〜シートン動物記演義〜
悪魔と呼ばれた狼の、
一生に一度だけの純愛。
僕達は心の匂いを嗅ぎとれる。
僕達はとても家族を大切にする。
そして僕達は、
命懸けで恋をするんだ。
生まれ育ったカランポーの平原も、
切り立つ谷や遠く連なる山々も、
夜空いっぱいに転がり瞬く光の粒たちも、
僕は大好きだった。
イタズラしたって、
どんなに困らせたって父も母も僕たちを愛してくれた。
たまに兄達に意地悪されたって、
ふてくされていじけたって、
いつもすぐに仲直りできたっけ。
……初めて嗅いだあの匂い、
その時まで僕達は、
とても幸せな狼の家族だった。
どこにでもいるような、
この世界に生きるふつうの生き物だった。
〜また耳障りな遠吠えが聞こえる。
夜中にあの叫びを耳にすると、
不安で眠れなくなる〜
俺達が必死で開拓したこのカランポーで、
奴らはあざ笑うように日々の努力の上前をはねる。
「ちくしょうめ!
狼どもがウチのヤギを襲いやがった!」
「俺んちのニワトリも食い殺された!
卵をよく産むいいニワトリだったんだぞ!」
「忌々しい狼どもめ…。
人間様のモノに手を出したらどうなるのか、
目にモノ見せてやる」
〜俺達人間にとって、
奴ら狼は天敵だ。
忌み嫌うべき厄災だ〜
『お前たち、
その屍肉は食べたらいけない』
『お父さん、どうして?
僕達お腹すいちゃったよ』
『そうだよ!
人間達が食べない生き物まで殺していくから、
屍肉だって食べなきゃ、
食べるもの無くなっちゃうよ』
父は僕達の声を苦しそうに聞いていた。
そして何かを手繰り寄せるように目を泳がせ、
人間の住む村の方角を睨みながら、
『この屍肉からは人間の、
【悪意】の匂いがするんだよ』
そう弱々しい声で呟いた。
【悪意】。
その【悪意】というものが、
僕達にはなんのことだかわからなかった。
生まれて一度も感じた事がないものを、
理解できるはずもなかった。
お腹を空かせてうなだれる僕たちのために、
父と母は狩りへと出掛けた。
両親は何時間も走り回り、
僕ら兄弟のために獲物を運んでくれる。
まるで命を削って僕たちに捧げるように。
『ねぇ、あのお肉食べちゃおうよ』
兄はいつも通りのイタズラを持ちかける様に、
僕たちにそう持ちかけた。
『ダメだよ。
お父さんとお母さんが帰ってきたら怒られるよ』
反対した僕に同意してくれる兄弟は、
1人もいなかった。
兄達を責められはしない。
僕たちはずっと、
お腹を空かせていたのだから。
遠くまで狩りに出掛けても、
小さな獲物しか持ってこない両親にも、
ちゃんと食べて欲しかったのだから。
『僕たちがお腹いっぱいになれば、
きっとお父さんもお母さんも、
ご飯を食べてくれるよ』
そんな兄達を、
僕はそれ以上咎める事なんてできなかった。
『美味しい!
ロボも食べなよ!』
兄達は小さな唸り声をあげながら、
人間たちの飼っている【牛】の屍肉に貪りついた。
『僕はいいよ。
お父さんとお母さんが一緒じゃなきゃ、
食べない』
『ロボの弱虫!
そんなんじゃいつまで経っても大人になれないよ』
僕を促しながら一心不乱に食べていた兄達が苦しみだすまで、
そんなに時間はかからなかった。
『お腹が…、
お腹の中が焼けそうだッ!』
『助けて!!
お父さん!!お母さんっ!!』
あまりに現実離れしていて、
僕はまたいつものように兄達がふざけているのだと思った。
『……ロボ、ロボ!
早くお父さんを呼んできて!』
『お水がほしい!
お腹が焼けちゃう!』
助けを求められても、
僕にはどうすればいいのかわからなかった。
兄達の匂いが、
一緒にいると安心できる家族たちの匂いが、
時間と共に腐り行く【屍肉】の匂いに変わっていく。
今でも目に焼き付いて離れない、
匂いと光景、
そして最期の声だった。
父の目を盗み屍肉を口にした兄達は、
みんな揃って口から泡を吹き、
苦しみながら死んだ。
〜仕掛けた罠に獲物がかかった時の興奮。
でかい獲物を討ち取った時の満足感。
異なる思想の持ち主を、
疎外した時の充実感。
俺達人間は、
誰しもが生まれながらの罪深いハンターなのだろう。
時折その狂気は、
同じ人間にも向けられる。
生け贄無しでは、
人間の社会は成り立たないのだ〜
「してやったぞ!
見てみろよ!
まんまと毒入りの牛肉を食らって死んでやがるぜ」
「小さい狼だが、
ひん剥きゃ毛皮は売れるだろう」
「やられた家畜の肩代わりにゃならねぇが、
無いよりはマシだろう。
片っ端から駆逐して毛皮を売り飛ばしてやろう」
〜そして敵を討ち滅ぼした後、
俺達はいつでも甘美な報酬を得る〜
【悪意】は僕達の日常を、
まるで虫が草花を食い荒らすように蝕んだ。
父は人間に銃で撃たれ、
母は罠にかかり死んだ。
僕は、
この世界でひとりぼっちになった。
初めて感じた孤独だった。
大好きな夜の瞬きは単なる暗闇に変わり、
平原を走る風の音も、
まるで追跡者の足音のように感じた。
声をあげ続けていなければ、
僕は飲み込まれて消えてしまうようで、
ただただ泣いた。
『なんで泣いているの?』
不意に聞こえた声に、
周りの空気が変わるのを感じた。
その声は僕に向かって優しく響き、
包み込むような心の匂いは、
少し頼りないけど父や母と同じく、
ふんわりと心地良い柔らかさだった。
誰かに見つけてもらった、
それだけで世界は変わるのだと知った。
『お父さんとお母さん、
それに兄さん達もみんな、
人間に殺された』
絞り出した言葉を、
もうそれ以上続ける事は出来なかった。
喉は締め付けられ、
心臓は縮こまっていく。
無言の僕達の次の言葉を、
森中が固唾を飲んで待っているようだった。
始まりの鼓動が響いた。
君の心臓の音が僕に届いた。
木々の間から漏れる陽の光は、
ところどころ霞む空気をキラキラと輝かせ、
『…私が、
私が守ってあげるよ。
だから泣かないで…』
儚げな決意に震える優しい声に振り向くと、
真っ白な身体を陽の光に輝かせる君がいた。
『私はブランカ。
私の兄弟達はみんな病気で死んでしまったから、
きっとパパもママもあなたを守ってくれるから』
ブランカ。
頼るべき親も兄弟も奪われた僕にとって、
その時からもう、
彼女だけが全てだった。