第7章:孤立の深化
# 虚無の回廊
## 第7章:孤立の深化
*1995年8月7日*
高橋秀雄は編集部の自分のデスクで、三度目の記事差し止め通知を読んでいた。光明真理教に関する続報記事は、法務部の審査で「法的リスクが高すぎる」と判定されていた。過去一ヶ月間、高橋が執筆した四本の記事は、すべて掲載前に差し止められている。
午前十時、田所編集長が高橋のデスクに近づいてきた。表情は疲労と困惑を示していた。
「高橋君、少し話がある」
二人は編集長室に移動した。田所は扉を閉めると、深いため息をついた。
「君の記事について、上層部から厳しい指摘があった。今後、光明真理教関連の取材は一時停止するよう指示が出ている」
高橋は冷静に反応した。「6月15日のテロ計画はどうなったのですか?あれから二ヶ月近く経っています」
田所は困惑した表情を見せた。「実際には何も起こらなかった。君の情報が間違っていたのかもしれない」
高橋は首を振った。「計画が延期されただけかもしれません。教団は依然として危険な存在です」
「しかし、具体的な被害が発生していない以上、我々が過度に騒ぎ立てるわけにはいかない」
田所の論理は表面的には合理的だった。しかし高橋は、背後にある政治的圧力を感じ取っていた。
午前十一時、高橋は同僚の記者たちと昼食の約束をしていたが、全員から断りの連絡が入った。急用、体調不良、他の取材といった理由だった。これまで親しく接してくれた同僚たちが、明らかに距離を置き始めている。
午後一時、高橋は一人で近くの定食屋で昼食を取った。隣のテーブルでは、他社の記者二人が雑談していた。
「光明真理教の件で騒いでた記者がいたよな」
「ああ、あの人ね。最近見かけないけど」
「危険な橋を渡りすぎたんじゃないか。ああいうのは良くない」
高橋は自分のことを話しているのだと理解した。業界内で、彼は「危険人物」として認識されつつあった。
午後三時、高橋は元信者の田村に連絡を取ろうとした。しかし、以前の電話番号は使用されておらず、勤務先の会社からも退職したという情報を得た。田村は完全に姿を消していた。
午後四時、高橋は教団施設の周辺で張り込みを続けた。しかし、明らかに監視されていることに気づいた。黒いセダンが一定の距離を保って彼の車を追跡している。
高橋は車を停めて周囲を確認した。セダンも停車し、中から二人の男性が降りてきた。男性たちは高橋に近づき、丁寧な口調で話しかけてきた。
「失礼いたします。お話があります」
男性の一人は警察手帳らしきものを提示したが、高橋には詳細を確認する時間が与えられなかった。
「光明真理教に関する取材についてですが、公共の安全のため、一時的に控えていただくようお願いします」
高橋は質問した。「具体的にはどのような安全上の問題でしょうか?」
「詳細はお話しできませんが、現在進行中の捜査に影響を与える可能性があります」
男性の説明は曖昧で、具体性に欠けていた。しかし、その口調には明確な警告の意味が込められていた。
午後五時、高橋は帰社した。編集部の雰囲気は明らかに変化していた。同僚たちは彼と目を合わせることを避け、会話も最小限に留められている。
午後六時、高橋は自宅に向かった。しかし、アパートの前でも同様の監視が続いていることに気づいた。近所の住民らしき人物が、不自然に長時間同じ場所に佇んでいる。
午後七時、高橋は自宅の電話で友人の弁護士に連絡を取ろうとした。しかし、電話線に異常なノイズが混入しており、盗聴されている可能性が高いと判断した。
午後八時、高橋は近所のコンビニエンスストアで夕食を購入した。店員の態度も以前より冷淡で、地域コミュニティからも孤立しつつあることを実感した。
午後九時、高橋は自宅で今後の行動を検討した。正規のメディアを通じた情報発信は不可能になっている。警察の協力も期待できない。同僚や友人からも孤立している。
しかし、高橋は諦めるつもりはなかった。海外メディアへの情報提供、地下出版の可能性、市民団体への直接的な働きかけ。選択肢は限られているが、真実を伝える方法は残されている。
午後十時、高橋は資料を整理しながら、教団の危険性を改めて確認した。化学兵器製造の証拠、政府内部への浸透、大規模テロ計画。これらの情報を社会に伝えることは、ジャーナリストとしての使命だった。
午後十一時、高橋は明日からの新しい戦略を立てた。フリーランスジャーナリストとして独自に活動し、海外メディアとの連携を模索する。危険は増大するが、真実を守るためには必要な選択だった。
深夜零時を過ぎ、高橋は窓の外を見つめた。静かな住宅街の夜景の中で、監視の目が光っている。彼は完全に孤立していたが、真実への信念は揺らがなかった。
深夜一時、高橋は就寝前に資料の隠し場所を再確認した。万が一の際に備えて、複数の場所に分散して保管している。これらの証拠が失われれば、教団の危険性を証明することは不可能になる。
高橋は明日も続く孤独な戦いに備えて眠りについた。夢の中でも、彼は真実を追い続けていた。しかし現実は、彼の周囲から確実に理解者を奪い去り、完全な孤立へと導いていく。
深夜二時、アパートの周辺では依然として監視が続いていた。高橋を見張る者たちは、彼の行動を詳細に記録し、上部組織に報告している。真実を追求する者への包囲網は、着実に狭められつつあった。
翌朝、高橋が目覚める頃には、彼を取り巻く状況はさらに悪化していることだろう。しかし、ジャーナリストとしての矜持と使命感だけは、誰にも奪うことができない最後の砦として残っていた。