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第9章:最後の抵抗

# 虚無の回廊


## 第9章:最後の抵抗

*1995年11月18日*


高橋秀雄は新宿の小さな印刷所の奥の部屋で、最後の原稿を書き上げていた。手書きの文字で記された十五枚の文書は、光明真理教の真実を世に問う最後の警告だった。週刊誌からの解雇通告を受けて三ヶ月、高橋は独自の地下出版ネットワークを構築していた。


「これで完成ですね」


印刷所の経営者である吉田が、原稿を確認していた。五十八歳の吉田は、学生運動の時代から反体制的な文書の印刷を続けている。


「はい。これが最後の機会かもしれません」


高橋の声には疲労が滲んでいた。過去三ヶ月間の孤独な戦いで、彼の体力と精神力は限界に近づいていた。


原稿のタイトルは「日本破壊計画の真実――光明真理教の恐るべき野望」だった。田村から入手した内部文書、化学兵器製造の証拠写真、政府関係者への浸透の詳細。すべての情報が込められていた。


午後二時、印刷作業が開始された。五百部の小冊子を作成し、全国の市民団体、海外メディア、大学研究者に配布する予定だった。


「高橋さん、外に不審な車が停まっています」


吉田の息子である大学生の健一が、窓から外を覗いて報告した。黒いセダンが三台、印刷所の周辺に配置されている。


高橋は状況を確認した。明らかに監視態勢が敷かれている。教団の関係者か、警察の関与かは不明だが、印刷作業が察知されていることは確実だった。


「作業を急ぎましょう」


印刷機の音が部屋に響く中、高橋は窓の外を見つめた。これまで追い続けてきた真実が、ついに形になろうとしている。しかし同時に、最大の危機も迫っていた。


午後三時三十分、印刷作業が完了に近づいた頃、印刷所の正面玄関で大きな音がした。複数の男性が建物に侵入してくる足音が聞こえる。


「裏口から逃げてください」


吉田が高橋に指示した。しかし、裏口にも人影が見えた。完全に包囲されている。


「警察です。捜索令状を持っています」


玄関から声が響いた。しかし、高橋はその声に不審を抱いた。正規の警察の手続きにしては性急すぎる。


印刷室の扉が開かれ、五人の男性が入ってきた。先頭の男性は警察手帳を提示したが、高橋にはその内容を確認する時間が与えられなかった。


「高橋秀雄さんですね。名誉毀損及び業務妨害の疑いで事情聴取にご協力いただきます」


高橋は抗議した。「どのような名誉毀損でしょうか?具体的な根拠を示してください」


「詳細は署で説明します」


男性の答えは曖昧だった。高橋は、これが正規の警察手続きではないことを確信した。


印刷されたばかりの小冊子が証拠品として押収された。また、高橋が持参していた資料も全て没収される。三ヶ月間かけて集めた証拠の大部分が失われた瞬間だった。


「印刷機も証拠品として押収します」


男性たちは印刷機械も運び出し始めた。吉田は抗議したが、「捜査に必要」という理由で強制的に持ち去られた。


午後五時、高橋は都内の警察署に連行された。しかし、取調室での尋問は通常の警察手続きとは明らかに異なっていた。


「光明真理教に関する取材は、なぜ続けているのですか?」


尋問官の質問は、犯罪捜査というより情報収集に近かった。


「ジャーナリストとして、社会に警告する義務があります」


高橋の答えに対し、尋問官は資料を取り出した。「あなたの情報源である田村という人物は、精神的に不安定で信頼性に欠けることが判明しています」


高橋は驚いた。田村に関する詳細な調査が行われていることが明らかになった。


「また、あなたが入手したとする内部文書は、偽造されたものである可能性が高いとの鑑定結果が出ています」


尋問官の説明は、高橋の証拠の信頼性を根本から否定するものだった。


午後八時、高橋は釈放された。しかし、「今後は光明真理教に関する活動を控える」という誓約書への署名を求められた。高橋は拒否したが、「社会秩序の維持のため」という名目で強い圧力がかけられた。


午後九時、高橋は印刷所に戻った。しかし、建物は封鎖され、立ち入り禁止のテープが張られていた。吉田とその息子も、事情聴取のため連行されていた。


高橋の最後の拠点は失われた。証拠資料も、協力者も、印刷手段も、すべてが奪われていた。


午後十時、高橋は自宅に戻った。アパートの部屋も既に家宅捜索を受けており、隠していた資料の大部分が押収されていた。残されたのは、高橋の記憶と、わずかな証拠のコピーだけだった。


深夜零時、高橋は最後に残された手段を検討した。海外メディアへの直接的な情報提供。しかし、パスポートも押収されており、海外渡航は不可能だった。


深夜一時、高橋は机に向かい、手紙を書き始めた。海外の報道機関、人権団体、研究機関宛ての情報提供書だった。残された記憶を頼りに、教団の危険性を訴える最後のメッセージを綴った。


深夜二時、高橋は完成した手紙を読み返した。これが彼にできる最後の抵抗だった。明日、これらの手紙を投函すれば、わずかな可能性にかけることができる。


しかし高橋は、自分の時間が残り少ないことを理解していた。組織的な圧力は彼の存在そのものを否定しようとしている。真実を知る者として、彼は最も危険な存在になっていた。


深夜三時、高橋は明日の行動計画を立てた。早朝に手紙を投函し、その後は身を隠す必要がある。しかし、どこに隠れても安全ではないことも分かっていた。


窓の外では、依然として監視が続いていた。高橋を取り巻く包囲網は完璧で、逃げ道は残されていない。それでも彼は、最後まで真実を守る決意を固めていた。


夜明け前、高橋は短い眠りについた。夢の中でも、彼は警告を発し続けていた。しかし現実は、彼の声を永遠に封じようとしている。明日という日が、高橋にとって最後の日になるかもしれなかった。

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