その男、政府の犬につき
本作品はフィクションです、作中の登場人物・名称は実在のものと関係ありません。
東京都新宿区。斜陽を浴びた街は買い物袋を手に帰路を急ぐ主婦や、一杯やっていこうかという仕事帰りのサラリーマンで溢れている。行き交う人々を見下ろす寂れた雑居ビルの一角に、その部屋はあった。
モルタルの壁とリノリウムの床で造られた飾り気の無い部屋は、夜の喧騒を迎え入れようとしている街と同様に茜色で染まっており、隅には低く唸る蒲鉾の様な半円形の物体が横たわっている。
黒一色で染められた奇妙な物体の側面にはLEDが整然と並び、星の瞬きの如く点滅を繰り返して稼働中であることを主張していた。
通称
"棺桶"と呼ばれるそれはサイバーリンク社が開発したVRダイブ装置である。
棺桶はそれまでの唸り声を止めると静かにその蓋を持ち上げた。中から一人の男が姿を現わす。
歳の頃は20代前半、黒のスーツに身を包み、深緑色のワイシャツにボルドーのネクタイを締めている。
烏の様な漆黒の髪は短く整えられ、鋭いが凶悪さを感じさせない目つきはどこか疲れを感じさせた。
男はポケットから愛用しているマールボロとZippoを取り出すと紫煙を燻らせながらソファーへ腰を下ろし、深く息を吐いた。
煙草を灰皿に押し付けながら、テーブルに投げ出された携帯端末に目をやる。着信履歴が3件あった。男はそれを手に取ると、電話を架ける。
「ジャックだ、コッカーに繋いでくれ。」
電話に出た女性らしき声にそう告げると、新しい煙草を取り出し火を付けた。
「姫の情報は未だ掴めず。ああ、少ししたら潜る。」
コッカーと呼んだその人に用件を簡潔に伝え、ジャックは煙草をふかしながら懐から一枚の写真を取り出す。
「どこにいるんだい、お姫サマ。」
ジャックが語りかける先には、オッドアイの黒猫を抱いて屈託無く笑っている幼い娘が写っていた。
◇◆◇
ジャックこと剣崎正護は仮想現実犯罪対策室のエージェントだ。彼の任務はVR世界における犯罪の取り締まりであるが、現在はあるものを捜索して奔走していた。
不意に携帯が短い音を立て小さく震えた。ジャックが写真から意識を移すと、"新着メール1件"の文字が淡い光を帯びていた。
メールを開く、
《新たな情報有り、You 大姐と接触しちゃいなYo! ワイラー》
軽薄に書かれた文章だが、新たな情報というのは僥倖である。ジャックは大姐とコンタクトするべく棺桶に身体を横たえた。
棺桶が静かに閉まると静寂と闇が包み込み、視界には接続状況を表記するコマンドが映されていた。
Visual Connecting ............. O.K.
Auditory Connecting ........ O.K.
Sensibility Connecting ............. O.K.
System All Green
Stand By ...... |
全ての準備が完了したことを確認して、ジャックは静かに呟く。
「Dive to Kowloon」
視界を支配していた闇は一転して白一色へと変化し、多様な風景が描かれた絵画が押し寄せては流れていく。さながら、美術館の通路を駆け抜けているかの様な光景を眺めていると、一つの絵画が眼前に止まり身体が吸い込まれていく。
(どうもダイブする感覚には慣れない。)
ジャックは軽く頭を振って意識を覚醒させると、バラックが高く積み上げられた巨大な建築物、九龍城砦がその圧倒的な存在感をもってジャックを威圧してきた。
九龍城砦とは1994年まで存在した巨大なスラム街のことである。1990年代には0.026km2の僅かな土地に5万人もの人々が生活し、人口密度は190万人/Km2と世界で最も高い数値を記録していた。
香港が1997年に中国へ返還される以前はイギリスの支配領土であったが、九龍城砦はイギリスの租借地から外れていた為、九龍城砦は中国・イギリスの両国に法治権がなく、文字通りの無法地帯と化していた。
あらゆる犯罪の温床となり、一度迷い込んだら二度と出て来れないとまで言われた東洋一の魔窟。
それが九龍城砦である。
◇◆◇
東洋一の魔窟はさながらダンジョンであった。
似かよった通路や扉が容易に位置を見失わせ、隠されているとしか思えない階段を見つけねばならない。住人が好き勝手に増築して光が届かなくなった下層は、地上でありながら地下にいる錯覚すら覚えさせる。
そこでは貧しげな住人が思い思いに生活しており、彼らは余所者を見てもさして気にする様子もないようだった。中には訝しげな視線を送る者もいたが、視線を合わせるや否やその姿を物陰へと消していく。
一度尋ねたことがある、
「何故VRに来てまでスラム街に住むのか?」
彼らはこう答えた。
「生きていると実感できるからさ。」
ジャックはその時の会話を想起しつつ歩みを進める。強盗や殺人が日常であった頃が一番生きていると実感できる、と彼らは言ったのだ。
何者にも縛られず、何者にも守られず、ただ己の力のみでその日の糧を得る生活が人間の本質なのだろうか。それでは只の野獣ではないか。
そんな思考は目的地に着いたことで中断した。眼前の小汚いドアを軽く押すと、木の擦れる音を立てながらゆっくりと開く。
木戸の先は奥へ続く鉄製の扉がある小部屋だった。鉄扉を抜けると、九龍城砦では考えられない広さの空間に知らず開放感を覚えた。中は赤や黄色の派手な織物で装飾が施され、最奥には襖裙を着た老婆が座っている。
簾がかかっていて顔は見えず、名も知らない。知っているのは九龍の住民から大姐大と呼ばれて、恐れられている存在であるということだけだ。
大姐の前には若い女性と中年の男が控えており、油断なく来訪者の挙動に目を光らせていた。
「やっと来たネ、ジャー坊。」
老婆はそう言うとそこに座れと仕草で促した。ジャックはそれに従い床に腰を下ろすと、
「婆さん、まだ生きてたか。」
軽口で返した。老婆はフフォフォと笑い、
「まだまだ死ねないサ、ここの連中にはまだまだ婆の力が必要なんだヨ。」
そう言って右手で合図を送ると、護衛の一人が動いた。円領袍に身を包み腰から青龍刀を提げた男は、隙の無い所作でジャックへと近寄る。
「明日の夜にマフィアの密会があるヨ。」
老婆は手短に話すと、男は懐から紙を取り出しジャックに差し出す。それを受け取り、確認すると時間と住所だけが記載されていた。
そこに探し物があるのか、と尋ねたが返事はなかった。どうやらこれ以上の長居は無用らしい。
「世話になったな、これで失礼するよ。」
ジャックはそう言って立ち上がり、右手の人差し指と中指を揃えて右から左へと軽く振る。すると彼を取り囲むかのようにメニューサークルが表示された。
サークルをスライド操作してトレードで謝礼金を渡す。男は金額を確認すると、老婆へ視線を送り小さく頷く。
「またおいでヨ、これでも婆はジャー坊の事を気に入ってるんだヨ。」
部屋を出る時、そう声をかけてきたので右手を軽く上げて返事をした。
「ったく、食えない婆さんだせ。」
九龍城砦を出たジャックは悪態をつく。あの老婆はそう簡単に協力などしない。どの様な思惑があるのか知らないが、今はこの情報に頼るしかなかった。
「マフィアと事を構えるなら準備が必要だな。」
独白し、メニューサークルを出してログアウトボタンに触れる。ジャックの身体は薄い光を帯び、空に吸い込まれる様に消えた。
〈つづく〉
襖裙:漢民族の伝統衣装(女性)
円領袍:漢民族の伝統衣装(男性)