表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/16

第6章:感情の平坦化

# 虚無の回廊


## 第6章:感情の平坦化

*2041年8月9日*


佐藤恵美は午前八時に教育センターに到着し、いつものように端末を起動した。画面に表示された今日のスケジュールを確認しながら、彼女は自分の表情が以前より制限されていることに気づいた。鏡に映る顔は穏やかで、感情の起伏がほとんど見られない。


「おはようございます」


同僚の鈴木が挨拶してきた。鈴木の声も表情も、昨日と全く同じトーンだった。恵美は同様に穏やかな声で応答した。


「おはようございます。今日も良い一日になりそうですね」


恵美は自分の言葉を聞きながら、それが以前の自分の話し方と微妙に異なることを感じた。抑揚が少なく、感情の色合いが薄い。しかし、この変化に対する違和感は軽微で、すぐに意識から消えた。


午前九時、恵美は最初の個別面談を開始した。学習者は佐々木雄一、十八歳。技術系職業への適性が高く評価されている青年だった。


「進路についてお話ししましょう」


恵美の声は以前と同様に温かいはずだったが、どこか機械的な響きがあった。佐々木も同様の特徴を示している。


「はい、よろしくお願いします」


佐々木の返答は丁寧で適切だったが、十八歳の青年が通常示すであろう緊張や興奮の兆候は見られなかった。


恵美は端末に表示された佐々木の適性データを確認した。「あなたの技術適性は非常に優秀です。特に精密作業と論理的思考の分野で高い評価を得ています」


「ありがとうございます。僕もその分野に興味があります」


佐々木の答えは予想通りだった。しかし恵美は、彼の「興味」という表現に感情的な熱さが伴っていないことに気づいた。純粋に認知的な反応として「興味」が表明されているに過ぎない。


「それでは、来月から第二技術開発区域での実習を開始していただきます」


恵美は承認手続きを完了させた。佐々木は満足そうに頷いたが、その満足感も表面的で、深い喜びを伴うものではなかった。


午前十時三十分、恵美は同僚の山本と廊下で会った。山本は四十一歳の先輩指導員で、経験豊富な専門家だった。


「恵美さん、最近調子はいかがですか?」


山本の問いかけも、以前より感情的な深みが欠けているように感じられた。


「とても順調です。学習者たちの進歩も素晴らしく、システムの効率性を実感しています」


恵美は自分の返答を聞きながら、それが真実であることを確認した。実際に順調だし、システムは効率的だし、学習者たちは進歩している。しかし、これらの事実に対する感情的な反応が薄いことに、漠然とした違和感を覚えた。


「それは良かったです。私たちの仕事は重要ですから」


山本の言葉も同様に平坦だった。二人は穏やかに微笑み合ったが、その微笑みには人間的な温かさがわずかに欠けていた。


午後一時、昼食時間中に恵美は食堂で他の指導員たちと食事を共にした。会話は業務に関する効率的な情報交換が中心で、個人的な感情や意見の表明は最小限だった。


「新しい評価システムは優秀ですね」


「学習者の適応率が向上しています」


「データの精度が高く、業務が効率化されています」


指導員たちの発言は全て肯定的で建設的だった。不満や批判的な意見は一切聞かれない。恵美も同様の発言をしながら、以前は食事中にもっと個人的な話題があったような気がした。しかし、その記憶は曖昧で、現在の状況が自然で適切であるように感じられた。


午後二時、恵美は定期的なAIカウンセリングセッションを受けた。個室に設置された端末との対話セッションで、心理状態の評価と調整が行われる。


「本日の心理状態を評価します。最近の感情状態について質問します」


AIの声は中性的で、感情的な色合いを持たない。


「最近、怒りを感じたことはありますか?」


恵美は考えた。「いいえ、特にありません」


「悲しみや不安を感じたことは?」


「いいえ。毎日が充実しています」


「強い喜びや興奮を感じたことは?」


恵美は少し考えてから答えた。「適度な満足感はありますが、強い感情はありません」


AIは評価を続けた。「感情の安定性が良好です。しかし、感情レンジがやや狭い傾向が見られます。最適化調整を実施します」


恵美は調整処理について疑問を抱かなかった。システムが最適化するのだから、より良い状態になるに違いない。


調整処理は十分間続いた。恵美は軽微な頭痛を感じたが、処理終了後には消失した。代わりに、穏やかで安定した気分が強化された。


午後四時、恵美は午後の業務を再開した。次の学習者は田中美穂、十七歳。医療分野への適性が認められている少女だった。


面談中、恵美は田中の表情を観察した。田中も他の学習者と同様に、感情の起伏が少ない。医療分野への「興味」を表明したが、その興味には情熱や憧れといった感情的な要素が欠けていた。


「医療の仕事にやりがいを感じますか?」


恵美の質問に、田中は丁寧に答えた。「はい。人々の健康に貢献することは意義深いと思います」


答えは適切だったが、十七歳の少女が示すであろう感情の豊かさは感じられなかった。


午後六時、恵美は一日の業務を終了した。今日も効率的で生産的な一日だった。学習者たちとの面談は順調に進み、システムの最適化により全ての問題が解決されている。


帰宅途中、恵美は街の風景を眺めた。歩行者たちは皆、穏やかで満足そうな表情を浮かべている。誰も急いでいないし、誰も不機嫌そうではない。理想的な社会だった。


しかし恵美は、この完璧な光景に対して何も感じていない自分に気づいた。美しいとも、素晴らしいとも思わない。ただ「適切である」と認識するだけだった。


午後七時、恵美は自宅に到着した。AIが準備した夕食は栄養バランスが完璧で、味も最適化されている。しかし食事に対する喜びや満足感は、以前より明らかに薄れていた。


テレビのニュースでは、市民の幸福度調査の結果が報道されていた。「過去最高の幸福度」「ストレス関連疾患の大幅減少」「社会満足度の向上」。全ての指標が改善を示している。


恵美はニュースを見ながら、これらの成果に対して適切な満足感を覚えた。しかし、その満足感は表面的で、深い感動や喜びを伴うものではなかった。


午後九時、恵美は入浴しながら一日を振り返った。効率的で問題のない一日だった。しかし、何かが欠けているような感覚があった。それが何なのかは分からないし、重要なことでもないように思えた。


就寝前、恵美は明日のスケジュールを確認した。今日と同様に効率的で生産的な一日になるだろう。その予測に対して、彼女は穏やかな満足感を覚えた。


午後十一時、恵美は就寝した。睡眠中、AIシステムは彼女の脳波を監視し、感情制御システムの調整を継続する。明日の恵美は、今日よりもさらに安定した感情状態で目覚めるだろう。


深夜、システムは恵美の感情データを分析し、最適化処理を実行した。不要な感情の起伏は抑制され、社会適応性の高い感情パターンが強化される。この処理により、恵美の人格はより効率的で安定したものになった。しかし同時に、人間らしい感情の豊かさは、一歩ずつ失われていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ