第9話 タイミング
「こんなこと訊いてもいいのかわからないけど、舞さんはなんで孝二さんと結婚したの?」
期待からか気が逸ってしまい、つい探るようなことを尋ねてしまった。
すると案の定と言うべきか、舞さんは困った顔になってしまう。
そんな顔の舞さんのことがかわいいと思ってしまう俺は重症なのだろうか……?
それはともかくとして、問いの答えを考え込んでいるのか沈黙が場を支配してしまうが、急かすことなく二、三十秒ほど待っていると、舞さんは苦笑しながら口を開いた。
「……何事にもタイミングってあるじゃない?」
「タイミング?」
俺が小首を傾げると、舞さんは「ええ」と頷いた。
「そうねぇ。確かにタイミングってあるわよね」
感慨深げに呟いた母さんはグラスを口元に近づけてワインを一口飲み込む。
「結婚しようと思った時は私、三十手前だったからタイミング的にちょうどいいと思ったのよ」
「女は男と違っていつでも子供を産めるわけじゃないから、三十辺りから焦り出すのよね」
なるほど。
確かに男はやろうと思えばいくつになっても子作りできる。――枯れてさえいなければだが。
対して女性の場合はそうもいかない。
三十五歳から高齢出産に当たるらしいし、子供が欲しい人なら焦ってしまうのは無理もないだろう。
「麗子が言っても説得力ないと思う」
母さんにジト目を向ける舞さん。
かわいい。
「……私は息子はいるけど結婚はしてないから」
それは反論になるのだろうか?
息子はいるけど独身だから未婚女性の気持ちがわかるということか?
「結婚願望のない麗子に焦る女の気持ちなんてわかるのかしら?」
舞さんの言う通り、母さんは結婚願望がないらしい。
俺も詳しいことは知らないが、学生の頃から結婚する気はないけど子供は欲しいという考えだったみたいだ。
夫を持つのが面倒だったのか、ずっと仕事をしていたかったからなのか、理由はわからない。
だがその意志は確固たるものだったようで、当時大学生だったにも拘わらず、結婚せずに俺を拵えたそうだ。
ちなみに俺は父親が誰なのか知らない。
以前、母さんと舞さんが俺の父親について話しているのを耳にしたことがある。
その内容が事実なら、容姿、学力、性格、体格、身体能力などのスペックが申し分ない男を適当に見繕って搾り取ったらしい。
男からしたら役得なのかもしれないが、もし自分に息子がいると知ったら腰を抜かすことだろう。
まあ、俺は別に父親が誰なのか知りたいとか、そういった感情は微塵もないから今後も会うことはないと思うけど。
なんにしろ、我が母ながらやることがぶっ飛んでいる。
「……知人の女性たちの意見よ」
図星を突かれて居た堪れなくなった母さんはそう言って視線を逸らす。
「つまり、舞さんは焦ってたってこと?」
「ううん。私は焦っていたわけじゃないわ」
舞さんは一度首を左右に振ってから続きの言葉を口にする。
「一番の理由は母に急かされていたことね。だから当時アプローチしてくれていた孝二さんと結婚を前提に交際することにしたの」
「親としては結婚してくれたほうが安心するだろうし、早く孫の顔を見たいっていう気持ちもあったのでしょうね。その気持ちは私にもわかるわ」
「そうそう。だから三十がちょうどいいラインだったのよ」
母さんの補足に、俺は無意識に「なるほど。だからタイミングなのか……」と呟いていた。
もし俺があと二十年くらい早く生まれていれば、タイミングが合って舞さんと結婚できる可能性もあったのかもしれないのかな。――まあ、母さんが舞さんと同い年である以上は起こり得ない可能性だけど……。
それに、仮に俺が舞さんと年が近かったとしても、出会えなかったら意味のない話だ。
「私も悠くんが素敵な女の子と結婚したら安心するし、生まれてきた子を腕に抱けたら嬉しいもの」
舞さん……それはあなたのことが好きな俺にはきつい言葉だよ……。
叶うことなら舞さんと結婚したいし、俺の子供だって産んでほしい。
俺の気持ちを舞さんは知らないから仕方ないけど、息子としか思われていないのだと実感してしまうから、できればそういうことは言わないでほしいです……。
「でも結局、孝二さんと上手くいってないなら結婚しないほうが良かったんじゃない?」
俺は話を逸らして自分の感情から逃げる。
「結果論でしかないからなんとも言えないけれど、孝二さんがあそこまで女にだらしないってことを見抜けなかったことは私の落ち度かな」
「それは舞さんじゃなくて孝二さんが悪いと思うけど」
人を見る目がなかった、というは確かにあるのかもしれない。
だけど、どちらが悪いかと問われれば、間違いなく孝二さんのほうだと誰もが答えるはずだ。
「さっき言ったことを覆すようで悪いけれど、舞はさっさと別れて私たちと一緒に暮らせばいいのよ。私が養ってあげるわ」
それは名案だ。母さんの案に大賛成です。
舞さんと一緒に暮らせるとか最高以外の何物でもない。
「養う云々は別にしても、一緒に暮らすのはいいわね」
「私が男だったら絶対に舞のことを放っておかないもの」
「麗子、結婚願望ないでしょ」
「舞は特別よ」
「ふふ、ありがとう。困った時はお願いするわ」
舞さんが微笑む。
かわいくてつい見惚れてしまう。
舞さんはかわいい系よりクールな美人系って印象だけど、それが俺にはどストライクなのです。
「今は生活に困ってないから、とりあえずは今のままでいいわ」
「そうね。事情を知らないご両親を心配させてしまうものね」
「ええ、孝二さんは外面がいいから母に気に入られているし、余計にね」
確かに孝二さんは人当たりがいい。
しかもスペックが高いから舞さんのお母さんが気に入るのも頷ける。
お気に入りの義理の息子が、複数の女性と関係を持っているとは思いもしないだろう。
下手したら舞さんが事実を伝えても信じないかもしれない。信じたとしても母親を悲しませてしまう。だから舞さんが二の足を踏んでしまうのは無理もない。
「さて、私は明日朝早いから今日はもうお風呂入って寝るわ」
そう言って席を立った母さんは、両手を頭上に突き上げて身体を伸ばす。
時計に目を向けると、もう少しで二十一時に差し掛かろうかという時間になっていた。思っていたよりも長く話し込んでいたようだ。
これから風呂に入り、寝る準備や翌日の支度などをあれこれしていたら、あっという間に二十三時を過ぎるだろう。
「片付けはやっておくからゆっくりしてきて」
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうわ」
舞さんの厚意を素直に受け取った母さんは、「それじゃ、お先に失礼するわね」と言って浴室へ足を向けた。