55(礼亜) 騒然
空間が声で満ちていた。
咆哮、声援、怒号、威嚇、絶叫、歓喜――。
人は心と心を直に通じ合わせることができない。だから叫ぶ。想いを声に乗せる。
インターハイ県予選、初日、二回戦。勝ったほうがベスト8。二日目の準々決勝へと進む。
北地区二位・城上女子高校VS中央地区一位・南五和高校。
試合は、意外にも、互いに一歩も譲らぬ熱戦となっていた。
我が県において、北地区と中央地区のランクは同程度。向こうは一位で、城上女は二位。その数字はそれなりに重みがある。少なくとも、私たち城上女は、予選で北地区一位の石館商業にストレートで負けている。
ベスト8の壁。地区一位クラスの壁。
それは、きっと厚いはずだ、と私たちは覚悟してこの二回戦に臨んだ。負けたら、私たち三年生は、引退。誰もが、これが最後の試合になるだろうから、と、ただ全力でプレーすることだけを考えて、コートに立った。
だが、蓋を開けてみれば、勝負は互角、第三セットに突入していた。
このセットに勝てば、二日目に残れる。
もちろん、残ったところで、四強に叩き潰されるのは目に見えている。引退がたった一日伸びるだけ。試合数が一つ増えるだけ。この県予選が私たちの最後の祭りであることに変わりはない。
でも、まあ、そうは言ったって、普通に勝ちたいっしょ。
私たちの決めた覚悟は、全力でプレーをする覚悟であって、負ける覚悟じゃないんだからさ。
「っらあああああッ!!」
私が二枚ブロック目掛けて打ち込んだボールは、がががっ、とピンボールみたいに跳ねながらブロッカーのお腹側へと吸い込まれ、相手コートに落ちる。
スコアは、12―15。
3点差。まだ追いつける。力の差はほとんどない。流れが来れば、きっとひっくり返せる。
ぴぃ、と長めの笛。審判が両手でいわゆる『糸巻き巻き』をする。メンバーチェンジのハンドシグナル。
メンバーチェンジを要求したのは、城上女。後衛に下がったセンターの紀子に代わって、一年生の静が投入された。
ピンチサーバーだ。
このインハイ予選、地区大会からここまで、静は一年生ながら、何度かピンチサーバーとして起用されてきた。彼女のジャンプフローターは、球威もあり、何よりコントロールが良い。静とは小学時代からの付き合いだが、最初から、狙ったところにボールを持っていくセンスがずば抜けている子だった。
小学生のときも、中学生のときも、静は、私が卒業した後のチームを背負ってくれた。
二つ違いだから、一緒コートに立つ機会は少なかったけれど、とても信頼している後輩。
あの子なら、きっと、何かを変えてくれる。
そんな予感がした。
静はボールを受け取り、サービスゾーンに立つ。
審判の笛が鳴る。集中するための間。嵐の前の静けさ。
助走開始。さあプレーが始まる。あちらもこちらも湧き立つ。
そして、ばしっ、と快音。
コートポジションの保持が解除され、一斉に動き出す敵味方。
静のボールは、相手コートの深いところへ。それを向こうのリベロ――恐ろしく目立つ黄色のショートヘアの子――が追う。手を伸ばす。触れる。そして後ろへ弾いた。
エンドラインの遙か後方、壁際の誰もいないところで、ぼんっ、と跳ねるボール。
しん、とコートが静寂に包まれる。
それを真っ先に破ったのは、私。
わあああああ! と、ただ喜びだけを表す大声を上げて、静のところへ走る。
スコア、13―15。
こちらのコートは興奮の坩堝。
静! すごい! あんたならやってくれると思ってたけど、まさか相手のリベロからサービスエースを取るなんて!
リベロは守備の要。チームの土台だ。そこがサーブで崩されたら、自ずと全てがバラバラになる。間違いなく形勢はこちらに傾く。
相手ベンチが即座に動く。タイムアウト。流れを切るつもり。
でも、うちの静は、私の頼れる後輩は、それくらいで集中を切らすような子じゃない。
朝方に見る夢のような、あっという間の30秒。監督が何を言っていたのかもよく覚えていない。何も言ってなかったかもしれない。私たちはとにかく静が生み出した勢いを殺さないように明るく声を掛け合って、意気揚々とコートへ戻る。
よしっ、と私は拳を握った。
コート内に入った瞬間にわかる。ほんの数分前までと空気がまるで違う。9×18メートルの長方形。その内側の何もかもが、私たちのものになっている。タイムアウトも焼け石に水。相手の旗色は見るからに悪い。行ける。行け、静!
ぴぃ、と審判の笛。静は、一回目より間を詰めて、笛が鳴るや否やすぐ助走に入る。相手に余裕を持たせない。攻めるときは貪欲に、一気に、苛烈に、且つ、冷徹に。
静のサーブは、一回目と同じコース。もちろん相手も警戒しているはず。しかし、たとえ警戒されようと、一度決まったところは徹底的に叩くのが定石。そこは明確に敵の弱点だからだ。
再び、黄色髪のリベロが拾いに行く。
結果は、一回目とほぼ同じ。
あらぬ方へと飛んでいくボール。敵チームは全員でそれを追うが、届かない。
14―15。
1点差!
ボールが私たちのコートに帰ってくる。私はそれを拾って、静に投げる。静は受け取り、サーブの構え。
三度目のサーブ。静のサーブは、再三のリベロ狙い。今度は逆側の空きスペースへ。
これが面白いように決まる。
15―15。
同点だっ!
「ナイッサー、静!」
私は努めて明るい声を出す。
ん……?
努めて?
どうして?
三連続サービスエース。同点。明るい声なんて、意識せずとも脊髄反射で出てくるはずなのに。
なにか、おかしい。
どこか、おかしい。
気運や気迫、気勢や気炎とも違う。
何か、変なものが、コートの中に混じり始めている。
それに気付いたのは私だけじゃなかった。静や、他のメンバー、相手のメンバーも、集中が切れた顔をしている。
じわっ、と胸の奥から靄のようなものが滲み出てくる。
「静! もう一本! ナイッサー!!」
胸の中の靄を掻き消すように、私は声を張り上げる。
主審の笛。静のサーブ。またリベロのところへ。そしてサービスエース。
16―15。
逆転。
なのに、どうしてか、歓喜より先に、不安がこみ上げてくる。
どういうこと?
何が起こっている?
胸騒ぎ。きょろきょろと忙しなく交錯する視線。コート内の誰もが違和感の正体を探ろうとしている。わからない。でも試合を止めるわけにはいかない。速やかにボールはサーバーの静の元へ運ばれ、次のプレーが始まる。
主審の笛。
静のサーブ。
またリベロのところへ。
そして、リベロは静のサーブを肩で受け、
まるでドミノの最初の一枚目のように、
まるで糸が切れた操り人形のように、
まるで積み上げた石の塔が崩れるように、
ゆっくりと、後ろへ、ゆっくりと、倒れていく。
――ばたんっ。
聞いただけで、取り返しのつかないことが起きたとわかる音だった。
意思を失った肉体が、重力に引かれ、受け身も抵抗もなく、床に叩き付けられた音。
それは、どんな大声より、笛の音より、打音より、重く深く、私たちの耳に響いた。
それから先の細かいことはよく覚えていない。
記憶を辿っても、騒然、という単語が出てくるだけ。
かくして、ベスト8、トーナメント二日目出場をかけた試合は、南五和高校の棄権により幕を閉じた。