名前を呼ばせて
「ねぇ、慎二君…」
私はそう言ってから、はっとした。
「…ごめん…」
隣に座っている「雄也」君は「いいよ」と微笑んでくれた。
「何?亜樹ちゃん。」
雄也君は、読んでいた映画のパンフレットを、私に差し出しながら言った。
「うん、あの…本当にこの映画で良かったの?」
「嫌だったら、先に言ってるよ。」
「そうだよね!…良かった…」
私がそう言ってうつむいた時、ブザーが鳴った。
……
私と雄也君が付き合い始めたのは、1週間前のことだ。その頃、私は「慎二」君という同じ中2の男の子に振られたばかりだった。
雨の中を泣きながら歩いている私に、雄也君が傘を差し出してくれたのがきっかけだった。
雄也君はとても優しい子だ。その上、友達同士がケンカしているのを見ると、いつも飛んで行って仲裁に入るような正義感の強い子だった。
…でも、私はまだ慎二君の事が忘れられなかった。
今いる映画館も、慎二君とよく来た。でも、この映画館に誘ってくれたのは雄也君だ。断るのも悪いので、雄也君の言うとおりにしたのだが、つい「慎二君」と呼びかけてしまった。
映画を見ている間も(慎二君はこんなラブロマンス嫌いだったな…)などと思ってしまい、慌てて首を振った。
……
「おもしろかった?」
映画館を出てから、雄也君が私に聞いた。私は「うん!」と笑顔で答えた。
「良かった」
雄也君はそうほっとしたように言って、私の手を取った。
「喫茶店に入ろうか。」
「うん!」
私は、雄也君の手を握り返した。
……
「亜樹ちゃん、何にする?」
「うーん…慎二…」
私はそこまで言って、はっとメニューから顔を上げた。
「いいよ。」
雄也君はそう微笑んで私を見て「僕、ケーキセットにするよ。」と言った。
私は動揺しながら、メニューを慌てて見た。
「…じゃ、じゃぁ…私もケーキ食べようかなー…」
「うん。違うケーキにして、半分こしようよ。」
「うん!」
私はそう答えたが、顔を上げられなかった。
……
その後も、私は雄也君に何度も「慎二君」と言いかけて謝った。雄也君はその度に「いいよ」と微笑んでくれた。
……
その日の夜、私は自分の部屋で落ち込んでいた。
(どうして、慎二君の名前を言っちゃうんだろう…)
慎二君とつきあったのは3か月くらいだった。振られたのは、毎日メールを出したり電話をしたりする私がうざかったからだ。
「お前重い。」
それが慎二君から聞いた最後の言葉だった…。
……
「…僕…何か嫌なことした?」
雄也君が目を見張って、私にそう言った。私は強く首を振った。
「違うの!…あの…昨夜私決めたの…。慎二君の事をちゃんと忘れてから、付き合った方がいいって…。」
雄也君は一層目を大きく開いて、私を見た。
「…僕は…そんなこと気にしないよ。」
「私が気にするの!だから!」
私は大きく頭を下げて言った。
「ごめんなさい!」
雄也君の震えている拳が見えた。私は頭を下げたまま黙っていた。もしかして殴られるのかな…と思った。
「…わかった…。でも、僕待ってるから。…ずっと。」
雄也君はそう言うと、背を向けて走り去って行った。
私は頭を下げたまま、動けなかった。
……
それから1ヶ月が経った。
…私はまだ慎二君があきらめきれていない。…今も教室のベランダで、校庭でサッカーボールを蹴って遊んでいる慎二君を目で追っている。
雄也君とはあれから口を利くこともなかった。廊下で出会っても、私の方が避けてしまう。…雄也君は笑顔を見せてくれるのに…。
そんな日が続いたある日の事だった…。
……
「救急車だ!救急車を呼べ!」
お昼休み、校庭で遊んでいる慎二君をぼんやり見ていた私は、その声に驚いて振り返った。
教頭先生が大声を上げて、廊下を走って行く姿が見えた。教室にいた生徒たちが飛び出して行く。私も慌てて廊下に出た。
「!!!」
私はその場に立ちすくんだ。廊下に血が流れている。隣のクラスの先生が、倒れている男の子のお腹のところを押さえながら、大声で呼び掛けていた。その傍には、ナイフを持った男の子が呆然と立ち尽くしている。
「太田!!太田!!気を失うな!!しっかりしろ!!今救急車呼んでるから!気を失うな!!」
私はそれを聞いて青ざめた。
「太田?…」
倒れているのは、雄也君だった。私は両手を口に当てたまま、動けなかった。
……
青白い顔の雄也君が担架に運ばれて行った後も、私はずっと廊下に立ちすくんだまま動けなかった。
…雄也君は、同級生がケンカを始めたのを見て止めに入ったのだそうだ。まさか、ケンカを始めた1人がナイフを持っていたなんて誰も知らなかった。
他の子は「まただ」と笑って見ていたそうだが、正義感の強い雄也君は見ていられなかった。…そして、刺された…。
……
私は家でぼんやりと、ニュースを見ていた。雄也君の事が報道されている。
「…刺された男子中学生は、今も意識不明の重体です。」
その言葉を聞いた途端、私の心臓がどくりと鳴った。
「…まだ…意識不明…?」
思わずそう呟いた。そして慌てて自分の部屋に飛び込み、財布の入ったかばんを持って家を飛び出した。
「亜樹!!どこ行くの!!」
玄関で、近所の人と雄也君の事を話していたお母さんがそう言ったが、私は何も答えずに走った。
(確か…確か、市民病院だって先生言ってた…!)
私はそう思いながら、大きな道路を見渡した。そしてランプの付いているタクシーに手を振った。
……
雄也君のお母さんは、赤い目をしたまま私を病室に入れてくれた。
「…お医者様は、もう大丈夫って言うんだけど…どうしても目を覚まさないの…」
私はそのお母さんの言葉にうなずきながら、酸素マスクをして眠っている雄也君の顔を見ていた。
お母さんが椅子に座るように言ってくれた。私はあふれる涙を拭いながら頭を下げて、椅子に座った。
雄也君が、息をしているのかしていないのかわからなかった。ただ苦しそうな顔をしている。
雄也君のお母さんは「すぐに戻ってくるから」と言って、そっと病室を出て行った。
私は涙を必死に拭いながら、雄也君の名前を呼ぼうとした。…でも、どうしても声が出ない。
「ゆ…や…くん」
やっと言った。
「雄也君。ごめんね。」
そう言いながら、涙を拭った。そして雄也君の手を握った。
「雄也君、起きて。雄也君。また映画観に行こう。ね…雄也君…」
やっとの思いでそう言った時、雄也君の手が、私の手をそっと握り返したのがわかった。
「!!雄也君!!」
私は思わず、手を握ったまま立ち上がって、雄也君の顔を覗き込んだ。
「雄也君!私よ!亜樹!!わかる!?」
「…いいよ…」
雄也君が目を閉じたまま言った。私は目を見開いた。
「…慎二君…で…いいよ…」
雄也君のその言葉に、私の目から涙があふれ出て止まらなくなった。
「ううん!もう…私…」
「だから…」
雄也君は少しだけ目を開いて、私を見た。
私は「え?」と言った。雄也君は小さく呟くように言った。
「…だから…離れないで…」
私は泣きながら、雄也君の手を握ってうなずいた。雄也君は嬉しそうに微笑んで、目を閉じた…。
(終)
……
3ヵ月後-
ジェットコースターは少しずつ天に向かって登っている。そして、一番高いところまでついて止まった。
私は隣で前のバーを握っている雄也君に言った。
「雄也君!」
「え?何?」
雄也君は緊張した表情を私に向けて言った。私は「ガタン」という音と共に答えた。
「呼んだだけっ!」
「えっ!?何だよそれっ!うわーっ!」
「きゃーーーっ!」
ジェットコースターはレールに沿って落下していく。私と雄也君は思わず、お互いの手を握り合っていた。