第一話「私が突き落としたのは彼氏です」
「もしもし彼氏さんですか。こちらは彼女さんです。そちらから聞こえてくる発情声は何匹目の雌でしょうか。どうやら貴方と私の価値観は違うようです。さよならしましょうね。それでは」
思い立ったが吉日というのが正解なのだろうか。「今日もお宅の彼氏が浮気しているらしいよ」の言葉に一年以上付き合っていた、困った病気が治る気配のない彼氏に大学の講義が終わったその直後、機械越しに別れを告げた。
思えばこのときもう少し慎重な態度をとっておけば。あるいは、あの男と付き合っていなければ、後々こんな七面倒くさいことになっていなかったのではないかと錯覚する。
最も、やはりそれは錯覚どまりらしいが。
第一話「私が突き落としたのは彼氏です」
浮気は男の甲斐性などといった言葉があるが、昨今のジェンダー問題の意識改善や男女交際の変移などがとれてきたことにより今や若者の間では「浮気?何ソレ死んでくれる?」という認識が増えてきたのではないかと思う。もちろん私もその中の一人だ。
浮気する男なんてもげるか不能になってしまえばいいと常々思ってきたものの、彼氏のいない私には縁遠い話だった。だったのだが。
「邑子ちゃん可哀想に。今日は玲生のこと忘れる勢いでぱーっと飲みに行こうよ。俺が奢るからさ」
まるで自分が引き起こした事態かのように申し訳なさそうな顔をする彼。そんな顔ですら、本人が持って生まれた美貌を損ねることがないのだから美形というものは芸術品なのだろう。
「佐野くん…」
「久茲って呼んでってば」
私の途方にくれたような顔を見た佐野くんが、茶目っ気たっぷりにウィンクをする。自分から言い出したことなのに落ち込むだなんて、なんて情けないのだろう。彼に気を使わせてしまうのは本末転倒だ。私はどちらかというと、彼にイラナイ気を使わせたくないのだ。
「いや久茲くん、遠慮しておく。久茲くんは玲生の友達だしさすがの私も今は気まずい。バイトあるし、帰るね」
肩に乗せられていた私よりも大きめな手を、やんわりと拒絶して彼に断りを入れた。どうしてこんな面倒臭いことになったのか。思い返してみると、少し前のことのように感じる。
地元から少々離れた大学に入学した直後、何だかよく分からないほど顔面が眩しい男、鈴原玲生に告白された。顔立ちは中性的というよりもワイルド系だったしそれなりにガタイも良かったし、私が言うのもちょっと可笑しい気もするが、何よりもその顔立ちにしては生娘のような告白をしてくれたのが相極まってすんなりオッケーをしてしまった。
前田邑子、人生十九年にして初の彼氏の誕生である。
『つ、つ、つ、っ付き合ってくれ、くださぃ!』
『…はい?』
『ままま、前田邑子ぉ!おま、貴女に、一目惚れしました』
『…はい』
『す…き、です』
言う順番を間違えてるんじゃないかとか、ちょっと緊張しすぎじゃないのかとか言いたいことはいっぱいあったはずなのに、そのときの私は私らしくもなくただ一言「はい」とだけ答えてしまった。それもこれも、私がギャップ萌えとやらに弱かったせいだ。
このときはまだよかった。初めて出来た乙女みたいな彼氏と一緒に恋人付き合いに四苦八苦して楽しく過ごしていた。お互いの誕生日が近かったから一緒に祝ったり、何だかんだと十九年間大切にしていた貞操も彼に捧げた。そのことに関しては今も後悔はしていない。
最初の印象通り、彼はやっぱり少女漫画みたいなことが好きで、甘いものが好きで、料理も好きな乙女だった。ちょっとしたことでも真っ赤になる姿から、私と性別を交換した方がいいのではないかと思うこともあったけれど、何やかんやで男らしいと評価されることの多い私と内面的には釣り合いが取れていた。そう思っていた。
彼の友人である、佐野久茲くんがあることを知らせるまでは。
『ねぇ前田さん、知ってる?玲生浮気してるよ』
正直に言って、初め佐野くんのこの言葉は信じていなかった。彼はいつ見ても何をしていても清らかな乙女であったし、下ネタも苦手なようで私といるときにそういった話になるといつも真っ赤になって顔を下に向けていた。それに加え佐野くんと知り合ったのは玲生と付き合ってからで、個人的な付き合いは皆無に等しかった。だから佐野くんは、私が玲生の彼女として全体的に釣り合いが取れてなくて気に食わないからそう言ったのだと思っていた。
でもそれはその現場を見ることによって間違いだと知ってしまう。
『…玲生、何してるの』
『あ、ユウ。久茲と一緒だったのか。これから昼飯行こうぜ』
『…その女の子誰?』
『あ?知らないやつ』
そんなことどうだっていいだろうと言いたげに顔をしかめ、抱き寄せていた小柄な女の子を乱暴に放した。そのときの彼はもう元の無邪気な顔に戻っていて、私はそれを信じられない光景として何処か客観的に見ていた。
『あ、そう…。玲生はさ、私と別れたいの?』
『何で?俺ユウのこと好きだよ。別れる気なんてこれっぽっちもないけど』
『じゃあ何で、』
彼は見知らぬ女の子とキスをしていた。私が見たこともないような冷たい目をしながら、校舎の壁にその子の背を預けて、深く、深く、彼女の唇に口付けていた。
私はそのとき崩れ落ちそうになった。告白は彼からだったけれど、いつの間にか私も彼のことを好きになっていたからだ。なのに彼は、私の存在を見つけた途端普段と同じように声をかけてくる。訳が分からなかった。この状況でランチに誘おうとするなんて我が彼氏ながら神経を疑った。
結局このとき私が答えを聞く前に、佐野くんが「今日の前田さんは俺と約束が入ってるから」と彼に言ったことにより有耶無耶になってしまった。そのあとは何故か佐野くんとスイパラに行って人生初の自棄食いをした。私は基本甘いものを食べないので、浮気のショックというよりも自棄食いの影響で三日間はまともにご飯が食べられなかったことを覚えている。
『前田さん玲生と別れないの?』
お皿の上に乗ったベリー系のケーキをつつきながら佐野くんが問いかける。
『ん、話し合いが先。何であんなことしたのか聞かないとモヤモヤしたままで終わるから。何か訳があったのかもしれないし』
『ふうん、優しいね。あんな奴と別れちゃえばいいのに。堂々と浮気して、悪びれないんだよ?前田さんのこと都合のイイ女扱いしてるようなもんじゃん』
私の答えと同時に佐野くんのお皿の上がぐちゃぐちゃにされていく。見ていてあまり気分のいいものではなかった。
佐野くんと彼は高校時代からの友達だったはずだ。そう紹介してもらったはずなのに、長い期間の友達にしては冷めた評価をしている。私の肩を持つ、という表現では少々ずれている気がする。
『佐野くん…佐野くんと玲生は友達でしょ、そんな言い方しなくても』
『玲生のこと庇うんだ。あんなことしてたのに。前田さん泣かせるような奴が前田さんを幸せに出来るとは思えない。考え直しなよ。別れた方がいい』
何度も何度も別れを催促する佐野くん。佐野くんの言い分はもっともだと思ったけれど、まるで洗脳をするかのように別れという単語を繰り返す佐野くんが少し怖かった。第一に、あのとき確かに泣きそうではあったけれど実際は泣いてなどいなかったし、知人という言葉以上の関係などなかったはずなのにやけに首を突っ込んでくる様子がおかしかった。
何かと違和感を持つ佐野くんの行動はこれ以降どんどん増えていって、あの日以来私とも友達になり、私のスマホに佐野くんの連絡先が入っているのも、二人で会う約束がされるのも普通の関係になった。
そして、玲生の浮気を教えてくれるのもやっぱり佐野くんからだった。
『…』
『ほら、ね。さっきラブホに入っていった男の方は玲生だったでしょ?いい加減別れなよ、邑子ちゃん。何回目だと思ってるの?アイツは邑子ちゃん以外の女にも触ってるんだよ?気持ち悪いでしょ?』
佐野くんに背中を押され、着いていった喫茶店。このときの出来事のせいでこの喫茶店には絶対に入らないと誓った。
窓側の席に一列に座って、玲生が髪の長い女性とホテルに入って行く様をじっと見ていた。喉を潤すために注文したジンジャーティーもただのお湯みたいだった。佐野くんの胸の中へと身体を抱き込まれていても、それに気づかないほどそのときの私はショックを受けていた。
『佐野くん…』
『邑子ちゃん、玲生なんかと付き合ってどうすんの?アイツ悪いと思ってないんだよ?そのくせ当たり前みたいに邑子ちゃんの彼氏面して邑子ちゃんとしてることを他の女にもしてるんだよ?分かるでしょ?ほら、ほら。これ見てみなって。よく撮れてると思わない?』
眼前に差し出される数枚の写真。こんなものいつから用意していたのだろうなんてことを考える冷静な思考を持っていなかった。ただただ疲れていた。
『…やめて』
『何で?話し合いだって結局出来てないんでしょ。今更先延ばしにしてどうすんの。また玲生を許すって?優しさにも限度があるんじゃないの』
回を増すごとに酷くなっていく彼の浮気と佐野くんの言動。何処から仕入れてくるのか分からないほど、正確に浮気現場を押さえてくる。いつまで経っても飄々として別れる気配を一切見せない彼と、段々と容赦がなくなっていく佐野くんの別れろコール。確かにちゃんとした話し合いは未だに出来ていなかった。それは佐野くんに言われなくても分かっている。
最近の私からすると、彼の浮気よりも執念に近い何かを感じさせる佐野くんの方が恐ろしかった。普段は優しくて気の利く男友達。でもこうなると事情聴取を受けている犯罪者のような気持ちにさせられる。私のキャパシティーは限界に近かった。
だから今日、どちらも捨てられるように行動したのだ。自由になりたかった。
もう玲生の浮気騒動に心を痛めたくない。もう佐野くんの狂気染みた別れろコールなんて聞きたくない。玲生も佐野くんも、あそこまで来たら病気だ。佐野くんは親切心からしてくれたのかもしれないが、私にとってはサイコ系のホラー映画を見ている気分だった。時折佐野くんの瞳にハイライトがなくなって死んでいるんじゃないのかと錯覚してしまうくらいだったのだ。佐野くんのこともあってか、玲生の行動すらもホラー映画の一部のように感じられた。笑顔の裏で他の女の子と遊んでいる玲生。脳みその造りが私とは違うのだろう。
もう男はいい。懲り懲りだ。この先独身でいい。そんなことを思うほど年を取っていないはずなのに、まるで人生の様々な荒波に揉まれて疲れ切ったアラウンドなんちゃらの人々のような発想を持つようになってしまった。
しばらくは静かに暮らしたい。
「なんで、ゆうこちゃん」
「え」
ブラック企業に定年まで勤めて退職したサラリーマンの気分でいたはずなのに、踵を返した私の腕を佐野くんが掴み取る。いつもならもう少しやんわり触れるはずの彼の手が、七分丈の長袖からはみ出た肌へと爪を立てる。痛い。何だかよく分からないけれど物凄く痛い。現在の気分は退職したはずなのにもう一度入社させられた可哀想な社畜の気分である。訳が分からないよ。
「玲生と別れたのに何で俺のところに来ないの何で俺を頼らないの何で俺に好きだって言ってくれないの」
「…佐野くん」
ぶつぶつと理解不能な言葉を呪詛のごとく吐き出し始める。徐々に強くなる手の力が男女の違いを明確に示していて、抜け出そうにも抜け出せず、それどころか離れようとすると私の腕を折りそうな勢いだった。
「せっかくの計画が台無しだ。邑子ちゃんは一生俺の邑子ちゃんになるはずなのに佐野邑子になるって決まってるのに。玲生が死んでないからいけないのかな早く殺さなきゃ」
「佐野くん」
「なぁに邑子ちゃん。待っててね、ハネムーンはやっぱり海外がいいよね。式はゴンドラで登場がいい?婚約指輪と結婚指輪は重ね付け出来るやつがいいよね。エタニティーにしようか?」
この男、えらいメルヘンで電波な脳味噌を持っている。さてはゼ●シィ見てる系男子か。こわい。私にはどうすることも出来ない。誰か早く警備員さんか警察を呼んできてくれないだろうか。
「さ、佐野くん、ちょっと落ち着いてよ。ここじゃあ大勢の人目につくから、近くのカフェテリアで話し合おう。あの、だから腕を離してくれないかな」
「駄目だよ邑子ちゃん。俺と邑子ちゃんはもう永遠に離れてはいけないんだ。玲生に邑子ちゃんが連れていかれたら俺はどうすればいいの。でも大丈夫、死んでも一緒だよ」
死んでも一緒はごめん被りたいと言ったらこの場で殺人事件が起きる気がした。
一体どこからこんなことになったのだろうか。よく知りもしないで玲生と付き合ったせいだろうか。知っていたら玲生の浮気病の原因が分かったかもしれないし、佐野久茲という厄介な男の本質を見極めることだって出来たかもしれない。いや、佐野くんに関しては知り合った時点でアウトに思えてきた。
血が止まって本来の皮膚以上に白くなってきた肌に、佐野くんの手の爪が食い込む。彼の爪をよく見てみると私の腕の皮膚と血が少量爪の中に入っているようだった。
通りで痛いわけである。
「だからそんなことする前に役所に行って婚姻届け貰おうよ、ね?」
悪徳商法に引っ掛かったとき、人はこんな心境になるのだろうか。それとも金縛りにあったときこんなことを思うのだろうか。どちらにしても私は、声を大にして言いたい。
佐野くんは全く関係ないのだから首を突っ込んで来ないでくれ、私の彼氏は鈴原玲生一択だったはずだ、と。
しかし言った途端私の肢体が消える気がするという何とも迷惑な話である。答えない私にしびれを切らしたのか、絵画のような顔を歪めて無理矢理腕を引き寄せようとする。
本当に痛いから止めて欲しい、ただその一心で声を張り上げた。
「も、もう役場は閉まる時間じゃあないかなぁ…!」
前略少し遠くに住んでいらっしゃるお母様、貴女の可愛い可愛い一人娘はヤバいものを引き当てたようです。
▼第一話登場人物紹介
・前田邑子(20):母親そっくりかつ男運の悪さもそっくり。仲がいい人の前だともっと硬い口調。もう一生独身でもいい(悟り)。
・鈴原玲生(20):影が薄いけど邑子の(元かは不明)彼氏。浮気病を患っている乙男。何かしらの理由がありそう。
・佐野久茲(20):佐野家男子の特徴である好きな子にめちゃくちゃ一途を発動中。押し付けがましい上にメルヘン脳なヤンデレ。邑子のウェディングドレスはマーメイドラインかエンパイアラインかで悩んでいる。
※『心に涙、臓に弔花』の佐野真澄の甥っ子。本編とはパラレル世界。
・見知らぬ女の子(?):たぶん玲生に告白して振られてた。酒豪。第一話内で一番邑子と仲良くなれそう。
・髪の長い女性(?):赤い口紅が似合う人。