港町で・三日月の夜に・マーブル模様のノートを・話し相手に暇をつぶしていました。
「取り替え子」の「田亀」に倣う。
あの作品は所々がフィクションであり、物語を作り上げている作家の言うことを真に受けて、死者との更新システムが構築できるわけがないと理性的に考えるが、今はその幻覚じみたフィクションにすがりついてみたい気分であった。私の住居は港の近くに構えており、夜半でも船の汽笛が聞こえることがある。船は陸のトラックと同じく、24時間365日動いていて我々の物流を支えてくれているのだ。それでも、汽笛を忌々しく思う日もある。そのくらいのこころの自由は、私にもきっと許されているはずだ。
夜になると思うことがある。私の家は夜になると世界から隔離され、夜闇の向こう側には日中に暮らしていた明るく楽しい世界があるのに、私の魂や家の残えがぽつんと置いてきぼりにされている感じがする。私を世界が忘れ、私は世界を覚えている。だが手の届かない位置に世界があるから、どうにもならない。虚空を掴もうとする手がみっともなくて、むなしい。こういう時に眠ってしまえば、私は強制的に活動不能になるため昼の世界に帰ることができるのだが、目が覚めうと、現実に置き去りにされてふるえるしかなくなるのだ。だから私は「田亀」に倣う。
ノートを一冊、机から取り出した。文房具は整頓されている。整頓していないと気になるたちである。そのくせ床に物が落ちていても気にしないので、幼い頃は机周りだけ綺麗にしてと今は亡き母によく小言をいわれた。その考えは今も変わっていない。だから私は、机から目当てのものをスムーズに取り出す。まるで舞台装置かのようなスムーズさだ。まるで自分が主人公の演劇のよう。だが現実には舞台袖で待機する仲間の存在はいない。やめよう、その空想は自分を傷つける。私はひとつ息を吐いた。机の上にある表紙は、自分では選ばないようなマーブル模様がプリンとされている。美しいとは感じるが、その模様を日常に置こうとは思わない。
クラフト紙の素朴なノートが私は好きだ。だからそのノートは、他人の物であることは明白だった。私の空間に、私のものではない物が紛れ込んでいる。本人の了承を取らずに持ってきたと言えば、そうだ。このノートを手にした時、その持ち主は既に亡くなっている。だから了承を得たのはその持ち主の遺族に対してで、なんだか盗んだような申し訳ないような気持ちが今更むくむくとわき上がってきた。だが持ち主は記録を取るのが好きで、ノートに日常をつらつらと書き留めていたのだ。だからノートは実はあと5冊はある。
その表紙に、マジックだろう太字で ① と書かれているものを、私は見ている。そのノートを見れば、持ち主の息づかいが感じられる気がして、私はノートを開いた。まず最初は、彼女の出産の記録が、急ぎ書いたのだろうなまなましい筆跡で感じられる。殴り書きであるが喜びと痛みを赤裸々に書き留めている。次のページになると、子供の様子などを一日の終わりに書き留めたのだろうか、興奮した様子で出来事を時間を書いてつづっている。
2:23 授乳
2:24 夜泣き
2:26 泣き止まず抱っこして散歩
3:01 泣き止む
3:31 授乳
(中略)
8:30 朝食 おいしかった
8:33 授乳後、泣き止む
(以下略)
「大変だったんだね」
私が思わずつぶやいたが、ノートは「田亀」のように音声による通信をしてくれなかった。ノートを読み進めると、赤子の目が開いただの、笑いかけただの、言葉を話しただのと我が子の成長への喜びに満ちあふれている。そうこうしているうちに、子供が小学生にあがった頃に運命的な出会いをしてしまったと、やけにセンチメンタルな一文が描かれていた。彼女の運命の相手は、小学校の教師だったらしい。激しい燃えるような恋をしたようで、周囲を焼き焦がして子供を失い、彼女は教師にひっついて逃げるように地元から離れた。
ノートの ② は懺悔の記録だった。ノートの ③ は教師の裏切りにより後悔と怨念がつづられ、ノート ④ では子供を一目見たいと走り回る彼女の記録が残されている。だが終わりになると捨てた子供に拒絶され、絶望の言葉が延々と綴られていた。過ちを犯したことは一生をかけて償えないものだと締めくくり、ノート ⑤はしばらく間が空いて、病気の記録であった。老年の彼女のノートである。同じノートを五冊まとめて買ったのだろうか、その表紙は特段色あせていて、⑤の字も小さい。その後の彼女の結末は、私は知っている。だから一旦ノートを閉じた。大きくため息を吐く。大学生の時代には彼女はマドンナで、構内中の注目の的だった。コケティッシュな顔立ちにすらりとした体が不釣り合いで、西洋の人形のようでおかしかった。私は彼女のアッシーというやつで、大学に通う四年間、向こうから足になってくれと当然のように申し出されたのに、純朴は私は素直にはいと言った。素直な子は好き、と頬にキスを去れ、茹で蛸のような私を彼女は笑った。それから何年もの時を会っていなかったのに、葬儀参列者のリストにはいの一番に私の名前があったらしい。だから驚きながらも出席すると、彼女の子供がノートを処分したいと言っていたのが聞こえて、もらってきたのだった。
「言ってくれればよかったのに」
思わずノート相手にグチをこぼす。若い頃に細君を失ってしまった私は生来の臆病者が直っていなかったけれど、それなりに社会に貢献していたので、旧友でありほっぺにキス以降一度も触れられなかったマドンナを見舞うことだって出来ただろうに。
「あなた、臆病なんだもの」
ノートが喋った気がした。これは臆病者の後悔か自責か、彼女を悼む気持ちか、葬儀で見せなかった大粒の涙をこぼし嗚咽しながら私は泣いた。
原典:一行作家