追憶の中の少女
イグネイシャス視点でのお話です。
城の自室にあるソファーに腰掛け、手前のテーブルに足を組んで投げ出すイグネイシャス。彼は大きな見晴らしの良い窓に視線を向けている。窓から除く空には綿のように白く、柔らかそうな雲がゆらゆらと漂う。そんな風景を飽きることなく見続ける彼。
そんな彼の今の脳内は、ある少女のことで一杯であった。
イグネイシャスは、アルスの森の池で出会った少女を思い出す。
――彼女の肌は、白く柔らかかった。
彼は空に浮かぶ白く柔らかそうな雲をボーっと眺めながらそんなことを思う。
そういえば、少女の歳はいくつなのだろうか。今思えば、池の中で抱きしめたときの少女はかなり小さかった。俺の胸に頭が届くか届かないかくらいだった気がする。サイズ的に言うと12から14歳程度・・・いや、もっと下かもしれないが、どうも腑に落ちない。
俺がそう思うのも、あの事件があったが故。そう、身長の割に体がしっかり発育しているということだ。10歳を少し過ぎたくらいの歳の少女がどれくらい成長しているのかは知らないが、知っていたら逆に危ない。
あれは少々おかしい気がする。
というより、そこだけでなく全てが少女の場合おかしいのだが。存在自体があやふやだ。
何故あんな森の中、少女とそしてファイヤーウルフが共に行動していたのか。少女は何者で、何処から来たのか、何をしたいのか。分からないことだらけだ。
ちなみに、自分が何故そんなにも少女のことが知りたいのかも分からない。
と、ここでイグネイシャスは自嘲気味に笑った。
常日頃何にも無関心だった俺が、よもやここまで興味を示すとは、自分でも驚いている。特に女に関心が無かったというのに。
異性との関係が全く無かったという訳ではない。それなりのことは経験している。女の裸など何度見たことか。赤の大陸の覇者、赤竜王の第一王子という俺に媚びてくる女など吐いて捨てるほどいた。それは今も変わらずだが。俺はそんな醜い女たちをただ欲求を満たすだけに使っていた。来るもの拒まず、去るもの追わず。それこそが俺の心情だった。
俺は抱いた女の顔を覚えていた試しがない。抱いたその翌朝には誰だったか忘れている。それほど俺には興味のない存在なのだろう。
だが、今回はおかしい。おかしすぎる。
知り合いでなければ、抱いたわけでも無いのに、しっかりあの少女の存在は頭に鮮明に残っている。それだけでなく、この左手にすらあの感触が今でも残っているのには心底驚いている。
今まで触れたどの肌よりも滑らかで柔らかく、それでいて俺の手に吸い付くようだった。あれより大きな膨らみ、何度も触っているといのに、あれが一番気に入っている。
不思議だ。
そして少女から一瞬だが鼻に掠った香りも、醜い女どもとは違った。俺にその卑わいな肢体を擦り付けてくる連中は鼻がもげてしまうと思うほど、むせ返るような強い香水を体中に塗りたぐっている。
俺はあの匂いに嫌悪しか感じない。あの匂いを好む女も、その匂いをさせる女を好む男も、俺には理解できない。それに比べて、少女からした僅かな匂いは、森で感じる匂いと同じ。そよ風や草木、川の水。自然界の匂いで一杯だった。俺の落ち着く一番好きな匂い。
少女は自分自身が気づかぬ間に己の心の奥底に入り込んでいた。勿論、今の俺はまだ何も気づいていない。
考えていると、無償に会いたくなった。そう、会いたくなったのだ。
だから行った。再びあの森へ。
だが、少女の姿はそこには無かった。散々歩き回り、森を汲まなく探した。少女の魔力が強いことは分かっていた。そしてその魔力を森に感じなかった。それなのに、森を探さずにはおれなかった。
この時、俺は自分がどうかしていると思った。少女たった一人に何をムキになっているのか。己の阿呆加減に笑った。たかだが少女一人、別にそこまで会おうとする必要は無いだろう。
そう思い、森を出た俺は城に戻る途中、無償にイライラした。
何故こんなにも苛立っているのかは不明だった。
ただ依然、薄れぬ想いが胸の内にくすぶっているのにとても違和感を感じた。
あれに、会いたい。
気づいたら常にそのことが頭に浮かぶ。
「先程から気味が悪いです、殿下」
唐突に声が聞こえた。声のする方に視線を向けると、本当に気味が悪いものを見るようにその綺麗な顔を歪める側近、クラウスが立っていた。
「・・・相変わらず失礼なやつだな。部屋に入るときはノックくらいしろ」
イグネイシャスは渋面を作り机に頬杖をつく。
「何度もしましたが、一向に返事が無いので心配して入ってきてみたら、椅子にだらしなく座った殿下が不抜けた顔で明後日の方向を向いていたかと思うと、突然不機嫌になるという何とも奇妙なことが目前で繰り広げられ、気味が悪かったのです」
飄々と嫌味にも取れる言葉を羅列する側近に、イグネイシャスは眉間の皺を深め、溜息を零す。
「・・・で、要件はなんだ」
「はい、まだ詳細は掴めていませんが、どうやらアーノルドの部隊が襲撃を受けたようです」
イグネイシャスは視線を上げ、クラウスと目を合わせる。
「襲撃?アイツの第一部隊は確かサハル地方とトーガレ地方の境界を巡回する任務だったな。被害状況は?」
「負傷者が数名、新人の竜騎士兵が一人死亡とのことです」
その言葉に、イグネイシャスはピクリと眉を動かす。
「乗り手が死んだか、その新人の竜はどうした?」
「それはまだ分かりません」
「暴れたりしてくれなければいいのだがな・・・」
イグネイシャスの声は少しばかり重みを含んでいた。クラウスは一つ息を吐いて話しを続ける。
「そうですね、しかしそれは少々望み薄と思われます。まだ若い竜ですから気持ちのコントロールができないでしょう。まあ、アーノルドがいるのですから何とかするでしょう」
「そうだな、できれば仲間殺しなどという惨事が起こららなければいいが」
乗り手を失った竜は精神が不安定になる。それは経験の浅い竜ほど起こり得ることだ。竜が一度暴れだすと鎮めるのは極めて困難。大抵は手に負えず、殺さざるを得ない。
そうしなければ、被害が拡大し、死者が増えてしまうからだ。
「しかし、襲撃とは穏やかではないな。魔獣か?」
少し固い面持ちで訊ねると、クラウスはゆっくり首を左右に振る。
「それはまだ何も、報告待ちです」
「そうか」
一言そう答え、イグネイシャスは再び窓の外を見る。
そういえば、あの境界はアルスの森にも近い。少女は無事だろうか・・・。
未だ再開できぬ遠い存在をイグネイシャスは案じる。
・・・何だろう、イグネイシャスかなり変態、みたいになってしまった。