グレイス《前》
グレイス視点です。
まさかこんな日が来るなんて思ってもいなかった。
私、グレイス・ローランドは手のひらに乗せた翡翠色の絵の具を見つめながら思う。
私は明日、婚約者のノア・スペンサーと結婚する。
今でも夢を見ているんじゃないかと思う。
だって私は悪役令嬢なのだから__
* * * * *
私には前世の記憶がある。それを思い出したのは3歳で病気にかかり、生死の淵をさまよったときだった。
その後、なんとか体調は回復したものの、私は何日もの間泣き暮らした。
私の前世の夢は、画家になることだった。幼い頃から絵を描くことが好きで、本気で画家を目指していたはずだった。でも、周りの才能に圧倒され、私はどれだけがんばっても才能がないんだと思った。いつのまにか何のために絵を描いているのかわからなくなり、私は絵を描くことをやめた。
それから私は会社員として働いていた。夢はもう諦めていたけれど、それなりに幸せな人生を送っていたのだ。そんな中、私は突然の事故で死んだようだった。もう両親や友達には会えないんだと思うと涙が止まらなかった。
そうしてずっと泣いて、泣いて、泣いて……私は絵が描きたいと思った。
私はどうやら中世ヨーロッパのような世界の、伯爵令嬢に転生していた。貴族の令嬢が絵を描くのはなかなか一般的ではなさそうだったが、両親はずっと訳もわからず泣いていた私が唯一望んだこととして、私に絵を描かせてくれた。
不思議だ……前世ではもう二度と絵を描くことなんてないと思っていたのに……でも、絵を描いているときは心が落ち着いた。
それから時は経ち、私はグレイス・ローランドとしての生活に慣れていった。
私のつり目は気の強そうな印象を与えるが、まあまあ美人だと思う。髪の毛がどうやっても縦ロールになってしまうのにはうんざりしたが。
両親と兄のセシルは私を溺愛していて、前世の記憶がなければ私は相当なわがまま令嬢に育っていたに違いない。そうだ、前世の友達に勧められて結構ハマっていた乙女ゲームの悪役令嬢みたいに。
私が本当に乙女ゲームの悪役令嬢だと気づいたのは、兄のセシルの婚約者のキャサリン・スペンサーと初めて会ったときだ。キャサリンはまさに完璧な令嬢といった方だったが、私はその流れるような黒髪と翡翠色の瞳から目が離せなかった。キャサリンは私がハマっていた乙女ゲームの攻略対象、ノア・スペンサーにそっくりな顔立ちだったのだ。尋ねてみるとキャサリンには本当にノアという弟がいるらしかった。
そこで私は、グレイス・ローランドがノアとヒロインの恋を邪魔してノアに婚約破棄されてしまう悪役令嬢だということに気がついた。
ああ、それで……この悪役顔と天然縦ロール……
私の縦ロールがどうやっても直らないように、きっと私は婚約破棄されてしまうのだわ。
諦めにも似た気持ちで、私はその後決められたノアとの婚約を受け入れた。
ノアのサラサラの黒髪に翡翠色の瞳を持つ美しい姿を初めて見たとき、やはりこれは乙女ゲームの世界なのだと確信した。ノア・スペンサーは姉のキャサリンの影響で女嫌い気味で、わがまま令嬢グレイスと婚約することで、さらに女嫌いを加速させていった……という設定だった。
私は何を言えばいいのかわからなくなってしまったが、お兄様の助け舟でノアに家の庭を案内することになった。
私はノアに会う前、落ち着くために庭で花の絵を描いていて、それをそのままにしていたのを忘れていた。
ノアがそれを見つけ、素敵な絵だと言ってくれたのが少し嬉しくて、私が描いたのものだと打ち明けた。
「グレイスは絵の才能があるんだね」
そう言われて私は思わず否定した。私に才能がないのはよく知っている……
「そうかな、ごめん……でも、絵を描くのが好きなんだね」
絵を描くのが……好き? 私は前世で幼い頃、本当に絵を描くのが大好きだった気持ちを思い出した。そうだ、私は好きだから絵を描いていただけだった。
「はい、私は絵を描くことが大好きなのです!」
そう思うと、心から笑顔になれた。
それからノア様と色々なことを話した。今まで誰かに絵の話をしたことなんてなくて、真剣に聞いてくれるノア様が嬉しかった。
あっという間に時間が経って、ノア様も楽しかったと言ってくれて、私は浮かれた気持ちを抑えなければならなかった。だって私は悪役令嬢で、いずれ婚約破棄されるのだから。
でも、ゲームが始まるまでは……王立学園の2年生になって、ヒロインが転入してくるまでは、ノア様と一緒にいたい。
私たちが一年後に入学を控えた頃には、私はそんなことを願うようになっていた。ノア様と会える時間は本当に楽しくて、私はノア様に惹かれているのを感じていた。ノア様も私のことを嫌いではないんだと思う。その日も絵の具のセットをいただいて、私は一生大切にしようと決めていた。
でも、私がお兄様とキャサリンお義姉様が学園で有名なカップルだと言われていることを話したときに、私にあんな風にならないでくれ、と言っていたから……やっぱりノア様は私と恋人のようになることは望んでいないんだ、とわかった。
キャサリンお義姉様は私が思っていたような完璧令嬢ではなく、かなりのツンデレ令嬢で、お兄様はそんなお義姉様を溺愛している。仲の良い二人は私の憧れだった。でも、あんな風になれたら、なんて思っているのは私だけ。
学園で毎日ノア様と会えるのは楽しみだったが、婚約破棄が迫っていることを感じて憂鬱になる。ノア様に私と同じ気持ちを抱いてもらえなくても、一緒にいたいと思ってしまった。
私はもう否定できないくらい、ノア様を好きになってしまっていた。