喉元に突きつけられたナイフ
「死んで頂戴、セシリオ」
喉元にひんやりとした感触。
驚いて振り向くと、朔夜の姿があった。
深夜、目が覚める。
夢か。
いや、当然だ。
朔夜は僕をセシリオとは呼ばないし、なにより、僕の知る朔夜はつい先月に十歳になったばかりの子供だ。
夢に出てきたのは子供と言うよりは少し大人びた少女。いや、少女と言うよりすでに女性と呼ぶべきであろう姿だった。
「こんなに甘えん坊の朔夜が僕に牙を剥くなど……考えられませんね」
腕の中で蹲っている子供を見る。
いつの間にか勝手に部屋に入り込んで寝台に潜り込む。
玻璃もよく来るが、意外にも一番多くここに訪れるのは朔夜だ。
「また悪い夢でも見ましたか?」
頭を撫でても安らかな寝息に変化は無い。
悪い夢を見たのは僕だ。
そう、悪い夢。
飼い犬に手を噛まれるようなことがあってはならない。
実際、僕ならば朔夜に背後を取らせることは無いだろう。
何故夢の中の僕はあそこまで弱かったのか。
これは僕の力の衰えでも暗示しているのだろうか。
「馬鹿馬鹿しい……」
そっと朔夜を抱きしめ直し、瞼を閉じる。
子供の体温と言うのは温かい。
いや、むしろ熱い。
直ぐに追い出したい気分になったが気持ちよさそうに眠っている姿を見て其処までするほどこの娘を嫌ってはいない。
これがどこの誰だか知らない香水臭い女だったりしたら直ぐに殺してそこらに捨てるものだが、自分の養女ともなると話は変わる。
僕も随分甘くなったものだ。
「まぁ、夜に寝台にいること事態が不思議なんですけどねぇ」
子供達の教育には生活を改めろだの魔女に口うるさく言われたせいか、夜の仕事が随分と減ってしまった。
まぁ、生活に困るほどではないが、腕が鈍りそうだ。
そろそろこの子達も実践に使えるだろうか。そろそろ復帰したい頃だ。
「……マスター?」
眠たそうに目を擦った朔夜が起き上がる。
「おや? 起きてしまいましたか」
「どうしました?」
「いいえ、何も」
可愛い子だ。
いや、怯えているだけだろうか。
何時だって僕の様子を伺う。
「眠って良いですよ」
「はい」
そう返事をしても朔夜が眠る気配は無い。
丸い鳶色の瞳がじっと見つめる。
「……なんです?」
「いえ」
特に言いたいことも無いくせにじっと見つめることに意味はあるのだろうか。
「言いたいことがあるならはっきりと言いなさい」
「何もありません」
「なら寝なさい」
「はい」
そう、返事をするくせに朔夜は目を閉じない。
「朔夜」
「眠れません」
「は?」
「目が覚めてしまいました」
朔夜はそう言って微笑む。
「怖い夢でも見ましたか?」
からかうようにそう言えば、朔夜はくすりとわらって「はい」と答える。
嘘だと直ぐに分かるのに、この娘は何時だってそうだ。
「どんな夢でしたか?」
少し意地悪をしたくなった。
ただそれだけ。
けれども朔夜は微笑んで言う。
「マスターに武器を向ける夢でした」
「夢ではなく現実かもしれませんよ」
「だったらなおさら怖いわ。私が殺されてしまうもの」
くすくすと笑いながら言うのは、朔夜には僕を殺すことの出来ないという絶対的な力の差による安心感と僕が朔夜を殺したりはしないという経験上の知識による根拠の無い確信があるからだろう。
「マスター」
「何です?」
「もう少しお傍に寄っても良いですか?」
控えめな甘えに見せかけて図々しい。
けれどそれが心地よい。
「構いませんよ」
そう言えば、直ぐにぴったりとくっつく。
「玻璃ちゃんがいつも言っています」
「何と?」
「人の心音が心地よいって。マスターの心音、とっても落ち着きます」
そう言いながら、朔夜は胸に耳を当てる。
お互い、いつでも殺せる距離。
お互い、枕元に護身用のナイフがひとつ。
いつでも殺せる。
この距離なら、油断すれば殺されるかもしれない。
この距離なら、直ぐに朔夜を苦しませること無く殺せる。
けれどもお互いそんなことは無い。
そう思った瞬間、喉元に冷たい感触。
「こんな風に、マスターに武器を向ける夢でした」
「……今、現実にしたでしょう?」
防ぎきれなかった。
油断していた。
甘えん坊の娘がいつものように甘えてきた。そう思っていた。
「どうして、弾かなかったのですか? マスターなら、そのまま直ぐに私の喉を斬れた」
不思議そうに、それでいてしっかりとナイフを握ったまま、真っ直ぐ大きな瞳が見つめる。
「おや? 折角のチャンスなのに僕を殺さないんですか?」
「殺さないわ。母がお許しにならないもの」
朔夜はそう言ってナイフを下ろす。
「私は貴方が私を殺さない方が不思議です。マスター」
真っ直ぐ見つめる鳶色の瞳。
僕はこの瞳をよく知っている。
「父親とは家族を護るものなのでしょう? 家族を殺したりしたら護れないじゃないですか」
「ふふっ、マスターらしいわ」
朔夜は笑って、再び僕にぴったりとくっつく。
「貴方のそういうところ、凄く変だと思うけど、結構好きです」
もう、ナイフの気配は無い。
ああ、そうだ。
この子の攻撃を防げなかったのははじめから殺気が無かったからだ。
敵意すらない。
ただ、子供がじゃれて遊ぶのと同じ。
「朔夜は将来有望ですね」
「え?」
「いえ、期待しています。瑠璃は殺しには向いていません。暗殺者に向いているのは、朔夜、貴女と玻璃です」
そう告げれば朔夜は驚いたように目を見開く。
「暗殺者? 私が?」
「ええ、貴女が」
この子はきっと殺すごとに罪悪感に苦しむだろう。そうしてどんどん自分を追い詰める。
だからこそ。
この子は狂わない。
罪を感じ、必要以上に殺さない。必要なことを的確にやってのける。
「朔夜、貴女は上から指示するよりも自分の手を汚す方が得意な人間だ」
「……マスター」
「期待しています。とても」
「……」
朔夜は黙り込む。
ぴったりと僕にくっついて。
そして、縋るように、心音に耳を傾けている。
「もう寝なさい」
「はい」
「ちゃんと目を閉じて」
「はい」
「いい子です」
頭を撫でてやれば、僅かに身を捩る。
「朔夜は何時までたっても子供ですね」
「……子供です」
朔夜がそう言ったことに少し驚いた。
瑠璃や玻璃は子ども扱いされることを嫌う。
朔夜は何時だって二人の面倒をよく見る【良い姉】だった。
「貴方の前でくらい子供でいさせてください」
拗ねたようにそう言う彼女に思わず笑いが込み上げる。
「そう、ですね。では、子供は寝る時間です。ちゃんと寝なさい」
「はい」
頷いた朔夜を抱き枕のように抱きしめる。
熱い。
熱いのは嫌いだ。
けれども、なぜかは分からない。
この熱さは嫌いではない気がした。