肉食と聖女の旅 番外編 1
番外編は、ほぼ前日譚です
「ちょっとアンタ! ひとの旦那と寝ておいて、タダですむと思ってんの!」
髪を振り乱す勢いで玄関に現れた中年女性は、うちの社員を待ち構えていたらしく、エレベーターが開いて私が降りようとした途端、こちらに駆け寄ってきた。
一瞬、自分が罵られたと思い、動きが止まってしまったよ。
それによく見たら、この女性は清水課長の奥さんじゃないか。以前見かけたときは、課長の隣で慎ましやかに寄り添っていで、大和撫子って印象だったのに、いまは般若もかくやといった風情だ。
「キャー! 怖ぁ〜い。拓己さぁん、助けてぇ〜」
派遣の高橋さんが、エレベーターに同乗していた清水課長の腕にすがりつく。その腕の先にくっついている頭には、明らかに狼狽の表情が貼りついているんだが。
私だったら他人が真夏にくっついてきたら、秒で距離をとるね。いまは冷房が効いているからまだマシだけど、この暑さでは汗とか匂いとか、気になることが多すぎるのだ。
それにしても、高橋さんは浮気したことを隠す気がないんだな。奥さんの前でいちゃつくなんて、よほど慰謝料を払いたいんだろうな。
しかし、そんな高橋さんの行動は、課長にとって予想外だったのだろう。彼女を見下ろすその横顔は、普段部下に指示している姿とは大違いだ。
「奥様、落ち着いてください!」
高橋さんが課長を名前で呼んだから、奥さんが逆上して掴みかかる。奥さんを煽るためにわざとやったのなら、彼女はかなりしたたかな女だ。
正直、これには納得な自分もいるので、遅かれ早かれ似たようなことは起きたのだろう。
春に派遣されてきた高橋さんがおとなしかったのは、たったのひと月半くらいで、ゴールデンウィーク明けには有能な若手を追いかけ回していた。
見かねた係長が注意していたんだけど、課長を味方につけたってわけか。社内ではそんな気配がなかったから、派遣会社から注意されて、ストーカーじみた行動をやめたんだと思ってたよ。
受付の女性社員が必死に止めようとしているけれど、無関係な女性に仲裁させないで、課長がちゃんと向き合うべきだろう。
「ババァが荒れ狂ってて、マジでウケるぅ!」
なにを考えているのか、高橋さんはバッグからスマホを出して動画を撮りはじめた。
職場に、真っ白なレース付きのかごバッグで出勤するのも常識がないが、浮気相手の奥さんから詰められている場で、動画を撮るその神経を疑うわ。
「こんのクソ女! アンタを訴えてやるから慰謝料準備しときなさいよ! 」
それはそうでしょ。高橋さんは要求されただけ、素直に支払ったほうがいいと思う。
「美里、落ち着いてくれ!」
「あなたとは離婚します。すぐに弁護士から連絡があるでしょうね」
カオスだ。まさか職場でこんな修羅場に遭遇するとは思わなかった。
奥さん、凍りつきそうなくらい冷たい声が出たな。課長に言われなくても、これ以上ないくらい落ち着いてるじゃん。弁護士つきで証拠がすでに押さえられてるなら、示談とかもうムリでしょ。
「ウソだろ! コイツは誰とでも寝るんだぞ。まとわりついてくるから、性欲処理に使っただけだ」
「拓己さんってば酷〜い。奥さんがブスだからっていいすぎだよぉ」
いまのは事実だとしても酷いわ。そして自分が言われたと思ってない、高橋さんのメンタルが怖い。会社のロビーで言うことじゃないし、社外の人から聞かれてもマズいでしょ。
それに目の前で揉められると、いつまで経ってもエレベーターから降りられないんだが。
きょうは麺つゆと卵が安いから、絶対にスーパーに寄りたいんだけどなぁ。冷凍庫に鶏もも肉があるから夕飯は親子丼と決めてたし、夕方から値引きになる半額商品(お惣菜)は、物価高な昨今では競争率が高いのだ。
本当は冷えた生ビールと枝豆に、爛々の丸鶏揚げが食べたいんだけど仕方ないね。
そんなことを考えているあいだに、課長の左腕には高橋さんが、右腕には奥さんがしがみつく。苛ついた奥さんが課長の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「キャア!」「うわっ!」「えっ?」
奥さんが課長を締めあげた拍子に高橋さんがバランスを崩し、持っていたスマホが宙を舞う。そしてエレベーター内に取り残されていた私に向かって、勢いよく倒れ込んできた。
完全に傍観者の立場でぼんやり眺めていた私を巻き込み、ふたりそろってエレベーターの床に転がると、その勢いでエレベーターが不自然に揺れた。
「ええぇ〜」
えっ? からのええぇ〜という私の叫びは、ドップラー効果のように聞こえただろうな。
いつもは定員まで乗っても問題なかったのに、女ふたりが転んだだけでエレベーターが落下していく。それと同時に、まばゆい光に包まれた。
これ、なんてピタゴラスイッチ?
「まだ気がつかないのでしょうか」
うん? あーぁ、やっぱり死んだのか。最期に爛々の丸鶏揚げが食べたかった。あのサクサクの皮としっとりジューシーなお肉のハーモニー。あれとビールがあれば最高の週末を迎えられるのに、意図せず終末を迎えてしまったのか。
それにしても、うちって禅宗だったはずだよね。仏教徒にも天使が迎えに来てくれるんだな。
「いえ、天使ではありませんよ」
そうなの? 美術館で見た宗教画のように、夢かと思うくらい美しすぎる光景だから、絶対に天界に住んでる存在だと思ったのに。
でも、なんかありがたいから拝んでおこう。
「ええ、たしかに住まいは天界と言えるでしょうね。統治しているのはわたくしですから」
「あれっ?」
パチリと視界がひらけ、目の前の眺めに思考が停止する。私はいま目を開けたよね? 夢で見たはずの美しい女性が、現実でも目の前にいるんだが?
「わたくしが美し過ぎて言葉を失うのは理解できますが、そろそろ話を聞いてくださいね」
自他ともに認める美女は、天使ではなく女神様。とりあえずそれだけはわかった。
あなたたちはまだ亡くなってはいません。精霊召喚の誤発動でたまたま呼ばれてしまいました。
すぐに返せば体に負担が掛かるので、しばらくはわたくしが見守る地にて暮らしてもらいます。
知らない場所に放り出されても困るでしょうから、ふたりが希望する加護を与えましょう。
女神様が仰ったのは、だいたいこんな感じだ。そして、話の内容から察した人もいるだろうが、ここにいるのは私ひとりではなかった。
女神様から説明を受けているあいだ、高橋さんははしゃぎっぱなしで落ち着きがなく、早口でなにかを言っている。しかし私は、自分の運のなさに打ちひしがれていて、それを聞き取る気にもならない。
「あたしの希望かぁ。美しさはリミット超えてるからな〜。カッコいい男の子やお金持ちからアプローチされちゃうよぉ。あたしを取り合って争っちゃうかもぉ。んー? 誰からも好かれちゃうからストーカー被害にあわないようにして。そうだ! あたし聖女になりたい!」
高橋さんの頭の中は、マジでどうなってんだろうな。そんな無茶なお願いなんて、かなうわけないじゃんね。
「いいでしょう」
えっ、いいの? それって平気?
「やったぁ! イケメンに愛されるのは当然だけど、ブサイクに粘着されたらサイアクだしぃ。いくらお金持ちてもジジイとつきあうのはイヤだもん」
高橋さんは嬉しそうにしながら、持っているバッグを漁りはじめた。あれはSNSに投稿するつもりなんじゃないの? あの人、職場でも頻繁にスマホをいじってるから、何度も注意されてたんだよね。
「安心なさい。聖女になるのは難しくありませんし、誰もあなたに執着心を持たないでしょう」
ん? なんかいまのって、高橋さんの願いとは微妙にニュアンスが違うんじゃ?
彼女の自己肯定感が異常に高かったおかげで、逆ハーしたいとかお姫様になりたいとかの、非常識なお願いが現実にならなくてよかったけど、誰からも執着されないってのは望んでないと思う。
本人は全然聞いてないみたいで、これから自分の思いどおりに進むと思ってそうなんだけど――。
「では、そちらのあなた。寿 春菜ですね、あなたはなにを望むのですか?」
「えっ、私の名前……」
やっぱり神様だ! 名乗らなくても全部お見通しなんだね。
「あなた、名前を胸につけているわよ」
恥ずかしっ! 首からかけている社員証を外し、あわててポケットに突っ込んだ。そしてなにもなかったかのように話してみる。若干早口なのは、スルーしてほしい。
「あの! その前に質問してもよろしいでしょうか?」
これは気まずいのをごまかしてるんじゃなくて、ちゃんと確認しないといけないのだ。いくら現実離れした話だからって、自分の想像どおりの未来が訪れるかなんてわからないからね。
「ええ、構いませんよ」
「女神様の治める世界で、私たちが体を休める期間はどれくらいなのでしょうか? それに戻った瞬間、エスカレーターの事故で死ぬのではと不安なのですが……」
「どのように過ごすかにもよりますが、一年は必要です。残念ですが、これを繰り上げることは難しいでしょう。それに、そちらの世界で起こった誤召喚に関わる事象は、すべてなかったことにしますから、事故については心配せずともよいですよ」
すべてなかったことね。つまり一年後の会社に放り出されることはないのか。時間を遡るってことなのか、それともこちらで二十八歳になっておきながら、戻ってからは年齢詐称して生きていくってこと?
二十九歳になるのに七って言っても大丈夫かな。小ジワとかシミとか、なんか不安だわ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




