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サイカイ

作者: 粕壁智郎

 早春の日曜の昼下がり、秋葉原の駅は大層な人出で、人間という人間がどこからともなく湧いて出てどこへともなく去っていく。その人間の渦に巻き込まれぬよう柱を盾にして動かないでいる黒ずくめの青年がひとり、手にした携帯を何やら熱心に弄っているようにも見えるが、心はあらぬ方を向いているらしい。というのは、彼が見ているのは既に用済みのはずの母から毎日送られてきたメールの文面なのである。

 その「わかったで~」というのは彼が仕事を終えて帰宅する際に母に送ったメールの返事であり、「今から帰る」と言っておかないと、かわいい息子が誘拐でもされたか、人間関係に悩んで自殺でもしたのではあるまいかと半狂乱になるおそれがあるから毎日欠かさず送っている。とりあえず送っておけば、青年の帰宅の前に彼女は安心して眠れるというわけだ。彼はその「わかったで~」を上からひとつずつ開いて見ているには違いないのだが、視覚情報は脳には達していないものとみえて、落ち着かないそぶりで時折あたりを見回している。

「おっ! 松ちゃん? 久しぶりじゃんか~」

 胡散臭い風体の青年に声をかける者がいる。松ちゃんと呼ばれた青年はハッと顔を上げると、

「やあ、吉野君か……十年ぶり、いや十一年ぶりかな」

 吉野君は背が低いながらも、いかにも頭の切れそうな、仕事を滞りなく進めそうな、部下を手足のように使いこなすような雰囲気を全身から発散させ溌剌とした顔で微笑みながら、松ちゃんの元に駆け寄った。

「いやー良かったよ、ホントに松ちゃんだよね。無事に生きてたんだなあ、良かった、良かった」

「そりゃあ死ななければ生きてますよ。まあ職にもありついて、なんとかかんとかやってますね」

「うんうん、良かった良かった」

 言いながら、吉野君は松ちゃんの尻をポンポン叩く。

「やめい、相変わらず変態だな」

「つれないなあ、一緒に寝た仲じゃないか~」

「人聞きの悪いことを言うな。まあ、一緒に寝たことは確かだけど……って、何言わせるんだい」

「タリンでの夜のことだったかな。君の荷物を覗いたらエヴァンゲリオンの漫画本がバラバラ出て来たのは。あれは爆笑したよ。それから、ヘルシンキ大学の歓迎パーティーで、君、酔ってゲーゲー吐いたろう?真っ蒼な顔でホテル帰って来てさ、寝言でも『すいません、迷惑かけました』って謝ってたもんなア、はっはっは!」

「ろくでもないことばかり覚えてやがる、それなら僕だって覚えてるんだな。君と出会ったばかりの頃、君が僕を変にライバル視してたのをね」

「そうだったっけ?」

「君は第一志望だった政経落っこちて、いかにもぼんやりしてる僕が受かってることを明らかに妬んでいた。ことあるごとに絡んできたからな。それである日、練習の始まる前に君がまた何か意地悪なこと言って来て、僕はこう言ったんだ、『他人からつらく当たられることには慣れてるから』って。それからだ、急に君の態度が変わったのは」

「覚えてないねえそんなことは。まあとにかく、実際に松ちゃんがこうして生きて存在しているのを見ただけで一安心だ、一段落だ。君がグリー辞めちゃってから、ほんとに心配だったんだぜ。逃げちゃダメだってあれほど言ったのに逃げちゃうんだもんなあ。何度メール送っても返事来なかったし、いずれ街中で刃物振り回して暴れるんじゃないかと思ってさあ」

 二人は今、歩行者天国となっている中央通りをぶらぶらと歩いている。大勢の人々が、大概はニコニコと連れと談笑しながら天下泰平の世を百歳まで生きるような顔をして闊歩している。

「それは僕が辞めてからずっと後の事件やないかい。まあ僕も一時期危なかったが、人に危害を加えたことはなかったな。せいぜい会社のトイレのドアとビルの壁を蹴りつけたことがある程度のものだよ」

「なんで蹴りつけたの?」

「上司にこっぴどく叱られてね、上司を殴るわけにはいかないから、代わりにトイレのドアに八つ当たりしたのさ。ガンッて大きな音がしたな。ビルの壁を蹴ったときは、こんな会社潰れちまえって気持ちでエイッて蹴ったんだけど潰れたのは僕の靴だった」

「アハハハハ松ちゃんらしいや」

「笑いごとじゃないよ君、僕はそのとき苦しくて仕方なかったんだから。それにひきかえ、君はさぞ結構な御身分なんだろうねえ、大手町の二十四階建てのビルでふんぞり返って大勢の部下たちを顎で使って年収は僕の三倍と。世の中ってのは実に理不尽だ。毎日毎日馬車馬のように働いてるっていうのに、ボーナスもない、長期休暇もない、金も権力もない、かといって温かい他者との心の通い合いがあるわけでもない。君はボーナスもある、長期休暇もある、金も権力もある。夢も希望も富も名誉もなんでもある。きっといい女もたくさんいるんだろうね。これはどう考えても君の収入の半分を分けてもらわないことには不公平じゃないか」

「無茶苦茶言いなさるな、俺だってこれでも不満はいろいろある。正直、転職しようかとも考えてる。むしろ君こそ羨ましく思えるね。この前メールで言ってたじゃないか、また小説執筆を再開したって。君はむかし部誌に面白い文章を書いていたが、俺はあれを見て漱石みたいな文章書く奴だと思ったんだよ。絶対に君は才能がある、しかも今の仕事は文章力や知識を鍛えられるんだろう? 君こそ夢に向かって進んでいるんじゃないか」

「いや、駄目だね。才能なんかないらしい。そもそも何を書いたらいいかわからんのだ。ああ豪語してはみたものの、執筆どころか最近は本を読むのも嫌になっちまった。世の中にこれだけ多くの物書きがいて作品が溢れ返っているんじゃ、どこをどう頑張ったって僕ごときが割り込んで行く余地は毫もないのだよ」

「そんなものかね」

 総武線の黄色いラインの入った無機質な車体が、轟音とともに二人の頭の上を過ぎて行く。

「今日はいやにマスクの人が多いね」と吉野君。

「風邪だろう、いや花粉症かな、はたまた放射能か……」

「そういう君もマスクをしているね」

「これは風邪。人にうつしてはいけないからな」

「風邪か。俺はここ十年ばかり風邪をひいていない。ひかないコツを見出したんだが、それを君に伝授しよう」

 吉野君はそう言って、十年前と変わらない堂々たる態度で話し出す。松ちゃんは十年前と変わらない神妙な顔で吉野君の高説を傾聴する。

「その一。風邪をひいている人に近づかない」

「そりゃまあそうだろうが、やむを得ず近づかねばならない場合もあるのではないかね?」

「その場合は、その者と話している間は息を吸わないようにする。その者が咳でもしそうなものなら即座に距離を取る。あるいは顔を背ける」

「途端に人間関係が悪化しそうな策だな」

「その二。うがい・手洗いを念入りにする」

「うむ、至極真っ当だ」

「外から帰ったらうがい十回、手は石鹸で念入りに、鼻からも水を吸い込んで出す。目からもウィルスが入るので目も洗って目薬をさしておく」

「成程目か」

「その三。食事・運動・睡眠を十分にとる」

「もっともだ。僕の場合、食事は親に依存しているから朝晩はいいとして、問題は昼だな。休みを取る精神的および物理的余裕がなくておかき五個とかせんべい一枚なんかで済ましちまうことが多い。運動は休日の一時間ランニングと毎晩のストレッチ、腹筋・腕立てそれぞれ五十回、睡眠は五、六時間だがまあ眠くはならんからいいだろう」

「親に依存という所が一番問題な気がするのだが」

「うるさいね、次だ次」

「その四。鼻から息を吸い込む。口で吸わない」

「鼻毛や鼻水でウィルスを防ぐのだな」

「その五。定期的に鼻をかみ、痰を吐きだす」

「うん、それは僕もやっている。歩きながら道端にせっせと痰を吐きだしているぞ」

「道に吐くのはお勧めしないな。軽犯罪法にこうある、街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者は、これを拘留又は科料に処する、とね」

「なら大丈夫だ。人のいない所で吐いてるもん」

「その六。マスクをする」

「ふむ。ウィルスのみならず放射能やサリンが心配だ。明日から防毒マスク付けて出勤しようかな。いくら奇抜に見えようとも他人に害を与えているのでない限り、個人の愚行は最大限許容されるべきというのが自由主義の原則だから、軽犯罪法には引っかからないだろう?」

「いや、もはや愚行とも言えないんじゃないか? ついでに防弾チョッキも着ておくといい」

 風邪談議に花を咲かせながら、二人はだらだら坂を上ってお茶の水あたりに差し掛かる。

「おや、人が倒れてるぞ」

 吉野君が驚いて前方を指差した。

「ああ、あれはいつもいるホームレスの人だよ。あそこにああして寝転がっているんだ。一階部分が空になっていて人の出入りがないから落ち着いて寝られるんじゃないかな」

「生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの、いや、うろついてはいないからOKか。とすると、こじきをし、又はこじきをさせた者、いや、食い物をせがんでいるわけではないからいいのか……」

 顎に手を当てて考え込む吉野君の言葉に、松ちゃんは胸を撫で下ろした。松ちゃんもかつて、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、諸方をうろついていた時期があったものの、一定の住居を持っているならば犯罪でないとわかったからである。

「……いや待て待て。今は確かに寝転がっているが、いずれは食料を求めて動き回らねばならないだろうし、今までもそうしていただろう。となるとあの人はアウトか……」

「段ボールハウスやビニルテントは『一定の住居』には当たらないのかな?」

「それは無理だろう。段ボールやテントは容易に場所を移動できるから住所が『一定』ということにはならないだろう」

「これまた妙だなあ。社会的により立場の弱い住所不定の人が犯罪者の烙印を押されるなんて。『一定の住居』を持っていてもそこをゴミ屋敷にしている奴の方が余程迷惑だと思うんだけどなあ」

「まあ人それぞれ、千差万別だからね。法律という奴はどうしても杓子定規になる面がある。すべての状況にフレキシブルに対応するのは難しいんだよ」

 二人は寝転がっているホームレスを見ないようにしながら横を通ろうとした。瞬間、

「うわあッ!」

 松ちゃんがだしぬけに声を上げて引っ繰り返った。足首をホームレスの手ががっしと掴んでいる。

「俺が目に入らぬか俺が目に入らぬか俺が目に入らぬか俺が目に入らぬか俺が目に入らぬか俺が目に入らぬと言うかこのたわけがっ!」

「は、入りました存分に入りましたとも。だからさっさと汚い手を放せって、このやろっ!」

 松ちゃんは恐怖と嫌悪のあまり、捕えられていないほうの足で思わずホームレスを蹴飛ばした。

「ぐへえッ!」

 ホームレスは怯んで足を放した。「うう、うう」と獣のように呻いている。吉野君が「大丈夫っすか」と声をかけると、

「なんじゃあ、お前たちは人のこともよく知らんと、勝手な口ばかり叩きおって。全部聞こえておったぞ。わしが社会の最底辺、最下層に位置する人間だと思うておるのであろう。それはそうに違いないが、いまお前たちが面と向かっているのは、わしではなくお前たち自身のはずじゃ。フン、情けない顔しおって。ほれ、行った行った、そこに立たれると日陰になるんでな」

 松ちゃんと吉野君は思わず顔を見合わせてクスリと笑った。

「すみません、おじゃましました!」

「まだ時間があるから、ちょうどいい、いい所をお目に掛けよう」

 松ちゃんが晴れ晴れした顔で言う。

 お茶の水の崖っ淵に辿り着いた。

「ほら、ここが聖地」

「おお、これは我が愛しの珠理奈ちゃんが駆け昇った男坂じゃんかよ!」

 吉野君は、最初の一段だけ変に高さのある不揃いな階段でお約束の如く体勢を崩した後、ひとりではしゃぎながら転がるように降りて行く。それから珠理奈ちゃんのやったように左側を一段ずつ駆け昇って悦に入っている。

「僕は毎日ここを上り下りしているんだぜ。羨ましいだろう」

「うーん羨ましい。偶然ではないな。それはきっと、神さまからのメッセージだと思うね」

「その神ってのは秋元じゃないだろうな。僕はあの男はあまり好きではない。消費社会の権化のような男だからな。まあ、彼がいなかったら、僕らがこうして再会することもなかったわけだが」

「まあ、そうだな。さて、そろそろ戻ったほうが良さそうだよ」

「ああ、戻ろう。今日は最下位推しで行きたい気分だ」

「俺もだ」

 夕陽を浴びて茜色に染まった石段を背に、二人の青年は再び歩き出した。


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