。


 屋敷から出ると、丁度その前を干草を積んだ荷馬車が通りかかった。荷馬車を引く馬を操る老人の男はベガが向かう家の人間だった。


 「おはよう!私そちらの家に伺うところだったのよ」


 「おや、先生の所のベガちゃんか。それなら荷台に乗っていけばいい。帰りは送ってやれないがねぇ」


 草臥れた帽子を少しあげて老人はベガを見下ろしていた。言われた通りにベガは荷台の干草の上によじ登るようにして座った。


 「大丈夫よ。元々歩いて行くつもりだったもの」


 今日ベガは調子が良かった。まだ発作は起きていない。昨日から新薬を試してみたからかもしれない。シリウスによれば副作用を抑えられるとかなんとか…。

 

 ベガは荷台から流れ行く景色を眺めていた。歩けばそれなりに長い道のりも馬車なら早い。すぐに着いた馬車は納屋に入る。小さい荷馬車は走行中も小刻みに揺れたが、その時は段差でもあったのか大きく揺れた。


 干草の上が滑りやすかったのもいけなかったのかもしれない。ベガは荷馬車から転げ落ちた。馬を操っている老人は最近耳が遠くなってベガが落ちたことに気づかなかった。


 「きゃあっ。い…いや!」


 車体の後輪が袖を巻き取る。どんなに引っ張っても車輪の回転には敵わなかった。体が真っ二つに引き裂かれることはなかったが、骨が砕ける音と肉が千切れる音を聞いた。


 発作の痛みに勝るとも劣らない激痛がベガの右腕に走った。関節より上、肩に近い部分が燃えているように熱い。ベガの劈くような叫び声でやっと老人はベガが荷馬車に轢き潰されたことを知った。


 それでもすぐに車輪は止まらなかった。血管がぶちぶちと切れる。潰れた右腕の肉をまだ車輪が断つ音がベガの耳に響く。温いはずの血液は沸騰しているかのように熱い。


 「あ…ああああああああ」


 最初はその悲鳴が自分の口から漏れ出ているものだとベガは気づけなかった。自分がこんな声を出せるなんて知らなかった。


 気がついた時にはベガは自室の寝台の上に横たえられていた。見慣れた寒色系でまとめられたモザイクタイルのドーム状の天井を見て安堵の息を吐く。


 (きっと悪い夢だったんだ…)


 しかし鼻をつく薬品独特の匂いと鎮痛剤の投与のための点滴を見て夢ではないのかもしれないと思う。横たわるベガに縋るように寝台に上半身を伏せているシリウスの髪は小さな子犬のように見えた。


 「シリウス」


 重い体をなんとか少し持ち上げてベガは掠れた声でシリウスを呼んだ。衣擦れの音と共に顔が上げられる。シリウスの顔は乾いた涙の後と酷い隈が出来ていた。


 「──ベガ…」


 乾いた涙の跡がまた湿り出す。ベガはシリウスが泣くところを初めて見た。


 「良かった。生きていてくれて本当に良かった。トッファーフさんが運んできてくれたんだ」


 その声は震えていた。シリウスはベガの左手を掴む。掌越しの温もりがベガを安心させた。夢ではなかった。荷馬車に引き裂かれそうになった恐怖が蘇る。


 「ベガ。右腕は、家に着いた時はまだ辛うじてぶら下がっているような状態だったんだが…。千切れてしまって。傷口が酷かったんだ。何せ車輪で引き裂かれるように…いや、やめておこう。痛い思いをしたのは君なのに…」


 鎮痛剤が効いているからベガはあまり実感がなかった。それよりもベガより苦しそうな顔をしているシリウスの方が心配だった。シリウスは医術師の癖なのか状態を説明しようとしたが、怖がらせたり痛みを思い出させるだけだと思ったのか途中で口を噤んだ。


 その時、重さを感じていなかった右腕に灼けるような激痛が走る。まるで車輪に押し潰された時のような。これが幻肢痛と言われるものなのだろうかとベガは自身の右腕を見た。


 真新しい包帯が巻かれた腕は関節より上の部分で終わっていた。断切部は熱を持ち神経を削られるような、血管の中に硝子片が流れているような激痛にベガは耐えられず寝台の上をのたうち回った。


 包帯が擦れて解ける。半球体に隆起している腕の段端部は突き破るように盛り上がり続けていた。その光景は腕が生えてきているように見えた。


 何時間ベガは痛みに苦しんでいただろう。もしかしたらそれは数分の出来事だったのかも知れない。痛みが治まる頃には平然とベガの右腕はそこにあった。指が欠けていることもなく、柔らかい肌と桜貝の可愛らしい爪に彩られた手が。


 ベガもシリウスも言葉を失っていた。そしてベガは自身の身体が異常なものであるとあらためて自覚する。発作は目に見えて自分の体に起こる変化を見れなかった。ベガからすればただただ痛いだけの謎の激痛が身体中に走るだけ。


 ちょっとした傷の治りが早いとは思っていたがそれは若さ故の回復力の高さだろうと思っていた。


 「切断面が綺麗なら切れた指が繋がることがある。ベガの腕は奇跡的に繋がった。トッファーフさんにはそう説明する。()()()()()()にする。わかったねベガ」


 このことは誰にも言ってはいけないのだとシリウスが言っているのだとベガは分かった。自分はきっと異端として排除されてしまう…そんな予感を感じていた。



******


 

 ベガが十歳に数えられる年の清風の月(しちがつ)。シリウス宛に帝都から一通の手紙が届いた。

 帝国最高峰と名高い研究機関兼教育機関であるスィン・アル・アサド学院からだった。太陽を象った物々しい蜜蝋で封じられた手紙はずっしりと重みがあるように感じる。


 「シリウス、なんで書いてあるの?」


 ベガはソファに座って手紙を読んでいるシリウスの横から手紙を覗き込む。手紙には水が流れているような文字が書かれていた。帝国語であるが、難しい言い回しをしているからかベガには解読不能な部分もある。


 「この前の論文を評価しているという内容だよ」


 「この前…ってことは疫病は不潔な環境に蔓延するから病院は清潔でなければならないっていう論文?シリウスが夜中まで起きてたあの?」


 シリウスが何日にも渡って徹夜しようとするのでベガは無理矢理にでも寝台まで連れて行き、何度も寝るように説得した。珈琲を飲んでいくらでも徹夜しようとするシリウスにベガは怒った。


 最終的にはベガが眠れないから手を繋いで添い寝してほしいとお願いしてやっと寝てもらった。

 

 「それもだが衛生上の問題から火葬にするべきという論文の方が高く評価されたみたいだ」


 「死んだら燃やすんじゃないの?」


 ベガは首を傾げた。帝国で神聖視される不死鳥は炎の鳥である。そのため帝国では火葬が一般的だ。遺骨は丸い壺に入れられる。


 「土葬が主流な国もある。これは宗教的な問題だからね。今、帝国議会では帝国本土の埋葬は一律に火葬にするという法案が可決するらしい」


 シリウスからの難しい言葉の数々にベガは頭を抱えて目を瞑った。


 「よくわからないわ。私ずっと死んだら、か…そう?されるものだとばかり」


 ベガが酸っぱいものでも食べたかのような顔をしたからかシリウスは笑いながらベガの頭を撫でた。

 

 「土葬だと土の中で腐った死体が地下水に影響を及ぼす可能性があって疫病を引き起こす原因になるんだ。土葬が主流のラト・イスリアなんかは度々疫病が蔓延してる。過去にはそれで国が滅びかけた」


 ラト・イスリアは大陸の西に位置する国で現在は帝国の属領である。多神教の単一民族国家であるということくらいしかベガは知らない。

 単一民族国家でありながら百年ほど前までは大河によって南北に分裂していたというし、財務官を清貧を教えとする聖職者が兼任していたことにより金勘定に弱く財政が破綻しかけた…など失敗国家という印象が強い。

 

 「まあ、ラト・イスリアの場合沐浴文化があまりなかったことも理由の一つだが…」


 逆に帝国は沐浴文化があり公衆浴場も多くあるが、砂漠の近くになるほど蒸風呂サウナ式の公衆浴場が主流になる。

 

 「お風呂入らないの…?汚くない?」


 ベガは思わず顔を顰めた。


 「体臭を誤魔化すために香水が発達したんだよ。ただ…不潔な状態だと疫病が蔓延するね」


 「あっ!疫病は不潔な環境で蔓延するから清潔でなくてはならない。シリウスの論文と繋がったわ!」


 今日は暑いので冷たいハイビスカスのお茶を淹れていた。カップに注いだ茶をソファの近くにあるサイドテーブルに置いていたのを思い出す。ベガはシリウスにも茶を勧めたが、手紙に意識が向いていたのか直ぐには飲まなかった。


 「シリウス。論文、すごく褒めてもらえたの?」


 「ああ。わざわざ手紙がくるくらいだからね。スィン・アル・アサドの研究者たちに気に入ってもらえたようだ」


 「でもこれで調子に乗っていっぱい徹夜しようとしちゃ駄目よ」


 シリウスは眩しい時のように目を細めて微笑んだ。


 「我が家のお姫様は厳しいな」


 そこでやっとシリウスは手紙を置き、茶に手を伸ばした。その時、ベガは手紙の内容を見てしまった。実際には見えてしまったと言った方がいい。ベガにはまだ難しい言葉と言い回しの中にその一文を見つけてしまった。

 

 「貴殿を教授としてお迎えしたく──シリウス、もしかして教授として誘われてるの!?」


 すごいことだと目を輝かせるベガとは対照的にシリウスは困ったように微笑むと、それとなく手紙を隠した。


 「お断りするよ。君のこともある」


 ベガはシリウスの横顔を見て、彼の顔に皺がないことに気づく。赤褐色の肌は健康的で張りがあり若々しい。瑞々しく、若枝のようにしなやかで逞しい程よく引き締まった筋肉。


 (シリウスってずっと大人でかっこいいままだと思っていたけど、もしかしたら私が思うよりずっと私達って歳が近いのかも)

 

 ベガのせいでシリウスは諦めてきたことが沢山あるのだろうか。可能性に満ち溢れる若人の年頃である青年の横顔を見つめ、ベガは胸が締め付けられるようだった。


 シリウスはベガの病気の治療に生涯を捧げる気なのかもしれない。ベガのせいでシリウスの可能性が潰れてしまう。そこに思い至った時、ベガは弾かれるように口を開いていた。


 「そのお話、受けたらいいわ。きっとシリウスは偉い医術師おいしゃさまになれる道が…可能性が閉ざされちゃう。私のせいでシリウスの人生が潰れちゃうのは嫌なの」


 シリウスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐ安心させるように微笑んだ。


 「君を言い訳のように使ってしまって悪かった。でも出世にはあまり興味がないし、私は君のせいで自分を犠牲にしているなんて感じたことはないよ」


 不安にさせてしまったかな…?と眉を下げたシリウスは少々ぎこちなく腕を広げた。抱擁の合図だと悟ったベガは遠慮なくその腕の中に飛び込んだ。


 「君のことが最優先だ。私が幸せになる前に君を幸せにしたいんだよ」


 ベガの髪を手櫛で梳くように撫でる。猫のようにベガはシリウスの胸に頭をぐりぐりと押しつけた。いつの間にかエステルも参入してきて、二人と一匹は抱擁し合っている。


 「もし…私が治ったらシリウスはどうするの?」


 「それはとても嬉しいだろうね」


 ベガは頬を膨らませてじっとシリウスを見つめる。


 「気持ちの話じゃないわ。行動の話よ」


 シリウスは少し考え込むように黙った後、ようやく口を開いた。


 「きっと私は嬉しくて君と共に喜ぶだろうね。その後のことはまだわからない」


 ベガも自分がどんな答えが欲しかったのかよくわからない気持ちになった。もしベガの病気が治ってシリウスとベガが一緒にいる理由がなくなってしまったとしても変わらず一緒にいたいのではないかと思った。


 「もし私が治ったらきっとシリウスは達成感より喪失感を感じると思うわ。多分…ね。予想よ」


 ベガは眉を下げながら様子を伺うようにしておずおずと喋った。シリウスの仕事中毒はベガも嫌というほど知っている。それは仕事にのめり込んで生き急いでいるようにも感じる。


 ベガは自分がシリウスの人生の一部──いや、核ともいうべき部分に組み込まれているような気がしていた。どう表現していいのかベガにもわからないが、縋っているように感じる。


 勿論、ずっと続いて欲しい…つまりベガが一生治らない状態で居て欲しいというわけではない事はわかる。シリウスはベガに健康になって欲しいと心から願っていることはこれまでの言動でよくわかっていた。


 ベガの治療はシリウスにとって生涯をかけて果たす「使命」のようなものであるとシリウスは思っている。だからこそ、それが無くなった時、ベガが完治した時や途中で命尽きてしまった時。

 シリウスは抜け殻のようになってしまうのではないか。人生の目標、生きがいをベガに集中させている状態が心配だった。

 

 「だから他にも選択肢を作るのは悪くないと思う」


 シリウスがこのアストレアという地で穏やかに町医者の仕事に専念して生きていけるならそれでもよかった。他の地に移ってもいい。


 例えばスィン・アル・アサド学院で教授職を引き受けて、後進育成にやりがいを見出してくれてもいいし、別の研究を始めてもいい。

 

 「ねぇ、教授の話前向きに考えてみない?」


 シリウスがベガを大事にしてくれる──俗に言う愛されているということを実感できるのは悪い気分ではなかった。けれどもあまりにもベガが中心であるのは心配になってしまう。シリウスの行動原理にはいつもベガがいる。


 シリウスは深く紫煙を吐き出すような溜息を吐いた。帝国では煙草といえば水煙草のことだ。ベガはシリウスが水煙草を嗜む姿を目にしたことはなかったが、この妖しげで気怠いような雰囲気を持つ男には紫煙とニガヨモギの酒(アブサン)が似合う。


 「ベガがそこまで言うなら考えてみるよ。ただし、君も一緒だ。スィン・アル・アサド学院は教職員用にも寮があるからそこで一緒に暮らせるなら教授を引き受けてもいいと手紙を出すよ」


 シリウスは引き出しから紙を取り出し乾かした葦から作られる筆記具を手に取った。シリウスは論文や手紙を書いたりする作業はいつも自室か書斎で行うが、ベガの目の前で書き始めた。


 滑らかでいて力強さを感じる文字は何処か逞しい荒野を連想させる。


 「私、シリウスの書く字が好きよ。かっこいいもの」


 それに比べてベガの書く字は全体的に丸くなる癖があるのか、流麗な字というよりは幼い子供特有の可愛らしい字という印象が強かった。


 「練習すれば上手くなる。今度、新しい筆記具を買ってあげよう」


 「本当?可愛いのがいいわ」


 シリウスが書いた手紙は離れているアリエス伯領と帝都の間をタウラス郵便社の超高速配達──鷹や梟を使った猛禽類配達による昼夜を問わない配達により素早くやり取りされた。


 帝国の郵便業は国営などに一元化されていない。田舎では郵便局がなく、服飾や布を卸す商店やその街の生活を担う雑貨店などが郵便物を預かり、郵便社に纏めて預ける仲介業をしている所もある。


 アリエス辺境伯領は帝国の主要都市の一つ。ベガ達が暮らす屋敷は領都アストレアの中心部から離れていたが、小さな郵便局があった。


 ベガは内容を知り得なかったがシリウスは何度か手紙をやり取りしているようだった。


 スィン・アル・アサド学院はシリウスの条件を呑んでくれた。むしろ、こちら側の方が医療設備も整っているし、学院に校医として在籍している医術師達とチームを組みベガの疾患の研究をすればいいと提案されたのだ。

 

 それに伴い、入学年齢である十歳を満たすベガは特別に入学が許可されたのだ。しかし、ベガは遺伝子の損傷により魔力の循環が肉体の再生に極振りされている。

 一切魔法を使うことができないベガが優秀な魔力を備えた人間が集まる学院に入学することになってしまったのだ。



******



 青海の月(はちがつ)


 新学期が始まる彩雲の月(くがつ)に間に合うようにベガの入学準備の為、アストレアの巨大な市場にシリウスとベガの二人は訪れていた。


 砂漠から来た隊商が天幕を張り市を開いている。市のすぐ近くには行商宿が隣接していた。この朝の時間帯はあたりを見渡す限り人でごった返していた。

  

 色とりどりの大小様々な天幕が埋め尽くされるように並ぶ。砂漠の夜は涼しいが昼の酷暑は死の大地というに相応しい。そんな砂漠を歩く隊商達の天幕は断熱性の高い山羊の毛を織ったものだ。


 織物や香辛料、宝飾品が所狭しに並べられ売られている。伝統楽器で民族調の音楽を奏でる楽団と共に口元を薄い布で隠した褐色の踊り子が手足に付けた金の飾りの音を響かせながら薄い布を翻しながら踊るのを眺める。


 天幕からは褐色から色白の行商人、帝国や属領、そのほかの地域を問わずさまざまな人種や言語が飛び交っていた。


 「シリウス、私お腹空いてきちゃったわ」


 握っているシリウスの手を軽く引っ張り、ベガは天幕の方を指差した。天幕内には絨毯や銀細工、民芸品などを売っていて、屋台からは串焼き肉の香ばしい匂いや刺激的な香辛料の匂いが漂っていた。


 「朝食をしっかり食べてきただろう?昼食は買い物を終えてからにしよう」


 シリウスは自然にベガを引き寄せ通りすぎる人々の雑踏に飲み込まれたり駱駝に踏み潰されないようにした。


 鳥獣商の天幕ではハヤブサタカフクロウ木菟ミミズクが籠からこちらを見つめていた。砂漠狐のエステルも鳥獣商からシリウスが買ったのだ。エステルは砂漠の隊商達と共に領都アストレアまでやって来た。


 今日のエステルといえば、ベガの肩にちょこんと乗っている。家を出る前は襟巻きのようにベガの首に纏わりついたのだが、流石にこの暑い中エステルを首に巻き続けることは出来ず、肩に乗って貰っていた。


 宝飾品専門の天幕は黄金が日に反射して眩しく、ベガとエステルは思わず目を細めた。

 

 青果店の天幕では瑞々しい果実が並び、清々しい甘い匂いが鼻をついた。店主が果物ナイフで切った柘榴からは実と血のように赤い汁が垂れていた。


 「シリウス!果物を果実水ジュースにしてくれるみたいよ。喉が乾いちゃった」


 「……暑いから喉が乾いたのかな。飲み物ならいいよ」


 ベガとシリウスは青果店の天幕に近づき、ベガはマンゴーとグアバ、アボカド、苺とミルクを混ぜた果実水ジュースを頼みシリウスは林檎の炭酸水にオレンジとレモンと林檎がスライスされたものと薄荷ミントが入っているのを頼んだ。


 ベガがどちらにしようか悩んでいたのにシリウスは気づいていたのか、「こっちも味見してみるか?」と自身の果実水ジュースを差し出してくれる。


 「シリウスって私のことお見通しなの?」


 「君のことをよく見ているからかな」


 果実水ジュースを飲み終わったところでまたシリウスはベガの手を握り、人が大勢行き交う雑踏の中へと踏み出した。


 若木のような甘い乳香の香りが漂い、ベガはあたりを見渡した。近くに香料商の天幕があった。天幕の中にはガラスや鏡・ビーズを一つ一つ貼り付け石膏で固めたランプが色鮮やかな光を放ち幻想的な光景を作り出している。

 宝石で彩られた金細工の香炉やガラス製の香水瓶が陳列され、その奥では香が焚かれているのか白い煙が揺蕩っていた。


 「シリウス、シリウス!少し見てもいい?」


 ぴょこぴょこと飛び跳ねてシリウスの袖を軽く引っ張る。ちょっとおませな少女のベガは化粧品などに興味が出てくる年頃だった。


 「時間はあるから大丈夫だよ。そう言えば使い慣れてる日用品は持っていく?それとも帝都で揃えようか」


 「荷物が多くなるならあっちで揃えてもいいわ。でも石鹸は持っていきたい。いい匂いのやつよ。ロサ・ダマスケナの石鹸!」

 

 ほんのりピンクに色づいている石鹸はまるで生花のような芳しい香りでベガの好みでもあるし、帝国で主流のオリーブオイルとローレルオイルの石鹸の匂いがあまり得意ではないというのも理由だった。

 しかし一番の理由は「ベガが好きそうだったから」とシリウスが贈ってくれたからだった。ベガが薔薇の香りが好きだとわかるとシリウスは庭に薔薇を植えてくれた。

 

 帝都に行ったらスィン・アル・アサド学院の前期が終了し休暇に入る星冠の月(じゅうにがつ)中旬まで帰って来られない。その間、屋敷や庭の手入れはトッファーフ夫妻がしてくれることになっていた。


 ベガを轢き殺しかけた罪滅ぼしだなんだと言って夫妻はベガ達にとても良くしてくれた。たとえそれがなくとも、お人好しな夫妻はシリウスが頼めば引き受けてくれただろう。あの辺りの住民は皆、医術師のシリウスを頼りにしていたから。

 

 結局、香料商の天幕には眺めるだけで満足してしまいベガは何も買わなかった。店主の大ぶりの耳飾りをつけた老婆には冷やかしか

と睨まれてしまったが。


 ベガはシリウスに連れられて仕立て屋に入る。店内には鮮やかな布地の洪水が起こっているようだった。その中でもベルベットの生地に目を引かれた。ベガはベルベットの肌触りが好きだ。


 「もしかして学院の制服を仕立てるの?」


 「学院の制服は帝都の仕立て屋が請け負っているからここじゃ仕立てられないんだ。今日は普段着を仕立ててもらうんだ。出来上がったものは帝都に送ってもらうことになる」


 店員の女性がそれを聞いていたのか「配送ですね。畏まりました」と紙に書き留めていた。


 孤児院の頃は衣服は全てお下がりだったため、最初はこうして新しいものを仕立てて貰うのは嬉しくもあり申し訳なくも思っていた。

 しかしベガを飾り立てるのは私生活では倹約家の気があるシリウスの唯一と言っていい趣味であることを知るとベガはありがたく服をもらうことにした。ゆくゆくは他の趣味も見つけてもらわねばならないが。

 

 ベガの好きな色の生地で何着か新しい衣服を仕立ててもらうことになった。体を測り終えて配送の手続きを済ませて店を出る。


 昼食は近くの店で売っていた空豆と雛豆を潰して香辛料と混ぜて揚げたものと雛豆に胡麻やオリーブオイル、ニンニクが入ったペーストとトマトと胡瓜を挟んた平たい麵麭パンを買って食べた。


 「青海の月(はちがつ)にはもう帝都に行こう。学院側も新学期より早めに来てくれと頼まれてる。ベガも新しい環境になるから少し慣れていた方がいいだろうね」


 「早めに荷造りを終わらせちゃうわ」


 ベガはそう言って麵麭パンに齧り付く。塩で味が整えられた雛豆のペーストと少し辛いソースがよくあっている。瑞々しい野菜も口の中で味の濃いソースをさっぱり中和してくれていた。胡瓜は少しだけ青臭いけれど。


 「私、学校が楽しみよ。本当なら行けないもの」


 ベガは特別入学だ。学院の中に生徒ではない子供を入れておくことに不都合があったのだろう。無理矢理、生徒という枠の中に押し込んだ。


 本来ならば帝国最高峰と言われるだけはあり、帝国語、外国語、古語、化学、物理、数学、地理、宗教などの難関試験を突破しなければならない。齢十歳にしてそれだけの知識を得ていなければならないため、必然的に教育を受けられる貴族や資産家の子女達に限られる。


 あとは幸運にも才能があり喜捨により教育を受けられた帝国人か、帝国臣民権を得るために血の滲むような努力と運を兼ね備えた優秀な属領人だ。


 そういう者達は優秀な魔力配列を受け継いでいる。学院にはかろうじて魔法が使える程度の平民はいないとさえ言われていた。そんな中にまったく魔法が使えないベガが入る。


 不安に押しつぶされそうだが、強がりを言ったベガをやっぱりシリウスはお見通しだったようだ。


 「ベガ。学院では楽しいことばかりじゃないかもしれないけれど、味方がいるということを忘れないで」

 

 何故だか切なそうにシリウスは微笑んでベガの口元についていたソースを拭ってくれた。

 

 「また…子供扱いして…!」


 ベガは先程まで平気な様子でソースを付けていたのに気付き、頬を紅潮させた。


 「私、もう十歳よ。立派なお姉さんだわ」


 ベガには何がおかしくてシリウスが笑っているのかわからなかったが、食べかけの麵麭パンで顔を隠すように黙々と食べ始める。


 「今度こそ私、しっかりと起きておくつもりよ」


 ベガは行儀は悪いとは思いながらも指についたソースを舐めた。


 「ファム・ファタールでの旅をね、楽しみ尽くすつもり」


 花が綻ぶように。陽の光を集めたようなベガの笑顔にシリウスは眩しいかのように目を細めた。

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