物理現象としての異世界転移
「転移」とは、物理現象だ。
高気圧から低気圧へ風が吹くように、人口密度の高い世界から低い世界へ、ただ人間が移動する。
そこに神の慈悲も、選ばれた勇者の使命も存在しない。
橋見ルナがその「物理現象」に巻き込まれたのは、下校途中の交差点だった。
(……え?)
瞬き。
その刹那、世界が反転した。
騒音と排気ガスの代わりに、肺を突き刺すような薄い空気が入り込む。
「……カハッ、あ、が……っ」
気圧の急変に身体がついていかない。
視界がぐにゃりと歪む。
ルナは制服のまま、乾いた赤土の上に崩れ落ち、そのまま意識を手放した。
◇
目が覚めたのは、月が二つ浮かぶ夜だった。
腕に走る、火を押し当てられたような鋭い痛み。
「っ……痛い、なに、これ……」
袖を捲ると、皮膚の下で何かが蠢いている。
紫色の、節を持ったウジのような虫が、ルナの腕の肉を食い破り、中へ潜り込もうとしていた。
「嫌……っ! 来ないで、嫌ぁぁぁ!」
パニックで叫びながら、ルナはなりふり構わず爪を立てた。
自分の肉を抉り、這い出る虫を無理やり引きずり出す。
指先に伝わる、ブチブチという生々しい感触。
「……はぁ、はぁ……っ、帰りたい……ママ……」
腕は血と膿で汚れ、読者モデルとして手入れしていた肌は見る影もなかった。
◇
そこから四日間。ルナは水を求めて彷徨った。
(低い方へ……水は、低い方に……)
足の裏はとっくに限界を超えていた。
ローファーは底が抜け、むき出しの踵はズタズタに裂け、歩くたびに地面に赤い足跡が残る。
視界の先に、城壁に囲まれた街が見えた時、彼女は泣きながら笑った。
「助かった……。やっと、お風呂に入れる……」
だが、希望は門番の冷酷な声で砕け散る。
「@:$%&*!」
「え……? あの、日本の方ですか? ここ、どこですか……?」
ルナの震える声は、誰にも届かない。
周囲の旅人たちは、洗練された彫刻のような美貌でルナを蔑むように見下ろし、見たこともない「銀の札」を提示して門をくぐっていく。
身分証もなければ、言葉も通じない不審者。
門番は面倒そうにルナの髪を掴むと、そのまま地下の収容所へと放り込んだ。
◇
そこは、光の届かない泥濘の檻だった。
「トイレ、どこ……? すみません、トイレ……」
隣に座る、エドワード・ファーロング顔負けの美青年が、虚ろな目でルナを一瞥しただけで無視する。
限界だった。
女子高生としての最後の矜持は、冷たい石畳の上に漏れ出した熱い液体と共に、ドブ川へと流れていった。
◇
「……動け、この出来損ないが」
数日後、言葉の意味はわからずとも、振るわれる鞭の痛みで理解した。
連行されたのは、外壁の補修工事現場。
だが、四日間の絶食と疲労で、彼女には岩を運ぶ力など残っていない。
「使えんな。……おい、奴隷商を呼べ。この顔でも、魔族の店なら端金にはなるだろう」
◇
街を引かれて歩く間、ルナは自分の価値をようやく理解した。
(どうして……。みんな、モデルみたいに綺麗なの……?)
すれ違う誰もが、地球ならトップスターになれるほどの美貌。
これはルナも知らないことだが、異世界における人類は、数万年にわたり魔族や魔獣との戦闘を繰り広げてきた。
戦闘で多くの男が死ぬため、常に女が余っており、生き残った男は村一番の美人と結婚できた。
性淘汰が数万年にわたり繰り返されてきた結果、異世界では美形の遺伝子だけが残っているのだ。
ルナの自慢だった容姿は、ここでは下層の醜女に分類される。
◇
行き着いたのは、獣の臭いが立ち込める魔族向けの風俗店。
「……マヨネーズ」
絶望の中で、彼女はその単語を呪文のように唱えた。
「マヨネーズさえ作れれば……。あれは、みんなが好きな味。レシピは確か、卵と油……」
彼女は調理場から材料を盗み出し、必死にかき混ぜた。
だが、乳化という化学反応の理屈も、酸の重要性も知らない。
出来上がったのは、ドロドロとした生臭い液体の塊。
「これ、美味しいんです! 食べればわかります!」
必死の形相で奴隷商に差し出した。
「……グッ、オエッ!!」
一口舐めた男が、顔を真っ赤にして吐き出した。
「貴様、俺に毒を食わせたな?!」
「えっ、あ、違うんです、それは――」
「黙れ!」
大きな拳が、ルナの頬を陥没させる勢いで叩き込まれた。
「あがっ……!」
床に転がり、口から歯と血を吐き出す。
視界の隅で、心血を注いだ「マヨネーズ」が、土埃にまみれて汚く広がっていた。
次の瞬間、店の奥から、ルナを品定めするような魔族の濁った瞳が、彼女の体をなぞるように動き出した。
◇
その夜。
風俗店の裏手にある、冷たい石床の物置小屋にルナは放り込まれた。
明日からは、さらに苛烈な「仕事」が待っている。
身体の節々が痛み、腕の傷跡は今も熱を持って疼いている。
ふと、物置の扉が小さく音を立てて開いた。
反射的に身を竦める。また殴られる。
そう身構えたルナの前に現れたのは、見張り役の男だった。
彫刻のように整った顔立ちをしたその男は、無言のまま、ルナの前に一つの包みを置いた。
中には、黒くて硬いパンの端切れと、少しばかりの清潔な水。
そして、小さな布切れ。
「@:$……」
男は何かを呟いたが、やはり意味は分からない。
けれど、男は拳を振り上げなかった。
ただ、ルナの腫れ上がった頬を憐れむように一瞥し、音もなく去っていった。
ルナは震える手でパンを掴み、口に押し込んだ。
岩のように硬く、酸っぱいパン。
そして、今夜は殴られなかった。
ただそれだけのことが、涙が出るほどルナに安堵をもたらした。
窓のない物置小屋。
漏れ聞こえる魔族の咆哮と、女たちの悲鳴を遠くに聞きながら、ルナは泥のように深い眠りへと、ゆっくりと落ちていった。




