《10》希望への前進 ٢
「そうか…ベガも見ていたんだね」
微笑みというよりは苦笑に近い表情をしながら、シリウスは読んでいた書物から顔を上げた。手に持っているのは分厚い専門書の類でベガからしたら題名からさっぱりだ。
「ええ。シリウスの授業を後ろの方から聞いてたのよ。内容はまだわからなかったけど…」
花ノ日の午後、ベガはシリウスの部屋に遊びに来ていた。久々のベガの来訪にシリウスよりもエステルが体全体で喜びを表現していた。
「じゃあ次は、ベガにもわかるように伝えるのが私の課題かな」
休日の学院は人が減る。外出許可をとって遊びに出る生徒が多いし、実家が近いものは帰ったりもしている。ミラは帝都の屋敷に帰っていて、スピカは街に用事があると出掛けてしまったし、クラーに至ってはいつもフラフラしていてどこにいるのかわからないという事態になっていた。
とにかく部屋に一人は寂しいのでこうしてやってきたのだ。シリウスは何やら難しそうな本を読んでいて論文のようなものをまとめていたが暖かくベガを迎えてくれた。ただ忙しいようであまり構えないと言われたが。
ゆっくり話ができないというのは残念だったが、同じ空間にいるだけで普段はすれ違うばかりで声も聞けない様な空白を埋める様な心地がした。
シリウスのかわりにエステルが構ってくれるようで、先程からベガはエステルを膝に乗せて撫でていた。
机の上には散らばった書き損じの論文と新聞が置いてあった。シリウスは一つのことに集中するとそのほかを疎かにすることがある。普段は綺麗好きなシリウスだが、論文や研究に没頭すると途端に家はごみ屋敷に変貌してしまうのだ。
そういったところはベガが補っていたのだが、学院に来て別々の暮らしをするようになってからシリウスはベガが来る前の生活に逆戻りしている様な気がする。こういう光景を見る度にベガは自分と出会う前のシリウスはどう生きていたのか気になるのだ。
「これは捨てるものなのかしら。でも、私にはわからないから隅に纏めて机を支える様にだけしておきましょう」
こうやって勝手に片付けをしてしまうと、本人は何処に何があるのか把握していたのに片付けられてしまったことによりわからなくなるという事態が往々にして発生してしまうのだが、そのことはベガの頭の中から抜け落ちていた。
ふと目に止まった新聞にはもうすぐベラトリクス皇女の忌日であると言う記事が載っていた。十二年前からずっとこの日になるとベラトリクス皇女にゆかりのある宮殿であるロサ・ペルシカ小宮殿に彼女が愛した薔薇などを供えようとする人々で宮殿の前に大勢が集まるそうだ。
生前のベラトリクス皇女の写真も載せられている。前に図書館で見たものとは違うが迫力のある瞳は写真越しでも見るものを圧倒させる様だった。
「アルタイルってば…こんな綺麗な人と私が似てるって思ってくれたのかしら」
思い上がらない様にあれはお世辞だと言い聞かせるがアルタイルの目にベガがこんなに美しく映っていればいいと思う。自然と笑みが溢れた。
その時だった。視界が点滅して、体を激しく揺さぶられているかの様な心地がする。駱駝に乗った時の酔いに近く、それよりも激しい。体の先端から弱い雷に至れているような痛みと爪や皮を剥がされている様な痛みが同時にベガを襲う。
何度も経験しても慣れない、発作が起こったのだとベガはわかった。痛みで体を支えることができなくて、ベガは椅子から転げ落ちる。ぼんやりとした視界の中に水槽の中で噴出されたアメフラシの紫の靄を眺めながら、暗雲来ると思った。
発作が起こる度に寿命は削れ、希望に向かって前進したと思ったらすぐに暗雲が立ち込める。進展してもすぐ後ろに戻される人生にベガは今まで言わないように我慢していた言葉を呟いてしまった。
「もう…疲れた」
後頭部が床に激突した鈍い痛みを感じながら、ベガは気を失った。
目が覚めたらベガはシリウスの寝台に横たえられており、腕に繋がれた点滴から無理にベガを動かすより医務室の設備をこちらに持ってくることにした様だった。
もしかしたら、シリウスの部屋にはベガの鎮痛剤が常備されているのかもしれない。
シリウスは寝台の傍に腰掛けずっとベガの手を握っていた。いつものことなのだから、ずっと付きっきりでなくてもいいとベガは思うのだがこうやって傍にいてくれると知る度に嬉しくなる。
シリウスにはベガがいつ死んでもおかしくない様に映っているに違いなかった。シリウスは諦めないで頑張ってくれているのにベガが諦める様なことを呟いてしまったのが申し訳なくなった。
「ベガ、もう痛みはない?」
まるで自分が痛いみたいな悲痛な表情をシリウスがするので、ベガは無理にでも元気よく聞こえるように声を張り上げた。
「大丈夫よ!それより、お腹すいちゃったわ。もしかしてまた食べ損なったりしてないわよね?」
それを聞いて安心したのかシリウスは先程までの悲痛な表情が和らぎ、微笑んだ。
「部屋まで持ってきた。まだ温かいはずだよ」
銀色の配膳台の上には冷めない様にと掛けられた布の中に深皿のような膨らみがあった。布を取り払ってみると湯気がたつほどではなかったがまだ温かい。
表面がパリッと焼けた香ばしい麵麭は千切ると牛酪の匂いとふわふわの中身が顔を出した。香草入りの牛酪なのかほんのりと香草の複雑な香りもする。添えられたジャムは果肉がたっぷりで甘酸っぱい。
若鶏と色とりどりの豆と鮮やかな野菜が入ったスープに馬鈴薯、玉葱、ニンニクを塩胡椒で炒めたものと牛肉。デザートには梨の氷菓とレーズンのクッキー。
食堂で出される料理はだいたいが香辛料を使った手食を念頭に置いた帝国風の味付けだが、外国からの生徒も多いため週に何度か外国風の味付けの料理が出てくる。
今日の昼食は西の地域風の味付けの様だ。銀色のカトラリーが添えてある。普段なら、絨毯の上に座るところだが食事を机に移して椅子に座って食べることにした。
と言っても背の低い椅子と低い机なので食堂に導入されている様な高い机ではないのだが。
シリウスと向かい合って食べるのは久しぶりな気がした。寮に戻ってからベガはスピカやミラと、三回に一回くらいの確率でアルタイルやリゲルとも一緒に食堂で食事をとる様になった。
シリウスは時々、食堂で見かけるがきっと殆ど食事は自室で摂っているのだろうと思う。シリウスは何かに没頭すると身の回りのことが疎かになるが、それは掃除だけでなく食事や睡眠も含まれる。
ベガが手ずから作った料理なら時間を調整してまでわざわざ食べたし、ベガが眠ってといえば何をしていても切り上げて眠ってくれた。
しかし学院の食事はシリウスがわざわざ食べたいと思うほど魅力的ではなく、就寝時間の鐘も眠りに誘うほどの効力はない。就寝時間とは生徒のために作られている様なもので教職員が守っていることの方が少ないとは思われるが。
「シリウス、ちゃんと食事をとってね!私、食べるまで監視するわ」
シリウスはばれたか…というように妖しげに笑い「うちのお姫様は厳しい」と零した。今まで普通に受けてきたシリウスからのお姫様扱いも少し気恥ずかしく感じてしまう。
「シリウスは何かに集中するとすぐ食べるのを忘れちゃうんだから」
その恥ずかしさを隠すかのようにベガは饒舌になった。しかし、耳は赤くなっていたかもしれない。
******
茎ノ日、ベガは洗った手巾を丁寧に包んで図書館へと向かっていた。手巾からは血の跡も匂いも消えて、薔薇の香りがするようになっていた。
男の人に薔薇の香りの手巾を返すのは大丈夫なのか…と少し不安になる。洗ったら完全にベガの好みの香りになってしまったのだ。
シリウスもベガが贈った茉莉花の香水を使っているようだし、案外男性も花の香りを使うのかもしれないという希望的観測を交えてベガは歩みを進めていた。
茎ノ日図書館に、と言われたが時間を指定されなかったことに気づいて頭を抱えたのは前日だった。前日になるまで気づけなかった自分にベガは頭を抱えそうになった。
授業時間の関係もあり放課後に図書館に向かっているベガだが、もしかしたら相手が午前中だけ図書館にいたなどであれば、すれ違ってしまう。大雑把な言い方であったので、まさか一日中図書館にいるとは思わないが、ベガが来るまで待ってくれているかもしれない。
図書館はやはり静謐な雰囲気で古書の匂いが充満していた。壁は本棚で埋まっているが、所々見える壁の部分は壁画のような絵が描かれている。
そして図書館に着いてから名前を聞いていなかったことにベガは頭を抱えた。それに気づいたのは司書に「何をお探しですか?」と尋ねられた時だった。「本じゃなくて人を探しています」と言ってからベガは一体誰を探しているんだと自問自答した。
手巾を貸してくれた青年。しかし、ベガは名前を知らないので探しようがない。司書は一年生の中でも背が低く、本に手が届かないことが多いベガを心配していつも梯子や踏み台を持ってきてくれる人だった。
困ったベガは名前がわからないと素直に司書に打ち明けた。今にも泣き出しそうな顔でもしていたのか司書は大丈夫、大丈夫と繰り返しベガを落ち着かせた。
「その人の特徴はわかる?」
「えっと…ミルクティーみたいな髪の色よ。目は私みたいに青いわ。背は…背はね、高い方だと思う。私が小さいから皆んな高いけど。西の国の方みたいな服を着ていたわ。今日も着てるかはわからないけど」
司書は優しく頷いて聞いてくれていた。そして似たような人が朝から図書館の蔵書を片っ端から読みまくっているということを教えてくれた。
「窓際の席にいらっしゃると思うよ」
「ありがとう、探してみるわ」
喜びで思わず声が大きくなりそうだったが、図書館だと思い出しベガは小声でお礼を言った。
図書館に人はそれなりにいたが窓際の席に目を向けると吸い込まれるように青年を見つけた。窓から差し込む光でミルクティー色の毛先が緩く巻かれている髪は一部が金髪のように煌めいていた。
「あの…」
小さく声をかけると、青年は本から視線を上げた。ベガの青い瞳と青年の青い瞳がぶつかるように目が合う。
「あの時のお嬢さんですね」
青年は柔らかく微笑んだ。空気が解けるような安堵する感覚にベガも微笑んだ。
「手巾ありがとうございました」
やはりベガが返しに来るのをわかっていたかのように、青年は微笑みを浮かべたまま受け取った。それだけでベガの用はもう済んだのだが、すぐに帰るというのも違うような気がした。
「何を読んでいるんですか?」
ベガが尋ねると青年は嬉しそうに答えてくれた。
「今は歴史学の本です。他にも色々読んでいますよ。ここにしかないものなのでわざわざ帝国まで来ました」
「何処の出身なんですか?」
帝国人も混血が進んでいるとはいえ、青年の風貌は外国の上流階級に見えた。
「ラト・イスリアです」
そう言って青年は手にしていた歴史学の本の題名を見せた。そこには帝国の学者がまとめた彼の国についてが書かれている。ベガはなるほど、たしかにここにしか無いかもしれないと思った。
開かれたページにはラト・イスリアの光と影という小見出しがついていた。南北に長い間分断されていた彼の国の各地域の風土や慣習、民族性に見られる鮮やかな対比は、陽の沈まぬ栄光と国力の過度な膨張が招いたその後の凋落の歴史に、鮮烈な彩りを添えている。
百年前イスリア王国、通称南イスリアは現在のラト・イスリアまでも系譜が途切れぬ王家は我が偉大な皇帝陛下から準帝族として扱われている。と書かれている。
実際の統治は自治に委ねられている部分より帝国から派遣された官僚が行っている方が大きいだろうが、他国の歴史に見られる凄惨な血の断絶を帝国は行わなかった。そうベガは習っている。
イスリア共和国、通称北イスリアはイスリア王国から離反し共和制を敷いた国であった。両国の戦争は最終的に帝国が介入したことで南イスリアの勝利で終わっている。
イスリア王国は古語で「真の」「新たな」などを意味するラトを国名に付け加えて統一された国家として新たに歩み出したと締め括られている。
「私の友達にもラト・イスリア出身の子がいます。私は生まれはわからないけど、育ちは帝国です」
自分の根元がわからない。それはいつか自分を迎えに来てくれる家族を待っていた頃のベガにとって一人暗闇の中に放り込まれたような孤独を感じさせた。孤児院には出自のわからぬ子供などごまんといたが、そんなことは幼いベガにとっては慰めにもならなかった。
「ラト・イスリアはいい国ですよ。帝国より涼しいです」
そう言う青年の額には汗が滲んでいるように見えた。たしかに、慣れない人には帝国は暑いかもしれないとベガは思った。
「雪とか降るんですか?」
絵本の中に病気の女の子のために雪を降らせるために奮闘するという話があった。ベガはシリウスにそれを聞かせてもらった時に、この辺りでも雪は降るかと尋ねたことがある。
シリウスは困ったように滅多に降らないと言った。ベガの落ち込みようが凄かったのか、シリウスはそれから雪の童話の話は避け、ベガにとって身近な砂漠の話をするようになった。
砂漠の蠍の話や、陥没穴に落ちてしまう話。蛇の王と戦う冒険譚などだ。
「私の家は国の北の方にありますから、冬には池は凍って滑氷ができますよ」
「すごい!本当に降るんですね!」
ベガの反応が面白かったのか青年は図書館ということで笑いを押し殺しながらも、やはり笑い声は漏れてしまっていた。
ベガは自分のはしゃぎっぷりから我に帰って顔を赤らめた。少し恥ずかしい。
「私、雪が降ったのを見たことないから」
氷を削った氷菓を見て、雪の気分を味わうということはしたことがあるが雪が降ったり積もったりというものを見たことがない。砂漠でも雪が降ることはあるらしいが、ベガは目にしたことがなかった。
何処か遠い異国のことで現実にあるものだと信じていなかったのかもしれない。
「可笑しくて笑ったのではありませんよ。微笑ましくて」
青年はそう言ってくれたがベガの照れは消えない。
「妹も貴女と同じ歳くらいです」
青年はそう言って何処か遠くを見つめているような表情になった。それを見て、きっと青年は国に妹を置いてきているのではないかとベガは察した。
きっと寂しいのだろう。そうでなくてはこの過去を振り返るような少しの哀愁を混ぜたような表情になるはずがないとベガは思った。
「そういえば妹さんがいらっしゃるって言ってましたよね」
ベガが転けた時に青年が心配したのは妹と同じ歳くらいだったからだろう。
「妹に似ていたので放って置けませんでしたでした。妹も綺麗な青い目をしています」
その時、ベガはこの青年を見たことがあるような気がした。ぶつかってしまうよりも前に、何処かで。
「これだけ話しているのに私達はお互いの名前も知りませんでしたね。もう、ただぶつかったという間柄ではないですし自己紹介しておきます」
青年は優雅に微笑んで、育ちの良さが感じられた。
「レサト・マルタ。よろしく、お嬢さん」
その名前を聞いた時、ベガの頭の中で目の前の青年──レサト・マルタの顔と新聞で見た悲劇のマルタ家の写真の中で妹を失った悲しみと憎悪を燃やしながらこちらを睨み付ける少年の顔が結びついた。
「ベガ・ワルドゥです」
そうか、この人が…というのがベガの感想だった。悲劇など全く感じさせないような優しい穏やかな青年だ。しかし、彼があのマルタ家の人間ならば、彼が言う妹はアルキオーネ・マルタのことなのだろうか。
そう思うとベガの心臓は鷲掴みにされたかのようにきゅっと締め付けられた。それからしばらくベガはレサトと当たり障りのない雑談を交わした。どちらも深く相手の事情には踏み込まなかった。
レサトは学院を卒業してからも各国を回って遊学中だという。ぼかしてはいたが、家を継ぐための準備期間のようなことを言っていた。立ち居振る舞いから貴族であることは察しがついた。
レサトは自身を放蕩息子のような言い方をしていたが、ベガは彼が遊学しているのはきっと家を大事に思って継ぐために相応しい人間になろうと努力しているのだと思った。
そしてきっと、アルキオーネを探しているのだとも思われた。妹の面影を探して彷徨っているように見える。きっとベガに親切にしてくれたのは本人も言っているように妹に似た青い目だったから。
いっそベガはレサトが兄だったらよかったと思った。ベガは出自がわからない。生まれてすぐ拐われた赤子だとしても辻褄が合う。とても羨ましかった。今でも探して貰えている会ったこともないアルキオーネが。
ベガは自分にも探してくれている家族が何処かに居て欲しいと願っているのかも知れなかった。捨てられたのだと今でも信じたくなくて。
いつまでかはわからないが、しばらくは帝国に滞在すると言ったレサトは毎週茎ノ日は学院の図書館に来るらしかった。ベガはまた来週の茎ノ日にも図書館に来ようと心に誓い、別れた。
寄宿舎へと帰る道すがら、ベガはシリウスと会った。畑で土いじりでもしていたのか土で汚れている前掛をつけたシリウスは大きな植木鉢を抱えていた。
襟から顔を出したうなじのホクロを見つけた時、ベガは何かいけないものを見てしまったかのような気分になった。
シリウスはいつも首元までしっかりと隠した禁欲的な格好をしているから、今日は暑くて少し首元を緩めたのだろう。普段は露わにならないうなじが見え、そんな所にホクロがあったことをベガは初めて知った。
「シリウス先生、重そうな植木鉢ですね。お手伝いします」
廊下に人は少なかったが、ベガは生徒として話しかけた。シリウスもその意図を汲んでくれたのか「ワルドゥさん」と呼んだ。
「大丈夫。お手伝いさせるようなことは何もない」
シリウスは植木鉢をベガに持たせればベガが潰れてしまうと本気で考えているようだった。重そうな植木鉢ならなおのこと。土も入っていない空の植木鉢を持てないなんてことはない…とベガも信じたいが、きっとベガが手伝うと余計手間だろう。
ベガはシリウスの横にぴったりとくっつき廊下を歩いた。そして隣にいるシリウスにだけ聞こえるくらいの声で話しかける。
「シリウスは畑にいたの?」
「そうだよ。最近は遠巻きにしていた子たちが手伝ってくれるようになってね」
シリウスを鑑賞会という名目のもと眺めていた女子生徒を中心に園芸クラブが発足したらしい。
「楽しそう。私も参加していいかしら?」
きっとベガは何処へ行っても嫌煙されるだろうとは思ったがシリウスが近くにいるなら大丈夫かも知れないと思ったからだ。
「それはとても嬉しいけど…。もう少し何を育てているかは秘密にさせてもらえないかな、ベガ」
シリウスが眉を下げて甘えるような笑みを見せるのでベガはすっかり絆されてしまった。
「仕方ないわ。楽しみにしてる」
今まで近い距離だった分、ベガとシリウスの間に隠し事や秘密といった類のものは存在しなかった。きっと言えないことのひとつやふたつはある、今の距離が世間一般の適切な距離だ。
少し寂しくもあるが、今までが近すぎたのだろう。ベガの病気が治るまで二人は離れられない関係だが、いつかシリウスからベガは巣立たなければならない時が来るはずだ。
「ベガは図書館に行った?本の匂いがする」
「ええ。私、埃臭い?」
ベガは袖を鼻に押し当ててみるが自分ではわからない。その様子を見てシリウスは微笑ましそうに笑った。
「古書独特のいい匂いだよ」
大量の本に埋もれるような書斎を持っているシリウスにとって図書館はいい匂いらしかった。日が傾き始めていて燃えるような空と廊下に伸びる二人の影が重なったり離れたりを繰り返した。
「ねえ、シリウス」
ベガは口を開いた。止めなければならないと分かっていたが言葉は止まることはなく溢れ出た。
「もし、もしね。私に家族が現れたらどうする?」
自分は誰から生まれたのか。自分は誰なのか。もしかすると、一生答えのない問いを続けるようなものなのかも知れない。
「ベガは家族の元に行くべきだろうね」
シリウスの答えにベガは少なからず傷ついたのかも知れなかった。胸の奥がやけに痛くて、舌が乾いて言葉を紡げない。自分から聞いたくせに、引き止めてくれないのかと文句を言いそうになる。
ねえ、シリウス。私は貴方の本当の家族にはなれない?
そう問いかけそうになってやめた。答えを聞くのが怖かった。それに、その問いの答えはシリウスから言葉以外で聞いているような気がしたから。
養父と養女の関係ではない。同じ姓を名乗らない。父とは呼ばせない。シリウスはベガに優しくしながら、甘やかしながらもその一線だけは超えず二人の間には一定の壁があった。
「そして、私は傍にいるよ」
ベガが少し鼻の奥がツンとして泣きそうになっていたのに、シリウスは揶揄ったのか笑っていた。
「シリウスとは離れ離れになってしまうんじゃないかって思っちゃったわ。最初に言ってよ!驚いたじゃない」
ベガはシリウスの背中をぽこぽこと殴りたい衝動に駆られた。
「ちょっと泣いちゃうところだったのよ」
ベガは恥ずかしそうに鼻を啜った。シリウスが簡単にベガを手放すだなんて信じられなかったし、信じたくなかった。シリウスは私と一緒じゃなくてもいいってわけね?と詰るくらいには気持ちは荒ぶっていたが、その一言で安心してしまう。
「シリウス、その植木鉢は何処に運ぶの?」
「私の部屋まで運ぶんだ」
そう言ってシリウスは植木鉢を持ち直す。
「着いて行ってもいい?」
「勿論、いいよ」
夕陽がシリウスの横顔を照らした。二人の影が重なってひとつになる。血の繋がった家族が何処かにいるのかも知れないことについて興味はあったが、ベガは見知らぬ家族よりシリウスと居たいと思った。