第5章:証拠の収集
# 虚無の回廊
## 第5章:証拠の収集
*1995年5月21日*
高橋秀雄は新宿駅の東口改札前で、待ち合わせの相手を探していた。午後二時三十分、約束の時刻より五分早く到着していた。人混みの中で、高橋は黒いスーツを着た中年男性を見つけた。男性は約束通り、赤いハンカチを胸ポケットに挿している。
「田村さんでしょうか」
高橋が声をかけると、男性は緊張した表情で頷いた。「はい。お疲れ様です」
田村と名乗った男性は、光明真理教の元信者だった。三ヶ月前に教団を脱会し、現在は都内の小さな会社で事務員として働いている。高橋への連絡は、匿名の手紙によるものだった。
二人は駅から徒歩十分の喫茶店に移動した。店内は薄暗く、客はまばらだった。高橋は奥の席を選び、田村と向かい合って座った。
「貴重な情報をお持ちだと伺いましたが」
高橋の問いかけに、田村は周囲を見回してから答えた。「はい。しかし、これは私の命に関わる問題です。記事にする際は、身元が特定されないよう配慮していただけますか」
高橋は承諾した。「もちろんです。情報源の保護は我々の義務です」
田村は安堵の表情を見せ、鞄から封筒を取り出した。「これは教団内部の機密文書です。私が在籍していた時に、こっそり複写したものです」
封筒の中には、十数枚の書類が入っていた。高橋は内容を確認しながら、その重要性を理解した。
最初の書類は「特別研究計画書」というタイトルだった。教団の科学研究部門が作成したもので、化学兵器の製造計画が詳細に記載されている。サリンガスの製造手順、必要な設備、実験スケジュールが含まれていた。
二番目の書類は「信者管理システム」に関するものだった。教団は信者に対して段階的な薬物投与を実施し、思考能力を低下させる実験を行っていた。被験者の反応データが表形式で整理されている。
三番目の書類は「東京攻撃計画」だった。地下鉄の主要路線でサリンガスを散布し、大量殺戮を実行する具体的な計画書だった。実行予定日は「1995年6月15日」と記載されている。
高橋は書類を読みながら、その内容の深刻さに戦慄した。「これは本物ですか?」
田村は頷いた。「間違いありません。私は研究部門で事務作業をしていたので、これらの書類を直接見ていました」
「なぜ今になって公表することにしたのですか?」
田村の表情が暗くなった。「最初は教団の教えを信じていました。しかし、実験の被害者たちを見ているうちに、これが宗教ではなく犯罪組織だということに気づいたんです」
田村は続けた。「特に、子供たちへの薬物投与実験が始まった時、私は限界を感じました。純粋な子供たちが、薬物で廃人同様になっていく姿を見て、これ以上黙っていることはできませんでした」
高橋は田村の証言をメモに記録した。「教団の組織構造についても教えてください」
田村は組織図を描きながら説明した。「教団は表向きの宗教活動と、秘密の研究活動に分かれています。一般信者は宗教活動しか知りません。研究活動は幹部の一部だけが関与しています」
「政府や警察との関係は?」
田村の表情が緊張した。「それが最も危険な部分です。教団は政治家や警察官を信者として獲得し、内部情報を入手しています。捜査情報も事前に教団に漏れています」
高橋は具体的な名前を尋ねた。田村は政治家二名と警察幹部一名の実名を挙げた。いずれも高橋が知っている著名人だった。
午後四時、田村は追加の証拠を提示した。教団施設内で撮影された写真だった。白衣の研究者たちが化学兵器を製造している様子が写っている。
「これらの写真はいつ撮影されたものですか?」
「二ヶ月前です。私が脱会する直前に撮影しました」
高橋は写真を詳しく調べた。製造設備は本格的で、相当な資金が投入されていることが分かる。
「教団の資金源は?」
「主に信者からの献金ですが、一部の企業からも資金提供を受けています。企業名は分かりませんが、相当な額です」
午後五時、田村は最後の資料を取り出した。「これは教団の真の目的を示す文書です」
文書のタイトルは「日本浄化計画」だった。教団は日本社会を破壊し、自分たちの理想社会を建設することを目指していた。具体的には、政府転覆、既存宗教の排除、教団による国家統治が計画されている。
「これらの計画は実現可能なのですか?」
田村は深刻な表情で答えた。「教団は本気です。必要な資源と人材を既に確保しています。6月15日の攻撃が成功すれば、社会的混乱を利用してさらなる破壊活動を展開する予定です」
高橋は全ての資料を確認し終えた。これらの証拠があれば、教団の危険性を社会に警告することができる。しかし同時に、自分自身の身の危険も増大することを理解していた。
「田村さん、これらの情報を提供していただき、ありがとうございます。必ず記事にして、社会に警告します」
田村は安堵と不安の混じった表情を見せた。「記事が掲載されるまで、私は身を隠します。教団の報復が怖いんです」
二人は喫茶店を出て、駅で別れた。高橋は田村の連絡先を確認し、必要に応じて再度連絡することを約束した。
午後六時、高橋は編集部に戻った。入手した資料の重要性を考慮し、直ちに記事の執筆に取りかかった。しかし、これらの情報を公表することの危険性も十分に理解していた。
午後八時、高橋は田所編集長に資料を見せた。田所は内容を読みながら、表情を次第に深刻にしていった。
「これは大変なことだ。しかし、この記事を掲載すれば、雑誌だけでなく君自身も標的になるだろう」
高橋は覚悟を決めていた。「それでも、社会に警告する義務があります。6月15日まで、あと三週間しかありません」
田所は長い沈黙の後、頷いた。「分かった。しかし、万全の法的検証が必要だ。弁護士とも相談しよう」
午後十時、高橋は自宅に帰った。今日得た情報の重大さを考えながら、彼は明日からの厳しい戦いに備えた。真実を守るための戦いは、これからが正念場だった。
深夜、高橋は資料のコピーを作成し、複数の場所に隠した。万が一の場合に備えての予防措置だった。窓の外では、平和な夜の街が静かに眠っている。その平穏が、三週間後に破られるかもしれないことを知っているのは、高橋を含む極少数の人間だけだった。