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第3章:圧力の始まり

# 虚無の回廊


## 第3章:圧力の始まり

*1995年4月2日*


高橋秀雄は編集部のデスクで、完成した原稿を読み返していた。A4用紙で十二枚の記事は、光明真理教の実態について三週間の取材で得た情報を整理したものだった。地下施設での化学実験、信者への薬物投与の疑い、教団幹部の経歴詐称。それぞれの事実を裏付ける証拠写真と証言者のコメントが添付されている。


午前十時三十分、編集長の田所が高橋のデスクに近づいてきた。五十二歳の田所は、二十年以上この週刊誌で働いている熟練のジャーナリストだった。しかし今朝の彼の表情には、普段見られない緊張感があった。


「高橋君、ちょっと話がある」


田所の声は低く、周囲に聞こえないよう配慮されていた。高橋は原稿をファイルに挟み、田所に従って編集長室に向かった。


編集長室の扉が閉まると、田所は深いため息をついた。「君の光明真理教の記事だが、少し問題が生じている」


高橋は椅子に座り、田所の続きを待った。


「今朝、広告部の方から連絡があった。光明真理教関連の記事掲載について、複数の広告主から懸念の声が上がっているそうだ」


田所は机上の書類を手に取った。「特に、A製薬とB商事から強い反対意見が出ている。彼らは宗教団体への批判記事が社会的混乱を招く可能性があると主張している」


高橋は冷静に反応した。「具体的にはどのような懸念でしょうか?」


「記事の内容が憶測に基づいており、名誉毀損の可能性があるということだ。また、宗教の自由を侵害する恐れもあると指摘されている」


田所の説明を聞きながら、高橋は記事の根拠を頭の中で再確認した。すべての情報には信頼できる情報源があり、写真や書類による物的証拠も存在する。法的な問題はないはずだった。


「編集長、記事の内容は事実に基づいています。情報源の信頼性も十分に検証しました」


田所は頷いた。「君の取材能力は信頼している。問題は事実かどうかではなく、政治的な影響だ」


午前十一時、田所の電話が鳴った。彼は受話器を取り、短い会話を交わした。電話を切ると、田所の表情はさらに深刻になった。


「今のは警視庁の知り合いからだった。光明真理教に関する報道については、慎重な対応を求めるという非公式な要請があったそうだ」


高橋は驚いた。警察が報道に介入することは異例だった。「どのような理由でしょうか?」


「社会不安の防止と、捜査への影響を避けるためということだ。詳細は教えてもらえなかったが、何らかの内部調査が進行中らしい」


田所は窓の外を見つめながら続けた。「君の記事が事実だとすれば、警察も同様の情報を把握しているはずだ。にもかかわらず、報道を控えるよう要請してくるということは...」


高橋は田所の言葉の意味を理解した。警察内部にも教団の影響が及んでいる可能性があった。


午後二時、高橋は編集部に戻った。同僚の記者たちは普段通り業務に励んでいるが、高橋には彼らの視線が以前より避けられているように感じられた。


午後三時、広告部の部長が編集部を訪れた。部長は田所と短時間話し合った後、高橋を呼び出した。


「高橋さん、お疲れ様です。記事の件でお話があります」


部長の口調は丁寧だったが、表情には緊張が見られた。「複数の広告主から、宗教関連記事の掲載について強い懸念が示されています。特に今回の記事は、社会的影響が大きすぎると判断されています」


高橋は静かに反論した。「社会的影響があるからこそ、報道する意義があるのではないでしょうか」


部長は困惑した表情を見せた。「理念としてはそうですが、現実的な経営判断も必要です。広告収入の減少は雑誌の存続に関わる問題です」


午後四時、編集会議が開かれた。高橋の記事について、編集部内で議論が行われる。


「記事の内容は優秀だが、タイミングが悪い」という意見が複数の編集者から出された。「もう少し情報を精査してから掲載しても遅くない」「教団側の反論も聞くべきだ」といった慎重論が続いた。


高橋は反駁した。「教団側への取材も試みましたが、回答を拒否されました。これ以上の遅延は、読者の知る権利を阻害することになります」


しかし会議の流れは、記事の掲載延期に傾いていた。最終的に田所が妥協案を提示した。


「記事を大幅に短縮し、推測部分を削除して事実のみを報道する。教団名も仮名とし、より慎重な表現に修正する」


高橋は抗議した。「それでは記事の本質が失われます。読者は真実を知る権利があります」


田所は苦渋の表情を浮かべた。「現状では、これが最善の選択だ。全面的な掲載中止よりは良いだろう」


午後六時、修正作業が始まった。高橋の十二枚の原稿は、三枚に圧縮された。教団の危険性を示す具体的な証拠は削除され、一般的な新興宗教の問題として処理された。記事のタイトルも「新興宗教の実態調査」という曖昧なものに変更された。


午後八時、高橋は編集部を後にした。修正された記事は、もはや彼が三週間かけて調査した真実を伝えるものではなかった。骨抜きにされた記事は、読者に何の警告も与えることができない。


帰宅途中、高橋は書店で他の雑誌を手に取った。どの雑誌も、政治的に安全な話題ばかりを扱っている。真実を追求するジャーナリズムの姿は、そこには見当たらなかった。


午後九時三十分、高橋は自宅のアパートに到着した。一人暮らしの部屋は静寂に包まれている。彼は机の引き出しから、削除された原稿のコピーを取り出した。


光明真理教の真の危険性を示すこれらの情報は、もはや世に出ることはないかもしれない。しかし高橋は、諦めるつもりはなかった。別の方法で、必ず真実を伝える手段を見つけるつもりだった。


深夜、高橋は明日の行動計画を立てた。他の媒体への売り込み、海外メディアへの情報提供、地下出版の可能性。選択肢は限られているが、真実を守る戦いは続けなければならない。


部屋の窓から見える夜景の中で、街の明かりが静かに瞬いていた。その光の下で、多くの人々が平穏な日常を過ごしている。彼らが知らない危険から守るために、高橋は孤独な戦いを続ける決意を新たにした。

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