第5話
あれから三日が過ぎた。
婚約の儀は、何事もなく無事に終わっている。
儀式終了後、警備担当の騎士さんたちが脱力していた。確かに狙われるとしたら婚約の儀のときが一番可能性高いもんね。警備は厚いけど、人の出入りが多いから紛れ込みやすいし。突貫の警備計画の割にがんばったよ、うん。
まぁ、実を言うとアルフレド様が内緒で厳重に結界作ってたみたいだから、賊の類は入ることすら叶わなかったんだけどねー。これ暴露したら、警備の責任者さん泣くだろうから言わない。いつもお世話になってる気のいいオジサンなのよ。
婚約の儀が終わったらアルフレド様たち御一行様はすぐに帰国するんだと思ってたのに、実はまだいらっしゃる。しかも帰国予定は未定。なんでも、今、クリスティーネ様をいつヴィカンデル王国へ連れて行くかで、シェルストレーム国王と少々揉め……げふんげふん、協議中らしい。
簡単に言うと、直ぐにでも連れて帰りたいアルフレド様と、愛娘の輿入れなのだから十分に準備を整えてから送り出したい国王様、という図式。
ヴィカンデル側の受け入れ準備もあるでしょうにって思っていたのだけど、どうやらヴィカンデル国王は、今回の件について、アルフレド様に全権を委譲しているのだそうだ。
丸投げ? いやいや、そうじゃないらしいよ。ヴィカンデル王国内での調整は必要だし。王子の手腕を信用してるってコトか。
まぁそんな状態なので、いつ輿入れになるのかわからない。私を含めた下々の者は、仕方なく最低限必要な準備だけはし始めている。衣服の準備とか、荷物の選別とか、嫁入り道具の選定とか。
私も自分の今後を考えて身辺整理をしている。両親に今後どうしたいか認めた手紙を書いたのが、婚約の儀が執り行われた日。その返事が今日届いた。
──お前の好きになさい──
「王城への出仕を辞したい」から始まって、結構なワガママを言ったのにも関わらず、返事には概ねそんなコトが書かれていて心から感謝する。思えば、ずっと王城出仕してたから、ほとんど親孝行もできてないんだよね。落ち着いたら、ちゃんとお礼を言いに一度両親を訪ねよう。
クリスティーネ様がお休みになられた後、私はもう一度両親からの手紙を読み返すと、折り目に沿って綺麗に畳んだ。
さて、と。決心が鈍らない内に侍女頭さんの元へ行きますかね。この時間ならバックヤードにいるかな。
最近クリスティーネ様の輿入れについて行かせる職業侍女が決まらないって、四六時中頭を悩ませているから、そんなときに私の今後の話をしに行くのはちょっと気が引けるけど。でも、クリスティーネ様が輿入れする前に、了承をいただいておきたいから。
* * *
ふぁ……マズイな。ちょっと眠い。
翌朝、私は必死で欠伸を噛み殺しながら、クリスティーネ様の後について王城内を歩いていた。
昨夜、つい寝るのが遅くなっちゃったのよね。あれから侍女頭さんと結構話し込んだものだから。
昨夜、バックヤードに着いた私を見るなり、候補侍女たちの履歴書や報告書に囲まれた侍女頭さんに「あなたが侯爵令嬢じゃなければ即断即決なのに。こんな悩まなくていいのに。眉間の皺が消えなくなったらあなたのせいよ、マリー」って恨みがましく理不尽なことを言われながらも、私はクリスティーネ様の輿入れ後の希望を侍女頭さんに告げた。
「本当にそれでいいの?」
って何回も聞かれたけど、私の決心は変わらない。最終的には了承して貰えた。
まぁそれから、私の初出仕から今までの思い出話が始まっちゃったんだよね。私が子供の頃のミスを侍女頭さん(当時はまだ侍女頭じゃなかったけど)はよく覚えていて、私は赤くなったり青くなったりした。全部全部忘れて頂けると助かりますマジで本当に黒歴史なんで!
今、私の腕には、侍女頭さんとのお話の後調達した籠が提がっている。中身はお茶の道具とクリスティーネ様が自ら焼いたクッキー。
そんな物持って何処へ向かっているのか? んーなもん、言わなくてもわかれ。
──そう言えば、クリスティーネ様からアルフレド様を訪ねるのは初めてかもしれないわね。いつも向こうからいらっしゃるから。
アルフレド様たちには、一人に一部屋ずつの寝室と、共同で使用していただくための客間を二つご用意している。クリスティーネ様と私が向かっているのはその客間だ。今朝一番に面会を打診し、朝食後のお茶の時間をご一緒にってことになったのだ。
いよいよ欠伸が出そうになったとき、クリスティーネ様の歩みが止まった。
「クリスティーネ様、お待ちしておりました」
到着した私たちを、従者その3が客間の一つへと通してくれる。
部屋は、クリスティーネ様が客間として使っている部屋とほぼ同じ大きさだ。やはり中央に長方形のテーブルがあり、二人掛けのソファが二つと一人掛けのソファが二つ、テーブルを囲むように置かれていた。
さっと視線を走らせたけど、部屋の中にはアルフレド様お一人しかいない。ヴィクトル様がご一緒でないなんて、珍しいこともあるわね。従者その3も、部屋には入ってこなかったし。
二人掛けのソファにゆったりと座っていらっしゃったアルフレド様は、クリスティーネ様を見ると嬉しそうに顔を綻ばせて立ち上がった。
「おはよう、クリス。待ってたんだよ」
「おはようございます」
そのまま側まで来たアルフレド様は、挨拶するクリスティーネ様の手を取り、たった数歩先のソファへとエスコートする。そして当たり前のように、二人掛けのソファにクリスティーネ様と一緒に腰掛けた。えっと、つまり、アルフレド様の脚の間にクリスティーネ様が座って、アルフレド様が背中から抱きしめている状態……。
イキナリ超ラブラブ展開かよっ!
私は諦めの境地を知った気分で、テーブルに持って来たクッキーを置くと紅茶を煎れる準備をし始めた。
「あ、あのっ、アルフ。今日は、お菓子を焼いて来たんです。お口に合えば、いいんですけど」
こめかみへのキスで愛情を表現するアルフレド様に、落ち着かない様子のクリスティーネ様が緊張を含んだ声で告げる。
「これ、クリスが作ったの? それは嬉しいな」
アルフレド様はとろけるような笑みを浮かべ、あーんと口を開けた。
その様子にクリスティーネ様が困惑していると、アルフレド様が不思議そうに小首を傾げた。
「食べさせてくれないの?」
「えっ、ええっ!?」
クリスティーネ様が声を上げ、空いている手を口元に当てる。アルフレド様はさも当たり前なことのように告げたが、クリスティーネ様にとっては慈善事業などで小さな子供に対してやる行為だ。それも、スプーンやフォークを使って。
アルフレド様はクリスティーネ様に笑いかけると、再びあーんと口を開けた。
クリスティーネ様はうろたえながらもクッキーを一枚手に取り、アルフレド様の口へと辿々しく運ぶ。
「ど、どうぞ……」
アルフレド様がクッキーを咀嚼する。クリスティーネ様が心配気に様子を窺っていると、しばらくしてアルフレド様が花が咲いたような微笑みを浮かべて言った。
「ん、美味し♪」
「本当ですか? よかった」
クリスティーネ様が胸を撫で下ろして微笑む。
今度はアルフレド様が腕を伸ばして自らクッキーを手に取った。しかし自分で食べるわけではなく、クリスティーネ様の顔の前に持って行く。
「ハイ、クリスもあーん」
「わ、わたくしはいいです」
「だーめ。あーん」
焦るクリスティーネ様の拒否を優しく去なして、アルフレド様が催促する。クリスティーネ様は差し出されるクッキーを眺めつつしばし迷っていたが、やがて小さくあーんと口を開けた。
もぐもぐと口を動かすクリスティーネ様を、空色の瞳を細めてアルフレド様が見つめる。
「ちょっと、甘みが足りなかったですね」
口が空になってから、クリスティーネ様が僅かに眉根を寄せて言った。
「そぉ? もう一個ちょうだい?」
そう言って、再びあーんと口を開けるアルフレド様に、クリスティーネ様は躊躇いつつもまたクッキーを取る。アルフレド様は、口元まで運ばれて来たそれを、何を思ったのかクリスティーネ様の指ごと口に含んだ。
「ふっ……!?」
驚いたクリスティーネ様がびくりと肩を震わせる。
アルフレド様がクリスティーネ様の反応を面白そうに見ながらゆっくりと指を引き抜いた。
そして呆然としているクリスティーネ様に、微笑みかける。
「十分甘いよ?」
──確かに甘い。なにこの甘さ。砂糖を入れすぎたワッフルに、チョコレートとカスタードクリームと蜂蜜とシロップかけたよりも甘い。甘過ぎる。病気になれそうなくらいに甘い!
私はちょうどよい加減に入った紅茶をお二人の前のテーブルにそっと置いた。もう、シュガーは添えなくていいよね!
「マリー……」
クリスティーネ様が「見てたの?」とでも言うように私を上目遣いで見上げる。
見てましたよ。じっくりと見せていただきましたとも。クリスティーネ様専属の侍女で護衛ですもの。どんなにラブ甘展開を目の前で繰り広げられようとも、そう簡単に目を離したりできませんわ。
という気持ちを込めて、私なりの祝福の言葉を満面の笑顔で贈る。
「幸せそうで何よりですわ。ラブラブなのはわかりましたから、できるだけ早くご結婚してくださいませ。あ、もし可能でしたら、私めも挙式には呼んでいただけると大変嬉しく思います」
既に真っ赤なクリスティーネ様がさらに赤くなっていく。これ以上血が上ったら倒れちゃうかしら。
そんなクリスティーネ様を後ろから抱き込むアルフレド様は驚いたのか口を小さく開いていたけど、次の瞬間には満面の笑みに変わった。
「それいいね。今からしようか」
「……え?」
「え?」
私とクリスティーネ様がアルフレド様を見ると、アルフレド様は涼しい顔で言った。
「え? だから、結婚」
いやいやいやいや、ちょっと待て。
確かに、もぉさっさと結婚しちゃえば? とは思ってるけど!
「本気で言ってらっしゃいます?」
「本気も何も、アン=マリーだって僕とクリスが婚約の儀を済ませた仲だって知ってるでしょう? さすがに挙式はヴィカンデル王国主催でやらなきゃいけないけど、神に誓うだけなら今すぐにでもできるしね。婚前交渉って手もあるけど……」
今サラリと凄いこと言ったよこの人──!?
私のクリスティーネ様に何する気ですか! クリスティーネ様は意味分かってないみたいだけど!!
「ちょっ、アルフレド様、それは──えっ? きゃっ!?」
慌てて思い留まらせようとした私の身体を、突如透明の球体が覆い、宙に浮かび上げた。
ちょっと何──!?
「ごめんね、アン=マリー。ちょっと二人にさせて?」
「は? ちょ、ちょっと──」
球体を内側からガンガン殴ってみるも、びくともしない。やい貴様、私をどうする気だ! いやそれよりも、クリスティーネ様をどうするつもりだ!!
「マリー!!」
「大丈夫だよ、クリス。僕を信じて」
私の状態を見て悲鳴を上げるクリスティーネ様の耳朶に、アルフレド様が優しくキスをする。どさくさに紛れて何やっとんじゃ──!!
「でも」
「ちょっと移動してもらうだけだから。安全──じゃないかもしれないけど」
「はい?」
ちょっと待て。今不穏な言葉が聞こえてきたんですけど!
「いいからいいから」
クリスティーネ様の疑問をかき消すようにアルフレド様は後ろからぎゅっと抱き込むと、パチンと指を鳴らした。
「ふざけんな──!!」
叫ぶ私を無視して、球体の外の景色が歪み始める。アルフレド様の「ようやく二人っきりになれたー」という呑気な声が聞こえ、次の瞬間には世界が暗転した。
* * *
身体を覆っていた球体が爆ぜて再び世界に色が戻ったとき、妙な浮遊感が私を包んだ。空中に放り出されたんだ、と理解した瞬間落下が始まる。
「きゃぁぁっ!」
「うぉっ!?」
ばふっ!
という衝撃が思ったよりすぐに来た。地面と激突したにしては早い。あんまり高くない位置だったみたい。それでも、落下すればそれなりにアチコチをぶつけるわけで。
「いったぁ……」
ぶつけたおでこをさすりながら上体を起こし、膝とお尻を地面に着けて座り込むような体勢になる。
それにしても、やけに地面が柔らかいと思ったとき、嫌な声が聞こえてきた。
「あなたですか、マリー。まったく、寝ずの番が終わって、ようやく休んでいるというのに……どうやったら人の真上に降ってこれるんです?」
ばっと目を開けると、目の前にヴィクトルの顔があった。
なんでよっ!?
狼狽しつつも自分の状態を冷静に確認すると、信じたくない事実があった。よりにもよって、ベッドに寝そべるヴィクトル様の上に馬乗りになってるとか! なんっつートコに転移してくれてんのよアルフレド様!!
ヴィクトル様は本当に今の今まで寝ていたらしく、深い青色の目は眩しそうに半分だけ開かれ、長い髪も結われていなかった。乱れたシーツから覗く上半身には何も纏っておらず、細身なのに騎士らしくしっかりと筋肉がついているのがはっきりわかる。
なんっつーか……色気がダダ漏れで目の遣り場に困るんですけど。
ヴィクトル様が薄茶色の髪を掻き上げながら、ふぅと気怠げに溜め息をついた。
背中にぞくりとした何かが走り、息を飲む。
「で、申し開きは?」
「わ、わざとじゃないわよっ! アルフレド様に転移魔法で飛ばされたんです! もうっ、次に会ったらタダじゃおかないんだから」
「あなたじゃ返り討ちに遭うだけですよ。アルフレドの魔法は護衛要らずですから」
「そんなこと言われなくてもわかってるわよ! もうっ、アルフレド様ってば何だってこんな所に……え?」
我に返った私はヴィクトル様の上から退こうとベッドに手をつく。が、体重を右手に預けようと身体を傾けたところで右手首をぐいと掴まれた。重心がずれていた私の身体はアッサリとその力の流れに飲み込まれる。
──気付いたときには、私とヴィクトル様の身体が入れ替わり、私の上にヴィクトル様が乗っかっていた。
「ちょっ……何やってんのよ!?」
私の問いに、ヴィクトル様は涼しい顔で答える。
「護衛の仕事ですが? 主への攻撃を予告している人を野放しにはできませんのでね」
「あのね、自分の主の婚約者で隣国の王子様に対して本当にそんなことするわけないでしょ? いーから早く放して」
「お転婆なのも口が悪いのもただの貴族の女より面白味があって私としては好ましいですが、もう少し慎みを持ったらいかがです?」
「慎みを持ってるから退こうとしてんのよっ!」
「まったく……本当にかわいくないですね。本当に慎み深い淑女なら、男性とベッドの上にいるときくらい、恥じらうとか頬を染めるとかしてみせて欲しいものですが」
か、考えないようにしてたのにっ!
意識してしまうのと同時に、急激に頬に熱が溜まっていくのがわかる。ちょっと待ちなさい、アン=マリー・ヤーロース。こいつは天敵ヴィクトル・ニークヴィストよ? 冷静になるのよっ!
トントン、ガチャ
突然部屋の扉が開き、従者その2が入ってきた。
「おい、ヴィクトル。そろそろ起き…ろ……」
ガシャン
従者その2が、こちらを見た途端に持っていた剣を取り落とす。
「す、すまん。邪魔する気は、その、なくてだな……」
顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながら、慌てて剣を拾う。が、焦っているのか何度も掴み損ねてしまう。ようやく掴み上げると、従者その2はへらりと動揺を隠し切れていない笑みを浮かべ、入ってきたばかりの戸口へと身体だけを向けた。
「出てくよ、うん。その、気にせず続けてくれ。皆にも入室禁止って伝えておくから」
扉を開けずに出て行こうとしてゴツンと頭をぶつけ、ようやく部屋から出て行く。
私は、呆然とそれを見送った。
えっと……?
改めて、自分の状態を確認してみる。落下したせいか、侍女のお仕着せが乱れて胸元のリボンは解け、スカートが膝上まで捲れ上がって太腿が露わになっている。脚の間には上半身裸のヴィクトル様の身体があり、四つん這いで覆いかぶさるようにして私をベッドに縫い付けていた。
……マジか。
「ちょっと、どうしてくれるのよ? 完全に誤解されちゃったじゃない!」
「ですね」
「『ですね』じゃないわよ。醜聞にでもなったらどうしてくれるのよ?」
ヴィクトル様が黒く微笑む。
「どうしましょうね。慎み深い淑女のマリーさん?」
こういうときばっかり敬称つけるな、大ボケ野郎!
「うっさい! いい加減にそこから退かないと魔法で吹っ飛ばs……!?」
最後まで言う前に口を塞がれる。見開いた私の目に映ったのは、間近にあるヴィクトル様の顔。くっ、唇で……っ!!
顔を背けようとしても、いつの間にか頭の後ろに回されたヴィクトル様の手がそれを許さない。
何度も啄まれる内に息苦しくなり、空気を求めて口を僅かに開くと、空気と共に、より深いヴィクトル様の口付けが私の唇に重なった。
咥内を吸われ、舌が歯列をなぞり、完全に翻弄される。どちらのものかわからなくなる程に唾液が交じり、美酒にでも酔ったように身体がふわふわしてくる。な、なんかヤバい……。危機を覚える私の意識が白く濁り始める頃、ようやく解放された。
「そんな表情もできるんですね」
肩で息をする私を、何故か満足気に見下ろすヴィクトル様が、口の端から溢れた唾液を親指で拭い取り、ぺろりと舐める。
「あぁ、醜聞の件は安心してください。責任は取りますから」
「ふ…っざけんな──っ!!」
私の魔法がヴィクトル様に炸裂した。
不敬罪? 正当防衛でしょ。