もう何も言わないで
「どうして? どうしてあの人は今日も城に戻らないの?」
ヴェーヌス様が癇癪を起こしている。
どう宥めたら良いのか分からない。
「ネイト! 直ぐにムゲットからあの人を呼んで!」
「ムゲットからこのオルテーンシアはとても距離があります。今向かっている最中ですよ。一刻も早くヴェーヌス様に会いたいと焦がれながら、会ったら何を話したら良いかと必死に考えている頃です」
いつからか分からない。
私の主は壊れてしまった。
「そうか。そうか。だが、そんなことなど考えなくてもよいのに。私は一緒に居られるだけで幸せよ。ああ、愛しい人。早くその顔を見せて頂戴」
うっとりと妄想に浸るヴェーヌス様。
お労しい。
何故こんなことになってしまったのだろう。
全てはあの男のせいだ。
あの男が宮廷騎士になどならなければ。
いや、王の目に留まらなければ。
いや違う。
あの日ヴェーヌス様がムゲットにさえ行かなければこんなことにならなかった。
「ネイト」
「はい」
「あの人のために美味しいお茶を用意して。それに美味しい食事も。いや、食事は私が用意するわ。ああ、早く! 早く!」
「もう直ぐです。もうすぐ」
こんな嘘を吐くのも疲れた。
けれども、完全な嘘ではない。
あの男は来る。
このオルテーンシアに。
来ないわけには行かない。
ヴェーヌス様はこのオルテーンシアの伯爵なのだから。
王だってヴェーヌス様に気を使い、協力を得る必要がある。
何より、このクレッシェンテに唯一の女性の伯爵だ。
王は重宝している。
少しくらいの我儘を見逃す程度に。
「ネイト、あの人を迎えに行かなきゃ」
「ヴェーヌス様がそこまでなさる必要はありません。お出迎えはこのネイトにお任せください。もしかするとあの方はヴェーヌス様にお会いするのが恥ずかしいのかもしれません。話題に困っているかもしれません。それでしたら話題を提供するのもこのネイトの仕事にございます」
「ネイト、そう言っていつもお前ばかりがあの人に会っているじゃないか。私も早くあの人に会いたい」
「ヴェーヌス様、たまにしか会えないからこそ愛おしさが募るのです。彼は既にヴェーヌス様に夢中です。ただ、少しばかり恥ずかしがりやなのでヴェーヌス様に会えずに居るのです」
もう嫌だ。
そう思うのに私の口は嘘を吐く。
この人を傷つけたくない。
私のたった一人の主。
私の存在意義。
もう、いっそ何も言わずにこのままこの方と朽ちて行こうか。
「ネイト、あの人はまだ?」
「もうすぐです。ヴェーヌス様」
いっそ殺してしまおうか。
あの男を。
そうして首を持ち帰れば、ヴェーヌス様は満足してくださるだろうか。
私の大切な人。
たった一人のご主人様。
ヴェーヌス様。
愛しているからこそ、私は貴女に真実を告げられない。
愛しているからこそ、貴女を苦しめるあの男が許せない。
「ネイト、あの人はもう来たかしら?」
「もうすぐですよ。ヴェーヌス様。あの方がいらっしゃる前に、飛び切りのおめかしをしてお出迎えいたしましょうか」
可哀想なヴェーヌス様。
もう、何年も待ち続けている。
可哀想なヴェーヌス様。
私の見え透いた嘘にさえ騙される。
もう、何も言わないで。
もう、何も言わせないで。
誰か、時間を進めて。
願っても、また同じ一日を繰り返すだけだ。