(上)
■
僕が田中と出会ったのは、十年前、小学校に入学した日のことだった。
恥ずかしながら初恋だったんだと思う。
そのときの恋心を未だに保ち続ける僕は、ひょっとしたらとんでもなく純情というか、単純な男なのかもしれないけれど、その恋心は茨のように僕を縛り上げ、以来十年間、僕という存在を苛んでいる。
ぼんやりと手元の包丁を見つめながら、そんなくだらないことを、ふと思った。
とか。
「さとう、おひるごはんは、まだですか?」
舌っ足らずに、田中がぐいと僕のTシャツを引っ張る。
「……もうすぐできるから、服を引っ張るのはやめなさい。包丁持ってるから。危ない」
「あぅ。はいです」
その小さな手を離す。本当に小さな、手。
手だけではなく、足も、顔も、背丈も、全部が小さく。
にへら、と崩す相貌も、僕と同じ年に生まれたとは思えないほど――幼い。
田中は六歳の姿のまま、十年間まったく成長していない。
■
小さな手と小さな口を一生懸命動かして、田中は炒飯を咀嚼する。
小動物じみていて非常に可愛いのだけれど、恋愛対象としてみるには、やっぱり幼すぎる。
恋愛感情に年齢は関係ないというのは、もちろん正論ではあるのだろうけれど、それはやっぱり、お互いにある程度以上の年齢であることが前提なのだ。
具体的には十歳くらい。田中は肉体年齢的に四年足りない。あとバストサイズがF欲しい。F。いいよね、F。男のロマン。
「あぅ。さとうー、ちゃーはんこぼれました」
ちゃぶ台の一角に、ぽろぽろと炒飯が散らばっている。
口のまわりにもぺたぺたと米粒とチャーシューがくっついている。
六歳のまま成長しないためか、田中は十年間ずっとこの調子である。とにかく、ものをよく落とす。
「ほら、拭いてあげるからこっち向いて」
「ぶう。ひつようないです。ひとりでできるもん」
「いいからこっち向きなさい」
「そんなにようじょのくちにさわりたいですか、このろりこんやろう」
「うるせえキスすんぞ」
布巾でなかば強引に拭う。
むぅむぅ唸りながら逃れようとするけれど、六歳児の膂力に負けるほどもやしではない。
「ほら、ちゃっちゃと食べなさい。お昼寝の時間短くなるよ」
「ふぇえ……。さとうのおに、あくま」
また、むぐむぐと口を動かす。非常に可愛らしい。
■
夏が近い。
タオルケットを抱きしめるようにして眠る田中の額にも、薄っすらと汗が滲んでいる。
熱気の篭るボロアパートは六歳児には酷だろう。今年は特に猛暑だというのに、扇風機がご臨終してしまった。
本格的にエアコンの導入を考えなければいけない。
「……金策するか」
金策といっても大したことはできない。
所詮、僕は十六歳のフリーターにすぎないのだ。
家賃と食費でいっぱいいっぱいである。
田中に書置きを残し、アパートを出る。
僕が帰るまでに起きるとは思えないけれど、一応念のため。
「……あっつ」
日差しが直接、肌を焼く。
――田中が未来を失ったのも、こんな暑い日だった。
■
正確にいうのであれば、失ったのではなく『奪われた』のであり、奪われたのは『未来』ではなく『七歳の田中』だ。
ゆえに田中は、七歳になれず――七歳になれないがために、八歳にもなれない。
成長できないという制約を持ち、六歳の脳を持ったまま十年を過ごしてしまった幼女――当然ながらまともな精神をしているわけがない。
同時に、そんな田中と十年間付き合い続けている僕も、おそらくまともではない。
そう、この僕にかかれば金策なんて簡単なことなのだ(暗黒微笑)
「お金をください!!!!!!!!!!!」
叫びながら、手は体の横、上半身を九十度曲げ、頭を下げる。
「うっせえ黙れ」
望月さんは不機嫌そうに、僕の懇願をスルーした。
「(お金をください)」
「こいつ直接脳内に……!」
ネタはきっちり拾ってくれるので、そういうところは望月さん相変わらずだ。
「というか、お前フリーターだろ。なんでバイトしてないんだよ。ただの無職じゃんか」
「やだなあ望月さん、頼めばお金をくれる人がいるのにどうして働かなきゃいけないんですか」
「よーしてめえちょっと表に出ろ」
などといいつつ、最終的にお金をくれる望月さんはたぶんツンデレだ。
「つーか、なんでてめえは望月『さん』なんて馴れ馴れしく呼んでんだよ。望月先生と呼べ」
「もう先生じゃないじゃないですか」
「教職を退こうが免許剥奪されようが、私はお前らの先生なんだよ。ずっとな」
そう。望月さん、望月先生は教師だった。小学校の。元教師だけれど。
十年前、僕と田中と――アイツを受け持っていた、小学校教諭だ。
その潤沢な資金で僕と田中を援助してくれている素敵な財布である。
「……で、用途は? お前らの面倒を見るくらいならまだなんとかなるが、無駄遣いするほど余裕はないぞ」
「扇風機が壊れまして、せっかくなのでエアコンをと。田中、毎年夏苦しそうなんですよね」
「そういうことは早く言え、阿呆。熱中症舐めんなよ」
「すいません。その、最近忙しくてですね」
「無職だろうが、なにが忙しいって――ああ、そうか。夏だもんな。アイツが来るのか」
「はい。今年こそは――」
今年こそは、奪い返してみせる。
■
『なあなあ、たなか、さとう! またあたらしいあそびをおもいついたんだ!』
それは、酷く懐かしくて甘い記憶。
『またですか、よしだくん。わたし、きょうはとしょしつにいきたいのですが』
今の私となにも変わっていないように見える、六歳の私。
『いいじゃん、たなか。よしだのげーむ、おもしろいじゃん』
今の彼とはなにもかもが違う、活発そうな少年。
『ほら、やろうぜ! きいておどろけ、おれのかんがえたあたらしいげーむ、そのなも――』
そして、遊び好きで短絡的で壊滅的な、私たちの親友にして――全ての元凶。
『――【ゆうしゃとまおうげーむ】だ!』
いけない。それ以上は、いけない。
ゲームを始めてはいけない。やめてくれ、そのゲームだけは。
それは奪うゲームだ。
やめろ、やめてくれ、たのむ、おねがいだからやめて、おねがい、それだけはやめてやめてやめてやめてうばわないでわたしをうばわないで、わたしのらいねんをうばわないで――
そこで目が覚めた。
「……ふぇえ。あっついよぅ……」
この体にこの暑さは、堪える。
■
帰宅すると、田中がひとり真剣な面持ちでマッチ棒を垂直に立てていた。
それはもう、軽く引くくらい集中しながら。
ちゃぶ台の上には等間隔に六本のマッチ棒が立っており、田中が挑戦しているのは七本目であるようだ。
「……あの、田中? なにやってんの?」
「はなしかけないでください。きがちります」
マッチ棒>僕らしい。
「まあいいけどさ……。あ、そうそう、来週にはエアコン設置できるから、それまでもうちょい我慢して」
「……えあこんですか。えあこんといえば、さとう。えあこんはたびたび『くーらー』とこしょうされますが、おうおうにして『ひーたー』とはよばれませんよね」
「ん? うん、まあ、そうだね。冬なのについつい『クーラーつけよ』とか言っちゃったり」
「つまり、えあこんのやくわりは『くーらー』のほうがいんしょうがつよい、ということにほかなりません」
田中は八本目のマッチ棒に取り掛かりつつ、やけに熱っぽい口調で言葉を続ける。
「いんしょうがつよいということは、すなわちだんぼうよりもれいぼうのほうが『ゆうよう』だとおもわれているということです。えあこんのおもなやくわりは『くーらー』であると」
「なるほど。つまり田中はこう言いたいのかな。『暑気が寒気よりも耐え難いがために、エアコンはクーラーと呼称される』って」
「あるいは、たんじゅんにべつのでんききぐとして『ひーたー』がそんざいするからかもしれません。ごっちゃになるとか」
「……ふうん。で、その話がいったいどうしたの」
「どうもしませんよ」
田中は等間隔に並んだ八本のマッチ棒を、爪先ではじいて全て倒した。
「ただ、あついなあとおもっただけです」
「……確かに、この温度は嫌になるな」
今でこの暑さなら、夏はどれだけ暑くなるのだろうか。
「まあ、来週までの辛抱だ」
「来週……遠いですね」
田中はまた、マッチ棒を最初から立てはじめた。
よく飽きないものだ。さすが六歳児。
■
『ゲームには、賭けるものが不可欠だ』
とは、魔王の言葉。やつは続けてこう言った。
『つまり、俺からなにかを取り返したいのなら――佐藤、田中。お前らはそれ相応のなにかを賭けなきゃいけない』
アイツが――吉田が、僕らの前に再び姿を現したのは七年前の夏。
吉田は、えらく理知的で大人びた様子で僕にルールを語って聞かせた。
『金には金を。力には力を。そして――時間には時間を、賭けなきゃいけない』
『……未来の一年を賭けてお前に勝てば、七歳の田中を取り戻せるってことか』
『まようひつようもありません。ちょうせんします、よしだ。わたしのみらいをかえしてもらいます』
ひとりだけ、六歳児のままの田中が吉田に挑戦状を叩きつけた。
けれど、吉田は困ったように頬をかいて――すまん、と頭を下げた。
『賭けるもののない人間は、ゲームを行えないんだ。だから田中、お前は俺と戦えない。未来のないお前じゃ、挑戦権がないんだ』
『……それ、じゃあ』
『ああ。だから――佐藤。お前が俺に挑め。そうすれば、田中は救われる』
申し訳なさそうに、ともすれば泣きそうな表情で、吉田は僕に向き直った。
『お前が勇者をやれ。俺を倒してくれ。頼む』
『……任せとけ。僕はいつでも、お前らの味方だ』
そして――そして、僕は負けた。
僕はその年、二十八歳から三十七歳までの十年間を失った。
■
そういうわけで、我が家にエアコンが来た。
型は古いけれど、機能さえ果たせば問題はない。
ぶおおん、と少々やかましく室外機が唸った。
「……さすが、空調機さまの威力は絶大だな。熱中症のほうから逃げていくぜ」
「ふむ。それはそうですが、さとう。あせだくではだぎのすけたわたしのえろてぃっくぼでぃをみれなくなるからといって、せいよくをもてあましてわたしをおそうようなことはないようにしてくださいね」
「お前の体に性的興奮を覚えれたら、そいつは本物の変態だよ」
ロリコンを通り越してペドフィリアだ。
そもそも、恋愛補正が入った僕ですらまったく興奮できない六歳児ボディをどうしてエロティックなどと形容することができるのだろうか。
いや、できない。できないはずなのだ。通常ならば。
これはもう、田中はそういう商売の方々に土下座してすいませんでしたと謝するべきだろう。
いや、しかし普通にグラビアアイドルやAV女優さんたちに謝ったとしても、彼女らがエロティックボディを保持しているのは彼女たちの持って生まれた性質と、生まれてこなした努力の結果なのだ。
そう考えるならば、田中が謝るべきは彼女らだけでなく両親――祖先、そしてその体を作り上げてきた料理たち、その料理のもととなる食材たち。
肉や野菜、果実、そういったものを育てた人たちにも田中は頭を下げなければいけないし、視線を広く持てば地球がなければAV女優もグラビアアイドルも生まれなかったのである。
そう、田中は世界に対して謝罪すべきなのだ。
「というわけで、全世界に対して土下座しろ!」
「なんでいきなりぜんせかいなのですかっ!?」
「もしくは全宇宙」
「どうやったらわたしのからだからうちゅうまでわだいがとんでいくんですっ!」
きゃんきゃんうるさい幼女だ。さっさと成長してFカップになればいいのに。
■
なぜバイトをやめたのか、とか。
そういう繊細な話題に触れるのはやめていただきたいものである。
「せんさいなわだいって……さとう、あなたたしか、ばいとりーだーにせくはらして」
「黙れ田中」
「やっぱりそういうあれだったのか、佐藤。いきなりバイトやめたと思ったら」
「黙れ望月」
「先生に向かって黙れとはいい度胸だなオイ」
というか、なんで望月先生がここにいるの。僕と田中の楽園に土足で踏み入るとはいい度胸だ。ふと思ったけれど、『度胸』って単語なんだかえろくないですか。
『度』という文字には『ぐあい』『ていど』といった意味があることを考慮すると、『度胸』とはつまりパイカップのことなのだ。
そう、度胸があるということはすなわち、お胸が大きいということに他ならない。
そして望月先生が言った『いい度胸』とは『ナイスおっぱい』という意味なのだ。
男に対して『ナイスおっぱい』などという望月先生。まさか、この人――
「――望月先生、あなたホモですか」
「佐藤、お前は読経でもして精神を鍛えなおせ。もしくは死ね」
読経と度胸。同音異義語だ。
くそう、望月先生のくせに……一本とられた。
「田中、座布団一枚」
「はい、わかりました。えいやっ」
田中は可愛く掛け声を上げて、僕の頭を座布団でぶん殴った。
冷静な判断ですね。
■
適当にあしらって、望月先生を追い返す。どうやらエアコンと田中の調子を見に来ただけらしいので、あっさり帰った。
なんだかんだ、いい人である。僕ら三人があんな問題さえ起こさなければ、決して教職を追われることはなかったはずなのに。僕ら三人を恨んでも仕方がないくらいの被害者なのに、望月先生はいつまでも僕らの先生であってくれるのだ。
それは嬉しいことであり、同時にとても悲しいことである。僕ら三人の遊びが、望月先生の未来と生きがいを食いつぶしたのだ。
幸い――と、僕が言っていい立場ではないけれど――望月先生はお金持ちの家系なので、生きるに困ることはないようだ。
夕飯を食って、風呂に入って、布団に寝そべる。寝ている間もエアコンを付けっぱなしにするのは、小市民である僕としては金銭的な面でイヤなのだけれど、今夜は暑い。田中のことを考えると仕方がない。
そういう言い訳を用意しておくと、良心の呵責が少なくていい。ごめんね地球ちゃん。
――至極真面目な、酷く真面目な話をするならば、僕がバイトをやめたのは単純な理由で、純粋に働くことができなくなったからだ。
それを田中と望月先生に言う必要は、ない。
『ストイックだねえ』
ぼんやりとした意識の中で、あいつの声が聞こえた。
『大事な人たちにはそういう大切なことを言っておくべきだと、魔王の身ながら心配しちゃうぜ』
なんだ、吉田か。夢の中にまで出てくるとは暇なやつめ。
黒い空間、僕の視界の中央に、胡坐をかいた吉田が座っている。
去年よりも疲れた顔をしている。
『なあ、佐藤。今年で最後だ。この意味わかってるよな』
……。
僕は無言で返した。こんな夢、さっさと覚めてしまえばいいのに。
『お前は毎年俺に挑んで、毎年俺はお前を潰した。見ろよ、これ』
ずらり、と吉田の背後に大きなガラス管のようなものがいくつも浮かびあがった。
それらの中には、様々な年齢の男が浮かんでいる。
そいつらはみんな一様にそっくりで、そいつらはまるで誰かのアルバムを見ているかのように、年齢順に並んでいて。
それはつまり、僕だった。
十八歳から三十八歳までの、二十一年間の未来の僕だ。
『不文律だ、佐藤。もう一度言うぜ。今年で、最後だ。それを踏まえて、ちゃんと話は通しておけよ』
言って、吉田は少し悲しそうな顔をした。
『突然の離別……予測し得ない離別ってのは、そうとう悲しいものなんだぜ』
……。
まあ、覚えておくよ。魔王。
■
魔王って、なんなのだろう。
玉座でえらそうにふんぞり返って「ぐわははははは我が名は魔王」とでも叫べばいいのだろうか。
ううむ。
勇者の定義は簡単だ。魔王を倒す、あるいはそれに準じる行為を行う者。世界を救う英雄。
対して魔王は?
魔王は世界を滅ぼしたり征服したりしようとしているわけだけれど、その理由は?
少なくとも俺は世界を滅ぼそうなんて大それたことを企んじゃいないし、征服したいとも思っていない。強いて言うなら制服着た女の子とセックスしたい。
あくまで魔王という概念なので、俺は学校に行っていないのである。
あれだ。セックスしたい。概念魔王として非存在的に存在する身の上ではあるけれど、精神としては十六歳の健全な男の子なのだ。
つまるところ、俺は童貞である。
魔王になったから調子に乗ってサキュバスとか呼び出してみたけれど、概念魔王と概念サキュバスは両方とも実体がないのでセックスできなかった。そういやサキュバスって夢の中に出てくる淫魔だった。
そういうわけで俺は未だに童貞なのだ。実体があればとっくに童貞を捨てている違いない。
同い年で実体があるなのに童貞を捨てれていない佐藤とは違うのだ!
『うん、それわざわざ二日連続で僕の夢枕に立ってまで言うことかな』
『なんでだよ、大切なことだろ』
『こんなこと言うとあれだけれど、僕あれだからね。想い人と同棲しているからね』
よく考えるとそうだった。
『まあね、僕もね。あれだよ、田中の身体のサイズがあと三年大きければ普通に童貞を捨てているだろうね』
『あと三年経っても田中九歳じゃねえかロリコン野郎』
『ロリコンじゃないよ! 僕ロリコンじゃないよ! 三年あれば田中もFカップになるよ!』
ならねえよ。
『いいや、なるね! 僕が毎日欠かさず食事に大豆とキャベツを出しているからね!』
『そうか。お前最低だな』
これはあれか、佐藤の田中に対する愛情と、六歳児に興奮してはいけないというギリギリの自制心が生み出した趣味嗜好か。
六歳児はダメだけれど、九歳児ならセーフという謎理論。
なるほど。馬鹿じゃねえの。
■
「あの、さとう? だいじょうぶですか? なんだかずいぶんうなされていたようですが」
ゆさゆさと揺さぶられて目が覚める。
「さとう? ねごとでえふかっぷをれんこしていましたけれど、だいじょうぶですか?」
「……ああ、ごめん。だいじょう――」
「さんねんでえふかっぷにするために、だいずときゃべつがどうとかいっていましたけれど」
すいません、大丈夫じゃないです。
よくよく見てみれば、田中は顔を赤らめながらにやにや笑みを浮かべている。
「……えと、田中……さん?」
「……わたしは、べつにあなたのこのみにかんしてどうこういうつもりはありませんが」
声が凄く上機嫌だ。
「はい」
「……というか、わたしはあなたにならばおしたおされても――その、かまわないというか、あの、そういうかんじょうをいだいていないわけではなかったのですけども、そうですか、あなたがいつまでたってもこうどうしなかったのは、ばすとさいずのもんだいでしたか」
「……あの、そういうことでもないんですけれど」
田中は真っ赤な顔でそっぽを向いた。
ちらりちらりと横目でこちらを確認しながら、小さな声で呟き始める。
「さとうは……おっぱいのちいさいおんなのこは、きらいなんですよね。いまのわたしのことなんかだいきらいでもうどうでもよいと」
「嫌いじゃないよ! 全然嫌いじゃないよ! むしろ大好きだね! 愛しているといっても過言ではないよ!」
速攻でフォローに回る僕。空気を読むことには自信がある。
「むしろおっぱいは小さくないとおっぱいではないくらい僕は貧乳が好きだ! 結婚するなら貧乳六歳児、これしかないね!」
「そこまでだんげんされると、それはそれでひじょうにきもちわるいですね」
「あれっ!?」
赤面していたはずの田中が、ドン引きしながら僕から遠ざかった。
「あの、はんけいじゅうめーとるいないにはちかづかないでください」
「あれっ、おかしいな、僕フォローしたはずなのに」
「いまのはふぉろーではなく、はじのうわぬりです。きづけばーか」
言って、田中はもそもそとタオルケットに包まった。
顔までくるんでしまって窒息しないかと心配になったし、今タオルケットを取り上げたら素晴らしくいい表情の田中を見れる気がしたけれど――
――空気を読める僕は、そういうことはしないのだ。
■
金銭的な援助しかできない歯がゆさというのは、この十年間ずっと持ち続けている。
そしていま、その金銭的な援助も限界を迎えようとしていた。
親の残した遺産に手をつける気にならず、ずっと置いておいたのが幸いし二人を養うことができたものの、十年という月日は馬鹿にできない。
佐藤がバイトをやめたこの半年間で、急激に消費が加速した。
「……心当たり、ですか?」
「ええ。佐藤くんがバイトをやめた理由を知りませんか?」
書店のバイト女性に話を聞いてみることにした。
佐藤は――面と向かって言うのは癪だが――それなりに、真面目な男である。
礼儀正しく、頭もよく、好きになった女性のために十年間を棒に振ったとしている愚かで優しい男なのだ。
その佐藤がセクハラでバイトをやめたとは、到底思えない。
「……いえ、心当たりは特にありませんね。私個人としてはあんまりやめて欲しくなかったんですけれど」
「というと?」
「勤務態度も真面目だったし、仕事ないときも手伝ってくれたりしていましたし。……ここだけの話、ちょっと格好いいなって思ってました」
照れたように、少し年下過ぎますけどね、と付け足し、女性は笑って仕事に戻っていった。
「……ふむ」
なぜ佐藤がバイトをやめたのか。謎は解明されない。
本人を問いただせば――いや、問いただしてもおそらく教えてくれないだろう。
「……もう少し、頼ってくれてもいいのに」
歯がゆい。本当に、歯がゆい。
■
なんだかよくわからない、長ったらしい名前の病気がある。
まあ名前はどうでもよくて、ようするにその病気のせいで僕が死ぬということが重要なのだ。
僕の死因はその病気。寿命は三十八年と八ヶ月と二十二日間。
それは運命とかそんな感じのあれによって定められた、確定未来らしい。
死因も寿命も、生まれたときから決められていて、僕らが過ごすこの人生は運命の予定調和に過ぎない。
『しかし何事にも例外はある。運命を捻じ曲げられる役者が二人だけ、いる』
魔王と勇者だけが、運命の流れを断ち切りぶち割り叩き壊せるのだと、吉田は語った。
『俺は寿命を奪える。その結果として、今のお前があるわけだ』
「……」
『仕事をやめざるを得ないほどつらい心臓病。奪われた寿命を因とする果。死因の前倒し』
「……」
『今年負ければ、お前の寿命は一週間しか残らない』
「……もう一年しかない寿命じゃんか。一週間だろうが一年だろうが、大した違いはないよ」
『……そうかい』
逆説的に、今年勝つことができれば僕は残り少ない寿命を、成長する田中と過ごすことができるのだ。
それはとても素敵なことだと、僕は思う。
■
『悪魔の子』
とか。
『取替え子』
とか。
そういう風に呼ばれることがある。
そういう風にしか呼ばない人がいる。
『俺の娘をどこへやった!』
叫ばれた日があった。
『返して! 娘を返してよ!』
怒鳴られた日があった。
『お前なんか――お前なんか知らない』
『こんな子、私の子じゃない』
まったく成長しない子どもは、気味が悪い。
そのくせ、精神だけはきっちり成長してゆくのだから、性質が悪い。
端的に言えば、私は捨てられたのだ。
育児放棄なんかではなく、存在自体をなかったことにされた。
彼らの脳内から、娘は消え去った。
私はそれを悪いことだとは思わないし、責めるつもりもない。
その反応がある程度仕方ないことだと、精神は発達していた私は理解できた。
家を追い出され、行く当てもなくひとりさまよい果てるのだろうと思った。
果てたいと思っていた。
私が死ねば、佐藤も望月先生も――吉田も、救われるから。
だから、私は死にたかった。
■
「『おまえがしんだらぼくもしぬ』というのは、あいのせりふとしてはさいていのぶるいだとおもうのですが、どうでしょう」
飯を食っていると、田中がぼそっとそんなことを呟いた。
今日は袋麺。手抜きである。
「……じゃあ田中。僕がもし君と星空を眺めながら『でも君のほうが綺麗だよ』って言ったらどうする?」
田中は顎に手を当て、ややあって口を開いた。
「じさつしますね」
「そんなに似合わないか!?」
「というか、じさつするまえにわらいすぎてしんでしまいます。ことばのきょうきというやつですね」
「田中、今の君の言葉こそが凶器だ」
確かにそういう気障な言動が似合うタイプの人間ではないけれど、笑われるほどではないと思う。
そもそもそういう言動が似合うやつって実在するの?
「……そうですね。ひとむかしまえならともかく、いまそんなきざっぽいことしたらぎゃくにさめちゃいますよ」
「だよね」
「おとこはだまってゆきち、これにつきます」
「六歳児の外見でそんなこと言うなよ……」
なんというか、非常にやるせない気持ちになる絵面である。
■
八月になった。
台風が通り過ぎたせいか、湿気が高くて蒸し暑い。
「えあこんがなければそくしでしたね」
田中がぐってりと腹ばいになって涼んでいる。
お腹が弱いので、こうして腹部を守っているのだそうだ。
タオルケット使えよ。
「飯食ってすぐに横になると牛になるぞ」
「もーもー」
なんだこの可愛い生物。
剥製にして置いておきたい。
「……ところで、さとう。なにをのんでいるです?」
「ん? ああ、これ? これは――」
二粒の、そこそこ大きな錠剤だ。
最近痛みが酷いので、処方してもらった。
手術を勧められたけれど、運命決定による寿命は医術では覆せない。
痛みが酷いと実生活に支障が出るので、痛み止めだけ服用している。
「――風邪薬だよ。ちょっと夏風邪ひいたみたいで」
「だいじょうぶなのです? なつかぜはしょうじょうがひどいものがおおいとききますし……」
「大丈夫だよ。そんなに心配しなくても、すぐによくなるよ」
「……なら、いいですけど」
不審そうに僕を見つめつつ、田中はまぶたを閉じた。
お昼寝タイムだ。
■
多くのゲームは平等ではない。
それは仕方のないことである。
囲碁や将棋などの『知能を競うゲーム』であるならばともかく、『お遊びとしてのゲーム』はすべからく『運の要素』も競うのだから。
運がよくなければ勝てないゲームのほうが簡単に盛り上がることができる。
強い奴がただ単純に勝つゲームは、童心にはつまらなく映るものなのだ。
逆に、敢えて不平等を作るゲームもある。
俺の考えた【勇者と魔王】がそうであるように。
勇者とはチャレンジャーであり、圧倒的不利を背負って戦うべきだ。
勝利の活路を探し出し、一縷の希望に全てを託し、ひと筋の光明にすがりつくような、そんな存在であるべきなのだ。
情熱を冷静さで包む込み、勝利のために一歩ずつ進む王道者。
それが勇者であると、俺は思う。
そういう意味では、佐藤はまったくもって勇者に向いていない。
クールを気取っているくせに、自制が苦手で直情的。
どこにでもいる優しい青少年でしかない。
せいぜい勇者パーティのメンバーのひとり、魔法使いとかその辺のポジションだ。
単騎で魔王に挑むタイプではない。
挑めるキャラクターではない。
役者として不十分すぎるということは、あいつ自身が一番良く理解しているだろう。
それでも、あいつは俺と戦うのをやめないだろう。
十年間戦い続け、十九年間の寿命を失ってなお諦めない。
それが佐藤の愛である。
■
僕はほとんど使わないのだけれど、田中はちゃぶ台でよく愛用のパソコンをカタカタ叩いている。
『成長しない子ども』として気味悪がられることがあるためか、田中は外出を極端に嫌うのだ。
田中がインターネットに傾倒するのも、そのあたりが理由かもしれない。
「くそわろた、と」
「まったく表情筋動いてないんだけど?」
「あぅ。みないでください、たにんがつかっているぱそこんをのぞくのはしつれいですよ」
思いのほか、厳しい目つきで怒られた。
「ご、ごめん……」
「もしわたしがさんじろりがぞうをけんさくしているところだったらどうするつもりですか」
「お前そんなの検索してたのかよ」
マジかよ。一緒に見るわ。
「だめです。ようじょがけがれます」
「幼女が言うと説得力があるな」
「でしょう?」
ウチの幼女のドヤ顔はウザ可愛い。
そしてまた、田中はカタカタとパソコンを叩き出した。
それを尻目に、僕は洗濯物をたたむ。
僕にとっては最後の決戦間近であるというのに、弛緩した空気が漂っている。
悪くない空気だ。
あわよくば、この空気がずっと続いて欲しいような――
――がちゃり、と派手な音がした。
「……うそ」
見ると、田中の目が見開かれ指が大きくキーボードを離れている。
打ち損じだろうか。めずらしい。
「なに、まさか変なウイルス踏んだんじゃ――」
もしそうだったら大変なので、僕はちゃぶ台の向こう側へ行こうとして、
「みないでくださいッ!」
きぃん、と甲高い悲鳴じみた声が耳を裂いた。
僕はびっくりして、手に持っていた洗濯物を取り落とす。
「……すいません。たいしたことじゃないんです、ちょっとびっくりしちゃって」
「……どうしたの」
「まさか……」
田中が目を見開いたまま、カチカチとマウスを操作しながら呟いた。
「まさか、こんなあぶないむしゅうせいがあるなんて……!」
シリアスな空気がぶっ壊れた。
■
なんだかよくわからない、長ったらしい名前の病気だ。
名前はどうでもいい。
問題はそこではない。
佐藤が死ぬということが、問題なのだ。
私の教え子が死ぬということが、問題なのだ。
私はどんなときも教師であろうと思っている。
問題を見過ごすことなんてできない。
そう思う反面、これを直接突きつけることを躊躇する気持ちもある。
男として、佐藤の考え方には多少共感できるところがあるのも確かだ。
好きな人に自分の弱さを見せたくない、とか。
悲しませたくないから知らせたくない、とか。
余計な心配をかけたくない、だとか。
わからなくもない情動だ。
わからなくもないけれど、それは間違っている。
佐藤、君は間違っているのだ。
それはただ徒に田中を悲しませるだけの行為だ。
間違いは指摘してやらねばならない。
教師として、男として。
■
八月十三日の夜。
『準備はいいか?』
夢の中で、僕と吉田は向かい合う。
ご丁寧に、魔王城っぽい石壁とか赤絨毯とかで夢を装飾して、玉座にえらそうに座っている。
「いいよ。さっさとやろう。魔王の語りも勇者の語りも、冗長すぎるとスキップボタン押される」
『……これで最後の戦いなんだから、もうちょっと盛り上げようぜ』
「盛り上げるってどうやってさ」
『猥談とか』
「……」
『そんなに睨むなよ。あとたったの一戦なんだから、もう少し――』
「いいや。今日は長いぞ、魔王。一戦なんかじゃ終わらせない」
奇策。
僕が勝つための策。
瀬戸際だからこそ考え付いた、僕にしかできないこと。
「吉田。僕は――」
「――そうだな、まずは右眼でも賭けようか」
短い命だ、身体なんて惜しくはない。
魔王吉田よ、覚悟しろ。
ここから先は消耗戦、精神を削りあう泥試合だ。