一章 アルラウネの森 九話
ミルド村も王都セルネドブルムも、夏だというのにそこまで暑くない。気温もそうだが湿度がそこまで高くないからだろう。日本の夏と言えば冷房が必須だったが、こちらでは特に必要性を感じないほどだ。
俺がベッドに寝転んで日本の夏の寝苦しさを思い返していると、隣のベッドから声がかけられた。
「アキトくん、まだ起きてる?」
「ん? 起きてるぞ」
「今日は……ありがとね」
「何だよ、急に。お前も見てただろ? 俺はルナーリア様にお願いされたからレオさんと交渉しただけだ」
ルナーリア様は、俺の質問にとても丁寧に答えてくれたのだ。出来る限りのことはしてあげたいと思っている。
俺は目を閉じて、今日の昼の出来事を思い出した。
「もう他に質問はないか?」
「え~っと、そうですね……はい。だいたい知りたいことは聞き終えました。ありがとうございました」
ゲームや漫画に出てくるアルラウネとは違う部分がたくさんあってとても面白かった。
この世界の人間たちすら知らないであろうアルラウネの生態を教わり、俺は満足げな笑顔でお礼を言った。
「では、今度はこちらの願いを聞いては貰えないだろうか?」
「――えっ? お願いですか?」
俺が首を傾げるのとほぼ同時に、背後にいたミドリが身構えたのが分かった。何か圧力というか、殺気の様なものを背中に感じる。もしかして臨戦態勢なのではないか?
「竜人の少女よ。そう警戒するな。無理な願いを言うつもりはない。それに断ってくれても構わない」
「……それならば、まずはご自身の魔力を抑えていただけますか?」
「む……これは失礼した。我らアルラウネにとってとても重要な話だった故、つい身体に力が入ってしまっていたようだ」
ルナーリア様が謝罪すると、ミドリから放たれていた殺気が消え失せる。
「び、びっくりした……怒った時のママより凄かった……」
隣にいたレフィーナが小さく呟く。
子供とはいえ最上級種族であるレフィーナでこれだ。周囲にいたアルラウネたちは全員縮こまるように怯え切っている。
「そ、それでお願いっていうのは? とても重大なお願いみたいですが、俺なんかに叶えられるものでしょうか?」
「うむ。むしろ人間であるアキトにしか頼めない。知っているだろう? この森の木を伐らせて欲しいと毎日のように話にくる人間たちの事だ」
「ああ、はい。実はここに来る前に少し話しました。木を加工して売る仕事をしている人間たちですね」
「その人間たちに私の意志を伝えてほしいのだ。この森の木をお前たちに渡すつもりは一切ないとな」
なるほど。それは確かに人間の俺にしか頼めない。アルラウネは森から出られないのだから。
「そのくらいなら別にいいですよ。王都に戻ったら伝えておきます」
「本当か? 感謝する」
ルナーリア様は髪の毛の間や手の先から何本もの蔓を伸ばして俺の顔や首を撫で始める。指先でなぞる様な繊細な動きだ。
「あ、あの、これは?」
「褒美だ。アキトは私の蔓で撫でられるのが好きなのだろう?」
ルナーリア様は優しく微笑む。だがその目は対等な立場の者に向ける目ではなかった。信頼する部下――いや、愛玩動物に向ける視線に近い気がする。
「ふふっ、可愛いな。私に身を委ねたいと思いながらも、冷静に分析して警戒している目だ。人間としてのプライドが本能を抑え込んでいるのか?」
ダメだ。格が違い過ぎる。後ろにミドリがいてくれているという安心感がなかったら、とっくに服従していそうだ。
「どうだ、アキト。ついでにもう一つ願いを聞いてくれないだろうか?」
「な、なんでしょう?」
俺を撫でる蔓が一本増える。蔓の各所から小さな花が咲き、甘い香りを漂わせている。
「私の言葉を伝えるだけでなく、お前の言葉でも人間どもを説得して欲しいのだ」
「俺の言葉で……ですか?」
更にもう一本、蔓が俺の身体に絡みつく。
「そうだ。どうか私たちの力になって欲しい。私はアキトなら一番良い形で人間どもを説得出来るのではないかと思っているのだよ?」
「か……買いかぶりです……」
更にもう一本。
「無理だと思うなら断ってくれてもいい。だが、私はアキトなら出来ると思うから頼んでいるのだぞ?」
もう一本。
「……わ、分かりました……ルナーリア様のために、頑張ります」
俺がそう口にすると、全身に絡みついていた蔓が一気に解けて引っ込んでいく。
「ありがとう、アキト」
俺は極度の興奮と甘い花の香りで真っ白になりかけていた頭を振り、深呼吸して冷静さを取り戻そうとする。
完全に乗せされた。これがクイーンアルラウネか。
「どうしたのだ、竜人の少女よ。お前の言った通り魔力は抑えていたし、アキトに危害を加えてはいないぞ? 与えたのは褒美だけだ」
「ええ、そうですね。その通りです。ですが、今の褒美は少々やりすぎでは? もし私が後ろにいなければ、アキト様は今頃あなたによって快楽の海に沈められていそうでした」
後ろを振り向くと、先ほどのような殺気を放ってはいないが、鋭い目付きでミドリがルナーリア様を睨み付けていた。
俺は心の中でミドリに感謝する。彼女というストッパーがいなければ、ルナーリア様は本当の意味で俺を快楽漬けにして傀儡にしただろう。
「まさか、私もそこまではしないよ。だが、そうだな。もしもアキトが私の頼みを聞き届け、一番良い形で話をまとめることが出来たならば、アキトの望むものは何でもやろう。それこそ私の身体を使って快楽の海に沈めてやってもいいぞ?」
俺はその言葉の意味するところを想像して、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ちっ。アキト様、何を期待しているのですか?」
「――っ! い、いや、その……別にそういうわけじゃ」
「はぁ……これだから変態は」
ミドリはため息を吐くと、置いてあった俺のリュックを拾い上げる。
「行きますよ、アキト様」
「え? どこへ?」
「この花畑の外にです。ではクイーンアルラウネ、失礼しますよ」
「うむ。アキト、よろしく頼んだぞ」
それだけ言うと、ルナーリア様は椅子から立ち上がって巨大なバラの花の中へと戻っていった。
あの花の香り、たぶん思考を鈍らせる効果があったのではないだろうか。明日会いに行くときはあまり嗅がないように気を付けよう。
「アキトくん、凄く辛そうな顔してたよね。もう少し長引くようなら止めに入ろうかと思ったもん」
「えっ? 辛そう?」
「うん。ママの蔓に撫でられている時のアキトくんは凄く辛そうだったよ。何かを必死で耐えている感じだった」
それはたぶん、必死に理性を保とうとしていた顔だろうな。
「ママも酷いよね。アキトくんを苦しめて言うことを聞かせようとするなんて」
「いや、それは違うぞ」
「違う? どこが?」
しまった。レフィーナが凄い勘違いをしていたのでつい否定してしまったが、これはあまり説明したくないぞ。
「あ~、だからその、あれだ。さっき俺が一緒にシャワーを使うのを断ったのと同じだ」
「シャワーと同じ……?」
レフィーナはしばらく黙ったあと、何かに気付いたように「ああ」と声を上げた。
「つまり、発情しそうになるのを我慢してたの?」
「すみません、直球でそういうことを聞くのは勘弁してください」
「むぅ、アキトくんは恥ずかしがり屋だなあ」
「いや、ごく一般的な反応だから!」
すると暗闇の中で隣のベッドから何かが伸びてきて俺の手に触れる。
「……これ、レフィーナの蔓か?」
「うん。アキトくん、ぼくの蔓でもママの時みたいになるの?」
「……シチュエーションにも寄るが、否定はしない」
「そっか」
レフィーナの蔓が引っ込む。
どうした?
何を考えているんだ?
「じゃあ、明日のママとの話し合いが上手くいって、ぼくやママ、それにレオたちも満足できる結果に終わったら、ママが君にしたようなこと――ううん、違うな。君がママにしたくてもしないように我慢していた事、ぼくがお礼に相手をしてあげる」
「は? いや、ダメだろ、それは」
「大丈夫。ぼくは女の子でも男の子でもないけど、もともとアルラウネは人間の男を誘惑するために人間の女の子とほとんど同じ身体をしているから、やろうと思えば発情した君の相手くらい出来るんだよ?」
それは何て魅力的な提案だろう。
レフィーナは夢にまで見たアルラウネだ。好奇心旺盛で、人懐っこくて、人間を見下しがちだけど、我慢するということを知っていて、きっと数年後にはルナーリア様みたいな美しいクイーンアルラウネになるのだろう。
そんな彼女が相手をしてくれるというのだ。喜んで提案を受け入れたい。
「………いや、遠慮しておくよ」
俺は心とは真逆の言葉を口にした。
「我慢しなくていいんだよ?」
「我慢か……確かに我慢だ。でも、この我慢は俺にとって必要なことなんだ」
「どうして?」
「ここでレフィーナの好意に甘えてその提案を受けてしまったら、俺はもう抜け出せなくなりそうだからだよ」
適度に女性経験がある男なら大丈夫かもしれない。
でも、俺は違う。この年まで女性と付き合ったことすらない。
そんな俺がいきなり超絶美少女でストライクゾーンど真ん中のアルラウネの王女様の身体を知ってしまったら、絶対にそこから抜け出せなくなる。
「俺の目的は恋人を作って、結婚して、幸せに暮らすことだ。それなのに、一時の性欲に任せてレフィーナを抱いたら、俺はその快感から抜け出せなくなると思う」
「癖になっちゃうってこと? 毎日は嫌だけど、たまにならいいよ?」
「いや、ダメだ。だってレフィーナは俺を男として好きなわけじゃないんだろ?」
「男として? 好きは好きだけど、男としてってのは良く分からない。アキトくんは友達だから好きなんだ。そのアキトくんが望むなら、してあげてもいいかなって思ったんだけど」
ああ、やっぱりだ。
アルラウネには性別がない。好き嫌いはあるが、性対象として好きという感覚は存在しないんだ。それならやっぱりレフィーナを俺の相手に選ぶことは出来ない。
子供が作れなくても、お互いに愛し合うことが出来るのならいいと思う。でも、アルラウネにはそういった感情がない。どこまでいっても俺からの一方通行だ。
「レフィーナ、俺は欲張りなんだ。そういう行為をする相手には、俺と同じ好きを返してくれる女を選びたい」
「同じ好きを返す? アキトくんの好きは女の子に対する好きで、ぼくの好きは友達の好き……この二つは違うの?」
「ああ、恋人と友達は全然違う」
「ママやアルラウネのみんなに対する好きは?」
「それは家族だな。また別の好きだ」
レフィーナはしばらく黙っていたが、考えがまとまったのかポツリと呟くように言った。
「じゃあ、ぼくには出来ないや」
それは俺が望んで、レフィーナがそう言うように誘導した答えだったのだが、心の片隅で残念に思った。
情けない。頭ではなく、心のどこかでレフィーナに受け入れてほしいという欲望が存在したことに気付いて自嘲する。
「だろ?」
「うん。アキトくんは友達だもん。もっと仲良くなればママに対しての好きと同じくらいにはなるかもしれないけど、恋人の好きは想像も出来ないよ」
「おう。だからそのお礼は受け取れない」
「分かった。じゃあ、代わりに友達としてのお礼が出来ないか考えておくね」
俺は彼女がしてくれるという友達としてのお礼を楽しみにしながら、壁側へと寝返りをうった。
「楽しみにしておくよ」
アキトは見境がないようで、意外と一途な男です。しかし、飢えていると言ってもいいレベルで女性を求めているので、誘惑されるとすぐに感情が揺れてしまいます。その辺りの葛藤をお楽しみ頂ければと思います。




