1. 出会い
「僕と婚約解消してくれないか?」
そう告げると、僕の婚約者であるグレイスは一瞬目を見開いた。しかしすぐに微笑み、うなずく。
「わかりました……最後に一つだけ、よろしいでしょうか」
「ああ」
「ノア様、私____
* * * * *
憂鬱だ__僕は何度目かわからないため息をついた。10歳になった伯爵家の次男である僕、ノア・スペンサーは同い年の伯爵令嬢グレイス・ローランドと婚約を結ばされ、今日初めて会うことになっていた。
「何、ため息ばっかりついてんのよ」
そう言って姉のキャサリンが僕をにらんだ。2つ年上の姉は、グレイスの兄のセシルと婚約を結んでいる。そういうわけで、家の結びつきために僕が婚約をする必要はないのだが、両家の親たちの仲がよく、他に適当な相手もいなかったために僕の婚約は決まってしまった。
「だって女なんて、姉さんみたいに……」
……凶暴で意地悪かもしれないだろ。
「今失礼なこと考えてたでしょう」
そう言って姉さんは頭をぐりぐりしてくる……痛い痛い! 大体、僕が女嫌い気味なのは姉さんのせいだと思う。僕の黒髪に翡翠色の瞳をもつ容姿は、昔は女の子と間違われることも少なくなかった。幼い頃は姉さんに、強制的にドレスを着せられたりしていた……おまけに姉さんには令嬢たちのどす黒い話を聞かされて育ち、これでは女性不信になりかけるだろう。
「グレイスはとってもいい子なんだから、ちゃんとしなさいよ!」
ええ……? 姉さんがこんなことを言うなんて珍しい。甘やかされて育ち、わがままな令嬢も多いのに。グレイスも溺愛されていると聞くから、そんな子だろうと思って憂鬱になっていたのだが。
ついに、ローランド家に着いてしまった……
初めて会ったグレイスは、つり目がちの藍色の瞳に、銀色の髪の毛をもつ少女で、勝気な印象を受けた。髪の毛は縦ロールである……初めて見たんだけど……
「はじめまして、ノア・スペンサーです」
「はじめまして。私は、グレイス・ローランドです」
「……」
「……」
え〜っと……会話が続かない。僕は初対面で喋るのが得意ではないが、姉さんはいつもうるさいし、女って結構おしゃべりだと思っていたのだが……これはこれで気まずい。
助けを求めて、セシルに会うために同行している姉さんをチラッと見たが、この家に来てから姉さんは完全に猫をかぶっていて、まるでおしとやかな令嬢のようだ。誰だよ、これ?
「グレイス、ノアに庭を案内してあげたらどうだい?」
ナイスです、セシル様。気まずい雰囲気を和らげてくれた救世主に、心の中で感謝する。セシルはグレイスと同じ瞳と髪の毛の色をしているが、彼女とは違って垂れている目が優しい印象を与える。う〜ん、姉さんにはもったいないくらいの婚約者である。
「はい、お兄様」
そうしてグレイスが僕を案内してくれた庭には、美しい花々が広がっていた。そこで、僕は庭の端にキャンバスが立っていることに気がついた。まだ、描きかけのようだが、色とりどりの花が綺麗に描かれている。
「これ、素敵な絵だね。誰が描いたんだろう」
そう言うと、グレイスは目を見開いた。
「片付けるの忘れてた……あの、それは私が描いたものです」
「えっ」
グレイスがこの絵を!?僕は絵画に詳しくないけれど、10歳でこれほどの絵が描けるなんて、すごいんじゃないだろうか。
「グレイスは絵の才能があるんだね」
「いえ、才能なんてありません」
きっぱりと否定して、グレイスはなぜだかとても辛そうに顔をゆがめた。軽率に言うべきではなかったかもしれない。
「そうかな、ごめん……でも、絵を描くのが好きなんだね」
それを聞いたグレイスは少し驚いたような顔をしてうつむいたが、しばらくするとまっすぐに僕を見つめて言った。
「はい、私は絵を描くことが大好きなのです!」
それはまるで花がほころぶような笑顔で、僕はなぜだか目を逸らせなかった。
それから僕はグレイスに色々なことを尋ねた。令嬢の趣味として絵を描くことはあまり聞かないが、グレイスはずっと絵を描くのが好きだったらしい。彼女はその強気な見た目に反して性格は大人しいようだが、絵のことについて話すときは瞳をきらきらさせてとても楽しそうだ。そうしているとあっという間に時間が経っていた。
「今日はありがとう。実は、僕は君みたいな令嬢のことをわがままだと勝手に思っていたんだ。でもそれは間違いだったよ、ごめんね。グレイスと話せてとても楽しかった」
なんだかグレイスには正直に言っておこうと思えた。するとグレイスは笑った。
「ふふっ、ノア様ってとても正直な方ですね」
面白いことを言ったつもりはないが……グレイスに初めて名前を呼ばれてなんだか顔が熱くなる。
「私、悪役顔ですものね。おまけに天然縦ロールですし、わがままお嬢様にぴったりなんです」
悪役顔?とはよくわからないが……というかその髪の毛は天然だったのか!? 僕が密かに衝撃を受けていると、グレイスは続けた。
「私も、婚約することがとても不安でした。ですが、今日ノア様とお話できてとても楽しかったです」
グレイスにそう言ってもらえて、僕はふわふわした心地で家に帰った。今日は姉さんのうるさい話も耳に入ってこなかった。グレイスにまた、早く会いたい。