一章 ヤマシロの妖怪 九話
ヤマシロへ向かう船に乗って二日目の朝。
朝食の後でレフィーナが俺のところへやって来た。
「アキトくん、やっぱりオリヴィアお姉ちゃんが変なんだ」
それは、船に乗る前にも感じた異変だ。
オリヴィアの様子がいつもと違う。
いや、基本的にはいつも通りに見えるのだが、どこか上の空というか、距離があるように感じるのだ。
俺はロゼとのこともあるので、意図的にオリヴィアが距離を取ってきている可能性も考えたのだが、レフィーナも感じるほどとなるとやはり変だ。
レフィーナの話を聞いてみると、オリヴィアは昨日一日、ずっと海を眺めていたらしい。
話しかけると反応はするのだが、自分から話しかけてくることはなく、笑顔もどこか取ってつけたような雰囲気があったという。
「ていうかアキトくん、おかしいと思わなかったの?」
「思っていたさ、でも俺はもともと距離を置かれている立場だし」
「そうじゃなくて、昨日の夕食だよ」
「夕食?」
俺は昨日食べた夕食を思い出す。
アルドミラ料理とヤマシロ料理どちらがいいか聞かれて、ヤマシロ料理はこれからたくさん食べられると思ったので、アルドミラ料理を頼んだ。
出てきたのはいわゆるフレンチで、豪華客船らしいなと思いながら日本人時代に覚えたテーブルマナーをレフィーナに教えながら食事をした。
「オリヴィアも美味しいって言っていたし、あいつはマナーもしっかりしていたぞ」
俺よりは食事の所作が綺麗だった記憶がある。
ああいうところは、さすが百歳越えの経験豊富なメリュジーヌだなと感心した。
「違うよ、味やマナーの話じゃなくて、あの時オリヴィアお姉ちゃんはワインを頼まなかったんだよ?」
「えっ!? そうだったか? 赤ワインを飲んでいたように見えたけど」
「あれはぶどうジュース。オリヴィアお姉ちゃんがワインを飲まないなんておかしいと思わない?」
「それは……確かにおかしいな。あいつが酒を飲める状況で飲まないなんて今まで一度としてなかったはずだ」
オリヴィアが酒を飲まないというのは、かなりの異常事態に違いない。
俺たちと話す時は普通にしていることから、あいつなりに気付かれないように振る舞っているのだろう。
現に俺はオリヴィアが飲んでいたのがぶどうジュースだと気が付かなかった。
「病気ってわけでもないんだよな? 体調が優れないとか」
「う~ん。そうは見えなかったな。どちらかと言うと、悩み事じゃない? ハウランゲルでのアキトくんみたいな感じがする」
「うわ……もしかして俺のせいか?」
オリヴィアの希望で契約は継続しているが、やはり自分を振った男と一緒に行動するのは辛いのではないだろうか。
だとすれば、俺はもう一度オリヴィアと話し合う必要がある。
「レフィーナ、オリヴィアは今どこか分かるが?」
「ちょっと待って」
レフィーナは目を瞑ってオリヴィアの魔力を探る。
魔力圧縮が出来ないオリヴィアは、レフィーナの魔力感知で簡単に居場所が分かるはずだ。
「見つけた。船の前の方にいるよ。たぶんデッキだね」
「よし、ちょっと行ってくる」
「うん。頑張ってね」
俺はレフィーナと別れると、オリヴィアを探してデッキへと上がった。
船の前方へ向かうと、雲一つない美しい青空と見渡す限りに広がる水平線を眺めている女性を発見した。
空と海と同じ色の鱗と髪を持ち、物憂げに佇むメリュジーヌ。
少し離れたところで数名の男性たちが彼女に視線を向けて話をしている姿が確認できる。
俺は男どもに睨みを利かせつつも、オリヴィアに近寄って声をかけた。
「何してるんだ?」
「――っ? ア、アキトちゃん? いつからいたの?」
オリヴィアは心底驚いたような顔で俺を見た。
これは本格的に様子がおかしいな。
竜の聴力を持っているオリヴィアが、背後から近付いて来る俺に気が付かないということは、周囲の音が聞こえなくなるほどに考え込んでいたに違いない。
「今来たばっかりだ。なんかお前、注目されてたぞ?」
俺は少し離れたところにいる男とたちの存在を伝える。
俺とオリヴィアが視線を向けると、男たちはすごすごとその場を後にした。
悪いな。いくらオリヴィアがフリーだとはいっても、お前らみたいなのにナンパさせるわけにはいかないんだ。
「注目? この翼、昔みたいに隠した方がいいかしら?」
オリヴィアはこれまで伸び伸びと広げていた翼を折り畳む。
「あ、いや、そういう視線を向けられていたわけじゃないよ。なんていうか、ほら、オリヴィアは美人だからさ」
「……アキトちゃん、お姉さんの事、美人だって思ってるんだ」
「えっ? あ、うん」
二人が同時に口を閉ざし、波と風の音だけが聞こえる。
しまった。振った女性の容姿を面と向かって褒めるとか、俺は何をやっているんだ。
その気がない癖に口説いたみたいな空気になってしまったじゃないか。
「ごめん。そんな話をしに来たんじゃないんだ。オリヴィアの様子がいつもと違うから、無理をさせてしまっているんじゃないかと思って」
「無理? 何を?」
「いや、だからさ、俺と一緒に居るのって…………辛いんじゃないかと思って」
俺が気まずい雰囲気を振り切って何とか言葉を絞り出すと、オリヴィアは心底呆れたような顔で、とんでもなく大きなため息を吐いた。
「はぁぁぁあああああ」
「えっ!? ご、ごめん、俺、また何か気の触ることを言っちゃったか?」
「違うわよ。でも、アキトちゃんはいつまでたってもアキトちゃんのままね」
「はあ? どういう意味だよ?」
「そのままの意味よ」
オリヴィアは出来の悪い子供を見るような目を俺に向けると、指で軽く俺の額を弾いた。
「お姉さんはこれからもアキトちゃんの家族として一緒に居たいって伝えたわよね?」
「そ、そうだけど、あれから結構たったし気が変わってもおかしくないだろ?」
オリヴィアの眉間にしわが寄る。
まずい、今の言葉は最大級の失言だったようだ。オリヴィアが本気で怒っているのが伝わってくる。
「じゃあ、もしもアキトちゃんの言うようにお姉さんが心変わりしたとして、こんな船の上で別れ話を切り出すつもりだったの? これからまだ数日は一緒の船にいるのよ?」
「そ、それは……」
「だいたい、お姉さんがアキトちゃんと一緒に居るのを辛いと思っているなら、契約なんてすぐに解除されているはずでしょう?」
「――あ」
そうだ。契約はお互いに相手を受け入れる気持ちがない限りは成立しない。もしもオリヴィアが俺と一緒に行動することを負担に感じるようになっていたら、契約は自動で解除されるはずだ。
「ごめん、オリヴィア……俺、またお前に酷いことを――っ!」
オリヴィアが頭を下げようとした俺の額を再び指で弾く。
「朝からこれ以上、空気を悪くしないで」
「…………分かった」
ここで更にグダグダ理由を付けて謝るのが一番だめだ。
オリヴィアを不必要に傷つけてしまったという罪悪感は残るが、彼女の言うようにこれ以上空気を悪くしたくない。
「じゃあ罰として、お姉さんの悩みを聞いてくれる?」
「悩み?」
「お姉さん、極力いつも通りに振舞っていたつもりだったんだけど、やっぱりアキトちゃんには気付かれちゃったわね。察しが悪すぎて内容までは分からなかったみたいだけど」
な、何も言い返せない。
でも、やっぱりオリヴィアは何かに悩んでいたのか。
「……聞かせてくれ。今はとにかくオリヴィアの力になりたい」
せめてもの罪滅ぼしだ。
いや、そもそも最初から悩みを聞くつもりで来たのだから、罪滅ぼしにすらならない。オリヴィアが悩んでいたら話を聞くなんて事は当然のことだ。
「前にちょっと話したわよね。お姉さん、ヤマシロで巫女をしていたって」
「ああ。蛇竜の巫女って呼ばれていたんだよな? 今はその神社でミドリが働いているはずだ」
ミドリからの手紙にオリヴィアに紹介された神社で働いていると書いてあった。なので俺たちの目的地もその神社だ。
ヤマシロに着いたらオリヴィアの案内で神社へと向かい、ミドリの怪我を治療した竜人に借金を返す段取りだ。
ヒルガの港で出国手続きをする際に、かなりの額のメリンを円に変えてきたのでオリヴィアのスーツケースの中身は現金まみれだったりする。
ヤマシロはアルドミラと違って紙幣があったので、そこまでの重量にならなかったのが救いだ。十万円札があったのは驚きだったけどな。当然だが、札に描かれている人物は知らない人だった。
「お姉さん、本当に別れの挨拶も何もなく神社を逃げ出して来たから、神主さんやみんなに会うのが気まずいの」
「そういえば、そんな話だったな。確か、彼氏候補――」
「――そこは言わなくていいから」
オリヴィアが俺の口を手で塞ぐ。
ショタコンを拗らせて彼氏候補として連れてこられた少年たちに手を出して犯罪者になる前に逃げてきたという話だったと思うが、あまり具体的には語りたくないらしい。当然の反応だな。
「とにかく、日に日に神社に行く日が近付いて来ていて気が気じゃないのよ。ミドリちゃんのためじゃなかったら、二度と行くつもりがなかったんだから」
「う~ん。難しい問題だけど、やっぱりどんな理由であれ不義理をしてしまったわけだから、ちゃんと謝った方が良くないか?」
「そ、そうだけど……」
急に神社の看板だったオリヴィアがいなくなったのだ、神社側はとても困ったに違いない。
「俺も一緒にいてやるから、ちゃんと謝ろう。これに関しては正式に謝罪しないといけない内容だと思う」
「うぅ……アキトちゃん、手、繋いでいてくれる?」
「いや、子供か。ていうか、それは違う誤解を生むからダメだろう。レフィーナなら喜んで手を繋いてくれると思うぞ」
「わ、分かったわ。でも、アキトちゃんも一緒にいてよね?」
「それはもちろん。ちゃんと謝って、許してもらおう」
俺の空気の読めない失言とは違うので案外簡単に許される気がするのだが、どうだろうか?
もちろん、誠意を見せた場合の話だ。
オリヴィアは俺の言葉に小さく頷く。
「ミドリちゃんのためにも頑張るしかないものね」
具体的な解決案を出せなくて申し訳なかったが、オリヴィアは俺に相談できたことで少しだけ肩の力が抜けたようだ。
「よし、じゃあ今日は俺も付き合うから一緒に飲もう」
「あっ、それも気付かれてたのね」
「レフィーナがな。悩むのは分かるが、一人で抱え込んで海ばっかり眺めていてもしょうがないだろ。どうせ準備することなんて何もないんだ、今は船旅を目一杯楽しむのが良いって」
気楽な感じで笑いかけると、オリヴィアはやっと自然な笑顔を俺に見せてくれた。
「ありがとう、アキトちゃん」




