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《3》溶けて消える星の瞬き ١

 太古の昔、南の大国シャペリエとなる土地には古代種と呼ばれる神聖な存在がいた。その古代種がこの地を去ってから千年以上の時が経つ。


 不死鳥を象徴とする帝国の主、その一族。古代種の血を引く尊き血筋を持つ皇帝の一人娘である皇女ベラトリクス。「慈愛の薔薇」と呼ばれ積極的に慈善活動に打ち込み時には自ら炊き出しに赴くこともあったというベラトリクス皇女の名を冠した帝都の孤児院にベガはいた。

 

 元々は戦時中に建てられた市民病院が老朽化し廃院したため建物を国が買収し、施療院として改築した。ベラトリクス皇女が代表を務めた慈善団体が運営しており、その慈恵病院に併設されるように孤児院があった。


 国民から愛されたベラトリクス皇女の死後に彼女の花押である薔薇の紋章が下賜され、今日に至るまで使用され続けている。そのおかげかこの孤児院には名だたる貴族や蒸気機関の発達により台頭してきた資産家がこぞって寄附するので、ここの孤児達は簡単な読み書きや計算が教えられ定期的に健康診断が受けられた。


 帝国最高峰の研究機関兼教育機関であるスィン・アル・アサド学院の学生達が奉仕活動で訪れたり、旅一座を前身とした時の皇后に愛され帝都に常設劇場を持つカシオペヤ歌劇団などが孤児や施療院の患者達のために慰問公演をしてくれるなど恵まれた環境だった。


 そんな恵まれた孤児院の前に置き去りにされた赤子。それがベガだった。それはベガを捨てた親の最後の愛情だったのかもしれない。


 この世界には魔力の強弱はあれど、総じて殆どの人間が魔法と称される異能を持っていた。国によってそれは神の加護とされたり、精霊の祝福とされたり、人間の力だとされた。


 人間の体を構成する細胞。その一つ一つには膨大な遺伝情報が格納されている。それが肉体の働き、先天的な資質や容姿などを左右する。


 魔力は遺伝するのだ。親から子へ子から孫へ連綿と続いていく。国の上に君臨する貴族の家系は魔力が強く、身分を持たない平民の魔力は微々たるものである。

 稀に平民でも突然変異のように強力な魔力を持つ者が現れることがあるが、系譜を遡ると何処かで貴族の血が入っていたり落胤だっりすることが殆どである。


 遺伝情報──染色体の中にある記号化された遺伝子の四つの文字の配列が人間の設計図の役割を果たしている。二重螺旋構造によって表現された遺伝情報の一部に、魔法の才能を決定する配列が存在する。

 

 魔力配列と呼ばれるその配列は誰しもが生まれ持つものだ。そして幾つかの種類に分類される。その類型によって、魔法の傾向──得手不得手などが左右される。


 ベガを引き取ったベラトリクス孤児院は孤児院の前に長時間放置されていた赤子をすぐに医術師に診せ、検査を受けさせた。その結果、ベガには生まれながらに魔力配列に損傷があることがわかった。


 そして不治の病がベガの身体を蝕んでいた。細胞が制御なく自死していく、機能的細胞死の異常。「発作」の度、身体の末端から溶けていき最後は脳まで溶けていく。


 ある医術師──否、祈祷師や呪い師といった方がいいほど胡乱な者は言った。「この娘は先祖の悪行から呪いを受けた。だから親はこの子を捨てた」のだと。


 幸か不幸かベガの魔力配列の損傷は不治の病を補った。魔力配列の損傷により体内を循環する魔力の制御ができないかわりに自死した細胞を蘇らせた。発作で体が溶けても直ぐに再生する。


 しかしその繰り返しは多大な苦痛を幼い子供に強いるものだった。大人でも泣いて喚いていっそのこと殺してくれと懇願するような。


 たとえベラトリクス孤児院が恵まれた環境だったとしても孤児一人に特別、金はかけられなかった。鎮痛剤代も馬鹿にならない。これが親に愛された子供だったなら、高名な医術師を頼って新薬を試したり、大きな病院で緩和治療を受け穏やかな日々が送れたかもしれない。


 生憎、ベガは孤児でベガのために必死になってくれる人はいなかった。物心ついた頃から鎮痛剤も投与されず、いつ来るかわからない発作の激痛に耐えながら生きていた。

 雨や霧、毒風の日など、天気が落ち込んだ日の夜によく「発作」を起こしていた。


 その日もベガは発作の痛みに耐えていた。夜中から始まった発作は朝方になっても治まらず、敷布を引っ掻き回すように掴んでぐちゃぐちゃにしていた。

 起床の時間を告げる振鈴の音が、幼少の子供達の部屋に響いていた。周りは起きて服を着替え始めたが、ベガは呻き声を枕に吸い込ませるので精一杯で起きる様子は一向になかった。


 「はぁ…。今日もお寝坊なのね」


 幼少の子供達の世話を任されるベラトリクス孤児院最年長の少女はベガの耳元で容赦なく鈴を鳴らすと溜息を吐きながら軽くベガの背中を蹴った。

 ベガの病気は周りに──特に子供達に理解されず、よく仮病を使って当番の掃除などをさぼる子という認識だ。集団生活で孤立してしまうのは仕方がなかった。皆、積極的にベガを虐めようとはしなかったが関わろうともしなかった。


 施設の職員なども最初は同情的だったが発作の痛みで泣き喚き癇癪を起こすベガをいつしか放置するようになった。


 それにしても今朝は酷かった。ベガに嫌がらせで窓帳カーテンを開けて眩しくしするなんてことは日常茶飯事だったが、まさか蹴ってくるとは思わなかった。


 ベガは最年長の少女がもうすぐ孤児院に居られなくなる年齢に達することを知っていた。孤児院は就職先を斡旋してくれたりしたが年に一回星冠の月(じゅうにがつ)の建国記念日に招待されるカシオペヤ歌劇団の舞台に魅せられてから女優の道に進みたいと常日頃から言っていたのを覚えている。


 慰問公演などに訪れたりするなど歌劇団とベラトリクス孤児院との仲はそう悪くはなく、元々大陸を渡り歩く旅一座の時から孤児に芸事を仕込ませて団員にするという土壌が出来上がっていた。


 孤児院出身者が歌劇団に入るという前例も幾つかあったし、何より幼少から観劇する環境が整っていたベラトリクス孤児院で育ったのならカシオペヤ歌劇団に憧れるのも無理はなかった。


 彼女は入団試験を受けたものの合格はせず、目立ちたがりの性格と自尊心の高さから孤児院が斡旋してくれた就職先を全て蹴ってしまった。院長のお情けで就職先が見つかるまで孤児院の手伝いをすることになったと昨日話がまとまったはずだ。


 虫の居所が悪かったのだろう。彼女はきっと輝かしい自分の女優人生が孤児院の手伝いで埃に塗れて終わると悲観しているに違いない。ベガは赤子の時から顔立ちがはっきりとしていたらしく、ベガの襁褓おしめを代えていたこともあるこの少女はベガの方が可能性があるとでも思って嫉妬したのかも知れない。


 少女が去って、共同の寝室は徐々に静かになった。皆、支度を終え朝食の席に向かったからだ。階下の食堂の方が騒がしくなる。


 ぎゅっと目を瞑って耐えれば、痛みは静かに引いていくような気がした。発作のせいでベガは酷い寝不足だった。しかもおなかも空いている。


 ベガの発作が収まって起き上がれるようになる頃には朝食にしては遅い時間になってしまった。食事に時間がかかる幼少の子供達はまだ食べている者もいるだろうが、気の早い者は既に洗濯や掃除を始めていた。


 まだベガは一人で着替えるのに苦労する年齢だったが、ベガの世話を任されている少女はベガを蹴るだけで行ってしまったし、ベガも彼女の手を借りたくはなかった。多少時間がかかってしまい、食堂に着いた頃にはもう殆どの食事が片付けられていた。


 帝国文化として、机や椅子も使うが基本的には絨毯の上に座り金属製の台の上に食事を置く。朝食を食べ損ねたベガを見つけた孤児院の職員が仕方がないとばかりに溜息を吐き、朝食の残りを持ってきてくれたことでようやくベガは食事にありつけた。


 額に軽く握った拳の親指と人差し指を押し当て食前の祈りを捧げると香辛料の効いた豆のスープと、熟れた甘蕉バナナ麵麭パンを食べる。残りだからか量は少なめだった。


 帝国には多くの宗教が存在するが、その大枠には不死鳥信仰がある。どんなに小さな村でも不死鳥を祀る廟だけは絶対にあると言われるほどに。食事の挨拶には直訳すると「永遠なれ」という意味を持つ言葉を唱える。


 食事の挨拶にしては少し違和感のある意味だが、永遠とは不死の象徴である不死鳥に結びつく。不死鳥に感謝し、祝福してくださいというような意味が込められているのだという。


 さして信心深くないベガだが、これは生活に溶け込んでしまっているし何より今日は信心深い職員の目が厳しかった。祈りもなしに直ぐに食事に手をつけようものなら取り上げられてしまう。


 わざと食事を抜かせるような嫌がらせは受けていないが、朝食の時間に間に合わなかったのなら昼食まで我慢しなさいというほどにはここの職員らは厳しかった。


 それがただの寝坊だろうとも、激痛の発作だろうとも。


 ベガが食べ終わった頃、玄関の辺りが騒がしくなった。食器を片付けようとしたが、職員に取り上げられて部屋に戻れと指示される。幼少の子供達は寝起きする部屋に押し込まれた。


 「俺、見たよ!お客様が来たんだ」


 「どんな人!?」


 今日の玄関の掃き掃除担当だった少年がそう言うとあっという間に周りに人が集まった。孤児院に来客がある時は里親の申し出か高貴な方々の視察、又は慰問と決まっていた。視察や慰問の場合、事前に子供達にも知らされている。


 ベガは子供達に囲まれる少年から離れて部屋の隅にいた。


 「若い男の人だった」


 「それだけ?」


 「それだけ」


 帝国人であれば喜捨による教育が保障される。出身がわからない孤児達にも平等に教育の機会が与えられるベラトリクス孤児院はかなり珍しかった。それでもやはり高等教育は受けられない。帝国臣民権を得られるわけでもないので軍役は免れないし、就職も苦労する。


 だが偶にいるのだ。出自のわからぬ孤児を引き取り高等教育を授ける奇特な人間が。それは主に帝国一と名高い豪商の一家、シャガル家のことだ。

 

 首都アンドロメダのアタナシア通りに本店を構えるセレス商会を運営しており、地方にも幾つか支店を持っていた。その店の店舗にはシャガル家の人間が長を務める商業組合に加盟している印である黒を基調として金と赤で織り込まれた葡萄の木蔓と両翼を広げた鳥の旗が垂れ下がっている。アタナシア通りを歩いた時ベガも見たことがある。


 慈善事業の一環として才能溢れる孤児を引き取り高等教育を受けさせる。一生涯一族の手駒として飼われることと引き換えに。

 シャガル家は元々悪名高い。戦時中に武器の販売で莫大な資産を築き上げ、その製造技術を独占することで帝国軍と蜜月の関係にあり莫大な利益を得ている。


 その血筋の悪さから、帝室や真っ当な貴族には近づけないでいた。入れば教育こそ用意されるがきっと出自のわからない孤児は冷遇され、職業選択の自由もない。

 

 今年に入ってから既に三人、シャガル家に引き取られていた。


 「シャガル家の使いの人かな?」


 「表に止まってる馬車に家紋はないよ」


 里親の申し出をする者は直接子供達を見に来て選ぶ人もいるが、シャガル家は優秀な者という条件を提示し使いの者を遣すのが常だった。

 子供達は一斉に窓際に集まって馬車を眺めるが、それはごく平凡な貸し出しの馬車のように見えた。


 孤児達の中でもシャガル家に引き取られるのは「いいこと」なのか「わるいこと」なのかは意見が分かれた。

 ベガは「いいこと」なのか「わるいこと」なのかわからなかったが、自分なら行きたくないと思った。


 いつもシャガル家の使いの全身を覆った黒の長衣は夜の魔物の化身のようでベガを怯えさせた。そんな人達について行きたくないと頭は警鐘を鳴らしている。

 

 「ベガ、院長先生が呼んでる」


 その時、部屋に入ってきた幼少の子供達の部屋を去年卒業したばかりの少年が放った言葉のせいでベガは窓に張り付いていた子供達から一斉に視線を浴びることになった。


 扉を叩いて入った院長室には黒の長衣の者はおらず、代わりに生成りの長衣を着た優男が背の低いソファに腰掛けていた。

 その向かい側には穏やかな老人の男である院長が珈琲を差し出しているところだった。この院長、温厚だが少し気が弱く事勿れ主義の気配がある。


 「あの…私、お呼びでしょうか」


 見慣れぬ来客に緊張しながらベガが口を開くと院長は鷹揚と笑った。


 「そんなに緊張しないでよろしい、ベガ。こちらシリウス・バナフサジュさん。君に会いにきたそうですよ」


 シリウスと呼ばれた若い男は立ち上がりベガの前まで来ると膝をついて蹲み視線を合わせた。ベガはシャガルの名が出なかったことに安堵し肩の力を緩めた。

 シャガルの家の者は使いの者でもシャガルの家名を名乗る。それが高等教育を受けた孤児達の未来の姿なのだと思う。


 「はじめましてベガ。私はシリウス・バナフサジュ。医術師をしている」


 シリウスに差し出された手をベガはおそるおそる握って握手を交わす。そしてベガは彼の胸元にターコイズの徽章を見つけた。定期的に健康診断と称してやって来る医術師と同じものだ。

 その者達はベガの病気には匙を投げてしまっている。最初は鎮痛剤を〜緩和治療を〜と話していたようだが、ベガの孤児という境遇を理解してからはそんなことは一切言わないようになった。


 「えっと…医術師おいしゃさま、はじめまして」


 怜悧そうな眼睛に見つめられベガは心臓が跳ねた。悪い意味で。砂漠の夜のように冷たい瞳が自分の瞳を覗き込んでいるようで、少しの照れと少しの得体の知れない恐怖が混ざり合っていた。


 「単刀直入に言うと君を迎えにきた」


 「里親になってくれるの…?」


 ベガは自分があまり里子にするのにいい子供ではないと知っている。病気持ちでいつ死ぬかわからない。他にも健康な子供はいくらでもいた。


 「私は君を治療してあげたい。珍しい症例で治療法は確立されてないから手探りになるだろうが…。一緒に来てくれるなら診察と緩和治療、治療法の研究、温かい寝床と三食おやつ付きの生活を保障しよう」


 院長は良かった良かったと頷き、もうすでにベガはこのシリウスに引き取られることが決定しているようだった。


 「そっちに行けば、痛くない?」


 「出来るだけ痛みは取り除いてあげたい。君を健康に…幸せにしてあげたいんだ」


 シリウスの瞳に優しく温まるような熱が灯る。本当にベガのことを思っているように見えた。このまま孤児院で激痛に苛まれながら短い命を燃やすか、少しでも長く生きられることに賭けるか。


 つくづくベガは自分が選択の余地がない人生を送っていると感じる。研究材料としてベガはうってつけだろう。


 「いきたい」


 きっとベガが行きたくないと言ってもどんな手を使ってでもシリウスはベガを引き取っただろう。手続きは驚くほど早く済まされた。きっと孤児院側も早くベガを厄介払いしたかったのだろう。


 その日の昼食がベガが孤児院で食べる最後の食事になった。シリウスも同じ食卓を囲んだ。里親が決まったら送別会が行われるのだが、ベガの引き渡しの手続きが早かったこともあり準備は行われていなかった。


 普段ならご馳走様が並ぶはずの皿には十分な量の鶏肉が確保できなかったのか、客であるシリウスや院長など大人の職員達には鶏肉が振る舞われたが、子供達の皿には鶏肉の下に嵩増しされた豚肉だった。

 一応、本日の主役であるはずのベガの皿もほんの少しの鶏肉の下から豚肉が出てきた。これはベガの新しい門出を祝うものではなく、厄介払いできたことへの祝いなような気がした。


 どれだけ不仲であろうとも形式的な別れの挨拶を済ませ、ベガはシリウスについて行くこととなった。自分の持ち物などあってないようなもので、「家」についてから揃えることになった。


 「えっと…パパって呼べばいいですか?お父さん?お父様?」


 帝都の巨大駅であるアンドロメダ駅から長距離列車の二等車に乗り込んだ時にやっとベガは尋ねることができた。

 見知らぬ場所に行く不安よりも、新しく家族のような存在ができた嬉しさの方がベガは勝っていた。ベラトリクス孤児院出身者は「孤児院の皆は血は繋がっていなくとも家族」と言うが、ベガはその家族の枠組みに自分は入っていないように感じていた。


 (私が…選ばれた。私だけが…)


 それは生まれてからずっと忌み嫌っていた病気のおかげでもあったが。シャガル家に引き取られていれば()()()()()家族というものはなかっただろう。孤児院から何人も引き取られていたし、何よりあの家は血族というよりは実力主義の技術屋集団という印象が強かった。


 「シリウスか先生と呼んでくれ。生憎、父親になれるような出来た人間じゃないんだ。あと敬語も無しでいい」


 「わかりまし…わかった」


 家族に憧れのあったベガは父親と呼べない残念さはあったが、尋ねた時のシリウスの表情がどうも罪悪感に苛まれているような表情だったため素直に頷いた。

 

 シリウスはエキゾチックな野生み溢れる男だったが、どうやら独身のようだしまだまだ「若い」と形容される年頃だろう。父親になるのは嫌だったのかもしれない。


 「シリウス。家まではどれくらい掛かるの?」


 孤児院は帰る場所と言われてもあまりしっくりこなかった。物心つく頃からベガは孤児院にいたはずなのに終ぞ孤児院を帰る家だと認識することはなかった。

 だからこそこれから向かう「家」が初めて行く場所であるはずなのに帰るという感覚が強かった。


 「アリエス辺境伯領は国境沿いの領地でね。国の端だから時間がかかる。三日は列車の中だよ」


 まだ鉄の道が敷かれる前は駱駝での移動で一ヶ月半はかかったという。帝都から、もっと言えば孤児院の周辺から出たことがなかったベガはその距離が途方もなく遠いものに感じた。


 皺ひとつない白いクロスが敷かれたテーブルが整然と並んでいる食堂車の光景に感嘆を漏らしながら夕食を食べた後、ベガは客室に戻ってそのまま寝台で眠ってしまった。

 慣れない列車の長旅は幼い少女の体に容赦なく疲労を積み重ね、結局ベガは人生初の蒸気機関車の大半を寝て過ごすことになってしまった。


 「起こしてくれても良かったのに。私、人生初の列車を寝て過ごしちゃったわ」


 「気持ちよさそうに寝ていたから起こせなかったんだ」


 それでも寝過ぎだったと自覚のあるベガは抗議の意味を込めて頬を膨らませてみたが、シリウスはくつくつと笑うだけだった。


 「ほら、もうすぐ着く」


 車窓からは街と街の隙間を埋め尽くすように黄金の向日葵畑が広がっていた。背の高い向日葵が線路沿いに延々と続いており、眩しい向日葵と青空の鮮烈なコントラストが目に沁みるようだった。


 アリエス辺境伯領の北部に位置する領都アストレア。その駅舎に降り立つ。音を立てて去り行く汽車を背に駅舎の外に広がるのは一面の向日葵畑だった。この時間帯は地平線の向こうで沈みかけている太陽を全身に浴び、燃えるような赤色に映る。

 果てしなく広がる黄金の輝きに観光客が群がるのか、駅舎内は人が溢れていた。西の主要な交易都市という側面もあるからだろう。


 「ベガ、離れないで」


 シリウスは左手に鞄を持ち、右手はベガと手を繋いだ。物珍しさにふらふらと歩き出してしまいそうだったベガはしっかりとシリウスに手綱を握られたのだった。

 

 乗合馬車や辻馬車が待機するちょっとした広場まで二人は歩いた。同年代の中でもとりわけ小柄なベガを向日葵の群れはすっぽりと覆い隠した。風に揺られる向日葵と蜜を吸うため翅音を立てて飛び交う蜂を眺めながらベガは手を引かれた。


 シリウスは辻馬車の御者に行き先──ベガにはまだよくわからない小難しい住所だった──を伝えて、ベガが馬車に乗るのを手伝ってくれた。段差を登るのに苦労したベガをシリウスが持ち上げる形だったが。


 馬車は駅周辺の商業地区から離れていく。領都アストレアを中心にアリエス伯領の北側は美しい自然の都でもある。標高の高い山に囲まれ、麓に街が広がっている。資産家たちはこの地に別荘を建てる者も少なくはない。


 エメラルド色に輝く湖の湖畔に聳え立つ小さな屋敷の前に着くとベガは馬車を降ろされた。湖畔一帯はラベンダーの群生地で幻想的な光景が広がっていた。


 「着いたよベガ。湖が気になる?」


 馬車から鞄を下ろしていたシリウスが尋ねるとベガは目を輝かせながら頷いた。


 「キラキラしてて素敵よ。太陽の光が水面に…魚の鱗に反射しているのかしら」


 「今の時期だと舟遊びができるよ」


 屋敷の庭の裏手には浅い森が広がっていた。その上には今にも沈みそうな太陽が覆い被さって、鮮やかな深い緑の風景を夜の帳を下ろそうとしていた。


 「釣りをしてみたいわ。出来る?釣って塩を振って焼いて齧り付きたいの」


 「じゃあ釣竿を買わないと」


 シリウスはこの屋敷で暮らしながら町医者のようなことをおこなっており、屋敷の一階部分には診療室のような部屋があると言った。


 「一人ではこの屋敷は広すぎてね。寂しかったからベガが来てくれて嬉しいよ」


 シリウスに穏やかに微笑まれるとベガは照れ臭い気持ちになった。スカートの裾を掴んでもじもじしてしまう。笑うとシリウスの怜悧で厳しそうな印象はすっかり和らいでしまう。

 

 鍵を開けて屋敷の扉が開かれる。シリウスは「さぁ、どうぞ」とベガを中へと入れた。


 「はじめまして。ただいま」


 きっとベガはこの場所に帰りたかったのだ。

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