36話 黒猫アルストロメリア
その喋る黒猫はアルストロメリアという。ゴロゴロと喉を鳴らしながら前足をなめたり、顔を洗ったりするようすは、まさしく猫だ。だけど、その猫は他の猫と違って、人語を話すのであった。
「アルストロメリア? どこかで聞いたような。てか、どうして猫が喋ってるの?」
「『どうして猫が喋る』とニャ? そもそも猫は喋る生き物だニャ」
マリーは少し考えた。でも、今の今まで喋る猫なんて見たことがない。確かに、喋るカエルがいたし喋る猫がいたって不思議ではないのかもしれない。ただ、それを当たり前だと思っていた自分に少し疑問を抱くのだった。
「嘘よ。猫は喋れないはずだわ」
「それは貴様の勘違いだニャ。正しくは、喋る猫もいるだニャ。貴様は喋る猫を見たことがないだけだニャ」
「私の経験した猫がみんな喋れない猫だったら、それは猫は喋れないと決めていいんじゃないかしら?」
「それこそ人間の間違いニャ。貴様は、自分の見た世界が本当の世界と言いきれるのかニャ」
《不完全な世界の顕現》
その黒猫が詠唱すると、マリーの視界がぐっと滲んだ。顕現されたのは『眼鏡』である。マリーはいつの間にか度数の高い眼鏡をかけていたのだ。慌てて眼鏡を外す。
「うわ! 何かしら! て、眼鏡?」
「その眼鏡は目が悪い人にとっては正しい世界を映すニャ。ただし、その世界は少し小さくなっているニャ」
「小さく……?」
マリーはその眼鏡を机にあった花瓶にかざす。右目だけを眼鏡を通して見てみると、確かに左目で見たときよりも小さくなっていた。
「眼鏡をかけている人は本来の世界よりも小さい世界をみているのニャ。だったら、貴様の見ている世界は正しいと言いきれるかニャ」
「……でも、花瓶の大きさはみんな同じだと言うはずだわ。私が眼鏡をかけてもかけなくても、ほら、触って確かめられる。なんなら、目を瞑ってでも確かめられるわ」
マリーは花瓶に近寄ると実際に触ってみせる。15cmくらいの透明なガラスの花瓶に花が生けてあった。
「それは『触覚』ニャ。それもまた、みんな同じと言い切れるかニャ」
五感。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。その一つの視覚が、『眼鏡』によって疑いをかけられたなら、他の感覚さえも疑わなければならない。
「オレはいま猫であるから、貴様よりも耳はいいニャ。貴様にとって静かな夜も騒がしく聞こえるのニャ。どこかでネズミがチューチュー鳴いてるのが聞こえるのニャ」
マリーは耳を澄ませてみるが静かな夜であった。ネズミの鳴き声なんて聞こえない。
「私の感じてる世界が本当の世界じゃないってこと? ……信じられないわ」
「なら実際に体験してるみるといいニャ」
《不当なる観測者の権限》
黒猫がそう詠唱すると、マリーの周りの世界が大きくなる。
「なに? まわりが大きく……いや、私が小さくなってるのか!」
そうマリーは10cmほどに縮んでしまったのだ。マリーより小さかった黒猫はマリーより大きくなっている。机も見上げるほど高く花瓶なんて見えやしない。マリーの声も高くなっていた。
「ちょっと! 何をしたの! 戻しなさいよ!」
黒猫であるアルストロメリアは、猫らしく尻尾をフリフリさせてマリーを見る。その眼はギラりと光っていた。
「……た、食べられたりしないわよね?」
「少し野生の血が騒いニャがまあ、ふぁ〜わ……てか、眠い……」
そういうとその黒猫はぴょんと跳ねて、マリーがさっきまで寝ていたベットに潜り込んだのだった。そして丸くなって眠りはじめた。
「ちょっと! 私、ほったらかし? ねえ、ねえってば!」
ぴょんぴょんと跳ねるがもうベッドには届かない。マリーは体を小さくされたあげく、床に放置されたのだった。