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《1》砂漠鉄道 ١

 死の大地では風が地上の砂を浚い毒風を齎す。この地は極度の乾燥で砂は小さな石英で水を吸収しない。雨が降れば涸れ川に溜まった雨水は決壊し濁流となり命を簡単に飲み込んでしまう。


 この乾いた土地に恵みの雨が降ろうとも、この地は消して潤わない。水害の元となる災厄の雨でしかないのだ。


 災厄の雨であるが、別の地では恵みの雨という側面もある。砂の中に眠った植物の種が眠っており雨が降り運が良ければ芽吹くだろう。砂漠が花畑になる様子は『奇跡』の象徴だった。


 砂漠は『死の大地』の異名を持つ土地である。照りつける灼熱の日の元で、奇跡は起きなくとも花は咲くだろうか。



******



 大陸の南に位置する大国、シャペリエ帝国。数多くの属領を従え国取りで巨大化し、高度な技術力と資源に恵まれた神秘と黄金の国である。

 国中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた鉄の道。先帝の時代に急速に押し進められた鉄道網の整備は、人や食料の長距離輸送を可能にした。それまでの主な移動手段は馬や駱駝であったことを考えると大きな進歩だった。


 帝国鉄道、蒸気機関車【ファム・ファタール】その二等寝台車の客室には窓硝子に頬を引っ付けて車窓からの景色を眺めている幼い少女がいた。


 烏の濡羽色というに相応しい腰まで届く黒髪に猫のような目尻の深海の青い闇のような瞳を持つ少女だった。身体は華奢で、顔立ちも幼く可愛らしいが口元の黒子は色っぽく成長すれば傾国の美女になるであろう予感をさせていた。


 少女の目の前に座るのはブルネットの若い男。彼は駅で買った果実の盛り合わせの中から葡萄を取り、丁寧に皮を処理していた。


 「ベガ、くれぐれも窓を開けて顔を出そうなんて思わないように」


 ベガと呼ばれた少女は窓から顔を離し、男を見る。膝立ちをしなければ窓の外が見えなかった少女は座席に座り直した。


 「そんなことしないわ。シリウスは心配症ね」


 頬を膨らませてもうお姉さんだということを訴えたベガだったがシリウスにとってはまだまだ甘やかしたい子供に映ったのだろう。皮を剥き終わった葡萄をベガの口元に持ってくる。ベガは葡萄を受け取り甘い実を口の中で転がしてから齧った。


 「あとどれくらいで着く?」


 ベガはシリウスに尋ねた。彼らは国の主要都市を通過する【ファム・ファタール】に西の交易都市であるアリエス辺境伯領から乗り込み帝都アンドロメダへと向かっていた。

 

 「数分前にも同じ事を返した気がするけど?まだまだ掛かるよ」


 幼い少女に蒸気機関での長旅は退屈なものらしい。最初は新鮮さから楽しかったようだが、それも長くは続かなかった。もう飽きたらしい。

 がさりがさりと音がする。二人は音のした方へと視線を向けると果物の盛り合わせの籠に頭を突っ込んでいる動物を見つけた。大きな耳につぶらな瞳。猫のようにも見えるが、この生き物は砂漠狐だった。


 「エステル、出てきちゃったの?」


 ベガは慌ててエステルを入れていた籠を探す。愛玩動物ペットは籠の中に入れる。それが列車に乗る条件だったはずだ。砂漠狐のエステルは果物の中から林檎を引っ張り出していた。食べたい、そう訴えているようにつぶらな瞳が潤んでいる。

 

 シリウスは困ったように笑い、林檎の皮を剥き始めた。するすると皮は長く途切れず、伸びるように落ちた。一口大に切った林檎をシリウスはエステルの口に放り投げる。


 「シリウス、私も!」


 ベガは口を開けてシリウスが林檎をくれるのを親鳥から餌をもらう雛のように待った。


 「お姉さんになるんじゃなかったのかな」


 嗜めるように言ったシリウスだったが表情は愛おしいものを見つめるようだった。シリウスはベガにゆっくりと林檎を食べさせた。その様子は恋人のようだが恋人らしい甘さはなく、家族の親愛のようだった。

 父と娘のように見えるが、ブルネットの男シリウスは親になるには少し若く見えた。勿論、若い時にできた子供ということもあり得るが、歳の離れた兄妹のようでもあった。

 この二人には血の繋がりはない。二人を結びつけるものなど何一つなかった。だけれども二人は家族で、共に列車で帝都を目指している。


 しゃりしゃりと音を立ててベガが林檎を咀嚼していると、「間も無く給水地点の為停車致します。揺れますのでお座りください」と乗務員が客たちに伝える声が耳に入った。

 

 「一旦、駅に止まるの?」


 「そうだね。給水・給炭作業が終わるまでは止まるだろうね」


 たとえ馬や駱駝での移動でも長距離ならば休憩を挟まなければならない。蒸気機関をとても早く走る魔法の乗り物だと認識しているのであろうベガは、一時的に止まる時間があるのがもどかしいのかもしれない。

 

 「じゃあ、駅に降りて食べ物買ってきていい?」


 ベガはこうして列車が止まるたびに駅に降りて歩廊ホームでお茶売りや果物売りから食べ物を買って来るのだ。先程食べていた果物も前の駅でベガが買ってきたものである。

 シリウスは急にベガの姿が見えなくなり、列車内をベガを探して彷徨うことになったのだ。

 

 「もし乗り遅れたらどうする。一人で勝手に行かないように」


 シリウスはまだ少しだけ怒っていた。ベガは罪滅ぼしだとでも言うようにそっと先程シリウスが皮を剥いた林檎を差し出した。食べさせてあげようとするように。シリウスは困ったように笑うとおずおずと林檎を口で受け取った。


 「シリウスも一緒に行きましょ」


 ベガの肩には先程まで林檎を食べていたエステルがちょこんと乗っており、着いてくる気満々の爛々とした瞳でシリウスを見つめていた。この砂漠狐、前の駅でベガがいなくなった時も一緒にいたはずだ。

 シリウスは少々無鉄砲な飼い主を止めてくれと目で訴えてみたが、エステルの瞳は飼い主と一緒にまだ見ぬ大冒険へと胸を膨らませているようだった。


 「各駅の記念花押(スタンプ)完全制覇コンプリートしたいの!」


 脚をぷらぷらと揺らしながら、綺羅綺羅と輝く瞳でベガが話していると車体は乗務員が言った通り揺れてからゆっくり止まった。座席から飛び降りるように床に着したベガはすぐに客室から飛び出そうとしたが、はたと思い付いたように手を差し出した。


 「シリウス!」


 名前を呼んだだけだったが、それが何を求めているのかわかった。シリウスは差し出された小さな手を優しく包み込むように握ると共に客室を出た。

 歩廊ホームでベガとシリウスは平たい円形の麵麭パンに香辛料の効いた羊肉と野菜が挟まれたものと鯖が挟まれたものの二種類を購入した。あとは柘榴の果実水ジュース薄荷ミントなどの香辛料と砂糖をいれた柑橘系の果実水ジュース、もうすでにベガのお腹の中に消えてしまったが羊の乳の氷菓も購入していた。


 「ベガ、あれはああいう演出なんだよ」


 何度も氷菓を屋台の店主に取り上げられ、中々ベガの手元に来なかった為途中でいじけてしまったのだ。氷菓を食べた後も機嫌が治らないらしい。


 「私だって最初は楽しかったけど…だって長かったんだもの!前に並んでた人より倍は長かったわ。私だけ貰えないかと思ったもの」


 ベガの瞳が潤み出すと、流石に店主もこれ以上引き伸ばせないとわかったのか大人しく氷菓を渡していた。「すまん、すまん。お嬢ちゃんが可愛かったからつい意地悪したくなったのさ」そう言って店主はちょっと多めに氷菓を盛ってくれたのだ。


 そしてベガの手にしっかりと握られていたのは花押スタンプの台紙。新しく緑青色の花押スタンプが仲間入りを果たしていた。乗り込んだ駅からここに至るまで、停車するたびに駅に降りて集めている。

  

 「ベガ、ちゃんと前を見ないと危な──」


 シリウスの数歩前を軽く飛び跳ねながら歩いていたベガは列車に乗り込もうとした際に男にぶつかってしまった。ベガが乗り込もうとした時に割り込むように入ってきた為男の方に非がある。

 ぶつかった衝撃で花押スタンプの台紙は手から離れ、男の足の下に落ちていた。男は舌打ちをすると慌ただしく列車に乗り込み奥へと消えてしまう。


 「ベガ!!」


 シリウスは慌てて転けたベガを受け止めた。ぶつかった男に文句を言う暇もなくシリウスが顔を上げた時にはもう男の姿はなかった。


 「ベガ、大丈夫か?怪我は」


 「花押スタンプ…」


 弱々しくベガが指差した先には男の靴に踏まれた台紙があった。ベガの肩に乗っていたエステルは上手く飛び降りて衝撃を避けたようだったが、牙を剥き出して男が去っていった方を睨んでいる。


 塵を払ったらまだなんとか綺麗にはなった。けれども踏まれた悲しみは消えない。


 「怪我は…してないみたいだね。よかった」


 シリウスはベガを立たせてスカートの塵を払い、皺を伸ばした。


 「足を挫いたりはしてない?」

 

 ベガは黙って首を振るだけだった。エステルも心配そうにベガを見上げていた。いつもは自分の定位置だと言わんばかりに肩に飛び乗ってくるはずなのに、今は飼い主の悲しみを敏感に感じ取り躊躇っているようだった。


 「シリウス…」


 ベガは名前だけ呼ぶと両手を広げてシリウスに差し出した。手を繋ぎたいと言う意思表示ではない。抱っこして欲しいという意思表示だった。


 「お姉さんになるんじゃなかったのか?」


 「急に足が痛くなってきちゃったわ。きっとさっき転けた痛みが後から来たのね」


 シリウスはベガを抱き上げる。すると台紙を咥えたエステルもシリウスの肩によじ登ってきた。抱えられているベガの肩には乗れなかったらしい。


 客室の前まで戻るとベガたちの客室の前に乗務員が待ち構えていた。その気の良さそうな若い男の乗務員は前の駅でベガを探すのを手伝ってくれた人物だった。


 「お客様。実は体調不良を訴えるお客様がいらっしゃいまして…」


 ベガを探す間の何気ない会話でこの乗務員にはシリウスのも職業がばれていた。

 「お連れ様がいなくなった?それは大変です!どんな格好をしていましたか?黒髪で青い目の…赤い布を頭に被った…。10歳くらいの女の子──あ、もしかして娘さん?妹さんですか?えっ、違う?主治医と患者──医術師おいしゃさまでしたか」

 乗務員は生成りの長衣という飾り気のない格好の中に医術師の身分を示すターコイズの徽章を見つけ、納得したように頷く。それは医術師の免許を持つものだけに許されたもので、さまざまな職種の人物を見てきた乗務員はそれが贋物では無いと分かった。


 体調不良を訴える客がいる。となれば乗務員が列車に乗っている客の医術師の存在を思い出したのも自然な流れだった。


 「お願いします…!」


 乗務員はつばの無い円筒形の制帽を外して頭を下げる。


 「この子のそばを離れるわけには…」


 シリウスは心配そうに抱きかかえているベガを見る。ベガは下ろして、と目で訴えた。ベガが下りるとエステルもシリウスの肩からベガの肩へと乗り移る。乗務員の男は肩にいるエステルがあまりにも自然だからか動物が籠から出ているのに気がついていないようだった。もしかしたら気づいた上で見逃しているのかもしれない。


 「大丈夫よシリウス。私一人でも待てるわ」


 ベガはそうきっぱりと言ってシリウスを助けを待つ患者の元に送り出そうとしたが、そうじゃないという不安に満ちたシリウスの瞳がベガを映していた。


 「この子は病気で何があるかわからない。出来れば傍に人が着いていてやらねばならないし、それはすぐに適切な処置が出来る私が望ましいんです」


 シリウスは医術師だが、全ての人を救うという博愛心に満ちてはいない。最優先は見知らぬ患者ではなくベガだ。乗務員はその答えを聞いても引かない様子だった。


 「お嬢様も一緒で構いませんからお願いします」


 よく見ると乗務員の顔は軽く青ざめていて焦っているようだった。


 「私も一緒でいいの?なら、行きましょ。先生!」


 ベガはシリウスの手を掴んで引っ張る。シリウスは手早く荷物やエステルを客室の中に押し込むと、しっとりと艶のある旅行鞄を手に取った。それはシリウスの仕事道具が入っているから触ってはいけないと言われているものだとベガは知っている。

 

 「患者は何処に?」


 「ご案内します」


 乗務員の男は目に光が戻り顔の血色が良くなっていっているように見えた。「私は助手ね!」とベガはシリウスの後をついて行く。もちろん子供であるベガに仕事が手伝えるなど思ってもいなかった。だが、シリウスのそばに居ること自体がベガにとっての最大の仕事であると感じていた。


 【ファム・ファタール】は先頭から【機関車一】【機関車ニ】【機関車三】【特等寝台車】【一等寝台車】【二等寝台車】【食堂車一】【食堂車ニ】【客車一】【客車ニ】【貨物車】となっている。一等寝台車を抜け、特等寝台車に入ったところでベガは好奇心と場違いな自分に縮こまる二つの感情がざわざわと背中を撫でているように感じた。


 特等寝台車の床に敷き詰められた絨毯がふかふかで踝まで沈んでいるのではないかという感覚に慣れなかったのもあるだろう。ここに来るまでの乗務員の話しで、体調不良を訴えたのが特等寝台車を利用している貴人であることもわかっていた。


 案内され通されたのは特等寝台車の客室の一つ。乗務員が扉を叩くと中から待ち侘びたと言わんばかりの女性が出てきた。

 

 人参色の髪と焦茶の瞳、顔にはそばかすが散っている人だった。身につけている服は品はいいが慎ましく、特等寝台車を利用できるほど金を持っているようには見えなかった。お付きの者かなにかだろうと一目でわかる。


 「早く奥様を診てください!」

 

 貴人の侍女であろう女性はシリウスを中に引き入れたが、その後ろからひょっこりと着いてきたベガには目を丸くした。


 「子供!?」


 「私から説明いたしますので…」


 乗務員の男は侍女とベガの間に入り、シリウスには患者の元へ行くように促された。

 

 「──というわけで、近くにいないといけないそうで…」


 乗務員は申し訳なさそうに侍女の女性を見てからベガを見た。ベガは乗務員の後ろから顔を出した。


 「邪魔はしません」


 「奥様に失礼な態度を取ったら私は子供でも容赦しません」


 侍女は腰に手を当ててベガを見下ろした。勿論、ベガはそんなことするつもりはなかったが恐る恐る「どうなるの?」と狩られた獲物…哀れな野うさぎのような心地で尋ねた。


 「お尻を叩きます」


 ぴしゃりとふってきた言葉にベガは無意識に自分の尻を庇っていた。この厳しい声ならば、鞭で打つなどと言い出してもおかしくないと思ったからだ。侍女は渋々と言った態度を崩さずにベガを客室の中へと通した。乗務員は中には入らず客室の前で待機するらしい。


 シリウスが通されたであろう貴人がいる部屋ではなく、その一つ手前の──ここは列車内だが家の造りでいうならば居間のような部屋だった。温かみのある白を基調に暖色の窓帳カーテンや複雑な模様の刺繍がなされたクッションが敷き詰められた背の低い長椅子があった。豪華な部屋を色鮮やかで華やかなランプが照らしている。


 ベガたちがいる二等寝台車の客室は白と青を基調とした海辺の街を感じられるような部屋だったためベガには新鮮に映った。


 「クララ、医術師おいしゃさま来られたの?」


 そこに、ベガと同じ歳くらいの少年が姿を現した。上等な衣服を纏った彼は使用人には見えず、きっと仕える相手側だろう。黒い髪に灰色水晶のような瞳を持つ少年は視界の中にベガを見つけると「お客さん?」と尋ねた。


 「医術師おいしゃさまのお連れの方だそうです。でん──坊っちゃま…」


 そばかすの侍女もといクララは姿勢を正すと腰を折り頭を下げた。その様子に、この歳がそう変わらなそうな少年はやんごとなき御方であると分かりベガも自然と背筋が伸びた。

 

 「はじめまして、僕はアルタイル・カミリヤ。母上のために君の父上…かな?の時間をくれてありがとう」


 美しい顔に真正面から礼を言われ、ベガはちょっと顔が赤らんだ気がした。


 「はじめまして。ベガ…ベガ・ワルドゥです」


 ベガの緊張が相手にも伝わってしまったのか、アルタイルは「楽に話して」と言った。とってつけた慣れない丁寧な言葉遣いでは舌を噛みそうだったのでベガにはありがたかった。


 「先生は先生なの。パパじゃないの…」


 そこのところ、ベガとシリウスの関係は少し複雑だ。何度も若い父と娘または歳の離れた兄妹と勘違いされてきた。アルタイルとベガが話す様子をクララは厳しい視線で…というよりはベガが何か失礼なことをしでかさないかとハラハラした様な視線を向けられていた。


 「クララ、僕ベガとお話ししたいな。お茶を用意してくれる?」


 「…かしこまりました」


 そう言ってクララは背を見せず下がって行く。お茶が用意できるということは特等寝台車の客室には湯などが沸かせるちょっとした台所キッチンが備え付けられているのかもしれない。『走るホテル』を合言葉に設計されたという話は嘘ではないのかもしれないとベガは思った。


 しばらくすると棗椰子デーツの実と濃いミルクティーが出てきた。鍋ややかんにより少量の水で紅茶を煮出し、大量のミルクを足して更に煮出し、大量の砂糖であらかじめ味付けするものである。香辛料なども入っておりベガの舌で確認できたのはシナモンだけだったが生姜やカルダモン、胡椒やクローブなどが入っていることもある。ベガは砂糖よりまろやかな甘さになる蜂蜜入りのものも好きだ。


 ベガたちがいた西の交易都市アリエス辺境伯領は珈琲の飲用文化発祥の地とも言われ、水から煮出してカルダモンなどの香辛料と煮込み上澄みだけを飲むものが主流だ。帝都に近づくほどたっぷりの砂糖を入れて煮て作ると聞くが、アリエス伯領では苦い珈琲文化だった。

 そんな文化の背景からか、それともシリウスが珈琲を好むからかベガはわざわざ甘い紅茶を作るよりシリウスが飲む珈琲をついでに貰い、砂糖やミルクという()()で甘くして飲んでいた。まだ短いベガの人生の中で、甘い紅茶は大好きだがあまり飲んだ記憶はなかった。


 だからこそ、自分好みの甘さにベガは頬を緩める。その表情を見てアルタイルも満足そうに微笑む。


 「ベガたちはどこに向かってるの?」


 帝国鉄道【ファム・ファタール】は主要な都市は通過する様になっている。


 「帝都アンドロメダよ。シリウスの…先生の新しい仕事場に行くの」

 

 それでも多くの客は帝都を目指して列車に揺られている。


 「そうなんだ。僕も帝都の家に帰るところだよ」


 「帝都に住んでるの!私の家はまだ帝都にはないのよ。でもね、アリエス伯領にはあるわ。また来年には帰れるの」


 帝都は帝国の中枢、それ故に多くの人口が流入し物価などが跳ね上がっているという。アルタイルの纏う衣服を見るに、帝国の集合住宅に住んでいる様には見えないため、きっとただでさえ高い帝都の土地に立派な一軒家を建てて暮らしているのだろう。


 その時、奥の部屋から弾んだ若い女の声が聞こえてきた。


 「本当にあるの?お客様の中に医術師おいしゃさまはいらっしゃいませんかっていう」

 

 それを聞いたアルタイルの眉間に皺がよるのをベガは見た。


 「母上…」


 アルタイルはベガに少し申し訳なさそうに席を離れていいか尋ねた。ベガにはそれを断る理由がないため頷くとアルタイルは席を立ち貴人である「奥様」がいる部屋の扉を叩いた。


 「母上、大丈夫なのですか?」


 ベガも乗務員が必死に医術師を呼んでいたので身動きも取れない重病人がいる様な印象を受けていたが、先程の声は明るかった。扉が開かれる。


 開けたのはシリウスで、声の主は部屋の奥で椅子に腰掛けていた。貴人の顔は晒せないのか、薄絹で全身を覆う衣装を身につけていた。


 「ほら、お昼に食堂車で魚介類のスープを食べたでしょう?あれがいけなかったのだと思うわ。わたくし、あれのせいでお腹が痛くなってしまったと思うの」


 ベガは患者が思ったより重症ではなかったことに安堵し、食堂車では魚介類のスープが出るのだなと呑気なことを考えていた。

 シリウスはあまり大勢の人間に囲まれることをよく思っていない。初日に食堂車をせっかくだからと記念に一回だけ利用したきり、あとは車内販売や停車する駅で購入する食事を客室で取っていた。乗務員が気を利かせて、食事をお部屋に運びましょうかと提案されたこともあるが食べ物を買いに客室から出るのは列車の長旅に飽きてきたベガにとって数少ない楽しみであることをシリウスは知っていたため、丁重にお断りしていた。各駅記念の花押(スタンプ)を集めるという目的もあったことだから。


 「お腹が痛い時のお薬なら持ってたはずよ」


 ベガは衣嚢ポケットを探ったが目当ての薬は鞄の中に置いてきてしまったことを思い出す。困ったようになった顔がわかったのか貴人…アルタイルの母親ポラリス・カミリアは上品に笑う。


 「可愛い小鳥ちゃん、ありがとう。でも大丈夫よ。少し横になったら楽になったの。何より顔のいい医術師おいしゃさまがきてくれたから眼福だったわ〜」


 うふふ、と笑うポラリスに苦い顔をするアルタイルと居心地が悪そうに苦笑した。シリウスはベガに近づいてこっそり耳打ちする。


 「私がきた時点でもうすでに元気だったから特に何もしてないんだ」


 クララの必死そうな態度を見て最悪な状態も覚悟していたが杞憂だったらしい。厳しい態度のクララもきっと悪い人じゃないと思えた。その厳しさは主人への敬愛の裏返しなのだ。シリウスは少しの間、ポラリスのおしゃべりに付き合っていただけらしい。


 「母上、他の男性を褒めるようなことは父上の前ではくれぐれもやめてくださいね。あの人母上のことになると信じられないくらい嫉妬深くなるんですから」


 アルタイルは呆れたように、心配しただとかが主のお小言を言っていた。その中から、どうやらポラリスとアルタイルは砂漠が一面花畑になったという珍しい光景を見るために父親…ポラリスにとっては夫に内緒で小旅行を楽しんできた帰りらしいということがわかった。ポラリス曰く「仕事ばかりにかまけて妻をほったらかしにする夫は知りません!」ということだった。


 大丈夫なようなら早々に退散しようとシリウスとベガは自分たちの客室に帰ろうとしたが、ポラリスがせっかく知り合ったのだからもう少しお話ししたいと言い、ベガ達はお茶をご一緒することになった。もしかすると、ポラリス曰く眼福なシリウスの顔をもっと眺めたかったからかも知れない。


 「ええ、とても力強い光景でしたわ。砂漠に花…というとアデニウムやロサ・ペルシカなんかを思い浮かびますけど。二百種類くらい咲いていたように見えましたわ」


 「どちらも砂漠の薔薇と言われる花ですね。ただ砂漠の薔薇だと硫酸カルシウムが砂と一体化して結晶になるものを思い浮かべてしまいますね」


 シリウスは砂糖を少なめにして貰ったミントティーを一口飲んだ。食後にミントを濃く抽出したミントティーを飲むというポラリスに合わせて入れて貰ったものだ。彼女は体型に気を使うと言って砂糖は少なめにするらしい。

 

 シリウスは甘いものを好んで食べる方ではなかった。ベガはシリウスのミントティーを一口飲ませて貰ったが砂糖を正義とするベガには物足りなかった。田舎の方になればこの濃く抽出したミントティーに疲労回復のため大量に砂糖を入れるらしい。


 「その結晶でしたら土産物屋に売っていましたわ。意外と安価で買えますのね」


 ポラリスとシリウスの話について行けなくなったベガとアルタイルは侍女のクララ・マグノリャを交えてカップの底に沈んだ茶葉の形を見る紅茶占いを行っていた。珈琲が主流だったアリエス伯領ではコーヒーの粉を茶葉の代わりにして占っていた。

 

 クララは使用人としてきちんと線を引いているため、茶を一緒に飲むことはなかった。なのでベガとアルタイルをクララに占ってもらうことにしたのだ。


 ジプシー出身だというクララはそれなりの占いの腕前があるらい。アルタイルのカップには茶葉が満月の形になっていた。


 「今日は幸運ラッキー、超幸運(ラッキー)


 神妙な面持ちで答えるクララにベガは笑ってしまいそうだった。占いの結果が良かったのが嬉しいのかアルタイルも笑っている。次はベガの番だった。ベガは緊張しながら、カップを覗き込む。


 「三日月?あんまり良くないのかしら…」


 自分なりに結果を推測してみるがクララの険しい顔を見るとどうやら違うらしい。


 「鉤爪…」


 そうぽつりとクララが呟いた時だった。客室の外で車内販売のカートがやってくる音が聞こえる。ベガは可愛らしいくまの形をしたチョコレートが美味しかったことを思い出す。次また車内販売のカートが回ってきたら買おうと思っていたのだった。


 「シリウス、私チョコレート買ってくるわ」


 自分の財布であるビーズが刺繍された小さな巾着袋が衣嚢ポケットにあることを確認し、体が沈む様に柔らかなソファから立ち上がった。


 「僕も行きたい」


 そう言ってアルタイルもソファから立ち上がる。先程まで占いに熱中していたはずだがすぐに他のことに意識を取られる幼い子供特有の飽きの速さにクララは驚いた様だった。

 シリウスは心配そうに、というかあまり行ってほしくなささそうに「ベガ…」と声を掛けたが「すぐそこだから、大丈夫」とベガの足は止まらなかった。その後ろからアルタイルもついて行く。

 

 ポラリスは呑気に「気をつけてね〜」とひらひらと手を揺らして──いや、あれは手を振っているのだろう。


 「僕、本当に今日は幸運ラッキーなのかも。いつも甘いものは体に悪いからってあまり食べさせて貰えないんだ。ベガが一緒ならクララも目を瞑ってくれるかも」


 「そう?でも私は今日、不運アンラッキーなのよ。私の不運が移っちゃうかも」


 そうは言ってもベガも自分がそれほど不運ではないと思っていた。くまのチョコレートが買えるのは幸運ラッキーである。頭の中には次はいちご味のチョコレートを試してみようということで頭がいっぱいだった。


 「僕は今日、クララ曰く超幸運(ラッキー)らしいから一緒にいれば不運が相殺されるかも」


 二人は知らなかった。否、列車に乗る全員が知らなかっただろう。招かれざる客が乗り込んでいる事に。

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