《15》暗雲来たる ١
季節が何度か巡った。と言っても、暑い季節と凄く暑い季節の繰り返しではあった。東の方のように四季がはっきりとはしていない。帝都で過ごす季節もアリエス辺境伯領で過ごす季節も、そのどれもが目に眩しく映った。
まるで孤児院で過ごしていた時は全てが灰色だったかのようだ。
そして五年生になった朽葉の月。ベガは今も奇跡的に息をしている。この数年の間に何度か試薬品が出来てはベガに投与して試してみるということがあった。しかしまだ完治してはいない。
シリウスは薬の研究と同時進行で、ベガの発作の痛みを緩和する鎮痛剤の研究にも力を入れてくれ、発作が起こっても鎮痛剤がすぐ効くようになって随分と楽になった。
試薬品の効果かはわからないが、発作の頻度も昔と比べれば減ったように思える。
クラーが居なくなって空いた寮の寝台は次の年になると新入生が入って来た。プリジパティ・ファラウラという小動物のような可愛らしい少女だ。ふわふわした黒に近い焦茶色の髪と瞳をしている。
彼女は子爵の家の出で、同室の先輩の中では明らかにミラを慕っている。逆にスピカは尊敬するに値しないと思われたのか、かなりぞんざいな扱いだ。
「はぁ〜…。どうやったらアルタイル様とお近づきになれるかしら…」
うっとりと目を潤ませながらため息を吐くプリジパティの視線の先を辿ればリゲルを含む他の男子生徒と共にボールを蹴って遊んでいる姿が眼下に映っていた。
長い昼の休み、棗椰子の木の影が校庭に落ちている。2階の回路からはベガやプリジパティ達だけではなく、他にも多くの生徒が眼下に映る白熱した戦いに釘付けになっていた。そのほとんどが女子生徒だ。
男子生徒は自らも試合に混ざるか、校庭に降りて周りを囲むように壁を作って見ている。
「まったく、プリジパティは口を開けばアルタイル様アルタイル様…って。そればっかりね」
眉間に皺の寄ったミラが呆れたように言った。ミラがプリジパティに一番慕われているためこの類の話を飽きようとも何度も聞かされている。
「だって〜、お美しいんですもの!」
その熱に浮かされたような瞳は所謂恋する乙女というものなのだろう。歳を重ねるごとに周りが恋の話題を上げることが多くなった。まだ恋という感情がよくわからないベガは少し不安だ。
「アルタイルは五年生になってからまたぐんと背が伸びてかっこよくなったからね。声も低くなったし。リゲルとよく比べっこしているのを見るわ」
ベガはそう言いながらアルタイルとリゲルを見つけて目で追った。自分一人だけ成長が遅れているような気がするのだ。学年の中でベガが一番背が低いし、一学年下のプリジパティと同じくらいなのだ。そのプリジパティもあまり背が高い方ではない。
するとプリジパティは不機嫌そうな声色になった。
「はぁぁ? 何、自分は親しいですよアピールしてるんですか? 先輩。絶対私の方が可愛いし、性格もいいし、アルタイル様の素敵なお嫁さんになれるのに」
ベガはプリジパティから何故か目の敵にされていた。事あるごとに突っかかってくるのだが、数年もすればもうそんなものだと流せるようになってきた。むしろ、清々しいまである。陰湿ではないところがプリジパティの魅力かもしれない。
「どうだろう。少なくともベガの方が性格はいいと思うけど」
隣にいたスピカがぼそっと呟いた。隣のベガだけに聞こえたかのように思われたが、プリジパティはしっかりと音を拾っていた。
「スピカ先輩には聞いてないです。アルタイル様がどう判断するか。それが重要だから!」
プリジパティは凄い剣幕でスピカを睨みつけた後、もう飽きたのかアルタイルを見つめることに専念し始めた。校庭に面した廊下に温い風が吹き抜けた。
最初の頃はプリジパティの態度にスピカが不快感を示し猫の喧嘩のようなことになっていた。しかしプリジパティが丸くなったのか、スピカが大人になったのか。
どちらかはわからないし、そのどちらともなのかもしれないが、こうして多少の毒を吐くくらいでなんだかんだ仲良くやれている。
プリジパティがスピカを尊敬に値しないと判断した理由は分からなくもないのだ。プリジパティがまだ新入生だった頃、当時の寮長であったツィーら上級生にクラーと同室だったが故に何か悪い遊びを教え込まれているかもと厳しく目をつけられていた。
そうとなれば図書館にお菓子を持ち込んでいたことがバレたり、教科書に落書きしていたことがバレたり、授業中にお菓子を食べたことがバレたり、お菓子がバレたり、お菓子が……。とにかく、ツィーから叱られてばかりのスピカを尊敬はできないと思うのは当たり前なのかも知れなかった。
特にプリジパティはミラ同様、規則に関しては真面目ではあったので。
ベガは自分たちが新入生だった頃のツィーやクラーと同じ学年になったことが感慨深くなった。ツィーはクラーが退学した後、一年ほど学院に留まったのちに、最終学年である七年目を待たずして飛び級と早期卒業を決めてしまった。
帝国官僚への道を選び、今は何処かの省庁に入省しているであろう。彼女は焔華の立場をよくするために頑張っているはずだ。
多忙な寮長のツィーだったが、それなりに話す機会はあって帝国は暑くて疲れるだとか、料理が香辛料で味を誤魔化していて口に合わないだとか、そんな話をしたこともあった。
そんな一面を見るたびに、最初の印象であった真面目で少し冷たい鉄壁の寮長という仮面が一枚一枚剥がれ、意外と可愛い人であることがわかった。そんなこと本人には言わないが。
特に米が口に合わないらしい。焔華の米はもっと粘性が強いのだという。
ベガは少し懐かしむように目を細めた。まるで日光が眩しいかのようで、そう勘違いしたのかスピカがそれとなくベガの手を引いて廊下に出来た日陰に誘導してくれた。
まだ一年生だった頃から随分と学院は変わった。まだ治療法が確立されていない難病の子どもたちを中心にスィン・アル・アサドの研究機関で預かり、治療法の研究が進められているのだ。
ベガが前例となったことで、今まであまり優先されなかった難病の研究が進められている。同じ敷地にあれど、研究機関と明確に分たれているため詳しくは知らないが闘病により教育を受けられない子供達のため、学院の教師が小さな学習会のようなものを開いているという。
研究対象としての存在が増え、それほど奇異ではなくなったのかベガに対する周りの視線や態度もかなり柔らかくなった。ただ時間が経って物珍しがるのに飽きたのかもしれないが。
「ベガの顔の方が私、好きだよ?プリジパティは…ほら、あれだよ。性格のきつさが顔に出てるし」
スピカがベガに耳打ちするように囁いた。今度は少し距離が離れていたためプリジパティには聞こえなかったようだ。もしかすると、先程日陰に誘導したのはこの事を伝えたかったからだったのかも知れない。
「ありがとう、スピカ。でも私は爪の先ほども気にしてないから」
思わずベガは笑みが溢れた。それなのにスピカの表情は何処か不満そうだ。またスピカが耳打ちしてくる。
「ベガ、本当にいいの? アルタイルをプリジパティに取られちゃうよ」
耳に入ってきた言葉を噛み砕いて飲み込むまでに少しの時間が掛かった。その言葉の意味するところに、少し胸の奥が痛んだ。
「確かにアルタイルがもう私と仲良くしてくれなくなるのは寂しいけど、アルタイルが幸せなら私も嬉しいし、同室のよしみでプリジパティの恋が叶っても嬉しい」
本心からそう言ったつもりだが、スピカは納得していないようだった。それどころか眉間に皺を寄せ、瞳には呆れのような感情が浮かんでいるように見て取れる。
「………ベガってちょっとあれだね。なんというか…あれだね。鈍感だよね。鈍感が過ぎるよね」
最後になればなるほど捲し立てるようになった。心外だ、スピカに言われるなんて…と衝撃がベガを襲っていた。
「というか、この歳でなんでそんな悟りの境地みたいな所に辿り着いてるの? ちょっと怖いよ」
何故かわからぬまま、スピカに呆れられそして引かれている。スピカが恋の話題を所望していることはわかっていた。しかしベガには色恋がわからない。
スピカは一度名も知らぬ男子生徒に告白され盛大に振っていたし、ミラは実家からお見合いの釣書が何度か届いたりしていた。そんな二人の経験にベガが追いつけるはずもない。
「わかった。本命はリゲルなんでしょ」
「アルタイルも好きだし、リゲルも好きよ。勿論、スピカやミラも好き」
スピカは少し照れたように頬を掻くと、次の瞬間には表情が抜け落ちて真顔になっていた。顔には「違う、そう言う話じゃない」と書かれているかのようだった。
スピカは息を吸い込む。何かを切り替えるように、目には真剣な色が映っていた。
「バナフサジュ教授は? 好き?」
そう聞かれると、ベガの胸の中に柔らかくて暖かい何かがゆっくりと染み込んでいくような心地がした。甘くした紅茶を飲み込んだ時と似たような感覚だ。
「もちろん、大好き!」
何も迷うことはなかった。思考を巡らせる暇もなく、その言葉は当たり前のように口から飛び出した。その言葉を頭の中で反芻する度に、暖かい何かが全身に広がっていくのだ。
その過程は、シリウスが手を握ってくれている時に似ている。鎮痛剤が効くまでの激痛に悶えるだけのあの時間、末端から冷えていく感覚は「死」に近い。きっと死ぬ時は寒いんだろう、と考えるあの時にシリウスは手を握っていてくれた。
シリウスの体温がベガに移ってベガを生かす。シリウスに対する大好きという気持ちがベガを生かしているような気がした。
「じゃあ、いつか『大好き』の枠に入れるように頑張るよ」
ベガの後ろから聞こえた声は、周りにいたはずの女子生徒達の歓声より低い声変わりしたてのテノールが聞こえた。いつの間にか、階下の校庭から発せられる熱気や歓声は聞こえなくなっていた。
聞き馴染みのある声だった。穏やかで安心する、そんな声。
振り返るとベガの予想通り、そこにはアルタイルがいた。先程まで走り回っていたからか、少し乱れた髪は額にくっついていた。格好も普段の規定の制服ではなく、動きやすいように装飾が控えられた運動着として着用されるものだ。
ただ布地の補強と装飾を兼ねた制服と比べれば簡素な刺繍が、袖口と裾、首元に施されている。足が動かしやすいように裾には切れ目が入っており、古くは騎馬民族であった帝国の伝統的な形を保っている。
「アルタイル…」
ベガは思わずアルタイルの名前を溢した。その言葉に何故と意味を込めるように。先程まで校庭にいたはずだと続けようとしたが、アルタイルは「それだけだから」と少し頬を赤らめて微笑んだあと足早に立ち去ってしまった。
アルタイルが言い逃げのように立ち去るなんて事、滅多になかったのでベガは少し驚いた表情で固まった。
しばらく静寂が続いた。周りの呼吸する音も何故か遠く、ベガの呼吸だけがやけに煩く耳に届く。
「い…今、アルタイル…。でも何で? さっきまで下にいたはず…」
纏まらない思考の中、うわごとのように呟いた言葉をミラが拾ってベガに答えをくれた。
「アルタイル様、こっちに気がついて手を振ったけどベガやスピカが気づかなかったから階段を駆け上がって来てたわよ」
「たぶん、絶対、私はベガのおまけだと思う!」
ミラとスピカが微笑ましそうに生温い視線をベガに向けてきた。しかし、その雰囲気はプリジパティが一瞬にして壊していった。
「悔しい!悔しい!先輩ばっかり〜!!」
プリジパティは目に涙を浮かべて、歯を食いしばっている。何度も地団駄を踏むようにその場を飛び跳ねている。何だか、ベガが泣かせてしまったような気がして申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
「プリジパティ…貴女そうは言っても、アルタイル様を目の前にしても『ひ…ひゃわっ』みたいな変な声出して会話どころか、まともに目を合わせることもしないじゃない」
ミラが呆れたようにそう言った。ミラはプリジパティからせがまれてアルタイルを紹介したり、何度か顔を合わせる機会を作ったようだ。
しかし、プリジパティはアルタイルを目の前にすると恥ずかしがってまともに会話できない状態になり、最終的には「あの後輩の子、何だか僕のこと苦手みたいだからあまり二人きりにしないように配慮してあげて」と要約するとそんなことを遠回しにミラに伝えられたそうだ。
空回りどころか、距離が開いている状況には同情を禁じ得なかった。
「しないじゃなくて、できないんですぅ〜! アルタイル様を目の前にすると人は言葉を失ってしまうんです。絶対そうです!」
恥ずかしい、というようにプリジパティは掌で顔を覆った。羞恥と涙で顔は赤くなっている。丸まったプリジパティの背中に向けてスピカが「アルタイルを前にしても言葉は失わないけど?」と追い討ちをかけていた。
日頃、ぞんざいに扱われていることへのちょっとした意趣返しなのかも知れない。
「うぅ〜! 私のことはいいんです! それより、ベガ先輩ですよ。あんなにあからさまなアルタイル様に気づかないなんて、目は節穴ですか? 恋敵として情けないです、まったく! 悪女っぷりがキレッキレですね。アルタイル様も絶対に私の方がいいのにー!」
プリジパティは白くて形のいい歯を見せながら悔しそうに叫んだ。「プリジパティかベガならベガじゃないの? というか実質一択だよね」というスピカの呟きをプリジパティは華麗に無視を決め込んだ。
「恋愛小説でも読んで勉強してください! 何なら貸します」
プリジパティの気迫に押されてベガは黙って頷くしかなかった。プリジパティの愛読書が、サジタリアス大公と大公妃の身分を超えた大恋愛を描いたまさかの事実を基にした小説であることは同室のものなら全員が知っていた。
それが彼女の人生の聖典であることも全員が知っていた。プリジパティは巷で流行りの小説から成人婦女向けのものまでを網羅していた。その年齢にそぐわない読み物は、今年から副寮長を勤めはじめたミラに没収されていたが。
ベガは本を読むのは好きな方ではあったが、学術書などの授業の補助となる副教材的な読み物を中心としていたため、恋愛小説に至ってはまったく手をつけていなかった。
恋愛ものの話は『二人は結ばれて、幸せに暮らしました。めでたしめでたし』といった内容の幼い頃にシリウスに読み聞かせてもらった童話が思えば最後であった。
「先輩って、何だか子供っぽいですよね〜。本棚にも絵本しかないですし、寝台の横にはクマのぬいぐるみ置いてるじゃないですかぁ〜。似合わないですよ」
プリジパティは嘲笑混じりの乾いた笑い声を上げた。それにはベガも少し怒りが湧いた。本棚にある数少ない絵本はシリウスに読み聞かせてもらった大事なものを二年生の時の休暇、アリエス伯領に帰省した際に家から持ってきたものだ。
学院に来る前は長期休暇の度にアリエス伯領に戻れると思っていたが、シリウスが忙しいこともあり学院の卒業までは帝都に生活の拠点を移すことをシリウスと話し合って決めた。
学院に留まっていた方が研究が進むということが大きい。長期休暇の度にというわけにはいかなかったが、二年に一度くらいの頻度でアリエス伯領の家にも帰るようにしていた。
プリジパティが馬鹿にした絵本にはリゲルから貰った花を押し花にして栞にしている。子供っぽいとはわかっているがどれも大切なものだった。
「似合わなくたっていいでしょ。あれはアルタイルから貰った大事なものなんだから」
その言葉を聞いた途端にプリジパティは一瞬顔が青くなったが、すぐにまた真っ赤になった。目には涙が溜まっているが、何だか嘘っぽい。泣き真似のような表情だ。
「なっ、何ですかそれ。狡い! 悔しい〜! 私がもう少し早く生まれていればアルタイル様と同じ学年になれたのに。あー、自滅したぁ!」
攻撃を仕掛けたら、思わぬ反撃が帰ってきたかのような反応だった。そんなプリジパティを見て、ミラは呆れながら笑っている。スピカはトドメを刺す機会を伺っているようだった。
染みるように降り注ぐ、日光と眩しい青空が帝都アンドロメダを覆う防壁の狭い隙間から覗く。風が地上の砂をさらい、空気をよどませる。砂塵を纏った乾いた風が撫でるように流れていく。
そんな、よくある平凡な帝都のある日。
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「去年の卒業生の中に、育毛剤を開発して帝国臣民権を獲得した人がいるらしいわよ」
頁をめくる音が静かに聞こえた。紙の微妙な繊維の凹凸と、そこに染み込んだインクの乗り方が様々な表情を見せる。絹のリボンのような滑らかな手触りを感じているであろう、しっとりと輝き艶のある形のいい爪を見つめた。
綺麗に手入れされていて、いかにも良家のお嬢様だ。指にも傷一つない。美しくしなり、脈動を続ける細い喉からは歌うように可憐な声が響く。声が歌うようならば、頁をめくる指は踊っているかのようだ。
そんなミラを見つめて、ベガは改めて彼女は大切に育てられてきた娘なのだと再確認していた。
「魔術で羊毛を編んだ毛布を開発した人も帝国臣民権を獲得したそうよ」
「何それ?」
「毛布が仄かに発熱するやつよ。軍を中心に夜に寒くなる砂漠で暮らす遊牧民なんかに使われているらしいわ。まだ一枚が高価だから一般には流通していないらしいの。私は屋敷に出入りしている商人──そう、ヴィンデミアトリクス・イナブの父親ね。そこから実物を買ったけど、なかなか良い品よ」
ミラの声とスピカの声が聞こえる。薄暗い部屋の中、持ち込んだ僅かな灯りで二人の顔は橙に照らされていた。その視線の先には帝国臣民権を獲得したものの功績をまとめた、書物がある。
スピカとベガが帝国臣民権を獲得するために本格的に手立てを考えはじめたのは三年生から四年生あたりのことだ。五年生の後期から少人数制の選択授業が増え、進路を考える時期に差し掛かる。
帝国人ならば、そのまま気になる分野に突き進めば良いが属領人やその他の場合そうはいかない。帝国臣民権を獲得できなければ卒業と同時に軍役が待っている。
「うーん…。やっぱり卒業を期に今の部屋にあるものの殆どは処分しなきゃなのかなぁ。もし軍に入ることになっても軍の施設は共同生活だよね」
スピカは悩ましげに呟いた。スピカは進学を期に自分の荷物の殆どを寮へと持って来たのだという。実家に帰省した際に自分の部屋に残っていた私物は全て処分され妹の部屋になっていたと悲しそうに言っていたのをベガはよく覚えている。その後苦しげに無理して明るくしようと努めていた姿は痛々しかった。
「壁に飾ってあるお面、あれ夜中に見ると怖いのよ。スピカ、どうにかして。プリジパティも怖がってるから」
ミラの切実そうな声が余計に悲壮感を感じさせた。ミラは本気であの不気味なお面を怖がっているらしい。
「ミラにあげようか?どうせ持って行けないし、処分するのは勿体無いから」
スピカは怖がっている様子のミラをあまり本気に捉えていないのか、それとも冗談なのかそんなことを言うとミラは震え上がった。
「いらないわよ!持ってたら呪われるかもしれないじゃない」
「それって私が呪わてるってこと?」
ミラとスピカの掛け合いは微笑ましくベガの耳へと届いた。毛のふわふわした小型犬がきゃんきゃんと吠え合っているのを眺めている心地に近い。
ベガ達が居るのは薄暗い鐘楼の機械室だ。壮麗な紋様の手織りの絨毯を敷き、そこに寄せ集まる少女三人はこの場が麗らかな日光が差し込む木陰であったならば何の変哲もないピクニックに見えただろう。
少女達が囲んでいる視線の先には記録を纏めたような簡素な造りの書物があるが、よく目を凝らせば灯りがあまり届かない場所には保温のため内側に綿が詰められた半円の布で覆われたティーポットがある。
そのそばには白に青で柘榴や蔦などの植物を描いた湯呑みが三つ。布で隠れているティーポットにも同じ紋様が描かれている。中には濃く淹れられた紅茶。
綿花の紋様が描かれている皿には澄ましバターのクッキーが置いてある。ベガは流れるように手が伸び、摘んだクッキーを口の中に放り込めばバターの豊かな香りが口に広がり、ピスタチオの香ばしさの後にカルダモンとバニラが駆けて行くと最後はミルクのように溶けるように消えてしまった。
「もうっ! ベガもスピカに何とか言ってよ」
ミラが助けを求めるようにベガの袖を軽く引っ張った。先程まで流れる古典的な音楽のようだった二人の声が急に鮮明にベガの前に飛び出してきた。
「スピカ、今は荷物の話より臣民権の話でしょ」
ベガは思いがけず宥めるような声が出た。それを聞くとスピカは眉を下げて憂鬱そうな表情になった。
「わかってるよ。私達も毛布を作るしかないのかな?」
スピカの嘆きは機械室に響いて消えた。ベガとスピカは一年生の時に魔術理論を構築し、巨大な蛸足を顕現させるといった一件から自分達の相性の良さに気づいていた。
何か二人でやって帝国臣民権の獲得を目指そう。そう決めたのは四年生あたりからだ。そうして、夜な夜なこっそり寄宿舎を抜け出し顔を突き合わせて手立てを考えている。
同室のプリジパティは何とか誤魔化せてもミラは誤魔化せなかったので事情を話し、味方に引き込んだ。ミラの副寮長という威光からか夜中にベガ達が居なくなるのをプリジパティは今や何の疑問にも思っていない。
この鐘楼の機械室という秘密の場所はクラーの置き土産のようなものだ。
「二番煎じだと臣民権は難しいと思うわ」
そのミラの言葉にベガも同意するように頷いた。きっと砂漠に初めて足跡をつけるような前人未到のことをしなくてはならないのだ。
「無駄のない魔術理論…方向性は間違ってないように思えるんだけどねぇ〜」
スピカのため息にベガも同調した。あの幼いながらに考えた魔術理論は、小狡い裏技のようなもので危険と隣り合わせだったと歳を重ねるごとに痛感した。魔術に関してスピカが天才肌の気があるため、大事にはならなかったが一歩間違えれば危なかった。
「未熟な私達がやるのは危険よ。何十年と魔術と向き合った魔術馬鹿に私達が対抗できるわけないわ。超えるのも無理よ」
新たに主流となる魔術理論を作り出すのは時間も頭も足りなかった。ベガとスピカは二人であるのが強みだが、考える頭と術を行使する体が別というのは弱みでもあった。
「そうだ! ミラの権力で善良な小市民の二人くらいどうにかならない? 使用人として雇うとかさ」
ミラ様〜とスピカが頭を下げるのをミラは難しそうな顔で見つめた。
「無理だと思うわ。それに、私の力なんてたかが知れてる。あのテロ事件から、お父様達が神経質になって末端の使用人まで純粋な帝国人で揃えているから」
あのテロ事件とベガ達の間で共通の認識となっているのは建国記念祭で起こった爆破テロ事件だ。あの事件を発端として帝国内でテロ事件が勃発した。帝都の大通りで銃の乱射事件があったり、歌劇座で爆薬での自爆事件があった。
帝都の大通りというのは人通りの多いアタナシア通りのことで、『我々は恐怖に屈しない』という大宰相が提唱した標語を大々的に掲げていた仕立て屋「月下美人」は硝子張りの一階部分を無惨に破壊されるという被害に遭った。通行人も客にも従業員にも死者が出た。
帝国建国記念祭の悲劇から復興の途中であったカシオペヤ歌劇団だったが、歌劇『砂漠を往く』の第三幕が始まる直前、第三幕の冒頭は歌姫の有名なアリアから始まる場面だ。多くの観客が詰めかけていたところをプラスチック爆薬によって消し去られた。
劇場の天井が崩落し、観客と団員どちらも関係なく相当な死者が出た。その光景は酷いの一言に尽き、僅かに生き残った団員達は帝都の常設劇場を捨て、地方に本拠地を移すことになった。
属領への風当たりは時間の経過とともに風化するどころか強くなる一方だった。そんな中、ベガは数年ぶりにスィン・アル・アサド学院の図書館でレサトと再会した事を思い出した。
いつもの窓際の席はずっと帰りを待っていたかのように感じた。その席に誰もいなかったり、違う人が座っていればベガは毎回、哀愁のような感情で胸を支配された。レサトの姿を久しぶりに見つけた時、やっぱりあの窓際の席は物憂げに本に視線を落とす彫像のようなレサトが似合うと思ったのだ。
彼は久しぶりに見つけた小さな友人に「少し背が高くなりましたか?」と声をかけ、ベガは「レサトさんは変わりませんね」と口では言ったが心なしか痩せたように感じた。
「時間が足りない。このまま学院で魔術の授業を受ければ高い実力が付くとは思うけど、それじゃ遅すぎる。七年生になってから臣民権の獲得のために何かするのじゃ間に合わない。ツィー先輩みたいに早期卒業できるくらいの…」
その声に現実に引き戻される。スピカの顔には焦りが見え隠れしていた。その言葉は先程の未熟な私達には無理というベガの言葉に反抗するかのような響きがあった。未熟だと言い訳を重ねていれば何も成せないと。
「……やっぱり私達だけじゃ厳しいんじゃないからしら」
ミラが言い難そうに呟いた。これまで何度かミラは何かを言いかけて、それを直前で引っ込めるということがあった。きっとこの言葉を何度も言いそうになっては引っ込めたのだ。
それを今、言ってしまった。きっとそれは何度も三人の頭に過ったが言わずに我慢してきたものだった。考えては一歩も前に進めない停滞した時間をここ最近、ずっと経験していた。
スピカが悔しそうにミラを見つめた。その瞳は見つめたと表現するよりも睨みつけていると表現した方が適切な気がした。
「ミラは! 私達がどうなっても自分は安全な立場にいるから本気じゃないんでしょ! 人生なんてこれっぽっちも掛かってないんだから」
今まで塞ぎ止めてきたスピカの気持ちがミラの言葉で決壊したのか、彼女は今までにないくらい叫んでいた。反響する自分の声なんかに構わずに、スピカは泣き出していた。
「私達は本気で考えている! 気持ちを下げるようなこと言わないでよ。このままだと、私達はあなた達帝国人の領土拡大のために使い捨てられるんだ!」
その叫びは国同士の複雑な関係を飛び越えて、ミラに友人になりたいと手を差し出したスピカからは想像も付かなかった。ふわふわしているようでしっかりと信念がある彼女をベガは眩しく思っていた。
太陽のようではないけれど、淡く足元を照らす月明かりのような。髪色も相まって月光の精霊のようだった。真っ暗な闇を手探りで探索するような状況の中、頼もしかったのだ。
それが脆くも崩れ去って、ベガはスピカが自分と同じ歳の少女であることを再確認した。自分だってぎりぎりの精神状態だったのだ。スピカだけ無事なわけがない。
「私だって本気よ。本気で考えてるわ! そうじゃなきゃ協力してないじゃない。私は本気で二人が臣民権を取ってほしいって思ってる」
ミラの必死な叫びにスピカはハッと目覚めたような顔をした後、青ざめた。元々透き通るような白皙は薄らと血管を透かしてはいたが、それにしてもその血の気の引いた青さは灯りが頬を橙に照らしていたとしてもわかるほどだった。
「ごめん、強く言い過ぎた。考えすぎで頭おかしくなったかも」
スピカは自分で自分の言葉に困惑しているようだった。ミラにあんな言葉を投げかける気なんてきっと無かったのに。ベガはその場に重くのしかかるように沈殿するような空気を払うために口を開いた。
「シリウスならきっといい案を出してくれる。シリウスに協力してもらって──」
優しくて、頭のいいベガの自慢のシリウスだ。きっとベガに協力してくれる。そんな確信があった。今までは知らない内に自分達で何とか出来れば一番良かったが、そんなことを言っていられる状況でもなくなってきた。
「バナフサジュ教授は学院の教師よ。生徒に公平に接するはずだわ。誰かに特別、肩入れすることはない」
ベガの縋るような祈りにも似た言葉はミラによってあっさりと却下された。それでもベガは「でも…あのシリウスよ。絶対に…」と食い下がるように言葉を続けた。
「もし、バナフサジュ教授が私達に協力するなら彼は教職を辞さなければならないわ。そうなると、彼は研究から締め出される」
ミラの言葉は水の中に落とされた石のように深く沈んでいった。ベガよりもスピカの顔が段々と曇っていくのがよくわかった。
「でも、ベガの病気の研究は元々バナフサジュ教授の研究だったんじゃ…」
スピカの言葉を聞いたミラは残念そうに首を振った。
「最初はバナフサジュ教授の個人的な研究だったかも知れないけれど、今はスィン・アル・アサドの優秀な研究者と医術師達による大きな研究よ。もちろん、バナフサジュ教授は優秀だけど一介の医術師に戻った彼がまた個人で研究を進めるには機材も環境も資金も時間も、足りないと思うわ」
時間──それはベガの残り時間を指していた。鈍い痛みがベガの胸を占める。
「それにもうベガという研究対象の提供はスィン・アル・アサドの研究機関の方が優先されるだろうし…いや、研究自体が打ち切りになるのか」
独りで呟きながら思考を纏めていくミラを見て、ベガは絶望とまではいかずとも肩を落として落胆した。今回ばかりはシリウスに頼ることはできないのだとわかった瞬間、心細くなった。
何処かで行き詰まったらシリウスが助けてくれるという無意識的な甘えがあったことにベガは気づいた。
「頭が良くて、帝国臣民権の獲得方法の案があって、私達に協力してくれそうな人。そんな都合よく居ないよね」
スピカの言葉に残念だがまったくその通りだとベガは頷きかける。薄暗い機械室の中ではスピカにくっきりと影を落とし、仄かな灯りがゆらゆらと影の輪郭を朧げにしている。
こんな状態で見る彼女の金髪は、やはり光に当たればこそ美しさの本領を発揮するとベガはしみじみ思った。彩度の低い世界ではそれこそくすんでいるように見える。
落ち着いた金髪…砂色に近い…ミルクティーのような色にも見えないことはない。そう思った時、ベガの脳裏に一人の人物が浮かんでいた。
属領出身の帝国臣民権を獲得した者で、難しい専門書をすらすら読めるだけでなく、意味がわからないベガにも優しく噛み砕いて説明できる頭脳の持ち主で、ベガ達に協力してくれそうな人を。