欠けたティーカップ
本作品はフィクションです、作中の登場人物・名称は実在のものと関係ありません。
間に合ってくれ。
ジャックは香港の街を駆けつつ、ブルに通信を入れる。常に武器を持ち歩いている男は、救援を求めるにはうってつけだった。
『今すぐ香港に来てくれ、場所はーー。』
『おいおい、挨拶も無しに呼び出しかよ。それと、少しは事情を説』
ブルの返事を待たずに通信を切る。悪いが今は時間が無い。アイツはそれでも来てくれるはずだ、後で謝罪しよう。
ジャックは紅花の元へと急ぐ。
記憶にあるマンションが見えた。紅花の部屋がある上層を見上げるが、ガラスが割れている箇所などは見当たらない。
エレベーターに乗り8階のボタンを押す。30秒に満たない僅かな時間がとても長く感じられ、焦りが苛立ちへと変わる。
エレベーターが到着し、扉が開くと廊下に飛び出す。
紅花の部屋の前に人集りが見えた。一瞬襲撃者かと身構えたが、同じ階の住人が集まっている様だ。どちらにせよ只事ではない。
「何かありましたか?」
ジャックは嫌な予感を振り払うと平静を装い、集団に声をかけた。
「いやね、この部屋が五月蠅かったから注意しようと思ったんだ。ところが、今度はまるっきり静かになって物音一つしやしねえ。どうしたんだろうか、と皆で話していたんだよ。」
住人らしき男性が部屋のドアに視線をやりながら答える。
ジャックはドアノブに手をかけるが、ドアは開かなかった。
「無駄だよ、兄ちゃん。鍵がかかってるぜ。」
「私たちも困ってたのよ。留守でペットが暴れてたのかもしれないし、無理やり開けるのもねえ。」
「家の人が戻ったら、文句言ってやる。」
住人たちは口々に言う。
確かに、ただの騒音問題ならその程度の考えで済むだろう。しかし、ジャックは不安の種を抱えている。だから実際に自分の目で確認しなければならなかった。
サークルメニューを表示し、オペレーターを選択。ウィンドウが表示されると女性の姿をしたオペレーターが表示された。
「C.C.P捜査官の剣崎だ。VR捜査権18条25項に基づき、コード125を要請する。」
「了解。………………承認されました。一時的にマスター権限を付与します。」
「あんた捜査官だったのか。」
住人の声には応じず、ドアノブに手をかける。
すると、頑なに閉じていたドアは開き、ジャックは室内へと身体を滑り込ませた。
室内は物音一つせず、人の気配はなかった。
「これで何事もなかったら、紅花に嫌われるかな。」
ジャックは小さく呟いたが、それは願いでもあった。
M1911を構え、音を立てないように慎重に進む。廊下の途中にあるドアを開け、中を覗き込む。そこはベッドルームだった。ベッド上に男性用のスーツが脱ぎ散らかしてある。
次いで反対側のドア、こちらはバスとトイレだ。ここも異常なし。
最後に廊下の突き当たりにある、リビングへのドアに手をかける。
ジャックは二度、三度と深く呼吸をしたあと、意を決してドアを開ける。
はたして、リビングに入ったジャックの目に映ったのはーー。
ソファの近くに無造作にある車椅子、そしてその上にかかる少女の衣服だった。
その意味を理解するのは、あまりにも残酷である。
呆然と車椅子に歩み寄ろうとして、足先に何がが触れた。視線を下に落とし、触れたものを見る。
そこには破壊された黒猫が転がっていた。
胴体は二つに引き千切られ、顔は本来向くことの無い方向を向いている。左目は見開かれ、右目は空洞になっていた。
ジャックは思わず後ずさる。そして、横にあるキッチンが目に入り、その床には女性の衣服と包丁が落ちていた。
紅花の家族は父母子の3人だと言っていた。ではベッドにあったスーツは……。
認め難い現実が、そこにはあった。
◇◆◇
「ったく。人を何だと思ってやがるんだ!」
ブルは巨体を揺らし、香港を全力で走る。ジャックに会ったら一言文句を言ってやる。そうでなければ気が済まなかった。
言われたマンションに着くとエレベーターに乗り、8階のボタンを押す。
「しかし、あいつがあそこまで焦るとはな。」
珍しい事もあるんだ、とブルは思う。だからこそ不躾な通信内容であったにもかかわらず、律儀に香港までテレポートして来たのだ。
8階で停止したエレベーターを降りると、廊下の先に人集りが見えた。
「よう。黒髪の目つきの悪い兄ちゃんが来なかったか?」
ブルが人集りに声をかけると、彼らは驚き、怯えだした。何か勘違いをさせたようだ。
「ああ、悪い悪い。オレはその兄ちゃんに呼ばれて来たんだよ。」
そう言うと、何人かがドアをチラリと見る。ブルにはそれで十分だった。
「中か。驚かせて悪かったな。」
そう言ってドアを開けると、廊下の突き当たりに黒スーツの背中が見えた。
無用心な背中の相棒を見つけ、その後ろに立つとリビングを見渡す。
「こりゃあ。」
何ががあった。ブルはそう直感した。
室内は決して酷く荒れている訳ではない。
しかし、落ちている包丁が、倒れたフォトスタンドが、斜めにズレたソファが、脱ぎ捨てられた服が、この部屋で何かが起きた事を訴えていた。
「……だ。」
ジャックは呟いた。
ブラックボックスが残っていたのに、安易に紅花に へ黒猫を返してしまった。やはり全てのデータを解析してから返すべきだったのだ。
「……せいだ。」
中身が映像だと分かったのなら、紅花に頼みその場で確認をすれば良かった。そうすれば危険に気付けたし、護衛を付ける事もできた。
「俺のせいだ。」
テーブルにある欠けたティーカップを手に取ると、
《おじちゃんが飼ってくれるなら、紅花も嬉しいな。》
努力家だった少女の笑顔が脳裏に浮かび、手に力が入る。
カップが割れて手を傷つけるが、不思議と痛みは感じなかった。
ブルは、ジャックのそんな様子を見ながら、
「お前のせいなのは良く分かった。で、いつまでそうしてるんだ?」
そう言ってしゃがみ込み、黒猫の残骸を集め始めながら続ける。
「良く分からんけどよ、コレをやった奴がいるんだろ? そいつら野放しで自分を責めてれば満足か?」
後悔するなら全てを終わらせてからしろ。ブルはそう言っているのだ。
ジャックは少しの間俯き、それから正面を睨みつけ言った。
「そうだ、仇は取らないとな。紅花たちを殺したヤツと、指示したヤツには相応の報いを受けてもらう。」
そこにはいつものジャックがあった。
「それでこそオレ様の相棒だせ。 あとよ、このクロスケが何か残してるかもしれないぜ。」
ブルはそう言って大事に抱えた黒猫の残骸を見せた。
「確かに、現場に居合わせて唯一残った物証だ。ワイラーに見て貰おう。」
◇◆◇
C.C.P VR支部に戻った二人は情報解析室に入る。
ワイラーも事の顛末を話すと力なく首を振り、
「酷い話だYo。 罪もない家族を皆殺しなんざ人の所業じゃねえ。」
そう言いながら黒猫を受け取る。
「Yo猫ちゃん。俺が無念を晴らしてやるYo。」
ワイラーは残骸からデータを搔き集める。
ジャックとブルは手近にある椅子に腰かけた。今回は解析が終わるまで部屋を動くつもりは無かった。
解析が始まってから5時間が経過した。ワイラーはメモリーチップを手に二人へ歩み寄る。
「事件の様子を録画してたみたいだYo。データは壊れちまってたが、音声だけは復元出来たYo。」
そう言ってメモリーチップを差し出す。ジャックは受け取り再生してみる。
「ミャッ?」
「あっ、ミャーちゃん!」
「あなた! 知らない女が!」
「……」
《ガタッ》
「貴様! 勝手に入って来て何用だ!」
「お姉ちゃん、ミャーちゃんを返して!」
「紅花! 逃げなさい!」
「………………」
「何とか言ったらどうだ!」
「……晩上好、晩安。」
《ガガッ》
「ミ゛ャッ!」
短い音声だったが、得られる情報はあった。
犯人は中国人の女。そして犯人の声は仮面を被っていたのか、聞き取り辛かったが聞き覚えのある声だった。
「梅蘭…」
ジャックは襲撃者の名を知らず呟く。怒りで身体が震えるなんてのは、今まで比喩だと思っていたが、実際彼は震えていた。
「Yo。落ち着いたかYo。もう一つ悪い知らせがあるんだYo。」
ワイラーは、ジャックが落ち着くのを待つと、A4サイズの紙を差し出す。
「コピー猫ちゃんの映像にあった男を拡大分析したYo。右手の人差し指を見てみなYo。」
言われた通り、男の人差し指を見る、指には二匹の龍が向かい合う意匠の施されたリングが嵌められていた。
カジノで消えた男の右手にも同じような龍のリングが嵌められていたのを思い出す。
「こいつは間違いようがねえ。藤堂だ。」
横から覗いていたブルが言った。
あまりにも有名な、この男の顔は見間違えようがない。
「そう、藤堂だYo。」
「そうか。こいつが黒幕で、紅花を殺すよう命じたんだな。」
ジャックの視線は男の顔をしっかりと見据えていた。
男の名は藤堂龍司。日本の大物政治家にして、自由党の党首である。
〈つづく〉