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《23》見定めるもの

 薄絹が垂れ下がった寝台ベッドの上にベガは横たわっていた。瞳は閉じてはいないが、何も映していないに等しかった。頭が何も働かず、気鬱の状態に近い。


 ここ数日、ベガは活発に動き回るということはせずにずっとこのチューリップの間で過ごしていた。寝台ベッドに張り付いて一日を過ごすというのは、鎮痛剤もなかった孤児院でのただ痛みに耐える暮らしを思い出して、ベガがもっとも嫌うことの一つであったが、今は痛くもないのに自ら望んでそう過ごしている。


 この数日でベガに叩き込まれた現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだった。まず、ベガがベラトリクスの娘であること。これは疑惑の段階ではあるが、ほぼ確定であると見られているらしい。


 『皇帝の配列』がその辺りにぽんぽんと存在しているわけはないし、まったく血を受け継いでいないのに突然変異で現れることも現実的ではなかった。何かしら帝室と繋がりがあることは確実だ。


 そしてベガがベラトリクスの娘である場合、父親はフォルナシス・グルディニヤであり異母兄妹か弟妹がリゲルであるということだ。突如発覚した父親と半分血が繋がった兄弟の存在に、ベガは混乱した。何度も気を失いそうになり、実際嘔吐を繰り返した。


 フォルナシスはベガを気遣いながら寄り添ってくれたが、ベガの心を癒すには至らなかった。急に父親だと名乗られてもすぐに受け入れることは出来なかったし、何よりフォルナシスはベガを自分の娘として扱う前にベラトリクスの娘として扱った。


 帝位継承権を持つ者とその臣下としての態度を崩さず、その裏に父性的な優しさをベガが見出すしかなかった。


 ふわりと鼻に微かな花の匂いを感じゆっくりと体を起こした。丁度フォルナシスが可愛らしい黄色い薔薇ロサ・ペルシカを花瓶に生けているところだった。もともとこの花は微香のものでベガの鼻にまで香りが届くということは芳香を強くした品種改良品なのだろう。部屋に置くだけで鑑賞物と芳香剤の役割を果たしてくれる。


 「お目覚めですか」


 フォルナシスがそう尋ねながら、花瓶をベガから見える位置に移動してくれる。


 「眠っていたわけじゃなくて、ただ体を横にしていただけです…だわ」


 フォルナシスはベガが敬語を使うことに対してあまりいい顔をしなかった。最初はフォルナシスも親子としての距離を縮めようとしたかったのかと思ったが、それにしては彼自身は敬語を崩さなかった。それはベガが皇女として相応しいように、簡単には人に頭を下げず遜らないようにするためだとわかった。


 フォルナシスは毎日のようにベガが滞在しているチューリップの間を訪ねた。ベガの身に纏うものから口にするものまで全てフォルナシスが関わっている。意外と暇なのかもしれないと思ってしまったことは秘密にした。きっと忙しい中で時間を作っているに違いないと思いたかったから。フォルナシスは自らベガの世話をしたがった。もちろん、使用人たちから「仕事を奪わないでいただきたい」「フォルナシス卿自らがやる必要はございません」など言われていたはずだ。


 ベガにとってフォルナシスがいきなり現れた父親であるように、ベガもフォルナシスにとっていきなり現れた娘だ。その娘との距離を計りかねて、それでも空白の期間を埋めようと彼なりに努力してくれているのだろう。


 ベガの髪を結ったり、爪の手入れをしたり…流石に湯浴みの世話は女官が担当したが、フォルナシスは甲斐甲斐しくベガの身の回りの世話をこなした。ベガは甘んじて人形のようになることを受け入れた。諦めたとも言う。何より抵抗する気力がベガには湧かなかった。


 自分の環境が目まぐるしく変わって、心だけがついていけない状態だった。護衛には皇帝直属軍所属の者がついてくれているらしいが、ベガは余り顔を合わせたことがない。クラーを見かけたが、フォルナシスの着せ替え人形に甘んじているベガの様子を見て彼女はまるで「軟弱な」とベガを非難するかのような視線を向けてきたことにより、もう目を合わせられなくなってしまった。


 「午睡が終わったのでしたら、少々よろしいですか」


 フォルナシスはそう言って顔を上げていたベガを抱き起こした──まるで介護だ。フォルナシスはベガが自分の足で歩くのを億劫だと思えば抱えて移動しそうなほどだった。


 ベガは考えがぐるぐる回って慢性的な頭痛がしていたし、正直なところ体を動かすのも億劫なほどだったがここでそんなことを言ったり、態度を示したりすれば本当にフォルナシス無しでは何も出来なくなるという恐怖から体を動かした。


 居間のような形になっている部屋の低い机の上には古めかしくも丁寧に保管されてきたであろう箱がいくつも置いてあった。箱自体が何かしらの骨董品と言われてもおかしくないほどのものだった。


 「ベラトリクス様の形見分けで頂戴したものです。ベガ様がお持ちになった方が良いと判断しました」


 フォルナシスが箱を開けると、煌びやかな衣服やアクセサリーが現れた。他のベラトリクスの衣服はまだ彼女の宮殿で大切に保管されているらしく、直にそれらもベガが相続することになるだろうとフォルナシスは語った。フォルナシスはベガを正式に帝室の一員──現状唯一の直系の後継者として迎え、直ぐにでも皇女が使用する宮殿に移すべきだと思っているようだが、承諾が降りないのだそうだ。


 ジキルが言ったベガの然るべき場所はフォルナシスの元だったのだろうが、フォルナシスの中ではベガはまだ「然るべき場所」にいないということになる。


 帝国議会も、急に現れたベガの処遇を考えあぐねているようだ。慎重に判断せざるを得ない状況なのはベガもわかっているが、ほぼ軟禁状態では気分は塞ぎ込んでしまう。シリウスも依然として拘束されたままだ。


 金糸で華やかな刺繍が施された高価そうなドレスを数着、フォルナシスは手に取りベガの体に当てて大きさを目算で測っていた。実際に着てみないことにはわからないがベガくらいの少女用のものばかりだ。


 とても豪華なものなので、何かの式典用の物かと問えば全て普段着として着用していたものだという。ベラトリクスの衣服は彼女の遺言に従い売られて、そのお金は恵まれない人々のために寄付されたのだそうだ。現在宮殿で保管されているのは代々帝室に受け継がれてきた式典用の衣服が主で、ベラトリクスの私物の衣服は形見としてフォルナシスが所持していたものを含めても生前の三分の一ほどの量しかないらしい。

 

 「ベガ様の存在を知っていたなら、もう少しベラトリクス様の品を残していたのに…」


 フォルナシスが寂しげに呟いた。フォルナシスはベガに少しでも母親を感じさせる品を渡したいようだった。

 柔らかな絹の手触りに、母親であるらしいベラトリクスの面影を想像してみたが、ベガはよくわからなかった。人生で母親という存在に触れたことがない。


 アクセサリーの小箱の中には雫型の琥珀の耳飾り、紫水晶が嵌め込まれた銀の腕輪は両方の手首と二の腕に嵌められるように四つあった。瑪瑙の指輪だったり、花の形に加工された真珠の首飾りなども入っていた。


 可愛らしいが甘すぎず品があり、それでいて少女がつけても嫌味ったらしくない品々だった。


 フォルナシスはその中から、真珠の首飾りをベガの首に掛けてくれた。真珠を一撫ですると彼は懐かしそうに目を細めた。ジェミニ侯爵領は真珠の養殖業をやっているということをベガは思い出した。フォルナシスがベラトリクスに贈ったものなのかも知れない。


 自分が贈ったものが形見として自分の手元に戻ってくる。その言葉に表せないような悲しみを察してベガは胸が苦しくなった。そしてその品がベガの手に渡ってくるのは何とも奇妙な巡り合わせだ。


 蛇の形をした金の腕輪は腕に蛇が絡みつくような形で、ダイヤモンドやオパールなどの装飾が付いていた。蛇が口に咥えるように宝石が嵌め込まれている。フォルナシスに勧められるがままに着けてみたが、かなりの重量ですぐに腕が疲れてしまった。腕を鍛えるならいいかもしれない。


 最後にフォルナシスは一番綺麗な装飾が施された箱を丁寧に開いた。中から出てきたのは一つの花冠だった。


 「帝室の女性に受け継がれてきたものです。最後の所有者はベラトリクス様でした。その前は亡き皇后陛下が」


 これはフォルナシスが形見分けに貰ったものではなく、現在も帝室が管理している宝飾の一つだろう。しかしそれが何故今目の前にあるのかベガにはわからなかった。

 

 花冠と言っても、本物の花や造花を使用したものではなく、花を模った金属で出来たものだ。花弁の形から帝国原産の薔薇を模したものだと思われる。冠ではあるが頭に載せるというより、額と後頭部をぐるりと囲むような額飾りに近い。

 一見、無骨に見える金属で作られているが、光に当てれば眩い光沢と花弁の部分が虹色のように煌めいた。金属であるはずなのに表面は水晶のように透き通っているように見える。思わず、溜め息が出るほど綺麗なものだった。

 

 「これを…私が?」


 とても繊細なもののように見えたベガは手に取るのを躊躇ったが、フォルナシスがベガを鏡の前に座らせ花冠をベガに着けてくれた。ベガの頭で輝く花冠は美しく、そして自分には似合っていないと思わせるには充分だった。


 「あの…やっぱり似合ってな──」


 「ベガ様のものです。ベラトリクス様が遺されたベガ様がお持ちになるに相応しいものです。あの女に渡してはなりません」


 フォルナシスが怒りを堪えるように拳を握り締めたのを見て、ベガは鏡に映るフォルナシスの顔を見ることが出来なかった。「あの女」とは誰のことだろうか。ベガが花冠の所有権を放棄したら所有権が回る人がいるのだろう。しかし、それが誰なのか聞くことは出来なかった。


 花冠は皇后が所有することが多いが、皇后が空位の場合は皇女が所有することもあるらしい。母から娘に受け継がれることが殆どだが、稀に叔母から姪に、従姉から従妹にといった例もあるのだという。


 「さぁ、女官を呼びますから気に入ったものをお召しになってください。花冠に合わせて髪も結い直しましょう」


 先程の怒りに満ちた雰囲気はもはやなく、フォルナシスは笑顔でベガを見つめていた。


 「でも私、朝も着替えたんです……着替えたのよ」


 寝衣ではない服で寝台ベッドに横になってしまったのは行儀が悪かったかもしれないとベガは少し恥ずかしくなった。フォルナシスに何と躾けのなっていない娘だろうと思われたくなかった。ベガのせいでシリウスの評価を下げたくない。


 髪は寝癖がついていたので、確かに整え直さなければとは思ったが服は新たに替える必要はない。そもそも、今ベガが身に纏っている服もフォルナシスが見繕ってくれたのか既製品ではあるが、高級品だ。しかし、フォルナシスは帝室の姫君が纏うものではないと言っていて近々仕立て屋が来るそうだ。


 まだ半日も着ていないのに、また着替えるのはベガにとってはかなり辛かった。また数人の女官に囲まれた着飾らせられるのは、時間が掛かりすぎて疲れてしまう。


 「私にベガ様がベラトリクス様の衣服を着ている姿を見せては下さりませんか?」


 真摯に頼み込むようなフォルナシスの視線に晒されたベガは断り辛くなってしまい、結局は頷くしかなかった。ベガのちょっとした我慢でフォルナシス……父親だというこの人が笑顔になるならば我慢しようと思えた。


 ベガには一般的な親子というものがわからないし、シリウスとの関係は親子に当てはまりそうで当てはまらないとも思っていた。家族だとは思っているが、父だったり兄だったりという枠に当てはめるには何かが違う気がしていたし、シリウスもそういった枠に当てはめられるのを嫌った。


 医術師とその患者と言い切るには二人の関係は温かく、そんな無味無臭の冷たい関係ではなかった。

 まだフォルナシスに対しても、自分の父親だという感覚は無くどちらかと言えばこの方はリゲルの父親だ、という意識が強かった。

 

 フォルナシスと入れ替わるように部屋には数人の女官が入ってきた。彼女たちの洗練された佇まいを見れば、ベガなんてどれだけ着飾っても垢抜けない田舎娘の風貌だ。

 

 また湯浴みから始まる。朝に着たばかりの服を脱がされ、ベラトリクスの服に着せ替えられた。ベガは自分一人で着替えれるのだが、高価な衣服を破いたり傷つけてしまうのが怖くて大人しくしていた。自分のものだ、と言われても何処か借り物のような気がする。


 ベラトリクスの服はベガの体にぴったりと合った。ベラトリクスも成長が遅かったのか、それとも今のベガの年齢よりも幼い頃のベラトリクスの服なのか。

 

 「とてもお似合いですベガ様。さぁ、もっと似合うように御髪を整えましょうね」


 女官たちの中でも最年長だろう女が香油瓶の蓋を開けた。ふわりと漂う甘い香りは花と蜂蜜の類のような気がした。ベガの髪を梳り、丹念に香油を塗りこんでくれる。原液自体の匂いはかなり強いが、髪に塗り込まれたものを嗅ぐ分には丁度いい。

 

 唇に乗せられた色は果実のような赤。口紅を塗った自分を鏡で見た時、ベガは自分が急に大人になってしまったかのような錯覚をした。瞼の上に乗る小さな煌めきは夜空に散る星屑のよう。


 髪は丁寧に編み込まれ、真珠のついた小さな髪飾りをいくつも付けて、花冠の周りを彩っている。小さなものをいくつも付けるのは今年の流行だと、年若い女官が言っていた。可愛らしく着飾ることは年頃の乙女であるベガの心を幾分か弾ませるのには有効だった。フォルナシスは塞ぎ込んだベガを元気付けるために多少強引であろうとも、お洒落をさせて気晴らしさせたかったのかもしれない。


 しかし、一瞬浮上した心も次の瞬間には地の底まで落ちていた。ベガの中の冷静な部分──卑屈な部分ともいう──が、「シリウスが大変なのに浮かれちゃって、馬鹿みたい」と呟くのだ。そうすると心は冷えて、私が絹の寝間着をきて羽毛が詰まったふかふかの寝台(ベッド)で寝て美味しい食事をとっている間にシリウスはどうしているのだろうと考える。暗い部屋に閉じ込められて、食事も満足に与えられていないのかも知れない。


 ベガがするべきことは落ち込んでいる場合ではなく、シリウスの無罪の証明のために行動するべきなのではないか。もう一度、ベガは鏡の自分を見つめる。やっぱりそこには自分のものなど何一つなかった。

 

 馬車が三台買えるほどの世界に五本しかない口紅ではなく、殆ど色はつかないがいい香りがする保湿リップクリームのほうがずっとベガのもの、という感じがする。煌びやかで歴史が詰まった花冠ではなく、昔に露天商からシリウスに買ってもらった小さなブローチの方がいい。よくスカーフの留め具として使っていた。

 

 そのブローチの宝石は赤子の握り拳程はあった。深い緑のエメラルドで、ベガはこれは本物の宝石に違いないとはしゃいだものだ。商人が「これはエメラルドにしては珍しい光沢を活かすカボション・カットで…」などと言っていたので、とても貴重な掘り出し物を運よく手に入れたのだと思っていた。今思えば値段からして本物には遠く及ばず、模造品(イミテーション)であるとわかるのだが。


 ベガが鏡を見つめている間に女官たちは広げた美容品や化粧品の類を手早く片付けて部屋から去っていった。それと入れ替わりでフォルナシスが戻ってくる。その後ろには、白金色の髪に菫色の瞳の青年──リゲルが居た。


 「……よくお似合いですベガ様。あぁ…えぇ。ベラトリクス様の幼い頃にそっくりです」


 フォルナシスは目頭を抑え、泣くのを堪えているようだった。しかしそんなフォルナシスのことより、ベガはリゲルの存在に釘付けになっていた。久しぶりに再会する学院の友人。それは宮殿という異郷で同郷の仲間のような安心感があった。


 シリウスには会わせてくれないというのはこの数日何度か繰り返された問答でベガは思い知っていいた。それを寂しい、もしくは退屈であると解釈したのか「話し相手として倅を呼び寄せましょうか」とフォルナシスが提案したのが、確か昨日のことだった。


 「ベガ様、リゲル・グルディニヤ只今参りました」


 リゲルはそう口にするや否や、膝をついたかと思うと額をベガの足につけた。驚いてベガはすぐにでも足を引っ込めそうになったが少しでも動けばリゲルの顔に当たってしまうように思えて動かせなかった。そして驚きが去ると、恥ずかしさが込み上げてくる。湯浴みの後で裸足だった。


 「お呼びになりましたら何処へでも駆けつけます。命を懸けてお守りいたします。永久に忠誠を誓います」


 はっきりとリゲルが誓いを立てているのを聞きながら、ベガは混乱しながらも頭のどこかで言葉さえ変えれば結婚式に使えそうだ、と思っていた。フォルナシスが、ベガを飾り立てた理由がわかったような気がした。これは何かの儀式なのだ。

 

 「あ…あの! なんてこと!!」


 ベガは思わず叫んでいた。悲鳴に近い。言葉だけ見れば、人の言葉の形を成していたが実際は「あ」や「う」だけの意味のない音の羅列のようだった。


 「やめて! 顔を上げてよ」


 ベガが膝をついてリゲルと目線を合わせようとすると、フォルナシスに腕を掴まれ止められた。


 「ベラトリクス様の娘が、帝室の姫君が簡単に膝を折ってはなりません。()()は我が息子にとってもベガ様にとっても必要なことなのです」


 フォルナシスの言葉は、何処か遠くの異国の言葉のようでベガの頭の中で意味がわからない雑音のように処理された。ベガはリゲルを従わせたかったわけでもなく、ましてや命を懸けさせたいわけでもなかった。ただ、一人で心細かっただけなのだ。


 「私、急に環境が変わって…学院も閉鎖されているって聞いて…心細かったからリゲルが来てくれたらいいなって思っただけなの。命令したわけじゃないわ!」


 ベガはリゲルが頭を下げる行為に至った原因がフォルナシスにあると確信して、彼を睨みつけた。睨みつけても、フォルナシスにとってベガの静かな怒りは脅威ではないようだ。何が「必要なこと」であるのかはベガにはわからなかった。フォルナシスはベガとリゲルが築いた尊い友情を壊したのだと思った。


 「もういいわ。やめて、顔を上げて」


 またリゲルと目線を合わせて、立ち上がらせようとすればフォルナシスに止められることがわかっていたのでベガは上から見下ろす形で頼むしかなかった。

 フォルナシスはそれを「顔を上げる許しを出した」と解釈したようで、何も言わなかった。ベガは自分の言葉が違う方向、フォルナシスの都合の良い方へと歪められて解釈されているのを感じ、唇を噛み締めた。


 まるで、ベガが偉く「面をあげよ」と言ったかのように受け取られるのが嫌だった。唇を噛み締めたのに気づいたフォルナシスが「切れて血が出ますのでおやめください」とベガを嗜めた。

 しかし、心配している言葉の裏には「みっともないからやめろ」と言っているようだった。血が出ても、口紅で目立たないのに…とベガは何処かずれた考えが頭に浮かんでいた。思考を何処か遠くに飛ばして、目の前の問題から逃げてしまう癖があることをベガは自覚した。


 「ベガ様には窮屈な思いをさせてしまいましたが、息子が一緒でしたら気晴らしに散歩などされても大丈夫ですよ。それなりに鍛えておりますから、いざという時には盾くらいにはなりましょう」


 フォルナシスのベガとリゲルの命に優先順位をつけるその姿に、ベガはまたしても唇を噛みそうになったが堪えて静かに拳を握るだけに止めた。綺麗に整えられた爪はどれだけきつく握りしめても皮膚に食い込んで血を出すことはなかった。


 「貴方の息子じゃないの!?」と問い詰めたい気分だったが、先程からリゲルが俯いて何も言葉を発さないのでベガも何も言えなくなってしまった。


 「…さっそく庭でも見てきます」


 口早にベガは言うと、フォルナシスの隣を通り過ぎて靴を手に取った。フォルナシスが靴を履かせようとする前に「一人にさせて」と先手を打っておいた。リゲルにまでクラーのように「軟弱な」と言った視線を向けられたくなかった。

 失望であったり、軽蔑であったり何かしらの感情を通して見られたくなかったというのもある。幼児帰りしたような姿を見られたくなかった。


 宮殿に来てからの初日あたりは疲労が溜まり、告げられた事実に自暴自棄になり、何も考えることができなかった。ベガがそんなどん底の中で最低限の文化的な生活ができたのはフォルナシスや女官たちが甲斐甲斐しく世話してくれたおかげだ。


 飢えず、清潔でいられたのは彼らのおかげだとベガは思う。しかし、ゆっくり水面に浮上していくように。息継ぎをするように水面から顔を出し、どん底だった場所から火の当たる場所まで気持ちが浮いて頭も冷静になってくると、このままではいけないと頭が警鐘を鳴らし始める。

 

 しかしもうその時点でベガの評価は一から十まで、隅から隅まで、手取り足取り世話しなくてはならない存在となっていた。転んでも大丈夫なように床にはふかふかの絨毯が敷き詰められているし、何かしら怪我してしまいそうな鋭利な調度品は徹底的に排除されている。


 ベガは自分が目を離せない赤子と同じ扱いであると気づいたのは頭が覚醒してきてから直ぐだ。クラーに「軟弱な」と思われたのは仕方がないのかもしれない。それは真実だから目を背けたかったのだ。


 「一人にしてよ」


 そうベガが呟くとやっとフォルナシスは部屋から出ていき、リゲルもそのあとに続いた。フォルナシスは最後まで心配そうにこちらを見ていたが、その顔も扉が閉じると見えなくなった。

 

 ベガは靴を手に掴んだ。質のいい皮から作られた長靴ブーツ。色鮮やかな糸で刺繍が施されビーズが付いている。市場で山積みにされて売られているものではない。高級品だ。


 ベガの着ていた…元々持っていた服や靴はいつの間にか消えていた。何となく、捨てられてしまったのだろうという気はしていた。しかし実際に尋ねてそれが本当であったら怖いのでベガはまだ聞いていない。


 きっとフォルナシスが相応しくないと捨ててしまっているだろうと気づいた日の夜、ベガは静かに泣いた。シリウスとの思い出まで捨てられてしまったような心地がしたから。きっと洗濯して保管してくれているんだ、という希望を捨てないためにベガは真実を明らかにしなかった。


 靴を履いて部屋の外に出ると、ベガをすっぽりと影が覆った。扉の前にずっと立っていたのだろうか。ジキルはにやにやとした笑みを浮かべてベガを見ていた。


 「お美しいですね、ベガ様。女神のようです」


 「……やめて。似合ってないのは私が一番わかってる」


 もし、ベガが帽子やスカーフの類で頭を隠せるなら目深に被って恥ずかしがっただろう。しかし、花冠は自己主張するように輝き隠すことはできなかった。


 「いえ、たとえ何も飾り立てるものが無い一糸纏わぬ姿であっても美しさは──」


 「黙って」


 ベガが睨みつけるとジキルは嬉しそうにしている。彼が()()()()()()であるかどうかは知らないし、興味もないが「段々と私への態度が適当になって来ましたね?」と言外に語られているようだった。良い方向であれ悪い方向であれ、距離が縮まってしまったということだろう。


 ジキルが実際にどう思っているかはわからないが、きっと彼は「親密になった」と表現することだろう。ベガは無意識にクラーの姿を探したが、この時間帯の担当はジキルなのかクラーの姿は見当たらなかった。


 「ずっとここに立っていたの?」


 ベガはジキルを見上げながら尋ねた。彼の飄々として、いい加減で胡散臭い様子から制服なんかを着崩している姿なんかは容易く想像できるのだが、目の前にいるジキルは規定通りに着ておりそれだけで真面目な印象を与える。視覚的な情報は真面目な軍人であると彼を評しているのに、聴覚的な情報と心ではいまいち信用できない胡乱な人という評価になっている。


 一応、ベガの護衛はジキル率いる皇帝直属軍第一師団は精鋭の中のエリート集団であり、全員が規定通りに制服を着用し、多少砕けた口調であったとしてもそれは戦友・同志としての信頼の表れで、全員が階級に敬意を持って接している規律を守る統制された軍隊ではある。あるのだが、フォルナシスがこれまでベガの外出を許可しなかったのは彼らが護衛として信用に値しないと判断されたからだろう。


 実力は申し分ない。しかし忠誠が発揮されるかは不明。だからこそ、フォルナシスは確実に安全であるリゲルをベガの護衛代わりにしなければならない事態だったのだ。

 

 「護衛ですから」


 ジキルは「何を今更、当たり前のことを…」という言葉を裏に隠しているようだった。しかし、彼が絶対的なベガの味方であることはあり得ないと誰でもわかるくらいに、矛盾しているようだが彼は何を考えているのかわからないのに、わかりやすかった。


 「私の護衛なんて閑職に回されて…。第一師団って優秀じゃないの?もしかして皇帝直属軍内で冷遇されてるの?」


 思わず自虐のような皮肉のような言葉が口を吐いてしまった。ジキルの瞳は面白いものを見たかのように瞳孔が開いた。喉の奥で押し殺しているような笑いが漏れ、その姿は不気味だ。


 「まさか!ベガ様の護衛は光栄の至りですよ」


 ジキルの貼り付けたような笑みは彼を怪しいと思うには充分だった。嘘をついているか、何か隠そうとしているか。しかしジキルが表情の変化をベガにもわかるように大袈裟にしているのも気になった。感情を隠すこともできるはずだろうに、それをしないのはベガで遊んでいるのだ。


 「閑職だなんてとんでもありませんよ。その花冠も私が運んだものです。こき使われて忙しいんです」


 少しジキルの声色に棘が潜んでいたような気がした。しかしその感触は次の瞬間にはもう見つけられなくなっていた。


 「しかし…美しいというのは嘘でもお世辞でもないのですよ。ベガ様は信じないかも知れませんがね」


 「私が…というより花冠が美しいと言うなら私だって納得するわ」


 ベガはため息を吐きながら言うと、ジキルはやや納得いかなそうに眉を下げたがここで食い下がっても水掛け論にしかならないと思ったのかそこで口を閉じた。彼の瞳は「意外と頑固だな」と雄弁に語っていた。


 「宝物の運搬が今の貴方の仕事なのね」


 「ええ。とても名誉な仕事です!」


 わざとらしいジキルの笑みと言葉に、本当はこういった雑用より戦場を駆け回って暗躍する方が性に合っているのだろうなとベガは思った。


 「フォルナシス卿はベガ様のために花冠を手元に置きたい。しかし儀典室の奴らは宝物庫を開けたくない。両者に板挟みにされ胃壁をすり減らしながら仕事に勤しむ私にベガ様は労りの言葉という褒美をくださいませんか」


 「貴方って意外と苦労人なのね」

 

 ジキルの言葉から本来の仕事からはかけ離れているのだろうということは容易に想像がついた。そしてジキルはいつものようにぺらぺらと喋り始めた。口が軽いというのは軍人としても人間としても、何かと致命的な要素になり得ると思うのだが、ジキルの場合は話術で本質から逸らし煙に巻いてしまうのでその無駄口も見逃されているのかも知れない。


 「その花冠は特殊でして。水晶のように反射する特殊な金属を使用しているんです。宇宙由来のものとも言われています。加工技術も特殊で実に魔術的な──」


 その時、廊下に靴音が響いた。


 「おやおや、王子をお待たせしていたようですね。いや、奴隷かな?」


 少し先の廊下の曲がり角からリゲルが姿を現してこちらを見ていた。待たせていたのだと気づいた瞬間、ベガは顔に熱が灯るのを感じた。待たせてしまった申し訳なさ、後悔と反省、そしてジキルがリゲルを奴隷と表現したことへの怒りが混ざりあった。


 踵を押し上げ、爪先立ちにしたつもりだったがほぼ飛び跳ねるような形だったかも知れない。ベガはその勢いのままジキルの軍服の胸倉を掴むとそのまま自分の目線に合わせるように頭を下げさせた。

 小柄なベガと目線を合わせるように無理矢理折り曲げられた腰は不恰好な形になっており、ジキルの瞳は驚きで揺れていた。


 「取り消しなさい」


 ベガは自分でも驚くほど低く唸るような声を出していた。きっとジキルはベガのことなど恐れず、子犬が噛み付いて来たかのような態度になるかと思われたが、顔には微かに動揺の色が残っていてベガの方が逆に驚いたくらいだ。その焦りのようなジキルの表情はすぐに隠されたが、彼が意図して表面に出した感情というよりは本当に動揺したようだ。


 「…度が過ぎました。ベガ様が不快に思われたのでしたらお詫びいたします。指ですか? 首ですか? 切り落としましょう」


 ジキルの表情は申し訳ないというよりは嬉しそうだったので、急に気持ち悪くなりベガは手を離した。手を離しても暫くジキルはベガの目線の高さに合わせていた。何故にこうも見下ろされるのが不快に感じてしまうのかと考えれば、シリウスがいつもベガと目を合わせるように離してくれていたからだと気づいた。


 彼はできる限り膝をついてベガと目線を合わせることを好んだ。シリウスが特別優しかったのだと気づいて、少し鼻の奥がツンとしたが、ジキルの前で涙を見せることも少しでも泣いてしまいそうな気配を見せることもしたくなかった。

 

 ベガを今突き動かしている原動力は間違いなく怒りだった。国民性とでもいうべきものだろうか。帝国人は他国の人に比べて侵略され侵略し返す歴史の中で『不屈の民』と形容される性質を持っているとされる。自由と富を愛し、やや血の気が多いとも言われる。


 ベガはそんな苛烈な国民性を持つ国の中で、自分はかなり大人しい方だと思っていた。心の中で感情が激しく変化することはあれど、それを表面に出して喜怒哀楽がはっきりしているとはあまり言い難い。一般的と言われる帝国人と比べ、ベガの感情の変化は比較的穏やかであった。


 しかしこの過酷な土地に住まう者としての核ともいうべき何かは一度火がついたら自分でもどうしようもないほどの激情に強迫のように背を押されてしまう。それが、自分でも思ってもみない行動を起こす原因だろうとベガは思っている。


 「貴方の指も首も要らないわ。それより最後に一つだけ質問よ。貴方たちは誰に命令されて動いているの?」


 「それは勿論、皇帝陛──」


 「病床に臥せていらして、表には出ていないのでしょう?どうやって貴方たちに命令を下しているの? 陛下が命令を下せないような状態になったら貴方たちは誰の命令で動くの? 代理人がいるの? 大宰相様じゃないわよね。だって大宰相は常備軍も持っているんだもの。そこに皇帝直属軍まであげないわよね。もし、前提が間違っているなら言ってね。陛下は御病気でもまだ命令を下せるほどには元気なのかも知れないし」


 しかし、ベガはもしカノープス帝がまだ命令できるほど元気なのであれば皇帝として机に齧り付くように政務を命尽きる寸前までこなすような気がしていた。


 「さぁ、誰でしょうね?」


 ジキルの口の端が片方だけ上がったのを見て、ベガはまたはぐらかされたのだと思った。人を小馬鹿にしたような瞳の輝きはまるで悪戯好きの子供のようだが、純粋で無いところがタチが悪い。早熟な子供のような不完全な大人のような、歪さがこの男の不気味さに直結しているようだった。


 「もういいわ」


 リゲルを待たせているのだ。これ以上ジキルに構ってはいられない。ベガは質問の答えを得られなかったもどかしさの中、ジキルに背を向けた。世の中、全てに答え合わせが付属しているわけでは無いとベガは自分に言い聞かせた。


 ジキルはやや名残惜しいという表情を見せた。「待たせておけばいい」とでも思っているのだろう。彼にとってベガがリゲルを気にするのはあまり理解ができないとでも言いたげだ。


 ジキルやフォルナシスがベガに求めているものが何か。明瞭な形はまだわからないが、ぼんやりとならばわかる。つまり、上に立つ者としとの風格や威厳を求めているのだろう。

 

 「代替わりが近いです。そういう時期は不安定になる」


 ジキルが呟いた言葉に、ベガは足を止める。カノープス帝はもう長くはないらしい。カノープス帝は正式に後継者を指名していない。血統からサジタリアス大公が有力視され周囲から後継者に推されているだけに過ぎないのだ。その状況をベガが知ったのは宮殿に来てからだ。女官たちのおしゃべりに聞き耳を立ててしまった。

 彼女たちはチューリップの間にほぼ軟禁状態のベガよりよっぽど外を知っていたし、語るのは真偽も分からぬ噂話ばかりだったが何も情報が与えられないよりましだった。

 

 ──本当にベラトリクス様の娘なの…?本当に?まさか、ねぇ。おかしいと思わない?だって…

 しっ。聞こえちゃうわよ。

 フォルナシス卿が認めているんだから、間違いないわよ。

 でも…。

 フォルナシス卿がベラトリクス様の娘を騙る者を皇帝に仕立て上げようとしてるって思うの?

 お黙り!口を慎んで。

 でも、そう思われるわ。だって何もなかったらサジタリアス大公が後継者として選出されたはずですもの。

 陛下は正式には誰も指名されていないわ。

 でも、陛下は気が…おかしくなってしまわれたって。本当に相応しくない人を指名してしまうかも。

 でも、でも、でも!そればっかり。あなた、本当に口を閉じなさい。ここだけの話にしてあげるけど。他の誰かに聞かれたら…


 ベガは皇帝直属軍も一枚岩ではないのだろうという気はしていた。つまり、今は見極めている最中なのだ。ベガとサジタリアス大公のどちらが自分たちの主人に相応しいのかを。ジキルの値踏みするような視線が答え合わせのように感じる。

 フォルナシスとしては味方になるかも知れないが敵になる可能性が高い人物を全面に信頼して護衛を頼り切りになることは避けたかったのだろう。


 振り返るとジキルの表情は意味ありげに微笑んでいる。ベガの興味を惹きそうな言葉を出して、もう少し引き留めて嫌がらせしようという魂胆が見えた。何故だかジキルはあまりリゲルをよく思っておらず、憎しみというわけでもないが少し嫌がらせくらいはしたいと思っているようだ。


 きっと暇つぶしのような軽い何かで熱心に嫌がらせするほどの興味も情熱もないのだろう。ベガからリゲルに、リゲルから適当な誰かに。ジキルの嫌がらせは標的を変えていくのだろう。なんとも大雑把な表現になってしまうが、つくづく嫌な人だとベガは思った。


 ベガはもう何を言われても足を止めないという気持ちで、足早にその場を去っていった。離れていく自分の背中を見つめながら、ジキルがどんな表情をしていたかなどベガは知らないし、興味もない。

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