ヴィクトルの苦労
ヴィカンデル王国は、大陸随一の国土を誇る大国だ。『最強』と謳われる騎士団を有してもいる。
しかしそれは、国民が多いからだ、とヴィクトルは考えていた。国土が大きければ国民も多い。故に、存在する騎士団の規模も比例して大きくなる。他国は騎士団にそこまでの人員を割けないだけだ、と。
そのヴィクトル自身も騎士である。ニークヴィスト公爵家の次男である彼は、現在二十一歳。剣の才能があったが故に騎士となったが、家柄故に三つ年下の従弟でありヴィカンデル王国第三王子でもあるアルフレドの専属護衛を任されていた。
騎士団の中でも役職や専属業務を持つ者は、一日の終わりに、団長への報告義務がある。ヴィクトルはそれを済ませると、アルフレドの私室の隣に用意された自分の寝室へと戻ろうとした。
西棟の一階にある騎士団長室と東棟の四階にあるヴィクトルの寝室は『コ』の字型に造られた城の立体的な対角線上にある。任に着いたばかりの頃は遠いと感じていたその距離も、長く勤めてきたためか、今はさほど気にならなくなっていた。
一般的な就寝時間はとうに過ぎた時間帯、灯りの点された廊下をヴィクトルが一人歩きながらふと自室の方を見上げると、その隣の部屋がまだ明るいことに気が付いた。
「……またですか」
ヴィクトルは感情の乗らない表情で小さく独りごち、その部屋へと急いだ。
アルフレドの部屋に辿り着くと扉をノックする。名乗らずとも、アルフレドなら自分が来たことなど既にわかっているはずだ。
案の定「どうぞ、入って」と警戒のない声が中から聞こえてきた。
部屋に入ると、寝間着にガウン姿でソファにゆったりと座り、宙に浮かんだ大きく重そうな本を読むアルフレドの姿があった。その傍らには、魔法で作られた灯りの球がぽわぽわと浮いている。
想像とまったく違わなかったその光景に、ヴィクトルは嘆息した。
「アルフレド、もう遅いですよ。そろそろ寝てください。明日は早朝から会議がありましたよね?」
本来ならヴィクトルはアルフレドに対して敬称を付けなければならないのだが、名前のみで呼ぶことを許されている。従兄弟という近い親戚であり、幼子の頃からよく知っている間柄故だ。アルフレドがそうして欲しいと願い、国王が許可したのならば、ヴィクトルはその通りにするだけだ。
「ん? あぁ、もうそんな時間?」
ヴィクトルの呼びかけにアルフレドは顔を上げ、ヴィクトルに少し苦い笑顔を向けた。
「ええ。もうとっくに真夜中です」
ヴィクトルがきっぱりと答えると、アルフレドは「いつの間に」と呟きつつも本をばたんと閉じた。浮いたままの本は、アルフレドが手首をひょいと振ると書き物机の上まで飛んでいき、そっと着地した。
本や灯りが浮くなど通常ではあり得ないことだが、アルフレドといると日常の風景の一部になるので、もはや新鮮さも驚きもない。
アルフレドが少し名残惜しそうに本の表紙を眺めているのに気が付いて、ヴィクトルは少し興味が沸いた。
「何を読んでいたんです?」
「古い魔道書だよ。団長に貸していただいたんだ」
アルフレドの言う『団長』は騎士団長ではない。アルフレドの所属する魔道士団の団長のことだ。
魔道士団の団長は、長年ヴィカンデル王家に勤めており、十年以上前から「約七十歳」と自称している。ぱっと見は好々爺なのだが、そんな見た目すら利用する老獪さを持つ、一筋縄では行かない人物だ。
そんな人から借りたという魔道書は、布張りの表紙がぼろぼろで、中の紙も隅が朽ちていた。
「そんなに熱中するほど面白いんですか」
「うん、昔の人たちの発想や努力には頭が下がるよ。使い手も少ないから大変だっただろうにね。理論上はほぼ完璧だよ。可能かどうかはまた別だけどね」
アルフレドの言葉に興味を惹かれて、ヴィクトルは本に近づいた。
不思議なことに、本には表紙にも背表紙にもタイトルが書かれていない。魔道書だとわかりにくくするためにそうしてあるのか、と適当にページを開いてみたが、どのページも真っ白だった。
普段ほとんど動かないヴィクトルの眉根が僅かに寄った。
「あぁ、その本はね。ある程度以上の魔力を込め続けていないと読めないんだ。普通の人や魔力の足りない人が読もうとしても、ただの真っ白な本にしか見えないよう魔法がかかっているみたいでね」
「そうですか。どうりで私には読めないわけですね」
「別に変な本じゃないよ。でも確かに、普通の人や未熟な人にはわからない方がいい内容も書かれてるんだよね……」
アルフレドが何気なく漏らした言葉で、この本に書かれている内容に見当がつく。攻撃魔法か大規模魔法に特化した本なのだろう。
魔法を使える人間は貴重だ。しかし実力の個人差は大きい、らしい。魔法の使えないヴィクトルには、使える人間は皆同じように見えるのだが。
魔法を使える人間が言うには、アルフレドの実力は桁違いだそうだ。やろうと思えばヴィカンデル王国を転覆させることも出来ると思う、と本人からも聞いている。
もちろん、アルフレドはそのようなことはしないだろう。争いごとを好まない柔和な性格の王子だから。
ただ、アルフレドはこの魔道書を読むのに必要な魔力を持っていて、その力を悪用しないと言い切れる、それだけだ。
「まだ強くなるおつもりですか」
ヴィクトルが呆れ半分に言うと、アルフレドは柔らかく笑った。
「早く父上に認めていただきたいからね」
「何故そんなに勲功を急ぐんです? まだ十歳に満たない頃から魔法を磨いていたと記憶していますが」
それはヴィクトルが以前から──それこそ、専属の護衛騎士となったときから──気になっていたことだ。
アルフレドは、既に十分な実力を持っているし、まだ十八歳という若さの割に実績もある。もちろん鍛錬や任務に手を抜いていいとは思わないが、今ほど頑張らなくても十分ではないかと思うのだ。
ヴィクトルの問いかけに、アルフレドは懐かしそうに目を細めた。
「好きな人がいるんだ。でも、父上との約束で、勲功を立ててからじゃないと結婚の申し込みすら許していただけないから」
ヴィクトルは驚いて目を見開きアルフレドを見た。
アルフレドはどんな女性に対しても紳士的に接する。逆に、今まで特定の誰かに、男性的な『欲』からですら惹かれる様子を見たことはなかった。
まさか、心に決めた女性がいるとは。
「……好いた女性がいたんですね。初めて知りました。どなたか伺っても?」
「そういえば、ヴィクトルには言っていなかったね。シェルストレーム王国のクリスティーネ王女だよ」
アルフレドが隣国の王女の名を語ったとき、その眼差しがとても優しいものになったことに、ヴィクトルは気が付いた。それほど、好きなのだろう。
しかし疑問もある。
専属護衛という立場上、ヴィクトルはアルフレドの赴くところにはすべて同行しているし、来客の際も近くに控えている。が、クリスティーネ王女の姿は、着任してから今までの八年間、一切見たことがなかったから。
それを問うと、アルフレドは苦笑した。
「彼女とは、ヴィクトルが僕の専属護衛になる少し前に、一度会ったきりだからね」
少し照れた様子で告げられた、まったく予想していなかった答えに、ヴィクトルは普段から動きの鈍い表情筋を完全に凍らせて、しばし絶句する。
それが本当なら、もう八年だ。その間、一度も会わずとも、ぶれない想いを持ち続けていられるというのは、驚嘆である。
思い返せば確かに、王位継承権を持つ王子として、精通後に房事を経験する場が用意されたが、それも義務として学ぶために必要最低限の回数をこなしたのみだ。それも、数年も前の話である。
以後、アルフレドの周りに異性の影は一切ない。そのストイックさに、ヴィクトルは、若い身体を一体どう処理しているのかと、訝しく思ったことすらある。
巷では、アルフレドが男色だという話まであるらしい。さらにその相手を自分がしているらしい、という噂があると仲間の騎士が教えてくれた際は、頭を抱えたくなったものだ。
今なら、アルフレドの行動は、その好きな女性に対して操を立てているだけなのだとわかるが。それにしても。
「一途にもほどがありますよ」
「僕にとって、伴侶になりうる女性は彼女しかいないんだ。彼女じゃないなら、僕は伴侶なんて要らない」
そのままの感想を口にすれば、聞いている方が恥ずかしくなるような台詞をさらりと述べられた。
ヴィクトルは、今までの人生で心を動かされるような女性に会ったことがない。だから、アルフレドの気持ちを想像してみるも、理解することはできなかった。
しかし、アルフレドが『好いた女性』のことを話すときにとても幸せそうに頬を緩めているところを見ると、本当に彼女を愛しているのだろう。
「そんなにお好きなんですか」
ヴィクトルが問うとアルフレドは大きく頷いた。
「うん、好きだよ。だから頑張れるのだしね。まぁ、僕が勝手に想い続けているだけだから、信じてもらえないかもしないけど」
「いえ、信じますよ。アルフレドはそのような嘘をつくタイプではありませんから」
ヴィクトルが言うと、アルフレドは嬉しそうに礼を述べた。そこへヴィクトルはしっかりと釘を刺す。
「でも、今夜はもう寝てください。明朝の会議は厄介な議題です。頭が働くようにしておいていただだかないと困ります」
既にアルフレドのいつもの就寝時間よりもかなり遅い。
明朝の会議は開始時間が早い上、話し合いがどう転んでも結果的にアルフレドに、いや、アルフレドの魔法の力に負担がかかることは目に見えている。もちろん国に被害があってはいけないが、そちらを重視するあまりアルフレドが身体を崩しても困るのだ。少しでも、アルフレド自身の負担が軽くなるように持って行かなければ。
「わかってる。ヴィクトル、苦労かけるね」
「まったくです」
アルフレドが宙に浮かぶ灯りの球とともに、おとなしく寝所の方へと向かったので、ヴィクトルも部屋を出ようと扉に手を掛けた。
しかし、背後から声が掛かった。
「ヴィクトル」
振り返ると、去ったはずのアルフレドが立っていた。その手には、水差しほどの大きさの瓶が握られている。中には透明な青い液体がコップ一杯分ほど入っていた。
「寝る前にこれを飲むといいよ。ぐっすり眠れるし、疲れも取れるから。明日、ヴィクトルも一緒に起きてもらわなきゃ困るし」
「ありがとうございます」
ヴィクトルが受け取ると、アルフレドは満足そうに笑顔を浮かべ、また去っていった。
自室に戻ったところで、ヴィクトルは溜め息をついた。その拍子に顔に落ちてきた髪を掻き上げる。
ヴィクトルには、女性を抱いた経験は数あれど、女性を抱いたまま共に朝まで眠ったことはない。そうしたいと思える女性にも出会えていない。
だから、あそこまで真っ直ぐ、一途に、想える女性に出会えたアルフレドを少し羨ましく思った。
もし自分がそんな女性に出会っていたら、このように表情の乏しい人間にはなっていなかったかもしれない。
そんなことを考えてしまったせいか、なんとなく女を抱きたくなった。とはいえ、明日の会議の開始時間から逆算すると、今すぐ寝たとしても眠れるのは数時間しかない。そういう相手をしてくれる女のいる場所に行くほどの余裕はなかった。
諦めてさっさと寝ようとして、手の中にあるアルフレドから渡された瓶を思い出す。あの言い方からして、アルフレド特製の魔法薬だろう。
着ていた騎士としての服を脱ぐと、湯で浸した布で身体を清めてベッドに入る。その際に、魔法薬を一気に煽った。
途端に、身体が一気に火照った。アルフレドがくれた薬なのだから危険はないと断言できるが、何が起ころうとしているのかわからず、思わず身体の無事を確認する。
熱いだけで特に変化はないようだ。
そう思った直後、意志とは関係なく身体を快感が走り、脱力感と充足感、そして抗えないほどの眠気に襲われる。
なん、だ……?
疑問が声になる前に、ヴィクトルの意識は途切れた──
* * *
翌朝、ヴィクトルがアルフレドの部屋を訪れると、既にアルフレドは身支度を終え、また昨夜の魔道書を読んでいた。
アルフレドが、部屋に入ってきたヴィクトルを認めて微笑む。
「おはよう、ヴィクトル」
「おはようございます」
「あの薬、飲んだみたいだね。すっきりしたでしょう」
ヴィクトルの様子に何かを感じ取ったらしいアルフレドがヴィクトルに言った。
ヴィクトルをよく知らぬ者はその僅かな表情の違いに気付かないのだが、アルフレドは長年の付き合いからか、ヴィクトルの機微を悟ることが多くなっていた。
誤魔化す必要もない。昨夜の奇妙な感覚の正体を知りたくて、ヴィクトルは問うた。
「アルフレド、昨夜のアレ、何だったんです?」
「あれ? 効果なかった? 睡眠導入と心身疲労回復の魔法薬だったんだけど」
「それはわかっています。効能ではなく、症状の方というか……一瞬で意識がなくなったのですが」
「あぁ」ヴィクトルの言ったことに心当たりがあるのか、アルフレドが小さく頷く。「睡眠導入の際、短時間で情事のときと同じ感覚を得られるように調合しているからかな?」
さらりと告げられた事実に、しばし思考が止まった。
「何故、です?」
よりにもよって、その感覚を選んだ理由を知りたい。
「短時間で自然に睡眠に入るのにちょうどいいんだよ。それにすっきりするし。気分はどう?」
どうやらアルフレドが効率を重視した結果らしい。
確かに、妙な爽快感がヴィクトルを満たしている。そして昨夜生まれた情欲は跡形もなく消えていた。
なるほど、アルフレドのストイックさはこういうわけだったのか、と一人合点する。
答えを待つアルフレドにヴィクトルは言った。
「とてもいいです。身体も軽いですし」
「ならよかった。じゃあ行こうか」
アルフレドがポンと手を打つと、部屋に敷かれた厚手の絨毯の上に、ぼんやりと黄色く光る大きな円形の模様が浮かび上がる。
『魔法陣』というものだと以前ヴィクトルは教えてもらっていた。模様のパターンや込める魔力によって様々な効果を組み込むことが出来るらしい。
アルフレドのこの魔法陣は、留守中に間者や賊が部屋に入り込めないようにする効果がある。これ以外に、普段から盗聴防止や遠視防止の魔法陣も発動させていると聞いている。
専属護衛として自分が付く意味があるのかどうか、甚だ疑問である。
魔法陣が正常に発動したことを確認しながら、アルフレドが口を開いた。
「今日の議題って北方の件だったっけ」
「そうです」
「あー……じゃあ、あの狸爺も参加するんだね」アルフレドが扉の方へと歩き出しながら言う。「あの人のカツラ、一回飛ばしてみたいよね」
「やめてください」
ヴィクトルは主の言葉に呆れつつ、その後を追った。
アルフレド念願の再会まで、あと二年──