覗き魔は赤髪の青年 (sideイグネイシャス)
自然溢れるアルスの森に、俺は日頃の疲れを癒すためにやって来た。勿論、クラウスの奴には内緒だがな。アイツに、体休めに出歩いてくる。何て言ったら最後、気持ち悪いほど満面の笑みで部屋に監禁されてしまう。
だから今の俺は散歩と称した逃亡中である。
一つ、溜息をついたイグネイシャスは目を閉じ、森の音に耳を澄ます。
久しぶりに訪れたが、やはりここは落ち着く。魔獣はそこら中にいるが、人間等のように騒がしくないからな。聞こえるのは風に煽られ揺れる木々の音、水の流れる音、鳥の鳴き声。
自然と一体化し、心を満たしていたイグネイシャスの耳に、不穏な音が聞こえた。
「これは・・・魔獣の叫び声、と人間の声?」
イグネイシャスは急いで叫び声のする方へ向かう。向かった先には、一つ目の巨人がその瞳を抑え、悶えている姿と、それに銃を向ける人間の男。推測するに、人間の男は狩りへこの森に踏み入ったのだろう。別にこの森は立入禁止区域でも、狩りを禁止されているワケでもないが、自分のお気に入りの場所を荒らされるのはどうも許し難い。
しかし、己が手を降さなくともアレはもう生きては帰れまい。本来、一つ目の巨人、キュクロースは温厚で争いごとを好まない。だが、怒り狂った彼らは容赦なく襲いかかってくる。あの人間はキュクロースを完全に怒らせた。アレがかなりの腕前なら生き長らえるだろうが、俺から見てもアレの力量はたかが知れている。一般人に毛が生えた程度では無理だろうな。
そして、イグネイシャスの予想通り暴れだしたキュクロースの大きな掌にグシャリと潰された人間は、あっけなく死んだ。見るも無残な姿だ。人の形を成していない。人間の血の匂いが、鼻に染み付く。
最悪だな。せっかく体を休めに来たというのに、こんな血生臭いもの見せられてしまうとは。龍である俺は鼻も利くが故、人間が感じるよりも血の匂いがより一層濃く鼻に残る。
不快感に早くその場を去ろうと踵を返したイグネイシャスだったが、怒りが収まらないキュクロースは彼に気づき、襲いかかってくる。本来、赤龍であるイグネイシャスに襲いかかってくるなどと無謀な行動を魔獣は起こしたりしないのだが、キュクロースはそれすら頭から飛んでしまうほど怒り狂っている。
「――ちッ」
舌打ちしたイグネイシャスはとりあえず開けた場所へ走った。別に今ここで仕留めることも出来るが、それではこの森が燃えてしまう。開けた場所で、できれば水があるところを目指してイグネイシャスは森を進んだ。
走っていると、水の匂いがした。そこへ行こうと走るイグネイシャスの鼻は何やらもう一つ、不思議な匂いを感じた。
人間・・・だろうか。いや、人間にしては少し違った匂い。今までに嗅いだことのない匂いだ。それに何だ?この強大な魔力は・・・。
人間のような気配の強大な魔力を持つ何か・・・怪しいな。確かめておく必要があるだろう。
だが、とりあえずこの巨人を何とかせねば。
追いかけてくるキュクロースをチラリと振り返り、目の前の茂みに体を潜らす。葉を掻き分け、出た先には開けた場所と池。そして――
・・・・・・裸の女?
イグネイシャスは、予想外の光景に体が対応できず、ピタリと停止。
俺は瞬きすら忘れていた。いや、出来なかった。俺はあろうことか、女に魅入ってしまったのだ。
池から上半身を出した彼女の透き通る白肌、まるで美しい夜空のような漆黒の瞳と髪。そのどれもが俺の目を釘付けにした。
こんな人間、初めて見た。この世のものとは思えない。
俺が呆気にとられていると、あちらも目をパチクリとさせ、こちらを凝視。その漆黒の瞳に見つめられ、俺の胸に何か・・・そう、何かがひかかった。
未だ動けずにいる俺は彼女の悲鳴で、覚醒した。
「いやあああああああああああーーーーーーー!!!!!?」
「わ、悪いッ!まさかこんなところに女がいるなんて思っていなかったんだッ」
顔を背け、なるべく見ないよう配慮し、俺は女に近づいた。だが、女は俺が近寄ってきたことに驚き罵声を飛ばす。
「く、来るなぁーー!変態ッ」
「へ、変態ッ!?違う、俺は――」
変態とは、生まれて初めて言われた。少し、傷ついた。しかし、彼女をこのままにしておく訳にはいかない。もうそこまでキュクロースが来ているのだ。早く彼女を保護しなくては。だが、彼女はそんなこと露知らず、お構いなしに水をぶっかけてくる。
この時、彼女の水かけ攻撃を受けつつ、攻撃方法が可愛いなどと思ってしまったのは、必死な彼女に失礼だったであろう。
「うるさいうるさいッこっち来るなッ!」
水の勢いは衰えず、それどころかどんどん増していった。可愛い攻撃は勿論俺に何のダメージも与えないが、こうも拒絶されてはどうにも埒があかない。
「し、しかしだな、このままでは・・・ちッ」
ダメだ、もう来てしまった。
意を決した俺は、今までゆっくりだった歩調を速め、ほぼダッシュで彼女に飛びかかる。
「なッ――」
驚愕の表情で固まる彼女を抱きかかえ、己も池へ飛び込む。顔を上げようとする彼女の頭を上から抑えて叫ぶ。
「伏せろッ!」
そう言って、池の中に体を沈めた直後、水面を掠めるようにキュクロースの大きな手が薙ぎ払われた。俺は抱きかかえた彼女と共に、水面へ顔を出す。
「けほッこほッ・・・な、何アレ・・・」
腕の中で咳き込む彼女に苦しい思いをさせてしまったことに気がついた俺は、申し訳ない思いに駆られた。
「大丈夫か?」
「え、ええ」
俺がそう尋ねると、彼女は呆けた顔で答える。状況把握が出来ていないのだろう、彼女の目は虚ろだ。しかし、とりあえず体に異常は無さそうなので安心した。
「ここで大人しくしていろ。俺がアイツを――」
仕留めてくると言いかけたその時、茂みが揺れた。新手か?くそッ、厄介だな。
そう悪態を吐く俺の腕の中の彼女も、揺れる茂みにビクりと震える。
これは早々に片付けねば。と思った俺の腕の中からは、先程とは打って変わって歓喜の声が上がった。
「狼さんッ!」
そう叫ぶ彼女の視線の先には、体を紅蓮の炎で覆う狼、ファイヤーウルフがいた。ファイヤーウルフは高く跳躍し、キュクロースの肩口に噛み付いた。噛み付いた処から炎が燃え広がり、瞬く間にキュクロースの体は炭と化した。軽やかに着地するファイヤーウルフを見て、俺は驚かずにはいられなかった。
「ファイヤーウルフ・・・だと?あれが姿を現すはずが・・・」
そう、あれは今や絶滅危惧種と言われるほど生存数が少ない。さらに彼らはとても警戒心が強く、凶暴だ。その鋭く尖った牙と強靭な顎はどんなものだろうと噛み砕く。そして大きな体躯を覆う紅蓮の炎は全てを焼き焦がす。
そんな凶暴魔獣が何故この場に現れた?疑問だらけの俺の頭の中は混乱していた。そう、混乱していたのだ。だから、つい、つい・・・身体・・・いや、手に力が入った。
――むにっと、とても気持ちのいい感触が俺の左掌に伝わった。俺は一瞬フリーズしたが、これはヤバイとすぐに謝罪を、しようとした。
「あ・・・すま――っぐぅ!!?」
が、する間もなく左頬に凄まじい衝撃が走った。
「ふざけんじゃないわよッ――!!!」
耳の鼓膜が破れるんじゃないかと思うほど大きな声で俺を罵る彼女は、俺の腕からすり抜け、逃げた。いや、逃げるのは構わないが、何故そちらに逃げるっ!?死にたいのかっ!!
あろうことか、彼女は一目散にファイヤーウルフの方へ向かって走っていった。俺はその瞬間血の気が引いた。
「お、おいッ!そっちは危険・・・!?」
「おおかみさーーんッ!!」
そう叫んで、彼女はファイヤーウルフに抱きついた。俺は、空いた口が塞がらないというヤツを初体験した。
抱きついただとっ!羨まし――じゃなく、そんな馬鹿な・・・しかもファイヤーウルフから彼女に顔をすり寄せているっ!?一体どうなっているんだ・・・
呆気にとられていると、ファイヤーウルフは彼女を自分の背に乗せ、地面に置いてあった彼女の服であろう布の塊を咥える。
去る瞬間、俺をしっかり睨んでファイヤーウルフは踵を返して森へと消えた。
正気で俺を睨めるとは、大した奴だ。俺はにやりと口角を上げた。しかし、あの女は一体・・・
そう思案し始めた俺の耳に聞きなれた、いや、聞き飽きた声が近づいてきた。
「イグネイシャス様ッ!ご無事で・・・」
茂みを掻き分け、現れた側近であるクラウスに俺は視線を向けた。
「大事無い」
そう口にして、俺が池から出るとクラウスの目が呆れを滲ませていた。
「何が大事無いですか。びしょ濡れではありませぬか・・・」
「こんなもの、どうということはない。すぐに乾かせる」
「それは、貴方様なら一瞬で乾かせることでしょうな。赤の大陸の王子、赤龍である貴方様なら」
クラウスの口調に、刺があった。理由は、聞かずとも分かっているがコイツのこういうあからさまに態度に出すところに少し苛立ちを感じ、彼を睨みつけた。
「何だ、嫌みたらしいな」
「お好きな解釈でよろしいです。しかし、書類の山は今も溜まり続けていることを忘れないで頂きたい」
彼は鼻で息をつき、満面の笑みをこちらに向ける。
「くそ・・・せっかく体を休めに来たというのにすぐに連れ戻されるとは」
コイツには俺に対して恐れというものが無い為、睨んでもこの様だ。逆に、俺はアイツの笑が苦手でしょうがない。見ろ、全身に鳥肌が立った。
「2日も放浪しておいて何を言いますか、十分お休みになられたことでしょう。まあ、こんな魔獣の蔓延る森でお休みになる貴方様の神経が私には理解し難いのですけど」
全く、王子である俺にここまでズケズケ物申すのはコイツくらいだろうよ。まあ、幼馴染ではこれが当たり前か。いや、コイツは失礼なことをポロポロ落としすぎな気もするが・・・。
俺は何故か疲労感を感じ、溜息を零した。
「・・・分かった。戻れば良いのだろう」
クラウスの方へ歩を進めた俺は、一旦足を止めファイヤーウルフと黒髪の少女が去って行った茂みに視線を向けた。
結局、あの女が何者なのか分からなかった。探しに行くこともできるが、今はあのファイヤーウルフも警戒しているだろうし、彼女を怖がらせてしまう可能性の方が高い。日を改めることにしよう。
「イグネイシャス様?どうしたのです、城へ戻りますよ」
「あ、ああ・・・」
動かない俺を怪訝な表情で見つめるクラウスが声をかける。我に返った俺は名残惜しさを感じつつも、池を後にした。
この時、俺は謎の少女の正体を暴く目的より、ただ彼女に会いたいという気持ちが大きかった。
会って、話したい。彼女の声が、まだ耳に残っている。何故か彼女の声は好きだった。
そして何より、触れたい。
白く柔らかいその肌に、美しく艶のある漆黒のその髪に・・・