第1章:真実の探求者
# 虚無の回廊
## 第1章:真実の探求者
*1995年3月15日*
高橋秀雄は車のエンジンを切り、フロントガラス越しに白いコンクリート塀を見つめた。午後三時の太陽が、塀の向こうに建つ三階建ての建物の屋根を照らしている。看板には「光明真理教 東京本部道場」と縦書きで記されていた。文字は新しく、ペンキの匂いがまだ残っているように見えた。
三十七歳のジャーナリストは、助手席の書類ファイルから一枚の写真を取り出した。建設会社の作業員が、この施設の地下に大型の換気設備を設置している様子が写っている。匿名の情報提供者が郵送してきたものだった。写真の裏には青いボールペンで「1994年11月」と書かれている。
高橋は腕時計を確認した。道場の定期説明会が始まる時刻まで、あと十五分。彼は過去二週間、この建物を断続的に監視していた。平日の午後、決まって白衣を着た男性が化学薬品らしき段ボール箱を搬入する姿を目撃している。箱には「工業用洗剤」という不自然に大きな文字でラベルが貼られていた。
車内のラジオからは、政治家の汚職事件に関するニュースが流れている。高橋は音量を下げ、再び建物に視線を向けた。正門の脇に立つ警備員は、通りを行き交う人々を注意深く観察していた。その男の視線が一瞬、高橋の車に向けられる。高橋は新聞を広げ、顔を隠した。
午後三時十五分、説明会の参加者らしき人々が道場に向かって歩いている。中年の主婦、背広姿のサラリーマン、大学生風の若者。いずれも穏やかな表情を浮かべ、足取りは軽い。高橋は彼らの後を追うように車から降りた。
道場の入口で、白い法衣を着た女性が参加者を迎えている。「本日はお忙しい中、ありがとうございます。受付はこちらでございます」。声は優しく、笑顔は完璧だった。高橋は偽名で作った身分証明書を提示し、用意された名札を胸に付けた。
説明会場は二階の大部屋だった。約五十人の参加者が、演壇に向かって並べられた椅子に座っている。壁には「純粋な未来への導き」と書かれた横断幕が掲げられていた。文字は金色で、周囲には光を表現したと思われる幾何学模様が描かれている。
午後三時三十分、壇上に男性が現れた。年齢は四十代前半、痩身で知的な印象を与える風貌。参加者たちは一斉に拍手を始めた。男性は深々と頭を下げ、マイクを手に取った。
「皆様、本日は貴重なお時間をいただき、心より感謝申し上げます。私は光明真理教の指導部で、科学的探求を担当しております田村と申します」
田村と名乗った男性の声は落ち着いており、抑揚を抑えた話し方だった。高橋は手帳にメモを取りながら、男性の経歴について記憶を辿った。田村真一、東京大学理学部化学科卒業、大手製薬会社の研究員を経て三年前に教団に参加。高橋が事前に調べた情報と一致している。
「現代社会は、物質的な豊かさを追求するあまり、精神的な純粋さを見失っております。私どもの教えは、科学的手法と古来の叡智を融合させ、人間本来の能力を覚醒させることを目的としております」
参加者たちは熱心に聞き入っている。高橋は会場の雰囲気を観察した。空調が効いた室内は快適で、照明は参加者の緊張を和らげるよう計算されているように見えた。
田村は演壇の脇に設置されたホワイトボードに、脳の図を描き始めた。「人間の脳波には、現在の科学では解明されていない神秘的な力が秘められています。適切な訓練により、この力を引き出すことが可能なのです」
高橋は田村の手元を注視した。男性の指には小さな傷跡があり、化学薬品を扱う作業に従事していることを示唆していた。
説明会は一時間続いた。参加者からの質問に、田村は丁寧に答えていく。「瞑想と科学的手法の組み合わせ」「脳波調律による意識の覚醒」「現代医学を超越した治療法」。専門用語を交えた説明は、参加者たちの知的好奇心を刺激しているようだった。
午後四時三十分、説明会が終了した。参加者の多くが、個別相談の申し込み用紙に記入している。高橋も用紙を受け取ったが、記入せずに会場を後にした。階段を降りる際、地下に続く扉が一瞬開くのが見えた。白衣の男性が何かの機器を運んでいる。高橋は足を止め、その光景を記憶に焼き付けた。
道場を出た高橋は、向かいの喫茶店に入った。窓際の席から建物を見渡せる位置に座り、コーヒーを注文した。午後五時を過ぎると、説明会の参加者たちが三々五々と帰路についた。彼らの表情は満足げで、中には興奮を隠しきれない様子の人もいた。
高橋は手帳を開き、今日得た情報を整理した。教団の勧誘手法は巧妙で、科学的根拠を装いながら参加者の心理を操作している。地下施設の存在、化学薬品の搬入、指導者の経歴。断片的な情報が、ある仮説を形成し始めていた。
午後六時、高橋は喫茶店を出て車に戻った。エンジンをかけながら、彼は明日の取材予定を頭の中で組み立てた。元信者へのインタビュー、化学薬品の調達ルートの調査、警察関係者への非公式な接触。真実に近づくためには、まだ多くの作業が必要だった。
車が住宅街の狭い道を走り抜ける間、高橋の脳裏には田村の言葉が反響していた。「純粋な未来への導き」。その言葉の背後に隠された真の意味を、彼は必ず突き止めるつもりだった。夕日が西の空に沈みかける中、ジャーナリストの一日は静かに終わった。しかし彼の探求は、まだ始まったばかりだった。