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《18》暗雲来たる ٤

 薄暗い機械室、そこに放り出された壊れかけの木製の丸椅子の上にミラは腰掛けていた。その椅子は定期的にこの機械室の調整に来る技術工が置いていったものだったか、それともベガ達がこの空間を少しでも快適にしようと持ち込んだものだったか。覚えていないが、ざらざらした木目は柔い肌に時々傷をつける。


 この機械室は第二週目の種ノ日(げつようび)の点検の日さえ避ければ自由に使えたし、何よりその点検は生徒たちの授業中に済まされてしまう為ベガ達は頭の隅に留めておくだけで、あまり気にしなくてよかった。


 「遅かったじゃない」


 ミラは怒りを通り越して呆れたように溜息をつくと、椅子から立ち上がった。がたん、と音を立てて椅子が倒れる。


 「ごめん! 決闘騒ぎでそれどころじゃなかったんだよ」


 スピカがぴょこぴょこ頭を下げるので髪が上下に激しく揺れた。ベガは今からでも授業に戻れないかと期待を込めてミラに「時間は大丈夫なの…?」と尋ねたが、ミラも授業はどうでもいいという状態になっていた。


 ミラは授業に遅刻するなど言語道断派であると思っていたので思わぬ誤算であった。一緒に授業を平気な顔でさぼろうとするスピカを説得してくれるかと思ったからだ。


 「とにかく、その面白そうな話は置いておいて。…スピカ、今日はまだ魔法実技の授業は受けてないわよね?」


 「実技は午後からだよ」


 ミラは自身の学級の時間割だけでなく、全ての学級の時間割を把握していたが、確認のためスピカに尋ねたように見えた。本来、自分の学級の時間割だけでいいものをスピカの世話を焼くついでに何故か三日月学級(アルテミス)の時間割まで覚えてしまい、最終的には暇つぶしとして新月学級(ヘカテー)まで覚えてしまった。


 ミラの頭の中は複雑に歯車が絡み合い、時計のような精巧さを持っているに違いないとベガは常々思っていた。


 「悪いけど、今日は実技の授業はお休みして」


 一瞬、スピカはミラが何を言っているのかわからないといった顔をした。彼女はラト・イスリアの出身ではあるが帝国語は堪能で、帝国語を母語とする徹底的な教育を受けてきた世代であり、今まで言語の違いにより意思疎通が出来ず困ったことなど一度もなかった。


 そして魔法の実技は成績においてとても重要視される科目であり、それを病欠などのどうしようもない事情以外で欠席することはあり得なかった。授業をさぼるという選択肢が常に頭の中にあるスピカでさえも、魔法実技の授業は皆勤賞だ。

 

 この授業をサボる人物なんて、それこそ退学にでもなりたい者だけだ。


 「ミラ…! それは」


 スピカは当然、納得できないと声を上げようとした。


 「もし今日の授業の欠席が成績に響いて臣民権を獲得できないなんて事になったら、私の権力でも人脈でもなんでも使って何かしらの特許の名義でも取らせてあげるわ!」


 ベガはそれが出来るのなら最初からそうしたらいいのではないか…と言いかけたが、つまり偽装ということになる。完全な非合法であり、罪が明らかになった際に処罰が下されるのは当然の事だ。


 そんな危険だらけの道をミラだって本心で歩ませたいと思うはずがない。スピカも自分の力でミラと対等な友人になりたいと望んでいる。ミラの家の力に頼るのは矜持(プライド)が許さないのだろう。


 「だからお願い。今日は私を優先してくれないかしら」


 ミラはスピカの両手を自身の両手で包み込むように掴むと、スピカの瞳を見つけた。ミラは自分がどうすれば一番可愛く見えるかを知っている甘やかされた女の子みたいな顔をするのだ。


 特にこれは男子生徒に効果覿面で、真面目で責任感が強く教師達に信頼という名の雑用を命じられることが多いミラはちゃっかり他の生徒にも手伝ってもらえるようにする強かさを持っていた。


 本来は自分の父親におねだりするために磨いたこの技術は歳を重ねるごとに研磨され、最近では同性に対しても一定の効果を挙げるようになっていた。


 そんなミラを近くで見て来たベガ達にミラの攻撃は効かない。そのはずだった。スピカはそのお願いを非情に断れるほどではなかった。


 「わ…かった」


 スピカは全て納得したというわけでは無さげな渋々と言った返事ではあったがミラはそれで満足なようだ。


 「じゃあ、スピカ。今ここで魔法を使って見てくれないかしら。簡単なものでいいの。先週の授業でやった…あの教科書139(ページ)のでも、とにかく何でもいいから」

 

 学生の魔術使用は実験室などの場所に限定され、安全面であったり諸々の事情により無闇矢鱈に魔法を行使することは禁止されている。

 しかし、目の届かない場所というものはあるものでこの機械室もその一つであった。ベガとスピカが一番最初に帝国臣民権を獲得するために考えた方法は新しい魔術理論を作り上げること。


 結局は初心者が手を出すには危険が多すぎるという事で中断されたが、それまでは試行錯誤しながらスピカはここで魔法を使っていた。


 「まあ!ミラ、もしかして魔術理論を作る方向に切り替えたの?私達、魔術馬鹿になるのね。あれだけ散々、現実味がない、難しい、危険だってミラも止めて来たじゃない。わかったわ。この天才スピカちゃんの実力を見せてあげましょう」


 スピカは何だか嬉しそうだ。スピカを詰っているように見えながらも内側から湧き出るような喜びを抑えられていない。つまり、自分の魔法の実力がついにミラに認められたと思っているのだろう。


 学級が違う故にミラがスピカの魔法をゆっくり見る機会がなかった。


 「確認したい事があるの。スピカの魔術紋を…」


 魔術紋は魔法を使用する際に手の甲に浮かび上がる印の事で、血筋によってそれぞれ違う。帝国の貴族の家では父方の魔術紋を受け継ぐのが良いとされ、家の後継者もその紋を受け継ぐ者が最低条件だったりする。

 たとえ長男であったとしてもその家に伝わる紋を引き継がれていなければ後継者にはなれない。ちなみに父親が入婿だったりした場合は母方の紋を受け継ぐことが良しとされるが、これは少数だ。


 「魔術紋?そんなの気にしたことなかったわ。パーパはちょっと才能があるみたいだけど(学院に来る)ほどじゃないし。家は普通の一般家庭だし」


 魔術紋をとにかく気にするのは貴族だけのようだ。商家だった場合、重視されるのは紋ではなく実力である。普通の平民であるなら家を継ぐのに紋は必要ない。


 ミラとスピカの言葉を聞いて、ベガはもしかしたら…と手を叩いた。


 「スピカはもしかしたら何処かやんごとなきお家の落胤だったりってこと?」


 「スピカ本人が…じゃなくて、先祖の誰かがって可能性の方が高いわ。スピカの話からだと、スピカのお父様の家系に何処かの名家の血筋の方がいらっしゃるのかも。それが隔世遺伝して…。それを確認するためにも魔法を使ってるところを見たいの。もちろん、私の勘違いかもしれないからあまり期待しないで欲しいのだけれど」


 ベガの言葉をミラが引き継いだ。いつの間にかミラは小さな冊子を取り出していて、その表紙には金色の文字で『帝国・帝国麾下の貴族家魔術紋一覧』と書かれていた。

 そんな偏った需要に応える本があるなんてベガは知らなかった。貴族の家の家紋は魔術紋をそのまま家紋にしているか、基にしているらしい。魔術紋を見るだけで、その者がどの家の血を引いているのかがわかるそうだ。


 「私は由緒正しい労働者階級生まれの娘だよ」


 スピカがゆったりと間延びした高い声で言ったのを聞いた時、ベガは思わずクスッと笑ってしまった。いつかのミラの言葉を真似たのだ。ミラは赤くなって俯き、「もうやめてよ。思い出させないで」と恥ずかしがっている。

 

 「スピカは水関連の魔法の才能があるわ。一年生の時の花だったり蛸だったり…。本当に凄かったもの」


 ベガは夢想するように目を閉じて、その光景を思い浮かべた。スピカは「褒めても何も出ないよ」と言いながらも顔が赤らんでいる。


 すっかり調子に乗ってしまったスピカは両腕を前に突き出し「我、希う」と詠唱を始めた。


 「我、希う。暗澹たる深淵から出でしもの、荒れた海の底を統べるもの。我の手となり足となれ」


 ミラが真面目に取り組んでいるのをベガは久しぶりに見たような気がした。魔法の詠唱は、低学年の頃に単語を三つほど繋げるところから始まり、短い文章を作れるようになったら()()は終了だ。

 中級はそれなりの長い詠唱の挑戦に始まり、語彙を難解なものにすることで細かな部分をより鮮明にしていく。上級は学問として突き詰め研究職にでもつかない限り普段使いすることはないであろう領域だ。


 スピカの手の甲に、浮かび上がった紋様は植物のようにも見えるし、何か動物の爪だったり牙だったり…のようにも見える。まだはっきりとは浮かび上がらず、透ける血管と見分けがつきにくい。


 スピカの腕を、そして体全体を螺旋を描くように豆粒大の情報の塊が駆け巡る。その光景はやはり、思わずため息を吐くほどに美しい。荘厳な教会のステンドグラスからの光を浴びているかのようだ。

 何故、これほどまでに美しいのか。まだ根拠などは何もないが、昔の詩人などは「命を燃やすから」という理由をつけている。


 黒い海水が渦を撒いたかと思えば、巨大な蛸足が出現する。鼻の奥を突き抜ける磯の香りは瞬く間にベガを広大な海の真ん中で漂流しているかのような気持ちにさせる。


 これはベガとスピカの記念すべき、初めての──


 懐かしい過去に思いを馳せようとしたその時だった。何か様子がおかしい。過去に浸る暇もなく現実に叩き起こされる。この違和感に気がついているのはこの場にベガだけだった。


 ミラはスピカの手の甲を確認して、必死に『帝国・帝国麾下の貴族家魔術紋一覧』のページを捲っている。スピカはミラが確認出来るまでは蛸足を維持し続けなければならず、集中するように一点を見つめて全体像を掴んでいない。


 「うぅーん、記憶に引っかかるのに見つからない!確かに見たことがあるのに」


 ミラは熱に苦しんでいるかのように唸りながら、頁を捲っては視線を走らせる。スピカは調子に乗って巨大な蛸足を出現させたはいいが、維持するのに全神経を集中させるのが辛くなって来たのかチラチラとミラの様子を伺っている。


 スピカの意識が他のものに掻き乱されたのが良くなかったのかも知れなかった。一瞬、スピカが顕現させた蛸足がぐにゃりと空間に混ざるように歪む。現像した写真が粗くなったような、そんな印象を受けた。


 「スピカ!!」


 ベガは思わず叫んだ。急に叫んだため、声は掠れてしまったがそれが悲壮感を漂わせた。ベガが叫んだと同時にミラの手から冊子が落ちる。

 スピカの制御から離れた巨大な蛸足は、縦横無尽に何本も飛び出し柱のように壁や床に突き刺さった。絶対に八本以上あるとベガは思った。蛸の脚が飛び出す様はまるで爆発のようであり、威力は鐘楼を壊すのには充分だった。


 スピカはこのスィン・アル・アサド学院で、一年生の頃からちゃんとした魔術教育を受けて来てはいたが、彼女が天才肌故に感覚でこなしてしまう。彼女は勉強の順序が逆であった。

 皆が一から学び十に辿り着くのに対し、彼女は何故か十が出来てから一を知るという状態だった。座学が苦手な彼女の代わりにベガがその一を調べてスピカに教えるという方法を取っていた。


 スピカは理論的に理解することを怠り、感覚で突き進んだ結果その「感覚」から外れると途端に制御しきれなくなる。そのことをベガもスピカも失念していた。


 今まで、失敗と言える失敗を起こしたことはなかった。命の危険があるような。


 巨大な蛸の脚に弾き飛ばされ、ベガとスピカはかつては壁であったが、今は崩れて壁として用を為さなくなった場所から外に放り出された。宙に体が浮いている。

 臓物が迫り上がるような気持ちの悪さと、妙に時の進みがゆっくりに感じる視界。ミラの悲鳴が吹鳴サイレンのように耳の奥で反響している。


 ここで、死んでしまうんだと何故か分かった。ベガは迫り上がった臓物が冷えていくような感覚に襲われた。そして一つの記憶を思い出した。否、思い出すという能動的なものではなく、記憶に襲われたという受動的なものに近い。

  

 白黒、文字列、紙の匂い、連続的に何かの記憶が映し出される。これはスィン・アル・アサド学院の図書館での記憶だった。新聞の切り抜き、見慣れた名称が目に飛び込む。「スィン・アル・アサド学院」まさに今いるこの場所の名前。

 鐘楼、飛び降り、少女、古びた記事の中で文字が踊る。記憶の曖昧さをこれでもかと感じるほど、ベガの頭の中で写真はぼやけ文字に至っては書体がそれぞれ違う。


 生徒の立ち入りが禁止になった理由はちゃんとあった。幽霊が出るという噂が囁かれ、だからこそ人が寄り付かずクラーがよく使っていた。彼女は幽霊なんかを恐れず、鼻で笑うような人だった。


 ベガよりも少しだけスピカの方が地上に近い位置に居た。きっと彼女の方がベガよりも早く地面に叩きつけられてしまうだろう。死が迫っているというのに、ベガの頭は怖いほど冷静だった。

 

 ベガは死を何より恐れていた。自身の死に直面したら、もっと取り乱したり恐怖したりするかと思っていたが、今はそんなものはなかった。ただ、きっとスピカの方が早く死んでしまうという事実を悲しいと感じている。


 スピカはきっと今日自分が死ぬなんて思ってはいなかっただろう。ベガのように毎日死を覚悟して生きている人生ではなかった。明日、明後日を無条件に信じ陽だまりの中を歩いていくような人生だったはずだ。


 スピカはこんな所で死ぬような人では無かった。生命力に溢れた若芽のような彼女が十代でその命を終えるなど誰も思わない。まだ生きていたいという思いは当然のようにベガの中に芽生えてはいたが、それよりもスピカに死んでほしくないという思いの方が勝った。


 我、希う。奇しくも魔法の詠唱と同じ始まりの鍵の言葉を思っていた。口に出した方が覚えやすい、願いが叶いやすい、というように詠唱することで魔法は発動しやすい。

 易いというだけで極論、言葉を発さなくとも強く願うだけで発動する。火事場の馬鹿力とでも言うべきものをベガは発動させていた。

  

 強く目を瞑る。覚悟していた地面に叩きつけられるような痛みは一向に襲ってこない。せいぜい体の節々が軋むように痛むだけだろうか。ゆっくりとベガは目を開ける。


 そして飛び込んできたのは蜘蛛の巣のように複雑に張り巡らされた腕くらいの太さがある蔦。その蔦が腕にも脚にも、腰にも絡みつき受け止めてくれたのだ。視界の端には地面すれすれの所で受け止められたスピカの姿も見え、生きている様子からほっと安堵の息を吐く。


 鐘楼は上層部が崩壊により疲れ果てた牛の舌のようになっていた。瓦礫の隙間からミラが顔を出してこちらを心配そうに伺っている。


 ベガは「私は大丈夫よ!」と伝えようと腕を振ろうとしたがうまく動かない。もしかすると蔦に絡まって動かせないのかも知れなかった。

 爆発のような音を聞いて、校舎の窓から大勢の人がこちらを見ているのがわかった。何人かこちらに駆けてくる様子も見られる。


 ベガが気を抜いた途端、蔦は灰のようになってぼろぼろと崩れ落ちた。ベガは背中と臀に鈍い痛みが走ったが、鐘楼の一番上から落ちたわけではないので身体の原型は保っている。ただ、骨は折れたのかも知れなかった。


 スピカも痛みに悲鳴をあげるようなことはなく、すぐに立ち上がってベガの方に駆けてこようとしたようだ。しかし、スピカは一、二歩歩みを進めた所で足が動かなくなったかのように立ち竦んだ。


 「スピカ、大丈夫? 私は大丈夫よ、スピカは──」


 ベガは安心させようと声を出しながら体を起こそうとしたが、上手くいかない。どうやら本当に骨が折れてしまったのかと不安になったてくる。上半身だけでも起こそうとするが平衡感覚が上手く掴めない。


 虫みたいにもぞもぞとして、動けないことがもどかしかった。しかし達成感のような充実感のような幸福な気持ちがベガの中に満ちていた。あの植物の蔦──あれは薔薇の蔦だ。ベガにはわかる。何故ならあれを出現させたのは他でもないベガなのだから。


 そのきっかけは事故だとしても、ベガは魔法を使えたのだ。やっとスィン・アル・アサド学院の生徒の条件を満たせたのだと嬉しくなった。もうこれで変な目で見られることはない。堂々としていられる。


 「ベガ…!」


 息を切らしながらベガの名を呼んだのはシリウスだった。近くにいたスピカではなく、何処からかこの状況を見たのであろうシリウスが誰よりも早くベガの元に駆けつけてくれた。


 普段は他の生徒と公平さを保つために親しげな様子を見せない。ましてやこんなに慌ててなりふり構わず…といった様子は見せないはずなのに。


 「シリウス、シリウス…」


 ベガは愛おしいというような気持ちが胸を占めて、まるで小さな子供に戻ったかのように甘えた声で名前を囁いた。


 「起き上がれないの。腹筋がないって笑わないでね。私は筋肉が付きづらい体質だってシリウスも言ってたじゃない」


 情け無いやら恥ずかしいやらで可愛げのないことを言ってしまったと少し後悔しながらベガは口を尖らせた。シリウスはそういった素直になれないベガの気持ちを汲み取ってくれる能力に長けていたから、ベガの本当は甘えたいという本心を察して起き上がる手伝いをしてくれると思ったからだ。


 しかし、シリウスはベガの気持ちを察していないはずはないのに掠れたような声で「ベガ…ベガ…」と名前を呼び続けるだけだった。まるで今にも泣き出しそうだ。

 

 「シリウス、私できたのよ! 魔法が使えた」


 そうは言っても遺伝子の魔力配列が損傷していること自体は嘘でなく、かろうじて使えるという程度だ。シリウス曰く、ベガは魔力配列には異常な遺伝子と正常な遺伝子が混在したいわゆるモザイク状ではないかと言っていた。

 魔力は全く無いというわけではなく、魔力を生命維持に全振りしている状態というわけだ。


 「ベガ、いいんだ。いいから…」


 一番喜んでくれると思っていたシリウスは何故か泣きそうだった。嬉し泣きというわけでは無いことは表情を見ればわかった。シリウスはベガを人の視線から隠すようにベガを抱き上げた。


 「医務室に行こう」


 それだけを事務的に淡々とシリウスは伝えると口を真っ直ぐに引き結んだ。その険しい表情にベガはごくりと唾を飲み込んだ。この表情は、何かまずいことが起こった時のものであまりお目にかかれない。記憶の中でシリウスがこの顔をしたのはベガが馬車に轢かれた時と、【ファム・ファタール】で叱られた時だけだ。


 「待ってシリウス!スピカも怪我してるかも知れないし、ミラが取り残されたままなのよ」


 茫然と立ち尽くすスピカの周りにはシリウスに遅れるように駆け出していた生徒達に囲まれていた。スピカは氷漬けにされたかのように一歩も動かず、女子生徒に肩を揺すられていた。


 ミラがいるであろう場所を指差そうとした時にベガは気づいた。袖がだらりと垂れ下がり、そこにあるべき腕の質量がなかった。一種の興奮状態で気が付かなかったが、肩の付け根あたりまで無く溶けているような液体の感触があった。


 腕を維持するだけの魔力を蔦の出現に使ってしまったらしかった。それを認識すれば、発作の痛みがベガを襲った。鎮痛剤も無く、疲労も溜まっているところに襲いかかる発作にベガは小さく悲鳴を上げた後にシリウスの腕の中で意識を失ってしまった。


 激痛ではあるが、人の温もりが近くにあることに安堵していた。目が覚めたら、シリウスがいる。その確信があるからこそ、意識を手放す恐怖は和らぎ、また目を開けたいと思う。



******


 

 目を開ければ、見慣れた医務室の天井が見えた。薬品独特の匂いは本当のところ苦手だが、慣れてしまえば安心の方が勝る。ベガほど医務室の常連も中々いないだろう。


 ベガはゆっくりと頭を動かして周りを見る。寝台を覆うようにぴったりと(カーテン)は閉じられていて、傍にシリウスの姿はない。

 衣擦れの音だけがやけに耳につく。傍にシリウスが居ないだけで、こんなにも心細くなるなんて思わなかった。発作の後だから尚更だ。もしかすると、ベガは自分が倒れた時シリウスが付きっきりで看病してくれるという自信と何処か怠慢があったのかも知れない。


 ベガは無邪気に魔法が使えたことをシリウスに報告したが、彼は喜んではくれなかった。ベガが無茶をしたことに愛想を尽かしてしまったのかも知れない。最悪の想像に頭が舵を切り掛けたが、頭を振ってその思考を打ち消す。


 何か手が離せない事があるかも知れない。彼にだって食事と睡眠は必要だし、花を摘みに行かなければならない。心細いからと言って悲観的になってはいけないと、ベガは倦怠感が包む体を起こす。カーテンの外で人が動く気配がした。


 「シリウス!」


 名前を呼ぶのと同時に、ベガはカーテンを開けたがそこに居たのはシリウスではなかった。


 「ようやくお目覚めですか、眠り姫。そろそろ目覚めのキスが必要か真剣に考えるところでしたよ」


 長身の男。全身を漆黒の軍装で包み、その瞳は猛禽類の様に鋭い。その立ち姿がまるで翳のようで、孤児院に度々訪れるシャガル家の遣いの者を連想して肩が跳ねた。

 

 男の顔は、元は平凡な──穏やかで優しそうな顔だったのだろう。しかし、身に纏う自らを戒める様な鋭さすらある軍装と眼光の鋭さが彼を一般人ではないと語っていた。


 「指揮官」


 ベガとその男の間に、低い女の声が割って入った。彼女も同じく軍装であるが、ちょっとした装飾の違いと男への呼び掛けにより男よりも下の身分であることがわかる。


 その女の後ろから不安そうに校医がこちらを見ていた。その手には医術師が持つには似つかわしくない軍刀が抱えられている。これはベガの想像でしか無いが、神聖な学舎、しかも医務室に武器を持ち込まないでくれと軍人たちと揉めたのだろう。


 その結果、何故か一時的に預かることになってしまったのだ。それを示す様に、軍装の男にもその部下らしき女の腰にも何も下げられていない。


 「おいおい、睨まないでくれ。冗談だ。守備範囲は広いが流石に未成年に手を出したりはしない」


 男は軽薄そうな笑いを浮かべながら手を振って否定するが、部下らしき女は思い切り男の足を軍靴の踵で踏みつけた。部下らしいと思ったがそれはそもそも間違いだったか、もしくはこの二人の間にそんな堅苦しい上下関係はないのかも知れない。


 ベガは女の顔を見て、そして気付いた。


 「貴女、もしかしてクラー? クラー・アルガール! 私、ベガ・ワルドゥよ。貴女の後輩で同室だった…」


 彼女と目が合う。鋭かった瞳はベガを映すと少し柔らかい雰囲気になった。豊かな赤毛はうなじが見えるほど短くなっていて制帽に収まっていた。それを見てベガはなんとも惜しい気持ちになった。


 「…覚えてるよ。いびきが煩くて仕方がなかった」


 ベガは反射的に口を押さえた。先程まで自分は寝ていたのだからもしかして──。そう思った時、クラーの瞳が意地悪そうに歪められた。


 「冗談。いびきが煩かったのはスピカ・リリーの方。寝相が悪くてよく寝台から落っこちてた」


 「私の記憶にある限りだとスピカのいびきを聞いたことないわ。確かに寝相は悪かったけど…」


 またクラーが揶揄っているんだとわかった。クラーの瞳は楽しそうに揺れている。そこで男が咳払いをした。


 「悪いが感動の再会と同窓会は後にしてくれ、サロメ。とりあえず状況をこちらのベガお嬢様に説明しなくてはならない。何故、傍に貴女の愛しのシリウスではなく軍人がいるのかを…とかね」


 男が目配せで校医に何か合図の様なものを出していた。校医はしきりに軍人二人を気にしながらもベガの腕に刺さった点滴を抜いてくれた。そこでベガは自分の腕が前と変わらず生えていることに気がついた。

 腕が無くなっていたのは夢だったのだろうかとベガが思った時、「腕、問題なく動かせる?」とクラーが尋ねた。


 「ええ…。勿論、動かせるわ」


 返事はできたベガだったが感情が篭らず心ここに在らずといった状態だった。手を握ったり開いたりを繰り返す。その様子をクラーと男はじっと見ていた。


 「ベガお嬢様、貴女はまったく不思議だ。無くなった腕が生えてくる様な人間を私は見たことがない。羨ましいことです。体の一部を欠損した同胞たちも貴女の様だったらどれほど良かっただろう」


 男は静かにベガを見下ろしていた。ベガというよりはベガの腕を。その瞳の冷たさにぞっとした。そして、誰にも言ってはいけない、秘密にしなければならないとシリウスが言っていたことを破ってしまったことを悟った。知られてしまったのだ。この目の前の男にも、クラーにも。校医でさえも。


 「シリウスは…シリウスは何処。何処にいるの…」


 男の口ぶりからしてシリウスは此処には居ない。そのことがとても恐ろしかった。シリウスはベガを置いて何処かへ行くなんてこと絶対にしないはずなのに。

 

 「長い話になります。──まずは茶でも飲みましょう」


 男は明らかに話を逸そうとしたか、迂遠な語りに持ち込もうとしていた。校医が「お茶を淹れてきます!」と慌てて医務室から出ていく。医務室の隣には湯が沸かせるくらいの簡易的な台所が備え付けられていたはずだ。


 しばらくして、湯呑みと注がれた濃い紅茶が出てくる。男とクラーは飲んだがベガは液体であろうとも、どうしても喉に通らなかったので口はつけなかった。

 クラーは紅茶に砂糖を大量に放り込んでいた。その様子を見て、ベガは目を丸くする。勿論、その量の多さもあるが彼女がこれほどの甘党だったことを知らなかったからだ。ベガも甘いもの好きではあるがここまでじゃない。


 「ん…あー、薬のせいで舌がぶっ壊れてね」


 クラーは驚いて見つめるベガと健康的な問題から引き気味で見つめる校医の視線に耐えかねたのか、言い訳をする様に呟いた。ベガは投薬義務があることをぼんやりと思い浮かべていた。


 「シリウスの話の前に、まず自己紹介が遅れて申し訳ない。私は皇帝直属軍第一師団、指揮官を務めています。ジキルという名で通っているので、その様にお呼びください」


 ジキルの眼睛はベガを品定めする様だった。皇帝直属軍、その所属を聞いてベガは身を固くする。皇帝の命にしか従わない帝国の暗部を担う組織。表には出てこない筈だ。


 その皇帝直属軍所属の軍人が多少の軽口を混ぜながらも、ただの小娘でしかないベガに礼を尽くしている。その事実が怖かった。表向き紳士的に振る舞う人なのかも知れないが、ベガを簡単に捻り潰せるであろう大男が低姿勢であるのは何だかむず痒かった。


 「ジキル…。本名じゃないんですね」


 「皇帝直属軍は特殊でして、入ると同時に名を捨てるのです。身も心も皇帝の剣として国に尽くすために。…まぁ、サロメの場合はその中でも特殊で本名ですがね。途中入隊なのと彼女の書類上の保護者が帝国鉄道建設局のお偉いさんだったこともありまして」


 怪しさを隠そうとしないジキルに警戒と不信感をかなりあからさまに表してみたベガだったが、ジキルは気にしてない様だった。


 「…シリウスは、何処?早く答えてください。彼は発作で倒れた私を放って知らない軍人に任せる様な人じゃない」


 ベガは硬く手を握りしめた。爪が掌に食い込む。ベガの焦りなんかすっかりお見通しだろうに、ジキルは「まあまあ、そんなに急くな」とでも言う様に器用に片方だけ眉を上げて見せた。

 

 「……これは一つの選択肢ですが。貴女は何も知らないままでいることも出来る。直に然るべき場所へ行くことになりますが、そのまま幸せに暮らすことができる筈です」


 そのジキルの言葉は純粋な親切心といった優しさから来るものだったのかも知れない。しかしその言葉を聞いた途端にベガは内側から沸騰する様な怒りが湧いてくるのを感じた。


 「何も知らないままが幸せだって言いたいんですか? 私が、これからどうなるかも知らずに! もう一度聞きます。シリウスは何処? どうして私の傍にいないの?」


 ジキルは少し黙ると口元を悩ましげに手袋を付けた手で覆うと深く息を吐いた。クラーは紅茶を飲み干すと、医務室の中でおろおろとしている校医に対して出ていく様にと指示した。そのやり方が、まるで虫を追い払うのと同じに見えた。


 「知らない方が、いいこともあります」


 深いため息の後、ジキルがそう吐き出した。クラーはベガと目を合わせない。


 「何か私に言いにくいことなのですね? 大丈夫です。さっき覚悟を決めました。シリウスのことについて知らないままの方がいいなんてこと、絶対にない。私は彼のことを全て知っていたいの」


 ジキルは苦笑して、また深いため息をついた。彼の纏う雰囲気というか、表情は怪しげで猛禽類のような鋭さを隠し持ったままだが本当に申し訳ないと思っているかのようだった。


 「少し危険ではありますが、深い愛情をシリウスに感じていらっしゃるのですね。彼は貴女にそれほどまで深く愛される様な男では無いのですよ」


 「そんなこと貴方に決められる筋合いは無いわ。私の気持ちを誰かに強制させられることなんてない。あっていい筈ないわ。貴方にシリウスの何がわかるっていうの」


 「全てをわかっているなどと言うつもりは御座いません。それは傲慢すぎるというもの。ですが、私は知っていますよ。彼の現在の居場所なんかをね。貴女のことも存じ上げております。ですが、私が一方的に知っているだけですね。一度お会いした事もございますが…ええ、覚えていらっしゃらなくても仕方がありません」


 ジキルはまるで舞台役者のように息継ぎを感じさせずに一気に話してしまった。そして、会話の主導権を彼に握らせてはいけないとベガは思った。上手く煙に巻き何か大事なものをベガから取り落とそうとする。


 ジキルはベガと会ったことがあると言った。クラーが隣に並んでいる姿を見て、そこで建国記念日の夜にクラーと主に路地裏にいた男であることがわかった。しかし、思い出したことは意地でもジキルには言ってやらないことにした。


 「シリウスの居場所を知っているのね。なら、答えられるでしょう?シリウスは何処?」


 「シリウス・バナフサジュは大罪を犯して今は捕らえられています。場所はいくら貴女でも教える事はできません」


 ジキルは至極真面目に淡々と事実を述べた様に聞こえた。ただベガの脳や耳が拒否してしまったせいで胡散臭く聞こえるだけで。

 

 「シリウスは…そんな人じゃない。何かの間違いよ。何の罪を犯したって言うの?」

 

 「罪状について今この場で我々の口から言う事はできない」


 ベガは助けを求める様にクラーを見た。クラーはもう目を合わせてくれなかった。急に見捨てられた様な気持ちになって、ベガは膝を抱えて頭を伏せた。


 「信じないわ」


 その言葉は子供が駄々を捏ねている様な意地を張っている様な情けなさしかなかった。


 「シリウス以外の事であれば、ある程度答える事ができますよ」


 ジキルは慰める様な声を出したが、その瞳が冷たいままベガを見下ろしていることを知っていた。シリウスのことはどれほど問いかけても、もう何も言ってくれないのだろう。

 

 「……スピカとミラは、無事なの?」


 「バルセィーム家のご令嬢とスピカ・リリーという生徒はあの()()の後、国立病院に入院しました。バルセィーム家のご令嬢の方はもう退院された頃かと」


 ベガはとりあえず二人が無事であったことに胸を撫で下ろした。先程まで自分の不安ばかりで二人の心配をする暇がなかった事を申し訳なく思った。


 「一日だけの入院だったの?」


 「いえ、一週間ほど。…ああ、貴女はあの日から一週間ほど眠っていたんです。その間に学院は休校になって現在は閉鎖されています。貴女の世話のために数人の医術師が残っただけで、今ここには駐在している軍人以外に人は居ません」


 ベガは医務室の扉を見た。その向こうに何人もの軍人がいる様な気がした。学院が何だかとても怖い場所になってしまった。


 「休校…?」


 先程からベガが発する言葉は疑問符だらけだ。そして休校になったのはベガにも責任がある様な気がしてならない。


 「鐘楼の倒壊は表向き老朽化によるものだとしていますが、中には学院の象徴を破壊するテロであったと言われています。世間的にはテロ説の方が支持されていますね。死人が出なくて良かったですよ。まったく。立ち入り禁止の鐘楼内にいた事も、ちょっとした悪ふざけでしょう? 学生時にはよくあることです」


 ジキルがベガに微笑みかけた。きっとジキルら皇帝直属軍が揉み消したり誤魔化したりに奔走していたのだと思う。ベガはこの事態に何の関係もない犯罪組織が世間の認識から罪を被せられていることに申し訳なく思った。


 「もう体の方は大丈夫ですか? 歩けますか。医術師の話では鎮痛剤が効いて発作が収まったらぴんぴんしていると聞いておりますが」


 ジキルに言われ、ベガはゆっくり寝台から降りる。「問題なさそうだ」とジキルが呟き、それに同意する様にクラーが頷いた。これからジキルの言う然るべき場所に連れて行かれるのだろうか。


 「我々は貴女が眠っている間の監視。回復すれば重要参考人として連れてくるよう命令されております」


 ジキルのその言葉を聞いてベガは飛び込むように寝台に逆戻した。お腹を押さえて蹲る。


 「お腹痛いわ。まだ本調子じゃないの。痛い…痛いからまだここに居るわ」


 呆れる様なジキルの笑いが降ってきた。この人は何もかも嘘っぱちだとベガは思った。表面では笑ったり、慰めようとしたりしているがその表情の裏にはこれでいいのだろうかとおずおず確認するかの様な不安定さがある。掴みどころのない、蜃気楼のような幻。

 

 本当は爪の先程もベガを心配していないに違いない。そもそも何かしらの感情を抱いているのかすらも怪しい。彼はきっと感情表現に何かしら欠陥を抱えた人間で、周りから奇異に見られたくないから見よう見まねで人間を演じているように見えた。


 彼は才能だけはあったのか、普通の人間と変わらない振る舞いを身につけたが、結局中身は伴わなかったのだろう。ただの張りぼて。


 「サロメ…抱えてやりなさい。──大丈夫ですよベガお嬢様。貴女は乗っているだけですから」


 寝台に引っ付く様にしていたベガだったが、クラーに簡単に抱き抱えられてしまった。暴れてみるが、ベガの小さな体と女性らしい曲線を残しながらも全身にしなやかな筋肉を身につけたクラーとではどちらが勝つかは明白だった。


 然るべき場所というのは、取り調べ室かも知れないし何処かの研究所かも知れない。研究所だったらベガは人体実験の被験者にされてしまうだろう。「幸せに暮らせる筈」というのは絶対に嘘だ。


 「服!着替えなきゃ、このままじゃ外に出れないわ」


 クラーに抱えられたベガは必死に叫んだ。ベガの身に纏っているのは寝間着のようにゆったりとしたもので裸足でもあった。どうにかして寮の部屋まで帰れないものかと思った。

 一旦、一人になって逃げ出そうとベガは考えた。ジキル達について行っては行けない気がするのだ。


 「服なら寮室から持ってきたものがあります。ガサ入れした際に移動させたものはだいたい元通りにしていますので。ああ、勿論下着の類は女性が担当しましたのでご安心を」


 ジキルが指差す先には綺麗に畳まれたベガの私服と革靴があった。下着は中に挟んで見えない様にしてくれているのだろう。ちらりとクラーの顔を見れば彼女は顔を逸らした。


 「服ならあちらでも用意できるので別にいいのですがね。私は退室するから、サロメがベガお嬢様の着替えを手伝え」


 軍靴を鳴らしながらジキルは医務室から出て行った。残されたベガはクラーの顔を伺うように見る。彼女の顔は凛々しさが増したように感じる。最後に見たクラーが野良犬のような荒々しさを内包を持っていたとするなら、今は狼のように獰猛に研ぎ澄まされている。ただ狼と表現するよりは首輪の付けられた狼というか…猟犬のようだった。


 「あの…一人で着替えられるのよ、私。だから大丈夫よ」


 クラーに降ろしてもらい、ベガは服を抱えた。寝台の周りを囲うカーテンを閉じて仕舞えばその中で着替えれると思った。


 「別に本当に手伝うつもりなんて無い。ジキルの言った()()()()()()()()()という意味だ。良かったな。私が居なきゃ、あいつに監視されながら着替える羽目になるところだったぞ」


 どうやら逃亡の機会を狙っていたこともお見通しだったのかも知れなかった。いつの間にかクラーは軍刀を腰から下げていた。校医が置いて行ったものをジキルも回収したのか、医務室に他の武器の姿はない。


 「流石に、冗談よね?」


 ジキルの前で着替えなきゃいけないくらいなら、恥を覚悟でベガは寝間着で外に出る。外套くらいは貸してくれるだろう。クラーが揶揄うように目を細めて笑うかと思ったが彼女の表情は真剣そのものだった。


 「どうだろう。任務の円滑な遂行のためなら平気で対象の人権を無視する奴だから。流石にまだ子供に発情はしないとは思うけど。あいつは倫理観が終わってる」


 「やめてよ」


 身震いして、ベガは服を皺になるほどぎゅっと抱きしめた。一応、上官にあたるであろうジキルが居なくなった途端に貶し始めるクラーの姿に思わず笑いが溢れた。


 「お望みなら、本当に手伝ってやろうか。ほら、腕あげて。ばんざーい」


 「子供扱いしないで!自分で出来るって言ってるじゃない」

 


******

 


 着替え終えて医務室を出る。ジキルは扉のすぐ傍に壁にもたれてベガ達を待っていた。それ以外の人間の気配は感じない。校医も既に帰ってしまったのだろうか。


 「移動しながらでいいなら、まだまだ質問にお答えしますよ」


 それ自体は優しい提案であったが、ジキルを完全に信用して命運を委ねてしまうのは危険だとベガは本能的に感じ取っていた。もっとベガが打ちひしがれて弱った心につけ込むように甘い言葉を囁かれていたら…と思うと恐ろしかった。


 彼は情報を持っていて、その情報をベガに与えない選択肢もあれば情報を小出しにして重要な情報を意図的に隠すこともできる。ジキルには余裕があって、ベガには余裕も選択肢もない事が腹立たしかった。


 この場においてベガは弱者だ。状況の手綱を握るほどの手札を持たない。そんな状態であるのに、あくまで紳士的にある程度の情報を与えてくれるジキルは良心的な方なのかも知れない。


 「私はこれから何処へ行くの?」


 「着いたらわかります。不安でしょうが、貴女に危害を加えるような場所ではありませんよ」


 ジキルはベガを安心させるように微笑んだが、その彼自身を一切信用できないので意味はなかった。校舎の外に出ると、ベガは「あ」と小さな声で呟いた。茹だるような暑さでじりじりと地面を焼く日差しが降り注ぐはずが、視界が翳り青空は黒い雲で覆われていた。


 周囲は薄暗く、いつもの風景とだいぶ違う印象を受けた。程なくして、激しい音立てながら雨が降り始める。帝都では珍しい雨だ。

 ジキルやクラーは自らが濡れることに関しては然程気にしていないようだが、ベガが濡れることはあってはならないとでも思ったのかジキルは自身の羽織っていた外套を広げてベガを雨風から守った。

 

 「ベガお嬢様が濡れるといけませんから」


 ジキルの瞳に映るのはきっと人間じゃなくてか弱い生物なのだろう。雨に濡れる、風邪をひく、そして死ぬ、という方程式を作り上げているに違いない。

 

 「……ありがとう…ございます。随分高価そうですけど」


 頭に「一応」と付けるのは何とか留めた。分厚い布地の外套は銀糸で不死鳥が縫われている。手触りは悪くない。高価そうだとベガは思った。


 「特殊加工が施された丈夫なものです。支給品ですので、正確な値段はわかりかねますが、まぁ…それなりに値が張るかと」


 「お金持ってないので弁償とか出来ませんよ」


 「請求するつもりなど毛頭ございません。ベガお嬢様をお守りするためでしたら、この外套も濡れるのは本望でしょう」

 

 やはり、ジキルに尽くされたりするとは感謝より先に恐怖が来る。お嬢様と呼ばれるのもむず痒い。きっと何かある。油断させようとしている。しっかりと心を強く持つのよ、とベガは自分に言い聞かせた。


 「涸河が氾濫するかもしれない…」


 ぽつりとベガは呟いた。外套が音を遮ってくぐもった雨の音が聞こえる。命を飲み込む渦が起こる。暗雲が立ち込めて、その渦の中にベガは飛び込もうとしているような気がした。

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