《19》高貴な血脈を迎えて
いつの間にか何処へ姿を消していたクラーがやはりずぶ濡れのままベガ達の前に戻ってきた。ジキルの外套で雨を凌がせてもらっているベガの姿はクラーから見ればジキルと密着しているように見えたらしい。
「指揮官!」
咎めるように、そしてゴミを見るような蔑みを携えてクラーが叫んだ。ジキルは慌てる様子もなく、「誤解だ」と一言だけ告げた。
「指揮官に変なことされてないか? 体を触られたとか…」
冗談でも何でもなく、本気でクラーが尋ねていることは表情を見ればすぐにわかった。その気迫がジキルをも殺しそうでベガは「大丈夫よ」と小さく答えることしかできなかった。
「サロメ…お前は私を何だと思っているんだ。流石にベガお嬢様に手は出さないよ」
ジキルは「ベガお嬢様も信じてくださいますよね?」と笑いかけたが、ベガは背中の産毛が逆立つような気味の悪さに襲われた。口角は上がって笑っているように見えるが、目は笑っていない。
いっそのこと瞳が獣のようにギラギラしていれば…それはそれ危険だが、わかりやすかっただろうに。その目は冷たく何も籠っていないように感じた。
しかし、もしベガが重要参考人でもクラーの知り合いでもなくジキルにとって何の価値もない道端の石と同じような小娘であったのなら、彼は成熟するのを待ってから収穫し、そのままポイっと捨ててしまうことを平然とやってのけそうな危うさがあった。
「車両を表に回してくるように指示しました。誰か傘を持っていないか探しましたが、生憎…皇帝直属軍に傘を差す文明人は存在しませんでした」
クラーが何処かへ姿を消していたのはベガのために傘を探してくれていたのだとわかった。
「我々は野蛮だからな」
ジキルはくつくつと押し殺したように笑う。ベガには本当に笑っているようには聞こえなかった。クラーとジキルはずぶ濡れなのに、ベガだけジキルの外套の内側で濡れずに済んでいる状況に何だか申し訳なくなってきた。
ただ、ジキルは何だか「一生雨に打たれてろ!」と言いたくもなってしまったのってベガは黙っていた。学院の厳しい正門の前には何台もの軍用車両が並んでおり、その周りには漆黒の軍装で揃えられた軍人達がいた。
皆、ジキルに敬意を払いそのジキルに丁重に扱われているベガに好奇の視線のようなものを投げかけていた。最新の技術を搭載した車両はまだ軍や一部の物好きな資産家などが所有しているのみで、まだ一般に普及はしていない。その技術もシャガル家の独占状態のようなものだ。南部の油田開発もしているというし、シャガル家は我が世の春を謳歌中らしい。
最新の技術の結晶に乗る体験なんて、こんな状況でなければはしゃいだだろうに。ベガは少し残念に思った。いや、何か体験するならばそれはシリウスと一緒がいい。
ベガは眼裏にシリウスの姿を思い浮かべて涙がこぼれそうになったが、何とか我慢した。ジキルの前で泣いても事態は好転しそうにはないし、何だか嫌な予感もするから。
軍用車両に乗り込むと、後部は窓がなく薄暗かった。座席も硬いし、何だか罪人の護送みたいだった。物々しい音を立てて扉が閉まる。
ベガは両脇をジキルとクラーに固められ、どう足掻いても逃げ出せないようになった。ジキルが運転席に座る部下に指示を出して、車両は走り出す。ベガの座席から外が見える窓がないから移り行く車窓の景色も楽しめなかった。
たとえ窓があっても、今のベガに外の景色を楽しむ余裕はなかったので意味はなかったかもしれなかったが。
俯くように押し黙ったベガに対して、ジキルは慰めるような甘い声を出した。
「ベガお嬢様の不安を出来るだけ取り除くよう仰せつかっております。出来る限り質問にはお答えしたいのですよ。本当です。意地悪したくて、隠しているわけではないのです」
随分とベガを幼い子供のようにジキルは認識しているようだった。その明らかに機嫌をとっておこうという本心が見えていた。しかし、それさえも命令されたからに過ぎず彼の意思とは無関係で自我というものを持っているのかすら怪しかった。
隣でクラーが声を出さず「おえっ…」と吐くような真似をして見せたことで、彼は普段はこんなことを言わないのだろうということがわかった。小娘に下手に出て機嫌をとろうとすることはないのだと。
「シリウスが何処にいるのか、その犯した罪とやらも私は知らないのよ。そして、これから自分がどうなるのかさえも。私を重要参考人だって言うけど、私はシリウスが何をしたのかさえ知らないんだから何も答えられないわ。私を連れて行くのは…きっと無駄よ」
今からでも解放してくれないだろうかという僅かな希望はジキルの表情を見れば潰えたことがわかった。元々、そんな希望もなかったのかもしれない。
「無駄かどうかなど、ベガお嬢様が決めることではありません。我々はただ命令に従っているだけですから」
ジキルは優しさの仮面がその時だけ剥がれ落ちたかのように、冷たく淡々としていた。シリウスのことに関して、思いの外ベガが落ち着けているのはまだ現実感がないからだろう。
自分に襲いかかる現状も、シリウスが置かれているであろう状況も何もかも嘘くさくてまだ信じられていないのだ。
「……クラー。クラーは今まで何をしていたの? 急に居なくなって、驚いたんだから」
ベガはクラーに尋ねたつもりだったが答えたのはジキルの方だった。
「サロメは私が拾ったのです。何度か声を掛けていまして、ベガお嬢様とお会いした時は承諾をもらった直後でしたよ」
ジキルは懐かしむように目を細めた。あの建国記念祭の日にクラーは学院を離れることを決めていたのだ。自由に羽を伸ばして生き生きとしていてくれれば良い、と思っていたが今ベガの目の前に現れているクラーは自由、解放というより規律を重んじる軍人になってしまっていた。
何も縛るものなんて無いように自由に飛び回るクラーに憧れていた。ベガには出来ないから。勝手に憧れて、そうであって欲しいと押し付けるのは無責任だった。自由を貫くことは時に社会の枠組みから弾き出されるかもしれないから。
きっとクラーなりの葛藤もあったのだろう。どうやって自分を殺さず、社会に収まるのかを。ふと、クラーとツィーが言い争うような出来事があったことをベガは思い出した。
確か、クラーが選択授業の希望調査を書き終えて「これでいいんでしょう?」とでも言うようにツィーに押し付けるとそのまま部屋を出ていったのだ。その後をツィーが追って行った。
二人は廊下で何か話し合っていて、最初はあまり聞こえなかったが二人の怒りが昂ったのか大きくなって行った。ベガは悪いとは思いながらも扉に近づいて全身が耳になったかのようにじっと会話を聞いていた。
「どうしてあなたは規則を破るのよ! ……あなたとちゃんと話す機会がなかったから、今言っておくけど! あなたのお父様、月に一回ほど面会の予約をしているのよ。ずっと面会室であなたを待ってる! でも、あなたは全然来ない。少しくらい顔を見せてあげたらどうなの?手紙の一通でも書くとか。余計なお世話かもしれないけど、この休暇で一度実家に帰ってみるとか…」
「煩い、寮長サマ。どうせあの男は見合い話を持ってきただけ。それに、父親でも無い。あの男は伯父」
「でも、書類上はあなたの保護者でしょう?あなたの養育権も持ってる。私、面会室に案内してあげただけなのに何故かあなたの友達だと勘違いされてるからよく聞かれるのよ。クラーは何処だ?ってね。あの人はあなたのこと心配してるわ」
休暇中で誰も廊下にいないからか、二人は声を荒げていく。
「…だから会いに行けって? そうしたらそのまま婚約でも結ばされて何処かに売り飛ばされるに決まってる。案外…クソ従兄弟と結婚させられて正真正銘あの男の娘にさせられるかも」
「どうしてそんなに人を疑うのよ。私の見た限りあの人はあなたに寄り添おうとしているみたいだったわ。血の繋がった家族でしょう?大切にしなさいよ」
そこで、床を踏みつけるような音が聞こえた。多分だが、そんなことをするのはクラーの方だ。
「血の繋がりなんてクソ食らえだ!私は誰かの娘だったり妻だったり母だったり、誰かに所有されるのは嫌だ。結婚して従属したくない」
「人は所有物じゃないわ。それに、結婚は従属することじゃない。二人が支え合うためのものよ」
ツィーの声が子を諭す親のような、教師と生徒のようなものに聞こえた。この時は先程まで荒げていた声を努めて冷静にしようというツィーの気持ちが見えたようだった。
「家族を大切に…なんて思えるお花畑な家庭で育ってよかったね。寮長…いや、ツィー・リー。あなたの価値観を私に押し付けるな!」
「…あなたには綺麗事を並べたように聞こえるだけでしょうけど。人は何かに属してないといけないわ。家族という集団だったり、村だったり学校だったり国だったりね。…あまり人を遠ざけない方がいいわ。あなたは今の年頃にありがちな、一人で生きていけるという全能感に支配されているかもしれないけど、きっと孤独よ。それってとても寂しいわ」
「ご忠告どうも」
クラーはぶっきらぼうに言い放ち、足音が去っていく。きっとクラーはもうツィーの話を聞く価値がないと判断したのだろう。確かにツィーはクラーにとっては正反対で、頭が硬いし話し方は何処か鼻につくように感じられるだろう。
「少なくとも、私にとっては血の繋がりだけがよすがだわ」
ツィーの声が寂しく残った。しばらくツィーは立ち尽くしていたのか知らないが、少し間が開いてからツィーの足音が遠ざかって行くのを聞いたとき、ベガは張り詰めていた息を吐いた。
遠い日の回想は霧のように消える。そこでベガは疑問が浮かび上がる。クラーは何故、軍人という道を選んだのだろうと。
「クラーはどうして軍人になったの…?」
今度はしっかりクラーの横顔を見つめながら尋ねた。これだとジキルが代わりに答えることも出来まい。ジキルはクラーがベガに余計な情報を与えないように見張っているような気がした。
「…街で喧嘩に巻き込まれて…。全員返り討ちにしたら、ジキルに皇帝直属軍に勧誘された。最初は無視していたけど、あの時の私は早く自立してクソな家からでていきたかったから…本当は何でも良かった」
何でも良かったんだ…とクラーは掠れたような声を絞り出した。雨が車体に打ちつける音が耳に張り付いたかのようだった。それ以上、クラーは口を開かずそれでこの話はお終いなのだと理解するのにしばらく時間がかかった。
「サロメは皇帝直属軍の魔女小隊で鍛え上げて、今は私の補佐をしてもらっています。魔女小隊は女の子だけで構成されているんです。ベガお嬢様も興味があれば、ぜひ」
ジキルがにやにやと笑いながらベガと共に働ける日を楽しみにしているなんて言う。きっと本気ではないだろうが、ベガは首を振って「軍に就職する気は今のところないの」と答えた。クラーは「馬鹿。軍人としてやっていけるわけないだろ」と呟いていた。
「ちなみに、余談ですがこの私ジキルは斥候も兼ねた進撃部隊に属して下積みをしたのですよ」
ジキル自身が人間らしい感情を持っていない故に、他人からも感情を向けられることに関して無関心であるはずなのに、彼は何故かベガから「すごい」といった類の感嘆を引き出そうとしているように見えた。
人間らしい振る舞いをなぞっているだけだろうに。彼の設定したジキルという人間に相応しい演技を骨の髄まで徹底している。それに関してはある意味、凄いがそれを正直に言ってやるのも癪なのでベガは絶対に言わないことにした。
これから向かう先が軍の極秘施設で、ジキルに拷問されようとも絶対に吐いてやらないとベガは固く心に誓った。彼はベガを値踏みしていて、観察していて、それでいてどうでもいいと思っている。ベガを何かの篩に掛けていて、彼なりの合格基準に達さなければ何か危ない予感がした。やはり、全て彼の掌の上で踊ってやるのは癪だ。
「貴方のことはどうでもいいの」
ベガが冷たく言い放つと、クラーは「ぶっ」と吹き出した。せめて堪えようとする努力くらい見せたらいいのに、彼女は我慢することなく笑った。運転している軍人も後ろ姿だけしか見ていないので定かではないが、笑っているのだろう。
変な声をあげたかと思えば懸命に咳払いで誤魔化したが、肩が小刻みに震えていた。
「ええ、そうですか…。ベガお嬢様に私のことを知って欲しかったのですが、仕方がありません。愛しのシリウスよりも興味を引く話題を提供できそうにありませんから」
ジキルは眉を下げて、さも悲しいですという表情を作ったが実際はそれほど悲しんでいないことが丸わかりだった。
「皇帝直属軍には毒蛇部隊があるの?」
ベガが尋ねると車内の空気が急激に下がって行くような感覚に襲われた。
「特殊な皇帝直属軍のなかでも特殊な遊撃部隊です。よくご存知で」
ジキルの冷たく固い声が響いた。そのままジキルがぺらぺらと喋るのかと思ったが、ジキルはそれ以上語ることはなかった。数十分も沈黙に耐え、車両に揺られていたのかもしれないし、思いの外「然るべき場所」へは数分程度で早く到着したのかもしれない。
気がつけば目的地に着いたようで、ベガは降りるように指示されていた。ジキルが先に降りてベガに手を差し出したが、その手を取らなかった。
ほぼ飛び降りる形になってしまったので、泥水が靴に跳ねた。それはシリウスが買ってくれたものだった。今、ベガが身につけているものでシリウスとの思い出がないものの方が少ない。
ベガが日差し避けとして使っている──強く打ちつけるこの大雨では、残念ながら雨避けの効果は殆ど期待できない──スカーフは休日にスピカとミラと共に外出許可をとって市場で買ったものだ。鳥と花の紋様のスカーフは普段の学院生活に使うには派手だし、学院が定めた制服の規定から外れてしまうので休日のお出掛け用にしていた。
これだけはシリウスと関連する思い出がないから、鼻の奥がつんとして涙を堪えなければならないことにはなるまい。…と思っていたが、買った日の帰り道にシリウスに見せるのが楽しみでスキップしながら帰ったことを思い出した。
どうやってもシリウスとの思い出に繋げてしまい、ベガは泣きそうだった。しかし、泣いてしまうとよくわからないシリウスの罪を認めてしまうようで我慢した。きっと冤罪だと言い聞かせる。
ベガはどこかの軍の施設に連れて行かれると思ったが、目の前にあるのは煌びやかな宮殿であった。観光名所として解放されている一画ではなく、完全に関係者しか入れない皇帝の宮殿に近い場所だ。
「…え…?」
まさか、宮殿に連れて来られるとは予想していなかったのでベガは思わず間抜けな声が漏れた。ベガの頭上で雨が遮られたので、またジキルが外套で雨避けにしてくれたのかと思ったが、宮殿の侍従らしき男がベガのために傘を差してくれていた。
もちろん、ベガだけが雨に濡れずに無事で侍従の男はずぶ濡れである。中心部が突き出し、優雅な曲線を描く寺院の屋根のような形の傘だった。冴え冴えとした青で艶やかな布地の傘は金色で縁取られ複雑な意匠が絡み合っていた。これもまた随分と高価そうである。
侍従と軍人たちに付き添われ、ベガは宮殿の中へと足を踏み入れた。連行というよりは、ベガが付き従えている様な形だ。とても居心地が悪いのは、ベガ以外が雨に濡れていることも関係があるだろう。
罪悪感を必要以上に膨らませないように、ベガは「一時間ほどで雨の止むだろうし、室内に入ってしまえば空気が乾燥しているからすぐ乾く」と言い聞かせた。風邪をひくことなんてきっとない。それが原因で死んでしまうことなんてもっと無いと信じなければベガの心は申し訳なさではち切れていただろう。
宮殿は巨大な一つの建物というよりは比較的小さな建物と部屋が連なり数多くの庭園と東屋を持つ建造物群であり、遊牧民の伝統に基づく。遠くから見れば一つの大きな生き物の様だった。
否、帝都全体が城壁を骨格とした一つの生き物の様だった。帝都で暮らし、忙しなく動く人々は帝都という生き物を構成する細胞のようで、帝都に入ってたり出たりする人々と他の都市へと繋がる線路とその上を鉄道は、帝都という生き物の食事と排泄のようだ。
そんな思考にたどり着いたベガは自分が変わっていると自覚するのと同時に奇妙な街だとも思った。ベガが入った宮殿は政務庁舎からは離れた場所の様だ。行き交う官僚の姿も侍従の姿もなく、ただ静かだった。手入れされず寂れた場所というわけでは無いらしく、色鮮やかな壁のタイルの一つ一つが入念に磨き上げられている様だった。
「ねえ、ここ宮殿よね。どうして私をここに?」
隣を静々歩くジキルに尋ねてみたが、関係ないことはペラペラ喋るくせにベガが必要としている重要な情報は喋らないようでジキルは「着けばわかります」と「私の口からは言えません」を繰り返されるだけだった。ジキルの後ろについているクラーに縋る様にみても静かに頭を振るだけだった。
ベガは同じ学院に在籍していたというよしみで、クラーを味方だと無意識に思っていたがそうではないのかもしれない。彼女が纏うのは間違いなく皇帝直属軍の制服で、深い忠誠を誓っているわけではなくともジキルの部下なのだ。
迎えにきてくれたらしい侍従も黙々と案内するだけで、何も喋ってはくれなかった。ベガに傘をさしてくれたこの侍従の男は背筋をピンと伸ばし、清潔感のある汚れひとつない格好をしていた。宮廷勤めという世俗とは少し切り離された環境に身を置くからか、どこか浮世離れした雰囲気を持っていた。
とは言っても、出会ってからこの男とベガは言葉を交わしていない。正確にはジキルともクラーともこの場にいる誰とも言葉を交わしていない。ただ傘をベガに差し出した彼をみて、ジキルが案内に遣わされたものだと判断したのだ。彼は口も開いていないし何か身振り手振りで伝えたわけでもない。ベガには都合の良いようにジキルが読み取った様に見えた。
侍従の男は何も言わずに、ただの少女と軍人の集団を宮殿の中へと案内している。ベガは実はこの男に騙されて牢屋に連れて行かれてしまうのではないかと不安だった。ジキルたちはもちろんそれを知っていてベガを暗い牢獄に連れて行こうと協力している。重要参考人なんかではなく共謀者として疑われているのではないか。
あまりにも宮殿内が静かで、鮮やかで美しい調度品の賑やかさと不釣り合いであったことからそんな想像がベガの頭の中を占めていた。ずいぶん長いこと廊下を歩いたようにも感じるし、実はそれほど距離がなかったのかもしれない。ぐるぐると回るベガの思考と精神的な疲労から歩みが遅くなって、長い距離を歩いたのだと錯覚したのかもしれない。
侍従は奥まった場所の大きな扉の前で止まると、こちらを振り返って意味深に頷いてみせた。ベガは全くその意味を読み取れなかったが、ジキルなど他の軍人たちは意味がわかったらしい。
「ベガお嬢様、こちらのお部屋だそうです」
そっとジキルがベガに囁いた。ここがジキルのいうベガの然るべき場所というのだろうか。宮殿内の一室が然るべき場所だなんて到底思えなかったし、実はこの扉の先には地下牢へと続く階段があるのだと言われた方がまだ納得ができた。玉ねぎのように頂点が突き上がり緩やかに曲線を描くアーチ状の扉は両開きのもので其の片方の取手に侍従の男が手をかけた。
思わずベガは後ずさってしまう。助けを求めるようにジキルやクラーの瞳を見つめたが、やはり誰も──クラーでさえもベガがこんなに不安がっている様子がわからないようだった。ジキルに関しては期待する方が馬鹿だとベガは自分自身で反省した。クラーを含め、皇帝直属軍の軍人たちはベガが「然るべき場所」に収まるのが最良だと考えているように見える。
「ちょっと待って。私は何も説明されていないのよ。それなのに、いきなりこの部屋ですって…わからないわ!」
思わずベガは駆け出してクラーの外套を抱きしめるように掴んでいた。不安は爆発寸前まで膨れ上がっていた。
「怖いの! 私、この先に何があるかなんて知らされてないの…。ねえ、お願い…クラー…」
口調は舌足らずで幼い子供のようなものになってしまった。クラーの名前を読んで、其の後に続けるはずだった「助けて」という言葉はなんとか飲み込んだ。目が合ったクラーの顔が聞き分けのない子供を呆れながらも嗜める言葉をかけようとする人のそれだったから。
あの豊かで美しい赤い髪を、ベガも密かに好きだった赤い髪をバッサリと切り落として。顔つきも厳しい大人の女性となり、面影は残るもののあの頃の…学生時代のクラーとは変わってしまった今の姿にベガはどうしようもない寂しさを覚えた。今の彼女は恐ろしい部隊に身を置き、よくわからない恐ろしいものへと迎合し行く敵のように見えてしまう。
「大丈夫だから。この先は歯医者でもなければ、予防接種でもない」
クラーは優しくベガを外套から引き剥がした。きっとクラーはベガを助けてはくれない。誰彼構わず救いの手を差し伸べるような、お人好しでは無いけれど非情に見捨てる様な人でもなかったはずだ。今のクラーはベガにとって優しいが残酷な人だった。
注射なんて、ベガは怖くなかった。様々な薬品の投与も何度も行われる採血も慣れている。耳の奥に今は遠くなった雨の音がぴったりと張り付いている。ベガは天候が悪い日にはよく発作を起こしたし、そうでなくとも心細くなったものだ。
そういう時は、シリウスの元へ走って行って「傍にいて」と言うのだ。眠るまで手を握っていて貰う。ベガが眠るまでシリウスは必ず起きていた。この先にシリウスが居るのなら不安も恐怖も感じないのにとベガは思った。
「こちらのお部屋は貴賓のための部屋です。一番、庭園の眺めがいいお部屋です。見頃になりますとチューリップが見えて、チューリップの間と呼ばれます」
そこで初めて侍従の男が口を開いた。ベガの「この先に何があるのかわからない、怖い」と言う言葉を読み取ったのか部屋の説明を始めた。この宮殿は客人が滞在する用のものらしく、その中でもベガが案内されたのは一番格が高い部屋らしい。
その部屋から一望できる庭園はチューリップの栽培が盛んな時代に植えられたもので、ローザ女帝の命令だったという。
侍従の男の言葉に多少の不自然さが残るのは彼が帝国語を母語としない国で育ったからだろう。言葉の合間合間に息継ぎが多くかなり聞き取りづらい。侍従は部屋の説明をすることで、ベガの不安を取り除こうとした様だが残念ながらあまり意味はなかった。それどころかジキルに睨みつけられている様にも見える。
ジキルは皺を作って目を細め、侍従の男を睨みつけるというわかりやすい表情の変化こそしなかったが「余計なことを口から滑らすなよ」と念を押すように視線を投げかけている様にベガは感じた。
ベガの不安はジキルをはじめとする周りの大人たちによる説明不足が主な原因だ。なぜベガをここに連れてきたのか、ジキルは一切の説明をしていない。ただ行けばわかるという様なことしか口にしていないのだ。
「ベガお嬢様、怖いところではございません。この先でお待ちになっている方がベガお嬢様の疑問のほとんどを答えてくださるでしょう」
ジキルが微笑む。その笑顔は作り物だというのに、これで面倒な子守から解放されるという喜びが滲み出ているかのようだった。扉が開かれる。中に入るよう指示されたのはベガだけで、ジキルやクラー、侍従さえも付いては来なかった。
侍従はベガに恭しく頭を下げた。それが、私の役目はここまでですと語っているかのようだった。扉が閉じられるが、鍵がかけられた音はしない。
このまま、逆戻りして扉を開けることだってできた。進むことも戻ることも出来ず、ベガは立ち尽くした。この先には人がいる。そのことがとても怖かった。
振り返って、取手に触れようとした時だった。扉越しの遠い声がベガの耳に届く。
「──随分と慕われているようじゃないか。サロメ」
ジキルの声だった。冷たく、そして嘲笑のように鼻に抜ける声。
「まさか。そんなはずはない」
クラーが冷たく言い放った。まるで自分に向けられているようで、ベガは肩を跳ねさせる。自分の感情を自分の知らない所で否定されたように感じた。
「あの子は私に母性のような何かを期待しているだけ。学院では有名だった。何処から漏れたのかは知らないけどベガ・ワルドゥは孤児院出身で、シリウス・バナフサジュが養育している…ってね。母親がいないから、年上の女には無意識に母性を求めている。…そういう子。私は母性からは対極の存在だっていうのに」
頭を強く打ち付けられたような衝撃がベガを襲った。取手に伸ばしかけていた手を引っ込める。先に進む覚悟を決める前に後退できる逃げ場を断ち切られたような心地だった。覚悟が決まらずとも、ベガはこの先に待つ誰かと相対しなくてはならない。
振り返らなかった。床に縫い付けられたようだった足は、もう動く。後ろから「無償の愛、みたいな母性神話が私は大嫌いなんだ」というクラーの声が聞こえた。
貴賓が滞在する部屋の奥へ進むと、応接間のような造りになっていた。ベガが来る気配を感じたのか、椅子に座っていた男は立ち上がり瞳にベガを映す。
ベガもその男を見た途端に心臓が跳ねた。上等な衣服を纏い、洗練された佇まいは高貴さそのもの。たとえ、身にまとう服が安価なものだとしても、内から滲み出る育ちの良さはさは隠せなかっただろう。
美しい男だった。だが、それ以上にベガは懐かしいという感情に胸が支配され、そして何処となくその顔がリゲルに似ていることに気づいた。目の前にいる男はリゲルの背をもう少し高くして、歳を取らせた色違いのようだ。リゲルに似た男はベガの前まで来ると膝をついて頭を下げた。
「お初にお目に掛かります。フォルナシス・ゲルトルート・グルディニヤと申します、ベガ様」
知らない異国の風変わりな名前とグルディニヤという名字、そして「リゲル様はジェミニ侯爵家の嫡男──って帝国の一般常識じゃない」というミラの声が頭の中で響き、この男はリゲルの親族であることがわかった。フォルナシスはベガの足に額を付けかねない勢いで頭を下げていたので、ベガは思わず後ずさってしまった。
わからない。この国の高貴な立場にいる男がベガに頭を下げるのかを。ベガの不安と緊張がフォルナシスにも伝わってしまったのかフォルナシスは勤めて柔らかい雰囲気が出るように微笑んだ様に見えた。少なくともフォルナシスからはジキルのような意地の悪さと底なしの様な闇、そして作り物のような不気味さは感じられなかった。
「ジェミニ侯爵家の当主を務めております。息子のリゲルとはスィン・アル・アサド学院では同学年だそうですね」
ベガを安心させるためか、厳しそうな態度から少し砕けたような雰囲気になったことと知っている名前が出たことでベガは安堵の息を吐いた。フォルナシスの計らいは一応成功しているようだ。
「えぇ…はい。とても良くしてもらっています」
何故、宮殿でリゲルの父親と会っているのかベガはわからなかった。この国の貴族階級は他国のそれを真似ただけの歪な構造をしていると習ったことがある。とにかく帝国の貴族は複雑なのだと。其の中でも侯爵と付くくらいなのだからグルディニヤ家は高い位置に属しているはずだ。
そんな高い位置にいるはずの男が、頭を下げている。重要参考人のベガに頭を下げている。否、重要参考人というのはベガを連れ出す方便の様なもので、目的は別にあるという気がしてならなかった。
「あ…の…、すべてわかる様にお話ししてくれると聞いて来たんです。私…ジキルから」
ジキルの名前を出すと、フォルナシスは一瞬だけ険しい顔をしたがすぐに睡蓮のような穏やかな微笑に戻った。喉仏や手の大きさを見れば男の人だとわかるが、女の名前のせいだろうか。リゲルもフォルナシスも共通するのは顔だけ見ればどこか女性的にも見えてしまう中性的な美丈夫だった。
「あの者を、妄信なさりませぬよう」
低く忠告する声は、やはり男のものだった。先程女の様にも見えると思ったことをベガは慌てて撤回した。
「まさか! 全然信用してません」
慌てて首を振ると、フォルナシスは安心したように笑った。しかし、少しベガは首を傾げて喉の奥に魚の小骨が刺さったかのような違和感を尋ねた。
「皇帝直属軍に命令したのは、貴方ではないのですか?」
フォルナシスも皇帝直属軍、特にジキルを信用していないようだった。
「私はかの者達に命令できる立場ではないのです。その名の通り陛下の命令しか受けない集団ですから。今回はお願いでした。彼らは断ることも出来たのですが、ベガ様の身元引受人が私しかおりませんでしたので。…仕方がなしに引き受けた訳ではございません。ずっと…お会いしたかったのですから」
フォルナシスはベガの手を握って自分の額に押し付けた。この額に押し付ける動作は食前の祈りだったり、祈祷だったり、何か最上級の感謝や敬意を表す帝国独特の風習である。しかし、今では古臭いと随分廃れてしまって、普段から行うのは信心深い老人がやる程度で貴族の間では、ミラ曰く何か堅苦しい儀式の時にしかやらないという。
ベガも孤児院にいる時は信心深い職員が目を光らせていたため怒られないように渋々やっていたが、シリウスと暮らし始めてからは彼があまり熱心な信者という訳ではなかったので次第にしなくなった。
宗教行事のようなものといえば週に一度、不死鳥を祀る廟に香を焚いたり供物を置きに行く「祈りの会」というものがあったがベガは行けばお菓子を貰えるという不純な動機で行っていたし、シリウスも最低限の近所付き合いのためという程度だった。
だからこそ、ベガはフォルナシスの行動に驚いた。しかし、その表情から何か神聖な儀式のようなものにも感じられた。フォルナシスの顔は今にも泣き出しそうにも恍惚としているようにも見える。
何故、神に出逢ったかのような表情をしているのだろう。
フォルナシスはそのまま流れるようにベガを椅子に座らせ、自身も向かい合うように座る。ベガが口を開くより先に、フォルナシスが口を開いた。
「碌に説明もせず、騙すようにお連れしてしまい申し訳ありません。目覚めて直ぐ全てをお話ししても、貴女様は混乱したでしょうし何より私の口から説明したかったのです」
ベガは疲労で鈍くなる頭を必死に回転させていた。一週間眠っていて起きたら軍人に連行され、宮殿に連れてこられた。これだけでベガはもう寝台に飛び込んでぐっすり寝てしまいたい気分だが、この悪夢は現実であるため醒めないのだ。
「あのっ、シリウスは…」
ベガは堪らず、シリウスのことを尋ねた。重罪を犯したとだけ説明され、あとは何も教えてもらえなかったベガは砂漠で水を探して彷徨うようにシリウスに関する情報に飢えていた。
しかし、フォルナシスもまだシリウスに関しては黙るのか唇を指で押さえて口を閉じるようにベガに合図した。茶目っ気があるような仕草なのに、有無を言わせない威厳のようなものが感じられた。
「全てお話しいたしますから、まずは私の話を最後まで聞くと約束してくださいますか?」
フォルナシスの迫力のある眼睛に見つめられ、ベガは黙って頷くしかなかった。
「あの日、鐘楼が崩れた事故の後。バルセィームの娘がフェカルド・ザーファラーンに報告しました」
やはり、ミラは包み隠さずスピカの不注意だったと報告したのだろうとベガは肩を震わせた。曲がったことが本当は大嫌いなミラなのだ。隠してしまえば罪悪感に苦しめられてしまうことは想像に難くなかった。
「貴女様の魔術紋が、帝室直系に受け継がれる『皇帝の配列』と酷似していると。一瞬だったから見間違いかもしれないと何度も言い訳をしたようですが…。それでも、ベラトリクス様を知っているものが見ればきっと口を揃えてこう言うでしょう。『まるでベラトリクス様の生き写し』だと」
ベガは唾を飲み込んだ、はずだった。しかし、思ったよりも口の中はカラカラに乾いている。口は渇いているのに、嫌な汗が吹き出すのがわかった。
「ですから、ザーファラーンからその報告を受けた者たちは考えたのです。ベガ様はベラトリクス様が残された遺児なのではないかと。陛下の隠し子ということはあり得ません。あのお方は──皇后陛下が亡くなられた直後…不能になられたのです」
フォルナシスはベガ以外誰もいないのに、最後は声を顰めた。しかし、ベガ耳にはあまり届かなかった。声が聞こえなかったのではなく、無意識に音を遮断していたようだ。その前に告げられたことがあまりにも衝撃的すぎたから。
「シリウス・バナフサジュはベガ様の存在を隠し今日まで養育してきたのです。彼はこの十数年間、帝国議会にも報告の一つもなかった」
ベガは衝撃を受けていたが、フォルナシスの言葉に冷静さを取り戻しつつあった。
「じゃあ…シリウスは無罪だわ。冤罪よ。私は孤児院出身だもの。シリウスはそれを迎えに来ただけ。私が、ベラトリクス様の娘かもしれないなんて知らなかった」
シリウスが何か罪を犯すはずがない。ベガはそう信じていたが、実際に連行され拘束されているという事実を聞かされ、不安は募っていた。しかし、それが冤罪だ判りベガは肩の力を抜いた。その途端、椅子に沈み込むような感覚に襲われる。
「シリウスは悪くないんだわ…」
ベガが吐息と共に吐き出した言葉に、フォルナシスは顔を曇らせた。その表情が疲れで眠りに落ちそうなベガの意識を繋ぎ止めた。
「いいえ、あの男は罪人です。故意に隠していたのです。治療だ、検査だ何だと言ってベガ様の魔術紋を確認するのは容易いですから。それに、あの男がベガ様の容姿を見てベラトリクス様と無関係の他人の空似であると何も調べず放置する訳がない!」
フォルナシスの声には静かに怒りが燃えているようだった。そして、フォルナシスはシリウスのことをよく知っているような話ぶりだ。罪人としての資料の中で顔を合わせただけではないだろう。
「あの…何故、貴方が私の身元引受人になったのでしょう?」
シリウスと知り合いなのだとしたら、事前に「何があったらベガを頼む」とシリウスに頼まれていたのかもしれない。フォルナシスがただ息子の友人という理由だけで保護者になるものなのだろうか。そんな疑問がベガの頭の中に浮かび上がった。
「ベラトリクス様の娘とあらば、それなりの立場にいる者が後ろ盾とならなければならないのです。そして…私はベラトリクス様の婚約者だった。ベラトリクス様の娘であるならば…父親は私なのです」
それは元婚約者の娘ならば、自分の娘同然という意味ではなく本当に自分が生物学的な父親だと確信しているようだった。ベガはがんがんと頭を外側から叩かれているような頭痛と、迫り上がる胃液に吐き気がした。