死を選んだ花嫁④元侯爵令嬢の数奇な人生
私は侯爵家の長女として生を受けた。
兄と弟がいる。
父は目を見張るほどの美貌の持ち主で、母も美しい容姿を持っていた。
兄は父を彷彿とさせる容姿をしていて、弟も父によく似ていた。
私は美しい相貌の両親からは、ほどほどに受けた継いだだけのごくごく平凡な容姿をしていた。
けれど、両親はとても大切にしてくれたし、特に自分の容姿が足りないとは思ってなかった。
我が家は名門侯爵家ではあったものの、特別、裕福ではなく、貧困にあえいでいたわけではないが、貴族としての対面をかろうじて保ってていた状態だった。
そのため、幼い頃から両親が着飾って夜会や茶会に行く姿を殆ど見たことがない。
母にそのことを尋ねると、その時だけは、母の美しい相貌が歪み醜くなる。
なので、私はそのことを追求することが出来なくなった。
幼な心に母の変貌が怖かったし、とある令嬢をののしる母が酷く醜く見えたからだ。
もっといえば、母を嫌悪したこともある。
幼い頃は夜会に行かないのは、我が家が裕福ではないからだと思っていた。
ただ、毎年流行のドレスを新調するお金はないようだが、父は王都の治安を守る騎士団の責任者であったし、領地からの税収などもあり、それなりの収入はあったようなので夜会出席しないのは、何か別の理由があるのだと薄々は気がついていた。
そもそも私は幼い頃から、「いとこ」という存在に会ったことがない。
父にも母にも兄弟はいないとは聞いていた。
そして、生まれたときにはすでに互いの祖父母は他界したとも聞いた。
名門侯爵家のわりには随分と親戚の少ない家だなと漠然と考えたことはある。
私が社交デビューを控える年ごろになると、父は貴族の集まる茶会に連れて行ってくれた。
他の子たちはみんな両親と一緒になのに、何故か母は一度も茶会に参加したことはない。
あるとき父に理由を聞いたら、寂しそうに笑うだけだったので聞くのを辞めた。
母とは別の意味で、聞いてはいけない事な気がしたからだ。
今から思えば、名門の侯爵家であるにも関わらず、我が家で茶会や夜会を催しをしたことがなかった。
それは生活に余裕がないからではなく、別の理由だったのた。
少なくとも父は好奇の目や悪意ある噂から、子供たちを守ろうとはしてくれたのだ。
原因が自分たちにあったのに。
私は16才で社交デビューを迎えることになった。
16才で社交デビューを迎え、18になると婚姻できる。
我が家はさほど裕福ではないので、流行のドレスなんか作れるはずもない。
半ばあきらめていたが、父は侯爵家の令嬢として、恥ずかしくないドレスを用意してくれた。
華美ではなく豪奢でもないが、とても品のよいドレスだった。
伯爵家以上の高位貴族は、デビューではみな自分の家に伝わるティアラを身に着けるが、我が家のティアラは、借財の返済のため宝石部分をお金に換えてしまい、すでに手元には残ってなかった。
それは確かに残念だったけれど、私は見栄っ張りでもないし、王城に行けるだけで満足だった。
だが、母はティアラがないことを「あの女のせいなの…」とまた悔しそうに泣いた。
父がなだめても、「私も娘もあの女のせいで…」と泣いて話にならない。
実を言えば、私は幼い頃からこの母が苦手だった。
苦手というよりも、嫌いの感情にぶれる。
自分の母親であるのに、どうしても折が合わず、時にイラつくことがある。
貴族の夫人としては甘いその考え方も、現実を見ていないことも、なにより、ある女性の名前をいいながら、わが身の不幸をいう様も。
名前だけなら私は母の口から何度も聞いたし、何があったのかも聞かされた。
母は父と誰もが認める恋仲だったのに、母の身分が低いことで、結婚を認められなかった。
父に一目ぼれしていた伯爵家の令嬢は、実家が裕福であることを盾に政略結婚で無理やり母から父を奪い、そのくせ興味を失ったと言って結婚式の日に父を捨てた酷い女らしい。
父との恋を引き裂いてておきながら、結婚式の夜に捨てたのだと。
随分と身勝手な令嬢もいたものだと思ったが、父と母が正式に婚姻する前に兄が生まれているから、そのあたりの計算が違っている気がしたが、面倒なので、そこを追求するのを辞めた。
言いたくはないが、母の身分が「平民」なのは、デビュー前に父から聞いているので、多分、母の話は事実が歪曲されているのではないかと思う。
私の勘は当たっていた。
私は侯爵令嬢だが、現実を見る目があり、夢見がちなところはない。
自分の容姿がいいとも思っていないし、実家が裕福ではない事も理解している。
父からは賢いことは正しいが、小賢しく振舞っては駄目だとよく注意される。
社交界にデビューしてから、時々、年配の夫人たちからの揶揄を含んだ目を感じるようになった。
最初は気のせいだと思っていたが、クスクスと嗤われることが増えた。
意味がわからない。
かなり居心地の悪さを感じていた。
それは兄も同様だったようで、後にデビューした弟も感じていたことだった。
確かに私の身に着けているドレスは、流行の最先端でもないし借り物も多い。
けれど、王族や一部の裕福な貴族でなければ、高位貴族であってもドレスは使いまわしやリメイクされる。
恐らく服装を嗤われているわけではない。
だからとても気になるのだ。
あるとき、年配のご夫人から「お母上はお元気かしら」と聞かれ、当たり障りなく答えたら、その夫人は嗤って「そうよね。お元気で当然よね」といった。
とても、もやっとして気分が悪かった。
デビューから数年。
ある夜会で私は一人の青年と出会った。
容姿端麗な父親をや兄弟を見て育った割には、自分の容姿が平凡なので、私は殿方の容姿にそれほど執着はない。
特段貧困ではないが、特別裕福でもない家に育ったので、ある程度、生活が出来れば、相手は誰でもいいとも思っていた。
高額な持参金は用意できないから下位の貴族でも構わないし、爵位がない騎士でもいいとさえ思っていた。
それを両親に伝えたら、また母が「あなたは侯爵令嬢なのに」と泣くから、父は名門の血筋だけど、母は騎士爵の平民でしょと言い返したら、悔しそうに黙ってしまい、父からも口が過ぎると注意されたので口を噤んだ。
母方の祖父は騎士爵だったし祖母は平民。
母の身分も平民ということになる。
そうなると、母は伯爵家以上の高位貴族の家に養女として扱われてから婚姻するのが普通だ。
なのに現状は、母は父の「夫人」ではあるが「侯爵」の夫人ではない。
妻ではあるが、正妻の扱いではない。
いうなれば「妾」。
政治的なことはわからないが、両親は何か不義理をしたのではないかと、この頃からなんとなく思っていたので、私の母に対する態度も年々冷たくなっていた。
私が出会ったその人は、とても誠実で穏やかな性格で容姿は平凡だが、私とは気が合う感じがした。
地方の伯爵家の嫡男で、領地はさほど大きくないが、レースなどの工芸品などが有名でとても裕福な家柄だった。
着飾りたいわけでも、贅沢をしたいわけでもない。
ただ、父を金銭的な苦労から解放したいだけだ。
彼は持参金はいらないというし、私は早く結婚をして侯爵家を出て、少しでも父を楽させたい。
私と彼は穏やかな時間を過ごした。
社交のシーズンも終わりかけた頃、彼は自分の両親に紹介したいと、私を王都の邸に呼んでくれた。
気に入ってもらえるだろかと、考えていた頃が一番、幸せだったのかもしれない。
なぜなら、彼の両親との顔合わせは、身の置き場のない恥ずかしさと、死にたいほどの悲しみで終わったのだ。
あの場で倒れずにいただけでも、自分をほめたいくらいだ。
私はすぐに自宅に戻って両親を追求した。
母は答えるどころか逆に結婚がダメになったことに腹を立て、伯爵家を呼べと言い出した。
自分たちは侯爵家なのに、下位である伯爵家がなにをしてるんだと、わめき散らした。
あの日、彼の自宅で最初はとてもにこやかだった彼の母は、私の名前を聞いて表情が消えた。
伯爵家の両親を交えて侯爵家で齎された会談は、両親の起こした不実さに私は死にほどの恥ずかしさを感じただけだった。
彼の母は「姉を死に追い込んだ二人の子供が嫁だなんて」と、母にきつい言葉で詰った。
母は泣きながら謝ったが、幼い頃から聞かされた二人のなれそめは真っ赤なウソだった。
自分の両親の不義を他人から聞かされる子供の気持ちを両親は理解できるだろうか。
出来ていたら、この期に及んでこんな色のついたことは話さないと思った。
私も兄ももうすべての真実を知っているのに。
両親が正直に話してくれないから、私と兄は当時を知っている宰相に面会をお願いし、話を全て聞いたのだ。
宰相は第三者の立場から、どちらの肩も持たずすべてを話してくれた。
その話を聞いた時、私は両親が汚らわしいものにしか見えなかった。
それは兄も同じだろう。
私の結婚の話はなくなった。
仕方ないと思う。
彼は私をとても好いてくれてはいたが、越えられない一線というものが貴族には存在する。
私も彼も、駆け落ちをしてまで将来を誓い合えるかと問われたら、無理だと思う。
何より彼は嫡男で、背負うものがある。
彼の母は私の両親に腹を立てていたものの、私には何度もごめんなさいと謝罪してくれた。
私を嫁とにして迎えたときに、理不尽なことをしないと約束できないとさえ言うのだ。
とても正直でいい人だと思う。
私の母よりよほど大人で理性的でいい人だ。
その後、彼の母は、流れた結婚の代わりに別の話を紹介してくれた。
伯爵家の部下の一人だが、とても将来性のある騎士だという。
男爵家の次男で爵位はないが、騎士団ではとても優秀な人らしい。
将来は騎士爵をもらえるほどの人なので一生、生活には困らないはずだと。
相手を見極めるためにも、一度、会ってみてはどうかと言われた。
私の両親のしたことを思えば寛大すぎる話だ。
母はバカにしていると叫んでいたけれど、貴族社会で流れている噂は否定できないし、なにより、この両親がいる以上、私はずっと「花嫁を初夜で殺した男の娘」と言われる。
母は自分が社交界へ参加していないから理解できないだろうが、私たちの噂はそれは酷いものだ。
それなら、騎士のもとに嫁いで貴族社会とは距離を置いた方がいいと私も思った。
初めて会った夫となる人は、結婚してから始めましょうと言ってくれた。
失恋したばかりの私にもとてもやさしい人だった。
結婚式の衣装も彼の母が揃えてくれた。
なんでも、新しい義母になる人は彼の母の幼馴染らしい。
そういうつながりか。
貴族はつながりが大切だ。
今の我が家にはそれすらないのだ。
結婚生活は、想像していたよりずっと穏やかだった。
夫となった人は本当に良い方で、私を大切にしてくれるし、過去の話を蒸し返さない。
なにより、社交がないだけで精神的な負担がない。
幸せといはこういうものなのだと思った。
実際、結婚して実家を出てから、里帰りはほとんどしていない。
母からは時々、戻ってきてほしいと手紙がくるが正直に言えば、会いたくない。
会わない方がいい関係もある。
私たち夫婦は仲睦まじく暮らしたが、子供には恵まれていない。
夫に謝ったら、二人の生活に不服はないといつも大切に抱いてくれる。
兄は私が結婚するのを見届けた後、近衛を除隊して家を出奔した。
あの両親のもとでは生活できないといった。
兄はとても潔癖な人だった。
その後、兄は何度か私に手紙をくれた。
出奔した後、隣国に行き伯爵の紹介で、商船団の騎士になったらしい。
そこで様々なことを覚え、隣国にある商家の支店をまかされた事などが書いてあった。
思う事は沢山あるけれど、兄がそこで生きていくことを決めたならそれでよかった。
すくなくとも、今の侯爵家の肩書はプラスにはならない。
私は兄の所在については父に伝えたが、詳しい住所までは教えなかった。
父は手紙を書くのなら元気で暮らしいほしい。とだけ伝えてほしいといった。
父も今更謝罪を述べたところで、兄が受けいれることはないことを理解していたようだ。
母には言わなかった。
言うとまた、恨み言を聞かされるのはわかっいるから。
母は父によく似た兄をことのほか愛していたので、なお、言う気が失せた。
何度かやり取りをしたのち、病気をしたことが書かれていた。
心配だったので隣国に行こうかとも思ったが、ほどなくして、兄が息を引き取った連絡が来た。
引き込んだ風邪がなかなか治らず、拗らせたらしい。
兄は隣国でしっかりと仕事をしていたようで、一人さみしく逝ったわけではなかった。
せめてもの救いだと、しばらくは泣き暮らした。
夫は、私には何も告げずに隣国に行き、兄の埋葬地に花を手向け、そして遺品を持ち帰ってきた。
私はその夫のやさしさにまた泣いた。
父には兄が亡くなったことだけを伝えた。
とてもショックだったようで、兄の遺品の前で父は咽び泣いた。
母には父から伝えるといった。
正直、その役目を父が担ってくれた良かったと思う。
私は最近では、母と言葉を交わすことも苦痛なのだ。
私は近衛に昇格した夫とともに、夫の実家が用意した王都郊外の家に暮らすようになっていた。
私が育った侯爵邸とは比べ物にはならないが、私はこのこじんまりとした家が好きだった。
平民からすれば十分立派なお屋敷だ。
少し離れた場所には現在、侯爵位をついた弟が住んでいる。
弟は兄が出奔したのち、すべてを理解したうえで爵位を継ぐことになった。
父はまだ若く爵位を譲る年齢ではなかったが、過去のスキャンダルが再び表面化したことで、騎士団を除隊した。
除隊と同時に住んでいた侯爵邸を売却し、領地で引退生活をすることになった。
弟は、侯爵家の別邸で生活している。
母は最後まで王都を離れたくないと言っていたが、この時ばかりは父が母の希望を何一つ聞き届けなかった。
しばらくは領地の本邸で暮らしていたが、使用人らに支払う金銭や維持費が問題になり、最終的には本邸から、父が相続した祖母の別荘に移り住んだ。
昔から顔見知りだった使用人らが次から次へと去っていき、静かに侯爵家の終焉が見えてきた気がして、嫁いだ身であるが、実家が恋しくなった時もある。
両親が別荘地へ転居した場所は王都からは日帰りすることも難しく、自然と私の足は遠のいていった。
父とだけは手紙のやりとりは続いていたが、母とは最低限のやりとりだけだった。
暫くしたのち弟がひっそりと息を引き取った。
さほど遠くない距離に住んでいたのに、私はそばにいることが出来なかった。
弟は死の直前、爵位も領地も返上していた。
私たちには一つの相談もなかった。
私は父とともに弟を弔った。
夫はこの時も傍にいてくれて、私を支えてくれた。
邸をどう処分するのか問題になったとき、夫の実家が破格で買い取ってくれ、後々は私と夫が暮らせるようにしてくれるといった。
感謝してもしきれないほどの恩義があるのに。
父が母が待っているから帰ると告げたときも、夫は馬車を用意すると言ってくれたが、父はそれを断り乗り合いで帰っていった。
それが生きている父を見た最期になった。
夫のもとに連絡があり、二人で駆け付けたときには父はすでに息を引き取ったあとだった。
父を見送った時、
「私も…逃げずに彼女と向き合っていれば、もっと違ったのか…。彼女と結婚するにしても、破談にするにしても、私は都合のいい面ばかりみていたのだ」と。
私と夫はお見合いで結婚をした。
そのようにして始まった私たちだが、今では互いを必要としているし、夫婦として支え合い仲良く生活が出来ている。
父はそれを見て安心したようだった。
私は母は苦手だが、父には同情していた。
子供が二人、先立つ不幸は、己のまいた種だあるからこそ、深い後悔があると思ったからだ。
せめて私は父より長生きをして、父を送りたいと思っていたが、突然すぎて、心が追い付かなかった。
ひたすら、父の躯に縋り付いて、子供のように泣いた。
過去にいろいろとあったにせよ、私はいい父親であったし、幼い頃からこの父が大好きだった。
父の死を告げるため、私は久しぶりに母のもとへ向かった。
母は数年前から病気がちになり、数か月前からはほぼ寝たきりになったと聞いている。
父は高名な医者に見せることはしなくていいと言っていた。
母は私が記憶していたより随分と老いて痩せていた。
私の来訪を喜び、力ない手で私の手を握った。
こみ上げるものを感じたが、私はその手を握りながら、父の死を伝えた。
母は最初「嘘よ」と何度もつぶやいて、咽び泣いた。
さすがに哀れで、この日は一日、母の傍にいた。
兄が逝き、弟が逝き、そして父が逝き。
家族を思い出を語り、ともに涙できるのは、この母しか残ってない。
翌日、夫が宰相の使いとともに、弔いの挨拶に訪れた。
母は対応できる状態にはいないので、夫と私で対応した。
宰相からの手紙には、弟が爵位とともに領地も王家に返還していることや、両親が住んでいるこの家は、父が祖母より相続したもので、その後「爵位を継承したもの」が 相続できることになっており、父の死亡で王家に返還されること、そして、父の恩給は父の死亡で打ち切られると記されていた。
落ちぶれるというのは、あっけないものだなと思ったものだ。
母にこの家から退去をしなければならないと告げたとき、再び、ある女性への呪詛を吐いた。
その時の顔は醜く歪み、私の嫌いな母の顔だった。
なにより父の死を嘆いたのはわずかにひとときで、その後はずっとわが身の儚さを嘆いている始末だ。
我が母ながら、ここまで来るとあきれるほかない。
夫は王都の家に母を引き取ってもいいと言ってくれたし、看護の使用人を雇っても言いとすら言ってくれた。
そのどれも私は断った。
幼い頃から思っていたが、母は我慢をする振りをして、大抵は自分の我が儘を通した。
父にも、兄にも、弟にも、そして私にも。
すべてを人のせいにして自分を守り続けた母に、私は複雑な思いをずっと抱いていた。
母の口から一度も、伯爵令嬢を死に追いやったことに対する謝罪も反省は出ない。
すくなくとも、母は詫びる必要があるはずだ。
父すらも自分のしでかしたことを後悔して、その代償として侯爵家を終わらせたのだ。
そして、責任を取る形で最期まで母とともにあった。
なのに、この母は。
未だに己の不幸ばかりを嘆き、自分の人生への反省はひとつもしない。
はっきり言って私はこの母をもう見限ったのだ。
心底、軽蔑するしかない。
婚約者がいると知りつつ、父と恋仲になった。
二人して欲に負けて不義理をした。
散々、令嬢をけなしておいて、自分たちの都合のいいように利用しようとした。
それだけでも最低なのに。
母は平民の出で賢い方ではない。
貴族としての義務も知らない。
高位貴族の令嬢が婚約破棄などされたら、再度、相手を見つけることがどれだけ大変か。
なにより、どんなに男性が悪くても、女性の方が重荷を背負うのだ。
私はそれを嫌というほど知った。
だから、彼の母は社交界とは遠い騎士の夫を紹介してくれたのだ。
実際、両親が令嬢した行為は、下劣で最低だ。
けれど、父は子供を失い、わが身を嘆く前に、自分を顧みることで己の罪深さを理解した。
現に先日、令嬢の墓を訪れて、泣きながら謝罪していた。
なのに母は、この期に及んでもまだ、令嬢に対する恨み言を言う。
「どうしてあなたと一緒には暮らせないの。母を一人にするの。私の傍にいて頂戴」と若い頃から父にしていたように、母はためらいもなく口にした。
きっと父は、こうやってお願いをされるたびに母の我が儘を聞いていたのだ。
それが大きな間違いなのに。
本当に母を愛していたのなら、母の間違いを指摘して改めさせ、夫人としての立場を教えるべきであったのだ。
「お母様、それは無理よ。夫は騎士の身分なの。それほど裕福な生活はしていないわ」
実際は夫の実家からの援助などもあるので、生活が困窮しているわけではない。
ただ、夫婦二人、静かに生活をしている状況だ。
母はそれでも追いすがったけれど、私は聞く耳を持たなかった。
後日、母を私の家の近くにある養老院へ入れることにした。
最期まで嫌だと泣き喚いたけれど、別荘地で人を雇って介護する方が金がかかる。
母は養老院へ移った頃から記憶の混乱が激しくなり、時々、私が誰かもわからなくなる時があった。
そして母の中では、父と会った頃で止まっている事が多く、いつも父の名前を呼んでいつ来てくれるの、と聞くことが増えた。
そのうち、1年を過ぎたあたりにあっけなく他界した。
不思議と涙は一つも出ず、ほっとしたというのが素直な感想だった。
母の亡骸は、父と同じ共同墓地に埋めた。
そこは弟もいる。
夫は、王家に侯爵家の霊廟に弔えるように掛け合うと言ってくれたけれど断った。
冷たい人間だと言われるかもしれないが、侯爵家の終焉には向いている気がしたのだ。
夫と結婚して10年過ぎたころ。
私は子供を授かった。
不思議な気分だった。
生まれたのは女の子だった。
時同じくして、我が国は戦火に巻き込まれた。
娘を妊娠したころから、ぼちぼち聞こえてきた話は、出産後に現実的な戦争となって訪れた。
夫は子供が1才になる前に出兵していった。
王都では様々な行事が中止になり、王家の人間も戦に参加していった。
夫からは時々、手紙は届いた。
手紙が届くたびに無事であることに泣いた。
戦争が2年を超えた頃、騎士団の一つが全滅したという報がもたらされた。
その騎士団は夫の父が率いていたものだ。
義父は戦死し骨になって戻ってきた。
戦争は終わることなく、周辺諸国5か国を凌駕した。
我が国は、まだ侵略は許していない。
北の砦を守っていた義兄も義父を追うように2年後に戦死した。
夫からは手紙が届かなくなって3年が過ぎていた。
王族にもかなりの戦死者が出始めていた。
私たちの娘は5才を迎えた。
戦時下で物資も不足していたが義母とともに娘の誕生日をささやかに祝った。
それからも春が過ぎ、夏が過ぎ、秋を迎える頃になり、戦争が終結するとの話が飛び込んできた。
冬になる前に、夫から3年ぶりに来た手紙を抱きしめて号泣した。
夫の手紙を受け取ってから半年。
春が過ぎるころ、夫が帰還した。
戦場で大けがをして、左腕を失い、右目の視力を失っていた。
そのような状態でも戦っていたのだと思うと、言葉にならずにただ泣くだけしかできなかった。
夫は戦場で父の死を看取り、兄の死を看取り、最後まで北の砦を死守したらしい。
自身も駄目だと覚悟を決めたとき、いまや時の人となった将軍に助けられた。
左腕を失い、片目の視力も失っていたが、将軍の片腕としてそのまま傍にいたという。
正直、そのあたりの経緯は私にはどうでもいいことだ。
夫が生きて私に元に戻ってきてくれただけで充分だと思った。
王都は戦の終わりに湧き、苦難の時期を超えたことを喜び、活気に満ち溢れた。
王都が落ち着き、徐々に人々の生活が戻り始めた頃、戦での恩賞が大々的に発表された。
夫は北の砦を最後まで死守したことや武功が認められて、伯爵位を賜ることになった。
一方で、父と兄が戦死しため、実家の男爵位も空席のままだった。
義兄には一人息子がいるが、まだ10才の少年であり、爵位継承には後見人が必要だった。
夫は実家の男爵位をまず継承し、男爵位は伯爵家に陞爵することになった。
領地も新たに増え、新しく賜った領地は、奇しくも侯爵家の領地だった。
新たな領地は農業と陸地の宿場町を抱えている。
聞いた話では、この戦争で大きな武功を挙げたのは、かの令嬢の実家であった伯爵家だという。
伯爵家は早くから海運と河や海の重要性を唱えており、時の宰相がその意見を取り入れ、我が国は勝利したという話だ。
ちなみに伯爵家は今回のことで、侯爵家に格上げになっている。
久しぶりに戻った領地とマナーハウスは随分とくたびれていた。
私は侯爵令嬢として生を受け、その後、騎士の妻となり、貴族の生活からは遠のいていたが、今度は伯爵夫人となり、貴族社会に戻ることになった。
両親のことは遠い昔の話になり、覚えている人もほぼいないくなった。
私には娘が一人だが、私たち夫婦は義兄の忘れ形見だった息子を養子として引き取り、夫の後継者とした。
娘はのちにその子と結婚し、3人の子供に恵まれた。
今では私にも孫がいる。
両親が持ちえなかったものだ。
夫とは恋を育む前に婚姻したが、今ではこの人が夫で本当に良かったと思う。
夫は半年前に、眠るように逝った。
最後に私の手を握って、ありがとうと言って。
私の方こそ、幸せをくれた夫に感謝してもしきれない。
願わくば、私に死が訪れて死後の神が迎えにくるのなら、夫であってほしい。
※多くを望まない人ほど、多くを手に入れる