case1〜依頼者:望月千輝〜(前編)
探偵、という職業にはるか昔、憧れたことがあった。小学生の頃のことである。その人は規律に縛られる警察官と違って自由で、優雅で、何よりも頭がよかった。次々と難事件を解決し、渡り鳥のように方々を転々としながら気ままに生きる。それが小学生だった千輝の目にはとても理想的でうらやましい生き方に映った。もちろんテレビドラマの話である。高学年になるにつれて、それが虚構であることは、はっきりとわかっていった。そのころからだろうか、妙に周りの景色がつまらなく見えるようになった気がする。夢のある話はいつもフィクションで、現実はこんなにも殺伐として味気ない。だから、本当に出会うまでは自分が探偵をやることになるとは思いもしていなかった。
中学校の卒業式を間近に控えた三月のはじめ、千輝は親友の陽菜の付き添いで、近くの画材屋を訪れていた。
「ねぇ、千輝、この色、きれいじゃない? いかにも森の緑って感じがする」
「うん。そうだね。確かにきれい。樹海とかの深い緑ってそんな色だね」
「だよねだよね! もう一つ買おっと。って、わ!」
うっかり、棚に手が引っかかって、いくつかの絵の具のチューブが床に散らばった。慌てて拾い集めようとすると、ベージュのトレンチコートを着た女の人が拾うのを手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
陽菜がお礼を言うと女の人は優しく微笑んでくれた。
買い物を済ませて外に出ると、陽菜が自分のポケットに手を当てて何か探していた。
「あれ? ケータイがない。どっかに落としたのかな?」
「店のどっかに忘れたんじゃない?」
「そうかも、ちょっと探してくる!」
「あ、私も行くよ。二人で探したほうが早いでしょ」
「ありがとう」
店の中に戻って二手に分かれ、しばらく探す。棚の周りや棚の下を探してもなかった。
「あった?」
千輝がそう聞くと今度は陽菜の姿がなかった。
「あれ? 陽菜?」
トイレにでも行ったのだろうか。しかし、一言ぐらい声をかけていくはずだ。無言でいなくなるのはおかしい。心配になってあたりを見回してみた。やはり店の中にはいない。外に出たのだろうか、と窓の外を見た時、黒のワンボックスカーに連れ込まれる陽菜が目に入った。
「あ、陽菜!」
千輝は思わず声を上げた。棚を見ていたさっきのトレンチコートの女の人もその声に反応して顔を上げる。陽菜は薬で眠らされているようで、ぐったりとした様子で車に乗せられて運ばれていった。
「さっきのお友達か? 車に乗せられていったのは」
女の人が声をかけてくれた。
「そうです。どうしよう」
千輝はパニックになった。とりあえず警察、とケータイを取り出したその時、千輝のケータイに着信があった。番号は非通知だったがとりあえず出てみることにした。
「……お前の親友、戸崎陽菜の身柄は預かった。返してほしければ、明日午前十時までに一千万円用意しろ。警察に通報すれば、陽菜の命はないと思え」
一方的な電話で、返答する間もなく電話は切れた。千輝はさらにパニックに陥った。
「どうしよう、一千万だなんて用意できない。警察にも言うなって」
「落ち着きなさい。焦ってもしょうがない。それと、それは君の携帯電話なんだね?」
「はい。そうです」
「わかった。じゃあ、私が力を貸そう。こう見えても私は探偵だ。きっと力になるよ。それに、私が力を貸しても警察に言ったことにはならないからね」
「探偵……何ですか? 本当に?」
千輝は少し驚いた。探偵などという職業の人間が虚構じゃない現実の世界にいるとは。驚きで固まっている千輝を見た女の人は、名刺入れからすっと一枚の名刺を取り出した。うぐいす探偵事務所の町田美羽という人らしい。
「これで、信じてもらえるだろうか。それで、どうする?」
「はい。お願いします。友達を、陽菜を取り戻してください」
「承った。ではまず、彼女の母親か父親の電話番号はわかるか? 分かるならそこに掛けてほしい」
「はい。陽菜のお母さんならわかります。いま、掛けますね」
千輝はもう一度電話を取り出し、陽菜の母親に電話をかけた。
「はい、戸崎です。どうしたの、千輝ちゃん?」
「あの陽菜が、さっき陽菜がさらわれて……。み。身代金を一千万円払えって」
「一千万円? さらわれたってどういうこと?」
電話の向こうの陽菜の母親明らかには動揺していた。すると町田は千輝の電話を貸すようジェスチャーで促したので、千輝は電話を渡した。
「どうも、戸崎陽菜さんのお母様ですか? 私、うぐいす探偵事務所の町田と申します。少し込んだお話になると思いますので、詳しいお話は今からそちらに千輝さんと二人でお伺いして直接しようと思うのですが、ご都合よろしいでしょうか?」
「はい。わかりました。大丈夫です。お待ちしております」
陽菜の母親はそう言うと電話を切った。
「彼女の自宅はどこかわかるか?」
「はい。こっちです」
二人は店を出て、戸崎陽菜の自宅へ向かった。
道中、誘拐の前後の詳しい状況を知るため、と千輝は町田に聞き込みされていた。
「二人はどうして今日あの店にいたんだ?」
「なんか、美術部の卒業制作で、森の絵を描くらしくて。陽菜が絵具を買いたいって言いだしたんですよ。私はその付き添いで。もともと美術部だったんです、私。半年前にやめちゃったんですけどね。でも、画材とかの知識は普通の人よりはあったので呼ばれたんじゃないかなと」
「なるほど。相当、仲がいいんだな」
「ええ、まあ。毎年、お互いの誕生日にパーティーとかもするんですよ。陽菜の家で。本当に大事な友人です……」
改めて、陽菜と過ごした思い出を思い起こすと、さらわれたショックも一緒にこみあげてくる。どうして、陽菜は誘拐事件なんかに巻き込まれたのだろうか。
「君の誕生日は?」
「一週間後です。もうすぐだね、って自分の誕生日でもないのに楽しそうでした」
「そうか。ちなみに、どうして美術部をやめたんだ?」
「なんか、周りの景色がつまらなく見えるようになったんです。殺伐としてて、味気ない。そう思ってたら、もう何も描く気が起きなくなって」
「なるほど。トラブルとかではないんだな」
「ええ。全然。むしろ美術部の人はみんないい人ばかりでした。やめるって言った時も、誰も怒ったりせず、私の気持ちを受け止めてくれて。でも、それを見ると余計に私はこんなところにいていい人間じゃないなって思っちゃったんです」
「そうか」
町田は静かに相槌を打った。質問はそれで最後だった。しばらく歩いて、陽菜の家に着いた。
インターホンを鳴らす。しかし、あるはずの応答は返ってこなかった。不思議に思いながらももう一度鳴らした。やはり、無反応だ。家の扉を開けようと手をかける。なんと、鍵はかかっていなかった。
「鍵が、開いてます」
「そうか、なら、気を付けて開けるんだ。犯人が中にいるかもしれない」
脅すような低い声で町田は言った。恐る恐るドアを開けて中に入る。家の中はカーテンが閉め切られていて窓からの光は一切なく、電気もついていない。真っ暗だった。町田さんも中に入ってドアが閉まったその時。
パン、パンパンッ
火薬の破裂音が部屋中に響いた。
はじめまして。この度この作品を投稿することになりました。斎藤と申します。これから若干不定期気味ながら、投稿していこうと思います。完結まで温かく見守っていただけると幸いです。
さて、謎が謎を呼ぶ前編、暗闇で襲われた千輝の運命は!?そして、誘拐犯の正体とは!?全ての謎は、後編にて明らかになります!後編の投稿は本日午後9時です!乞うご期待!