幸福の在処
※『私の命の使い方』『王太子様は語る』を読まないと意味が分かりません。
ドンッ、とそれが置かれた途端、
机の上に置いてあった物が跳ねたのはきっと気のせいではない。
夥しい書類に呆然とする俺に愛息は微笑みかける。
何も知らない者から見れば、天使のようだと思うだろう。
だがこれからかけられる台詞が分かっている俺には悪魔の角が見える。
顔は俺そっくりなのに、笑うとエミルによく似てるな。
などと現実逃避に走る俺にハリスは告げる。
「頑張ってくださいね、父上」
「……四日にしては」
「頑 張 っ て く だ さ い ね」
多すぎないか、と聞く事さえ許してくれないらしい。
笑顔だが黒い物を感じるのは何故だろう。
一切、有無を言わせないハリス。すごすご引き下がるしかなかった。
訂正する。悪魔じゃない。魔王だ、でもかわいい。
我ながら親馬鹿だと思うが仕方あるまい。実際可愛いのだから。
ハリスの母であり、俺の唯一の妻とは政略結婚だった。
彼女はエミル。四才年上で少し……いや、かなり抜けている。
何と言えばいいのか、聡明なのにひどく鈍感だ。
例えるなら十数年想われ続け、子供を6人も孕まされたにも関わらず、
夫には別に好きな女がいると勘違いするほど。ちなみにノンフィクションだ。
思いの丈が伝わっていないのはショックだったが可愛いので許す。
つい最近、というか昨日ようやくその誤解が晴れたのだ。
今日は存分いちゃつく予定が、
朝から大魔王スマイルのハリスから執務室へ監禁コース。
どうしてこうなった。いや原因はわかっている。
数日間、仕事を投げていた俺が悪いのだ。
この間の式典でエミルは暴漢から俺を庇い、
生死を彷徨う重症を負っていた。
すぐさま回復魔法をかけたにも関わらず、
エミルは一向に目覚めず。
居ても立っても居られず俺はずっと彼女に付き添っていた。
……執務を全部放り出して。大臣やハリスには迷惑をかけた。
でもエミルは俺の命だ。何にも変えられない。唯一の人。
どんなに止められたとしても俺は彼女に付きまとっていただろう。
それがわかっていたからか、誰も止めようとしなかった。
現在しっかり利息付きでツケは払わされている訳だが。
「期待するだけ無駄ですよ」
ちらっと視線を向けただけで、ハリスは一蹴。
何も言ってない。だが見透かされているのはよくわかった。
手伝いも手加減も望めないらしい。
このしっかり者具合はいったい誰に似たんだろうか。
大臣やら臣下ならば、さらっとあしらえる。
だが我が子だというのにハリスには逆らえない。
髪にも瞳にもエミルの面影があるから。ああくそう可愛い。
「わかったら、きっちり手を動かしてくださいね」
エミルと同じ笑みで脅され、俺はしぶしぶ書類に手を付けるのだった。
父にとって俺は国を保つ為の道具で、
母にとって俺は王妃である為の存在で、
二人とも俺を顧みる事はなかった。
それはきっと王族として当たり前の事。
理解はしていても、寂しさは消えなかった。
無駄だと知り得ながらも望み、幾度も破れては勝手に傷ついて。
いつからだっただろう。己の心が口に出せなくなったのは。
期待する事に臆病になった、その末路にいつしか辿りついてしまった。
諦めを覚えきった頃に父からエミルの話をされた。
お前の妻になる女なのだから仲良くしろ、と。
政略結婚とは強欲な父らしい、そう他人事のように思っていた。
どんな女でも関係無い。子を産ませれば、それまで。
だから何も望む気なんてなかったんだ。でも。
『陛下』
エミルはいつも笑っていた。
むすりと俺がしかめっ面をしていても必ず。
どんなに素気なくしても去らずに。
『よく頑張りましたね』
認められたくて成果を上げた時は、絶対に頭を撫でて褒めてくれた。
優しい笑みで、慈しむような眼差しで、愛しげに触れる。
欲しかったものは全てエミルが。
『大好きですよ…… 』
彼女に名を呼ばれるだけで心が震えた。
それは止まっていたはず。ころ、と留めた何かが零れる。
凍てついた心が溶け始めて、ようやく俺は愛を知った。
彼女が俺に教えてくれたのだ。
愛を得る喜びを、与えられる幸福を。
(……エミル)
俺の唯一、何にも変えられぬ、愛しい、大切な。
お前がいないと、俺は。
懐かしい感触にゆるりと瞼を開く。
頭を行き来するやわらかなそれはひどく心地良かった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
俺が起きたのに気付いて手が離れる。
少し名残惜しいが、口に出すのは恥ずかしかった。
「陛下」
「……もう、夕方か」
「ええ。たくさんお仕事片付けたそうですね」
ハリスから聞きました、と。
どうにか片付け終わった書類を運んでいったのか、
その姿はない。居るのはエミルだけだ。
「……全部、終わらせたぞ。四日分プラスアルファ……」
終わらせて当然だが、敢えて口にする。
俺の期待に添えるように、再び頭を撫でてくれた。
甘える俺にエミルは嫌な顔一つせず。
「頑張りましたね、陛下」
「エミル」
「どうしましたか?」
「……お前に出会えて、幸せだ」
もっとたくさん言いたい事があったのに。
俺が言えたのはそれ一つ。それも唐突すぎる。
でもエミルは俺の一番大好きな笑顔で。
「私もです……ハルバード」
俺が最も望む、答えをくれた。
ハルバードにとってのそれはエミル達の居る場所