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10、【進軍】

教会の扉をくぐると、外の喧騒が一気に遮られて静寂が広がった。


天井は高く、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が床に神聖な模様を描いている。建物全体に漂う空気はどこか張り詰めていて、厳かな空気にのまれるように背筋を伸ばした。


案内されたのは、教会で最も広いとされる空間――荘厳な女神像が鎮座する礼拝堂だった。ベンチも椅子も一切ない、ほぼ何もない空間に、あたしと天啓を補佐する女性、そしてその背後にそびえる像だけが存在している。


「こちらに。無心でお祈りをお願いします」


補佐の女性は無機質な声でそう言って、女神像の前へと促す。


あたしは緊張した面持ちでひざをついた。両手を組み、そっと目を閉じる。


……何も起こらない。


体に何かが宿る感覚も、魔力が立ち昇る感じもなく、ただ静かに時間が流れていくばかり。


おそるおそる目を開けて女性を見ると、もう終わったと言わんばかりに小さくうなずいた。


「儀式は終了しました。天啓は授かっています」


「えっ……はい?」


あまりに淡々としていて、逆に混乱した。


そのまま彼女は冷静な口調で、こう言った。


「与えられた特性は、“現在の魔力をおよそ100倍にする”ものです」


「……は?」


あたしの脳が、一瞬、処理を拒否した。


火を出すとか、水を操るとか、雷を呼ぶとか、そういう派手な話じゃないの? 100倍って。なにそれ。桁が違ってない?


「確認済みです。魔力の性質や魔術適性はありません」


さらっと言い切られた。追加の情報とか、励ましの言葉とかは一切ない。入国審査の係員並みに事務的。


「では、以上です。退出してください」


「えっ、あっ、はい……」


一礼して部屋を後にした。なんかこう、儀式というより荷物を受け取ったような感じ……すごく居た堪れない。


待合室ではキイとユエが座って待っていた。


「ウィズ、終わった? どうだった?」


「……魔力が、100倍になったらしいです」


「おぉ!? それすごいじゃないか!」


即座にキイが目を輝かせて褒めてくれた。


だけど――


「……いや、あたし魔術使えないのに、100倍されても意味ないですよ。0×100は、0です……」


「……あー、それは……うん……」


絶妙な表情でユエがあたしの肩に手を置いて、静かにひとこと。


「……残念だったね」


はい、バッサリきました。


「いや、ちょっと待って。努力すれば、何かしら開花したりは――」


「ないない。火の特性がないと火は使えないし、水も同様。魔術は、特性の有無で決まる」


追い打ちをかけるようにまたバッサリいかれた。夢も希望もない。


「でも、魔力があるだけいいじゃないか。私なんて“体が頑丈になる”って特性だったからな。最初は地味でがっかりしたが、今では案外重宝してる」


そう言いながら、キイがふわっとあたしの頭に手を置いて撫でてくれた。


や、優しい……。っていうか、なで方が妙に上手い……。


「でもキイみたいな特性って、元から体格や筋力がある人に選ばれるって話なんだけどなぁ……」


「えっ、それって……もしかして、あたしにも、実は潜在的に魔術の才能が……」


「ないってば。ちゃんと調べてもらったんでしょ?」


「ぐぅ……」

「でも、そういう期待を持つ気持ちは分かるよ。でも私は現実主義。魔術が使えると思って戦場に出て、実は使えなかった――ってなったら、命に関わるでしょ?」


「そ、それは……それはたしかに笑えない……」


「だから安心して。私がいる。何かあったら、力になる」


そう言って、またぽんぽんと頭を撫でてくれるキイ。


――ああ、このままこの手を枕にして昼寝したい。


「うん。あたし、キイさんに、ついていきます」


そう、心から思った瞬間だった。


突如として、街全体を震わせるような音が鳴り響いた。


その音は、まるで空気を引き裂く刃のようだった。


――ゴォォン、ゴォォン……


街全体に鳴り響く警鐘。耳をつんざくその響きに、あたしの心臓は瞬間、固く凍った。


足元がふらつく。肺の奥が一気に冷えて、深く息が吸えなくなる。今の音が、何を意味しているのかなんて、考えなくても分かった。


――始まる。


ユエはすぐに背中の杖を抜いて構え、空気を読むように周囲を見回してる。キイは……あたしの頭に乗せていた手を、ずっとそのままにしていた。


その手の温もりが、たまらなく嬉しかった。


あたしのことを、まだ守る対象にしてくれている。そう感じられた。それなのに、心の奥では、怖くてたまらなかった。あの手がもうすぐ届かない場所へ行ってしまうんだと、嫌というほどわかっていて。


警鐘が止むのとほぼ同時に、白銀の鎧をまとった兵士が駆け寄ってきた。呼吸は荒く、頬には汗。けれどその顔には、任務を抱える者の緊張と義務感が貼りついていた。


「キイさん! ただいま伝令念和が飛んでいます! 西及びに北から、プレリー帝国、シュルド王国、エスカ合衆国――三国連合軍が接近中です! 数はおよそ三千!」


言葉が、耳の奥に突き刺さる。実感が追いつかなくて、心が先に悲鳴を上げていた。


「我がテレジア軍三万と比べて数では上回っていますが――プレリー帝国からはティンバーレイク隊七百、シュルド王国からユウ王直属指揮によるアイスハイト隊一千、エスカ合衆国は英雄ジャック率いるリンデル旅団五十、さらにエスカ騎士団千二百五十――!」


兵士は、早口だった。いや、そうするしかなかったんだ。言葉に感情が入りすぎると、喉がつまってしまうから。伝えるべき情報だけを、機械のように吐き出す姿が逆に切実で……あたしは無意識に、袖をぎゅっと握っていた。


「リンデル旅団、総勢五十、全員参上。各隊の主力メンバー、確認済みとのことです!」


「なんだそれは! 間違いではないのか!?」


キイの声が低く、地面にしみこむように響いた。


「間違いありません! 索敵班より、特性保持者複数名で確認済みです!」


キイが一歩だけ前に出る。口元が、かすかに引き結ばれていた。だがあたしにはわかった。ほんのわずか、眉が動いていた。彼女だって、何も感じていないわけじゃない。心を揺らすには、十分な報せだった。


「ジャック……あいつだけでも手を焼くというのに……」


ぽつりとこぼれたその声に、今度はユエがかすれた声で口を挟む。


「……ねえ。リンデル旅団五十って……」


その一言で、あたしの中の不安が急激に膨れ上がった。


なに、五十? それだけ? たった五十で、何ができるって言うの。


でも、キイが静かに答える。


「全員で五十人程だったから、総勢だろう。リンデル旅団だけで、北門は危ないかもしれない」


「え……!? 五十人で……?!」


うろたえた声が、反射的にあたしの喉から漏れた。


さっき、兵は三万人いるって言ってた。北門に半数を送ったとして、一万五千。それでも、危ない?


……そんな、冗談でしょう。


なのに、誰も否定してくれなかった。返ってきたのは、さらなる現実だった。


「キイ殿とテレジア聖王国との約定により、自国を存続させるための防衛活動を要請! 要請を拒んだ場合、条約に基づくすべての協定は無効となり――」


「要請に応じる! 規約の破棄は認めない!」


……応じた。


その一瞬、あたしの中で、何かが音を立ててヒビ割れた。


自分でもどうしてかはわからない。ただ、これからキイが“行く”と決めたということだけが、ひたひたと現実味を持ってのしかかってきた。


優しくて、強くて、まっすぐで――あたしの頭を撫でてくれた、その手が――


戦場に、行く。


本当に……この人は、戻ってこないかもしれない。


胸がぎゅっと締め付けられる。寒くないのに、指の先から体温が引いていくのがわかった。


どうして、こんな時まで、あの手は、あたしの頭の上に乗ったままなんだろう。


優しさが、ひどすぎた。


「ちょっと! 死ぬ気でいるの!?」


ユエの声が響く。思い切り、杖でキイの肩を殴った。その角が当たる鈍い音が、やけに耳に残った。けれどキイは、微動だにしない。肩も、表情も、笑みさえも崩れなかった。恐ろしくなるほど、彼女は静かだった。


あたしの中で、言葉にならない感情が膨らんでいく。


――どうして、そんな風に笑えるの?


どうして、命を投げ出すようなことを、そんな風に穏やかに言えるの?


「もしかしたらの話だ。あり得ない話ではない」


キイの声は、とても穏やかで、優しかった。だからこそ、痛かった。


「私は防衛しかしない。ラッセルと、他数名だけなら対応可能だが、リンデル旅団全員は……さすがに難しい」


「……分かってるよ」


ユエの声が震えていた。その手がまた杖を振り上げ、キイの肩を殴る。今度の一撃は、さっきよりも強かった。

でもキイはやっぱり、びくともせずに笑っていた。いっそ不気味なほど、笑顔は崩れなかった。


「北門は、リンデル旅団に強襲された後、エスカ騎士団もガン首揃えてやってくる…。ジャックさん達だけを相手にしても、後がつっかえてる。……キイよりもわかってるよ」


その時、ユエが見せた笑いは、泣く寸前の子どものような、切なくて苦しげなものだった。


キイもまた、淡く笑ったまま、言葉を返す。


「あ〜、あはは。そうだったな。エスカ騎士団か」


「確か弟子も多かったよね」


「そうだな。よく知ってるな。久しぶりに、あいつらの顔が見れるな」


どうしてそんな言い方をするんだよ。あたしは心の中で叫んでいた。顔を“見に行く”って言葉が、まるで再会を楽しみにしているように響いて、胸が張り裂けそうだった。


だけど、それが現実なんだ。この人は戦場に行く。大切な誰かを手にかけるかもしれない。いや、その逆かもしれない。


「…顔を見るって何? 斬れるの?」


「斬りはしない。気絶させるだけで、それで済む。抜刀はしないさ」


「馬鹿なこと言わないでよ! 1000人近くいるんだよ!?」


「1000人いても、この盾は朽ちないさ。それよりも前に、ジャックたちのことを考えなければいけない」


「まともに戦えば、キイは負けない。剣を使ってよ」


「さっき言ったろう。抜刀はしない。私は殺し合いには行くつもりはない。あいつらを退散させるために行くんだ」


「退散なんて、流石に無理なのわからないの!?」


「わかってる。でも、無理だ。皆、私の大切な同胞であり、仲間であり、愛弟子なんだ」


「そんなの全部知ってる!! 知ってるよ!!!」


ユエの叫びが、空気を割いた。肩を震わせて、もう言葉が止まらなくなっている。わたしは、たまらずそっと視線を逸らした。見ていられない。けど、耳だけは必死にすがるように聞いていた。


「なら、もうわかってるんだろ?」


そう言ったキイは、ただ静かに、でも優しく微笑んでいた。


ユエは、その笑顔に何も言えず、ついに地面へ膝をついた。肩を震わせ、顔を手で覆いながら、静かに泣いていた。


胸が痛かった。苦しかった。どうして誰もこの戦いを止められないんだ。あたしはただ黙って、あの涙を見つめていた。


その時、近くで控えていた兵士が声を張った。


「間もなく作戦会議が始まります。ユエ殿と王城執政官室へ空間転移を。お急ぎください」


風が、またひとつ強く吹いた。


報告を終えた兵士が、再び姿勢を正して声を張る。


「間もなく作戦会議が始まります。ユエ殿と王城執政官室へ空間転移を。お急ぎください」


その声は、地にしっかりと足を着ける者だけが出せる、静かで揺るがない響きだった。


ユエが、あたしの横をすっと通り過ぎ、杖を両手で強く握る。


空気が揺れる。風がふくらむ。視界の端が歪む――空間魔術の始まりだ。


キイは、そんな魔力の渦を背に、あたしの方へとゆっくりと身体を向けた。


その目に浮かぶものが、何だったのか、あたしにはわからなかった。覚悟か、やさしさか、名残惜しさか。たぶん全部だった。


「本当にすまない。縁があったと思ったのだが。……ザイン。この御仁を王城の客間へ案内してくれないか。監視対象になっているんだ」


「承知しました。お任せください。また後ほど」


「いや。最後の別れをしよう。何回も私の軍務違反に目を瞑ってくれてありがとう。あれがなかったら、私は生きづらかったよ」


「……そんな、礼なんていりません。キイさんの行いに賛同しただけですから。僕じゃなくても、この聖王国全兵士はそうします。キイさん……剣技のご指南も、ありがとうございます。僕も後で参上します」


「それは許さない」


その言葉に、ザインの足が止まった。


「キイさん……」


「この御仁を見ていて欲しいのだ。国民を置いて、持ち場を離れるんじゃない」


「王城の中にいれば、近衛兵もいるので大丈夫です」


「ザイン。お前だから託したいんだ。お前の軍務はなんだ」


「王城内巡回業務並びに国民の警護です」


「軍務を全うしろ。国民を守れ。――国民があってこその国だ」


「ですが、そこに犠牲があっては、国は衰退していきます」


「確かに犠牲があってはそうだな。だが、兵士の場合は別だ。ザイン。お前も軍に志願した時に、誓ったであろう」


「……ですが」


その声に、葛藤が滲んでいた。


でもキイは、それを否定しなかった。ただ、静かに、まっすぐに指を伸ばした。


「私の戦場は、あそこなだけで。お前の戦場は、ここなだけだ。その差に、優劣は存在しない」


長い沈黙のあとで、ザインは、目を伏せたまま深く頭を下げた。


「……わかりました」


あたしはずっと、その光景を黙って見ていた。誰にも言葉を挟めなかった。何を言っても、重たすぎて、ちっぽけすぎて、言葉にならなかった。


でも、頭の奥のどこかで、確かに思った。


――この人は、もう戻ってこないかもしれない。


口に出せないその予感を、どうにか飲み込む。それでも、こぼれそうになった思いが、ひとつだけ、形になった。


「キイさん……」


あたしがその名前を呼んだとき、彼女はあたしをまっすぐに見て、ただ、微笑んだ。


「……それでは。達者でな。ウィズ。それに、ザイン」


「ご武運を」


ザインが短く言った。軍人らしい、正しい言葉だった。でも、その声の奥にも、たしかに何かが揺れていた。


その瞬間、ユエの魔術が完成する。


風が、ぐるりと大地を巻き上げる。空間が、ひび割れるように揺れた。


きらり、と光がこぼれる。


――その光の中へ。


キイとユエの姿が、ふっと溶けるように消えていった。


ただ、その場に残された空気の振動だけが、彼女たちが本当にそこにいたことを、証明していた。

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