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死を選んだ花嫁①*恋をはき違えた令息

 貴族の家に生まれたからには、政略結婚はついてまわる。

 それは、義務だ。

 だから、結婚相手が誰になろうが、愛することはなくても、大切に出来ると考えていた。

 両親は政略結婚だったが、互いに慈しみ愛し合う関係で、もしかしたら自分もと思っていた時期もあった。

 自分の家の置かれた状況を知るまでは、だが。


 10才になった頃に「侯爵家の危機」を知らされた。

 自分が予想していた「政略結婚」とは違っていたけれど、

多分、これも正しい「政略結婚」の一つではあるのだ。


「申し訳ないが、家の為に結婚してくれないか」と、父が頭を下げたとき、

ああ、この時が来たのかと思った。


 我が侯爵家は王都の南の一大穀物庫といわれ、それはすなわち穀物の栽培が中心というこだ。

 ここ数年は夏とは思えない寒さや、春先の異常な暑さが原因で、収穫率が落ち込んでいる。

 領地は穀物の栽培だけではなく、交通の要でもあるので、不作分を通行税などで補っているが、農業よりは安定しているだけに過ぎない。

 天候が大きく左右するという意味合いでは、農業も交通も大差ない。

 数年おきに川の氾濫には悩まされるし、嵐が来れば当然、通行人は減る。


 領民の生活を考えると、これ以上の税も課せられないが、氾濫した土手の補修工事や、田畑の災害にも対応しなければならない。

 それには莫大な費用がかかるが、税収が少なければ調達する方法を考えなければならない。

 毎年、王家に納める税もある。

 幸いなことに、我が家は王家とつながりがあるため、優遇はされてるがその事が父のプライドを傷ついているのは理解が出来た。


 貴族の子息に生まれたらには政略結婚は当然のこと。

 名前を聞くまではそう思っていた。


「どなたですか」

「フランツオーネ伯爵家のアルシェリーナだ」


 話を一緒に聞いていた母の息をのむ声が聞こえた。

 あの、フランツオーネ家なのか…と。


 フランツオーネ伯爵家は、元は地方の小さな領地しかない子爵家だったが、国が見捨てた寂れた港を私財を投じて整備し海運業を興した。

 それだけではなく、川を利用した交通網を整備したことで、いまや権勢を誇るお金持ち貴族だ。

 投じた資金が莫大だったため一度は破産しかけたものの他国との貿易や海運業を建て直し、いまや王国には必要な家となった。


 その功績で子爵から伯爵に陞爵された。


 その部分だけならば先見の明がある傑物と言わざる得ないが、一方でいわくつきと言われ、特に貴族の間では評判があまりよろしくない。

 若い頃は放蕩で父親に勘当されたが、水夫の身分から船で働きはじめ、時に海賊まがいの奪略行為までしていたのだ。

 そうして着実に財を築き上げ、傾いていた実家の家業を実兄から買い上げた。

 その苛烈な性格は、貴族社会では嫌われているが、実力は誰もが認めるところだ。


 我が家は名門の侯爵家。

 相手は成り上がりの伯爵家。

 父の性格を考えたら、屈辱の一つではあると思う。

 本来ならば、もっと血筋のいい家から「選べた」はずの立場が、この婚約はいわば「こちらから頭を下げた」からだ。


 現王の異母妹として社交界の花ともてはやされ、美しさは折り紙付きといわれた母は、元は地方の田舎貴族それもたかが子爵家であったフランツオーネ家との婚約にはあからさまな難色を示した。

「ならず者娘が義娘になるのか」と激しく落胆もしていた。



 紹介されたアルシェリーナは、自分の想像とは全く違う子供だった。

 精巧にできた人形のようで、艶やかな光を放つ漆黒の髪に滑らかな白い肌。

 印象的な蒼天色の瞳。

 けれど、何よりも目を引いたのは、彼女の表情だった。

 生きてる人間なのが不思議なくらい、表情のない人形のようだったからだ。


 この人形を相手にしなければならないのかと何故か不愉快さがこみ上げたが、

 相手はまだ5歳の少女。

 しかも伯爵家の令嬢であり、この縁談には侯爵家の未来がかかっている。

 だから、微笑んで挨拶をしたら、彼女はとても驚いていた。

 人から笑いかけられたことがなかったかのように。

 その時、彼女の父親である伯爵が舌打ちをして、娘の背中を押したのが気になったが、

 深く考える事はしなかった。



 貴族の子息として、15才で騎士団に入るこになった。

 我が国では、子爵家から侯爵家、果ては騎士位に至るまで、貴族の位に所属している家の子息は、2年間は騎士団に入団することが義務づけられている。

 その後に、家を継ぐ必要のある者や高位貴族の子息は王家直轄の貴族学校で学び、次ぐ爵位がないものなどは、改めて騎士団の養成所に入るのが我が国の一般的な子息がたどる道。

 そのため、自分も15で騎士団に身を置くことになった。



 この頃から色々と彼女とのことを揶揄されることが増えて、大変、不愉快な思いをすることが増えた。

 なぜなら、彼女の話題が上ると必ずその父親である伯爵の話題が出るからだ。


 伯爵は相変わらず、評判の思わしくない人物だが、財は確実に築き上げられていて、我が

 侯爵家はかなりの援助を受けているようだった。


 定期的に婚約者になった彼女に会ってはいるが、表情が乏しく人形を相手にしてるようで、時々、言葉を発しているようだが、めんどくさくて聞こえない振りをしている。

 共通の話題があるはずもなく、ただひたすら退屈な時間でしかない。

 下に妹や弟がいない一人っ子の自分には、年下の子供の相手は煩わしいことこのうえない。

 そもそも、侯爵家の跡取りとして生まれ育った自分が、伯爵家といいえ格下の相手の機嫌をとるなどあり得ないことだ。

 母からもその点はつけあがらせてはいけない、と言われている。

 そのうち行くのが億劫になり、15で騎士団に入った頃には、完全に足は遠のいていた。


 18を迎え社交デビューの年齢になると、人との付き合い方も学び、自分の生活にも余裕が出てきた。

 騎士団の訓練期間も終え花形と言われる近衛に配属になり、将来の側近候補として王太子のもとに配属になった。

 母は現王の異母妹であり、自分は王太子とは従兄弟に当たることからも優遇された。


 この頃にはもう、彼女との定期的な面会すらもしておらず、手紙のやりとりもしていなかった。

 彼女の誕生日には執事に対して適当な贈り物を届けるように指示しているだけで、彼女の誕生日すら知らずにいた。

 彼女からは贈り物のお礼や手紙は届いていたが、それらはすべて執事に丸投げしていた。

 彼女から届く自分の誕生日への贈り物など、何を送られたのかも知らない。

 伯爵家からは特別に苦情もない事から、彼女に対して礼を欠いていたのに、気にすることもなかった。

 彼女から送られた手紙を執事が読むようにと何度も持ってくるが、それを読むことなく、机の上に放置し、時には暖炉に投げ捨てていたこともある。



 時々、彼女の何が自分の癪に触るのかと思う事がある。

 親の都合による一方的な婚約ではなく、夜会や茶会などで出会っていれば、普通の男女のように、なれていたのだろうか、と。


 恐らく、僕と彼女はその出会いから間違えていたのだ。

 いや、違う。

 そう思い込みたい自分がいるのだ。

 少年であったが故の無知さや、邸にいる身近な人間たちの言葉に惑わされ、両親の特に父の不出来さを認めるのが怖かったのだ。

 だから、すべてのいらだちの原因は、彼女でなければならなかった。

 勘違いしたプライドの高さもあって、歩み寄ることなど考えもしていなかった。

 歩み寄る必要すらもないと考えていた。


 心の底では、自分が爵位を継いで領地経営を軌道に乗せれば、彼女とは婚約を破棄できると考えていたのだ。

 王家から降嫁した母が忌み嫌うのだから、王家からも忌み嫌われていると勝手に判断して、伯爵家の令嬢との結婚は回避できると思っていた。


 だから、勘違いしたのだ。

 彼女の父である伯爵の真意を。


 領地経営を父から引き継いだ時、伯爵家からの援助がどれほど多額であるかを初めて知った。

 我が家にこれほどの資金援助をしているのに、伯爵家は傾くどころか、より財を築き上げている、その資金の豊かさに驚いた。

 同時に自分が伯爵家より派遣されていたと思っていた財務官は、伯爵家からではなく実は王家の管財人だった。


 はっきりと言われたのだ。

 現国王の異母妹が嫁いだ名門侯爵家が見るからに落ちぶれたため、王家側から伯爵家に支援を頼んだことだと。


 我が侯爵家は破産に近い状態であったのに、母は夜会や茶会の度にドレスを新調し、父も派手な夜会を当然のように開催し倹約など一度もしてはいなかった。

 管財人は幾度も進言し諫めたが、いつも「我が侯爵家は名門の血筋」であると、言い訳しては、聞く耳を持つことはなかつた。

 これでは、伯爵に鼻で笑わても仕方がない。


 この時、彼女との関係を見直し、謝罪して修復をする努力をしていれば良かったけれど、侯爵家の命運をあのいけ好かない伯爵に握られている事実に、ぶつけられないイラつきを再び彼女にぶつけた。


 母はことあるごとに彼女を悪しきざまに言っていた。

 曰く金遣いの荒い令嬢である。

 曰く愛想のない娘である。

 そして最後には、所詮は「あのならず者の娘」なのだと。


 金遣いの荒さは母の方だ。

 今の侯爵家には、豪華なドレスを頻繁に作成する金銭的な余裕はない。

 愛想がないとは言うが、いつも誰かの陰口を言うのが貴族なのか。

 なにより、そのならず者の御情で生きているのが我が侯爵家。

 母は「伯爵家が侯爵家を支えるのは当然のこと」だと嫌悪もあらわに口にした。



 そんな時だった。

 王国で5年に一度開かれる王国建国記念祭の花となる聖女に辺境伯の令嬢が選ばれた。


 美しい金髪に青い瞳。

 象牙色の肌。

 美しく微笑むと、確かに伝承の聖女のようだ思った。


 記念式典は国を挙げたイベントだ。

 自分は、その聖女の使徒である聖騎士に選ばれた。

 名誉なことである。


 そして真珠の君と呼ばれたローラに一目で恋に落ちた。

 思えば初恋だった。

 政略による一方的に押し付けられた感情からは生まれる事のない恋心。

 それは真珠の君も同じ気持ちで、二人はあっという間に恋人となった。


 彼女とは親愛の情や恋情などを育てる前に婚約者となり、互いに歩み寄れない関係だった。

 だから、真珠の君に恋する自分を否定することはなかった。

 自分の伴侶にするのなら、真珠の君以外にはいないとさえ思った。


 婚約破棄を何度か申入れしたが、伯爵は「今までの債務をすべて一括で返済しろ」とだけ言ってきた。

 無理に決まっている。


 かといって、このまま彼女と結婚は…出来ない。

 したくもない。


 今まであれだけ悪しきざまに悪口を言って、彼女との結婚に反対していた母が「政略とはそういうものよ」と結婚を進めてきた。

 彼女のことは気に入らなくても、息子が幼い頃からの婚約を破棄する事には懸念を抱いたのだ。

 彼女の有責でなら別だが、どう判断しても息子の有責。

 母の懸念はもっともだ。

 けれど一度、火のついた恋心は止めることは出来なかった。


 当然だが、自分たちの関係は真珠の君の父である辺境伯の耳にも届いたが、彼は侯爵家との縁なら大いに結構だと思っていたようだ。

 伯爵とも何か因縁があるようで、自分の娘が彼女を蹴落とせるならとはっきりと口にしていた。

 人は自分ではない誰かが自分の敵と対峙すると、卑怯な方法で応援をするものだ。



 ******



 一大イベントである建国祭の夜に、自分たちは心も体もすべてを繋いだ。

 彼女と婚姻したら住む予定だった美しい別邸で。

 その別邸が、彼女の財産であることは理解していたが、傲慢だった自分は、それすら趣旨返しだと思っていた。


 長年仕えてきた執事が、何か言いたいことがあったようだが、気づかない振りをした。

 多分、別邸に真珠の君を連れ込んだことがひっかかっているのだろう。


 その日はどうしても、真珠の君のすべてを奪いたくなったのだ。

 お互いに若い男女で恋心もある。

 ふるまわれた酒で理性も崩壊していた。

 貴族の娘を未婚のまま妊娠させることは、外聞が悪いと頭のどこかで理解していたけれど、酩酊状態で正常な判断は出来なかった。


 子供が出来るかもしれない事も頭の隅に追いやられた。

 いや、真珠の君が子を孕めば、彼女との結婚を回避できるかもしれない。

 自分が有責の婚約破棄だとしても、生まれた子が男子であるならば周囲も押し黙る。


 なんといっても真珠の君の父は辺境伯だから、王家とて無下には扱わない。

 うまくいけば、有責である賠償金も持参金の返還も王家が調停してくれるかもしれない。

 そんな甘ったるいことを考えたのは、君と口づけする前までだった。


 その後は幾度も深い口づけを交わし、舌を絡ませ、互いの手足を重ねて、どこまでも酔いしれた。

 一度で放出されることのない白濁した熱。

 真珠の君の純潔を奪う際に発した彼女の痛みを訴える声さえも、耳に届くころには背中をぞくりとさせる快楽に変わった。

 浮かれた頭で初めて抱いた女性の柔らかさと、その場所のきつさに恍惚のため息を吐いた。

 小さく痛みを訴える口に自分の舌をねじ込んで、なだめて先に進む。


 閨教育で相手にしていた女性人とは比べ物にならない、その快楽。

 結合した部分から混じる純潔の証にすら歓喜した。

 真珠の君の最初で最後の雄になれるのだ。

 征服欲は感情を揺さぶり続けた。

 吐けるだけの白濁した熱を君の体の奥に吐き出して、何度も腹に口づけをした。


「孕めばいい」と言葉にしたら、

「私に子を授けてください。愛しているのです」と。

 たかが外れた獣のように何度も呻き、互いに疲れ果て意識を飛ばした。


 翌日、腕の中で恥ずかしそうに微笑む真珠の君をみて、自分の選択は間違ってないと思い込んだ。

 それからも、人目を忍んで互いの体におぼれたが、それを見られても私たちは愛し合っているのだからと開き直っていた。

 二人でいれば何も怖くないと、青臭いことを考えていた。

 それに名門侯爵家、母はもと王族であるから、王家も強くは言わないと思っていた。


 辺境伯も政敵であった伯爵に対抗できたことで、二人の関係を許していた。

「婚約者に見向きもされない哀れな娘と、愛される我が娘では格が違う」とうそぶいて、公爵家の夜会で伯爵を卑下したらしい。

 意外なのは伯爵の対応だ。


 その沈黙が怖いことは、のちに知ることになる。


 真珠の君と離れがたく別邸に住まわして、そこに帰る日々が続いた。

 その別邸が彼女の持ち物であることも、別邸を維持するための資金も伯爵家から出ていたことを、自分はすっかり忘れていた。

 恋は人を愚かにしたのだ。

 遅すぎる初恋。

 すべてが言い訳だ。

 結局、恋が人を愚かにしたのではなく、自分が愚かだったのだ。




死を選んだ花嫁?*花嫁を初夜に殺した男




「花嫁を初夜に殺した男」と、誰もが噂した。


 過去は忘れた頃に掘り返され、そして、忘れた頃に復讐される。

 自分の過去を切り捨てることも、塗り替えることも出来ない。

 ただ、いまは、己の愚かしい過去を清算することもできない。


 ***


 結婚したばかりの花嫁が初夜の服毒死したことは、一大センセーショナルな出来事だった。

 前々から、真珠の君と自分の人目をはばかる事のない関係は貴族社会の間では有名であったし、自分たちも隠すことなく、夜会や茶会、観劇などにも連れ立って出かけていた。


 婚約者である彼女を忘れたかのように振る舞い、実際思い出すこともなかった。

 真珠の君と自分は王都郊外にある緑の多い別邸で事実上の夫婦のように生活をしていた。

 小さめの邸だが、四方に庭があり四季によって花が変わるとても美しい屋敷だった。

 連れてきたときに彼女が一目で気に入り、そこに住むようになった。

 もちろん、彼女と初めて結ばれた別邸でもある。


 自分は確かに浮かれていたのだ。

 この美しい別邸が、婚約者である彼女の所有財産の一つであることを失念していた。

 別邸で君と自分は夫婦にのように生活し、時には茶会や小さな夜会を開くようになった。

 時々、そのことについて苦言を呈したり、非難する貴族もいた。

 上級貴族の出身ではない真珠の君は女主人として出来ることが限られており、そのことで陰口を言われたことから、参加人数や回数はかなり吟味するようにしていた。


 自分も真珠の君も恋の浮かれ、互いしか目に入らず、情熱的や肉欲に精神が浸食されていた。

 自分には婚約者がいて、婚約はまだ破棄されていないこと、結婚式の日取りも決まっている事など現実を直視するのがとても嫌だったのだ。


 自分には真珠の君しかいないと思った。


 彼女とは結婚式は執り行うが白い結婚にして、伯爵と今後の借財や事業のことを取り決めして、正式に離婚をしようと考えていた。

 勿論、ある程度の慰謝料は支払い、彼女の名誉がこれ以上は堕ちないよう考えようとした。

 伯父である王か、いとこである王太子に彼女の新たな輿入れ先を口添えしてもらえばいいのではないかとすら考えていた。

 彼女を貶めているのは自分なのにどこか他人事だった。

 そもそも、自分も多少は外聞は悪くはなるだろうが、仕事で周囲を見返せばいいと、安易に考えていた。


 伯爵はその人柄と強引な手腕で嫌われてたが、逆を言えば権力者に媚びを売る事もなく、あからさまな反政権派もなく、どちらにも対等な態度をしていたことから、派閥に属さない貴族や一代限りの爵位を持ち合わせている人からは支持者も多くいた。


 伯爵は国内だけではなく、周辺諸国にも広い人脈を有しており王家もあからさまに無下には出来ない存在だった。

 とても評価の割れる人物であったが、貴族には忌み嫌われた事業や外交では、ひとかどの人物で、強引なところはあっても、堂々とした人物だった。


 彼女は親の評価をそのまま受け貴族女性からの評判も良くなかった。

 曰く、美しいが表情が乏しく冷たい人。

 曰く、婚約者に相手にされない哀れなお人形。


 女性同士の機微に疎い自分には、その曰くの殆どがやっかみだとは気づかなかった。

 夜会への招待も婚約者の彼女ではなく、真珠の君に届いていたことから、貴族社会におい真珠の君が自分の「妻」だと認められていたと自分も真珠の君も暢気に思っていた。


 真珠の君が自分の知らないことろで、彼女の陰口を話し、夜会などで辱めていた筆頭であることは知るよしもなく、実際のところ興味もなかった。

 それとなく、自分の耳に入れた人もいたが、はっきりいって煩わしいとしか思ってなかった。

 ただ、真珠の君はほんの少しだけ誇張して話しただけのことだ。

 自分をよく見せたくて。

 恋人の可愛い嫉妬でしかない、分は言い返したこともある。


 夜会に婚約者を差し置いて出席することを自分も止なかったし、それを当然だとしていた。

 真珠の君が茶会を開いて貴族の子女を呼ぶことも止めなかった。


 彼女は噂を聞いていただろうが一度も苦情を申し立てることもなかった。

 だから、許されていると思っていた。

 結婚後に白い結婚を提案すればいいのだからと。

 彼女は望めば、有力者に嫁げるはずだ。

 なにより自分が恥を忍んで白い結婚だと宣誓をするのだから、受け入れて当然だと思っていたのだ。


 自分より高位の貴族の家に嫁げることはないかもしれないが、後妻ならばあるはずだ。

 自分は、由緒正しい侯爵家の人間で、王太子とはいとこ同士。

 多少の融通は利くはずなのだから。


 自分は真珠の君のことを思っていても、すぐには結ばれることはない。

 どれほど強く思い結ばれ、情熱的な夜を過ごしても婚約者ではない。

 だから、彼女だって少しくらい、自分たちに協力をしてもいいはずだ。


 ただ、子供まですでに生まれたことは予想外だった。

 子供が生まれてしまっては猶予はない。

 予定とは違ってしまうが、婚姻前に結婚自体をなかったことにしなければ、生まれた我が子は庶子の扱いになり祝い事も出来ない。


 伯爵に再び婚約破棄を申し出たが、前と同じように借財を一括で返せと言われた。

 そんなことは到底無理だった。

 今まで通り分割で支払い、多少の上乗せも申し出た。

 それも断られた。

 王家に仲裁に入ってくれるように頼んでみたが、宰相からいい顔をされずに追い返された。


 それでも何度も伯爵に話だけでも聞いて欲しいと手紙を送り続けていたら、会ってくれるとの返事をもらい、伯爵家の本邸に出向いた。

 会ってくれる事は、自分の打診を受け入れてくれるのだとばかり思い込んでいたのだ。

 だから、伯爵と会うなり、こつらの都合のいい事ばかり話し、彼女が着るはずだった芸術品のようなドレスも慰謝料の一環として買取を申し出た。


 一方的に話をし、一息ついたころ、伯爵は思いも寄せない言葉を吐いた。

「結婚式は予定通り」と。


 万が一、結婚を反故にした場合は違約金や慰謝料を求めると言われた。

 なにより、伯爵からは「結婚式のドレスは今の侯爵家では払えない」と言い切られた。

 今や伯爵家の財力は王家に匹敵するほどだ。


 とにかく生まれてしまった子には責任はない。

 なにより、生まれた子を庶子にだけは出来ない。

 真珠の君は子まで出来たのに、自分は結婚式が出来ないことや、あこがれていたドレスを譲ってもらえないことなど、ひたすら自身の不遇を泣いた。

 そんな真珠の君をなだめすかして、自分は嫌々ながらも、結婚式の当日を迎えてしまった。


 正式な婚姻のない子は爵位を継げない。

 だから、真珠の君と自分の子を彼女の養い子にしなければならない。

 そういって君を説得した。

 子供の未来のために。

 彼女とは時機を見て離婚する。

 ただし、以前のような白い結婚は出来ない。

 だからこそ、君との子は、最初の子とならなければならい。


 やっと納得した真珠の君をおいて、別邸を出るときには、悲しいのに笑顔で見送るいじらしさに胸が詰まった。

 何度も愛してると呟き、キスをして、抱きしめて「今夜もここに帰ってくる」と伝えたときは、驚きに目を見開いていたが涙を流しながら「信じてる」といった。


 結婚式の会場に着いた時、自分は不機嫌さを隠しもしなかった。

 彼女さえいなければ、自分は何の問題もなく、真珠の君と結ばれて幸せになれた。

 彼女と婚約さえしなければ、こんな茶番をすることもなかった。

 ひたすら、心の中で彼女―の呪詛を吐いた。

 自分の両親の借金が原因であることは抜け落ちていた。


 結婚式の会場で見た彼女のドレスは、贅を尽くされた豪華なドレスだった。

 真っ白なドレスには、繊細な金糸と銀糸が巧みに織り込まれた刺繍、花をかたどった刺繍の中心には、淡く光るピンクの宝石とちりばめられた真珠。

 頭にのせられたティアラは、いくつものアーチが連なる伯爵家のティアラ。


 この隣に侯爵家のティアラ、いや、母が降嫁の際に持参した王女のティアラを身に着けた真珠の君がいたならば、どれほど幸せだったことだろう。

 この女のせいで、自分は君と婚姻できない。

 なにより、侯爵家のティアラも王女のティアラも、借財のため伯爵家に差押えされている状態だ。


 忌々しくて、手を差し出した彼女に舌打ちをして、「なぜ、君なんだ…」と憎々しげにつぶやいたら、人形のように表情のない彼女の顔が青白くなった。

 弱弱しくこちらを見るのもいらだちが沸いてくる。

 手を握るのも嫌悪感を感じ、自分は彼女の爪の部分をつまんだ。

 その行為を大神官が咎める視線をよこしたが、彼に聞こえない程度の舌打ちをして視線を外した。


 結婚式が終わり、侯爵家の本邸に引き上げ、執事にこれから別邸に出向くことに伝えた。

 何か言いたそうに口を開いたが、ひとつため息をつくと「いってらっしゃいませ」とつぶやいた。

 父の代から長年侯爵家に仕え、自分のことを支えてくたれた執事だが、近頃は随分と年老いてきた。

 彼は自分が真珠の君と付き合い始めた頃も、苦言を呈してきたことから、煙たい存在になりつつある。

 なにより彼は、本邸に君を迎え入れようとしたときに、大反対をしてきた。

 年齢を理由に領地に追いやってしまおうか。


 別邸では、君は白いドレス姿で自分を待っていた。

 華やかなドレスではないが、君が身に着けていれば、それだけで美しいドレスに見える。

 真珠の君にキスをして体を愛撫し、互いの肌と肌を寄せ合って何度も君の中をうがち、奥底に子種を残す。

 二人、朝まで睦あって、初夜の夜に彼女を放置したことをあざ笑った。


「妻の躾は最初が肝心だ。これで自分が正妻だとは思わないだろう。今後は、ローラに敬意を払う事を約束させる。」

「時機を見て、彼女には侯爵家の離れをあてがい、ローラを本邸に呼ぶ。私の妻は君だけだ」

「もちろん、この別邸は私たちの思い出の邸だ。彼女に使わせるつもりはない」



 その言葉を聞いて真珠の君が妖艶な顔でにんまりと笑った。

 ほんの少しだけ、その笑みに醜悪なものを感じたが、きっと気のせいだ。

 二人、再びキスをして、睦言の世界に入り浸ることにした。


 睦言の同時刻に、彼女が命を絶っていた。



 ****



「旦那様、本邸より急ぎの使いが…」という、家令の言葉で意識が浮上した。

 この別邸を使い始めたときに、新しく雇った者だ。

 本邸の執事を引退させて、彼を昇格させてもいいかもしれない。

 我ながらいい考えだと思いながら、寝台のカーテンを開けると、驚いたことにかなり日が高くなっていた。

 どうやら寝過ごしたらしい。

 時間的にはお昼を過ぎたころだろうか。

 もっと早くに起きて、昼前には本邸に戻り、

「ローラとの子供をアルシェリーナの養い子として届け出る」事などを彼女と話し合いをしようと思っていた。



 結婚初夜に花婿に見向きも知れない哀れな女が、屋敷内でどれだけの冷淡な対応をされるか当然、自分はそれを理解していた。

 当てつけにわざと真珠の君のもとへと向かったのだから。


 彼女に、お前の居場所はここにはないこと。

 侯爵夫人はあくまで表面上だけであり、屋敷内では自分に逆らうなということを解らせるために。

 なによりも、今まで伯爵家から多額の融資を受け、ことあるごとに無駄だと切り捨てられた事に対する趣旨返しの意味もあった。



 伯爵より受けた数々の屈辱を、これからどうやって彼女に仕返しをしていこうか。

 この時の自分は、そのことを考えて心の底から愉快だと、楽しみだと感じていた。

 手のつけようのない下種な思考と下劣さだ。

 自分はそこまで人として落ちてしまっていたのだ。


 邸に到着した際に、執事が今までないほど、青ざめた顔で自分を待ち構えていた。

 邸内は静まりかえり、自分を出迎えたのは執事一人というありさまだった。

 理由を尋ねようと口を開きかけたとき。


「奥様が命を絶たれました」と執事が言ったので「ローラは生きてる」と怪訝な顔をしたら、執事が今までないほどの冷たい目をしていた。

 この目は覚えがある。

 自分が何か問題を起こした時に、彼はこういう目をして非難してきたから。


「あなた様の奥様は、昨日、婚姻されたアルシェリーナ様ではございませんか」

「……」

「アルシェリーナ様は、先程、医師の診断で死亡が確認されまた」


 激しい耳鳴りがする。

 そして言いようのない不安が一挙に押し寄せてくる感覚。

 急激な息苦しさと、めまいが襲い来る。

 いま、何が起きているのだろう。



 彼女にあてがわれた部屋は、格下の来賓をもてなす際に使われる別棟との境にある質素な部屋だ。

 昔は家令や執事などが居住していた部屋でもある。

 日当たりだけは良いが、内装は華美ではない。

 自分も、そして自分の意をくんだ屋敷の者たちも、彼女に貴婦人室は使わせなかったのだ。

 質素な部屋の、リネンだけは上質なベッドの上で、彼女は横になっていた。


 昨夜、自分が真珠の君のもとへと向かったことは屋敷の誰もが知っていた。

 当然、初夜に花婿に逃げられたのだから、恥ずかしくて部屋から出せてくるはずがないと、使用人たちも彼女を嘲笑っていたのだ。


 伯爵のおかげで維持されている侯爵家、使用人たちの御給金も伯爵家からの援助で賄われているのだが、誰一人、それに思い至る人物はいなかった。


 朝食にも呼ばれず、昼過ぎになってもよばれない。

 丸一日、食事を運んでいないことに気が付き、彼女の担当だったメイドが執事に相談にいき、メイド頭とともに部屋に入ると、彼女はすでに息絶えて、冷たくなっていたらしい。


 何から手をつければいいのか、解らなくなった。

 すべての予定も計画も崩れてしまう。


 すぐにでも伯爵家に使いをと言われたものの、

「このまましばらく彼女の死を伏せル事は出来ないか」と、

 迂闊にも言葉にしたら、執事とメイド頭に、

「これ以上、人としての道をはずすのはおやめください」と言われた。

 気が動転していた自分は、この言葉の意味を深く考える事は出来なかった。


 それでも執事とメイド頭を説得してこのまま彼女の死を少しの間だけ黙っていようかと思ったが、騒ぎを聞きつけて駆け付けた父が、

「伯爵家にはすぐに使いを出しなさい。娘が死んだことを知らせるのは人として最低限の義務だ。お前は…無力な女性をいじめて楽しんだ最低な男だ」と、

 自分を叱り飛ばした。


 父に叱られた記憶のない自分は驚いたが、その後、母が啜り泣いた。

 思わず両親に、

「自分は家の犠牲で彼女と結婚してやったのだ」と反論した。

「好きな女は自分で選びたい」とも彼女の遺体を前にして、大声を張り上げた。


「なら、婚約破棄をすればよかった。土地を処分して邸を手放して爵位も返上すれば…。

 その方法をとれば、それが出来ないほどお前は」と、

 父は力なくつぶやいた。


 その後、両親とは会話らしい会話をしなくなった。

 何がいけなかったのか、両親が死んだ後に気が付いたくらいだ。


 結局、父が伯爵家へ使いを出した。

 誰もが、この非現実を前にして、震える事しかできない。

 使いを出してから間を置かずに訪れた伯爵は、娘の遺体を見ても何も言わなかった。

 ただ、自分を見てひとつ深くため息をついただけだ。

 それがとても不気味だった。


 結婚したばかりの妻が初夜に命を絶ったことは、その日のうちにスキャンダルと化した。

 侯爵家の邸の者は花嫁が命を絶ったことに誰一人気が付かず、昼過ぎまで放置していたこと。

 夫である侯爵は、初夜に花嫁ではなく妾のところに出向き不在で、陽も高くなってから、事態を知ったこと。


 人の口には戸は立てられない。

 翌日の昼を過ぎるころには、王都中の人の耳に届いていた。

 当然、真珠の君にも伝えられ「心細いから戻ってきて」と何度も使者が来たが、自分は、王城からの登城命令を受け取っており、別邸には戻れそうになかった。


 事がことだけに王城に呼ばれ、宰相を入れての話し合いになった。


 彼女の葬儀は、侯爵家ではなく伯爵家で行うと伯爵は申し出た。

 そんなことを認めたら、侯爵家は恥の上塗りになる。

 ただでさえ、初夜に妻が死んだこと、初夜に新郎は愛人と別宅にいたことなどが面白おかしく噂されているのだ。

 この上、彼女の葬儀を伯爵家で執り行えば、侯爵家の面目は丸つぶれだ。

 さすがに侯爵家で執り行うと主張したが、婚姻届は王家に届けられていなかった。


 あの婚姻の日の伯爵の笑みはこれが理由だったのだ。


 伯爵は、

「娘という婚約者がありながら、婚姻前に妾に子供を産ませ、我が娘とは白い結婚をするなどとのたまった。ましてや娘名義の別邸に妾を住まわせて正妻のような振る舞いを許した。そんな男を信用などできるはずもない。娘の固有資産狙いの婚姻だったのだから、当然か」と、あざ笑った。


 真珠の君のことを「妾」と言われたことにも腹が立った。

 それを聞いていた辺境伯も、「ローラを妾などというな。無礼者。手打ちにされたいのか」と怒鳴り散らしたが、

 宰相から「無礼者はそちらだ。私はあなたの発言を許可してはいない。黙りなさい」と冷たくあしらわれ真っ赤な顔をして悔しそうに閉口した。


 宰相は、現国王陛下の同腹の弟であり、母の異母兄でもある。

 王に次ぐ権力者であると同時に、この人の意見は王の意見でもある。

 真珠の君の父も黙るしかない。


「婚約者がいることを知りつつ、婚姻前に子供を産んだのだから言われても仕方のない事。今の立場は妾でしかない。子も庶子として受理している。なにより一代限りの騎士位でしかない家の令嬢と、侯爵家の嫡男の正式な婚姻は認められない」と、

 宰相に指摘され、今度は屈辱に身を震わせて押し黙った。


 聖女として選ばれ、社交界でも人気で自慢の娘の置かれている立場と、貴族社会において、

 娘がような立場にいるのか、はっきりと認識したようだった。

 過去に伯爵に対し「相手にされない可哀そうな娘」と夜会であざけった言葉が身を突き刺している。


 辺境伯は本来ならば、一国の主でもおかしくはない立場だ。

 守備の要であり、先祖代々続く…と言われる中で、君の父である辺境伯は、任期制の名誉職でもある。

 南の辺境地は王家の直轄地であり、この領地だけは、軍のトップが就任する地位だ。


 元をたどれば真珠の君の父親は田舎のそれも爵位も継げない次男であり、騎士位があるだけの平民で、期限のある辺境伯位。

 おのずと真珠の君の身分も「ただの平民」でしかない。

 自分の地位があるうちに娘を貴族に縁づかせたかったこともあり、娘のふるまいを許していたのだ。


 彼女が生きていた間はまだいい。

 彼女が命を絶ったことで、娘の置かれている立場をやっと理解したのだ。

 宰相は、辺境伯に「すみやかに娘と孫をつれて辺境伯領に戻るように。沙汰は追って知らせる」と申し渡した。

 辺境伯もそれを聞いて早々に暇を申し出た。


 生まれた子供については、侯爵家の血をひいている事は確かで、ましてや男子であるので、

「跡取り」であることは間違いないことから、いずれは折を見て、という話になった。

 娘が妾と呼ばれたことには屈辱を感じたが、孫は未来の侯爵だと気が付くと、留飲を下げたらしい。


 正面上だけ謝罪を述べた辺境伯に、伯爵は「底の浅い男だ。小さな世界しか見ていない」とバカにした。

 どうにも、宰相と伯爵は旧知の仲のようだった。


 残された自分は伯爵から、改めて、

「娘が死んで思惑が外れたな。娘の資産は、娘が子供を産んだ時にだけ自由にできる事になっている。娘が養子を迎えても自由にはならない。娘の腹から生まれることが重要だ。残念だったな。もっとも結婚したとしても、すぐに離縁になっただろうがな」と言われた。


 彼女の資産を狙っていたのに、当てが外れたなと揶揄されたことは、屈辱で心外だったが、

 今まで伯爵家からの援助を思えば、何も言い返せなかった。


「侯爵、あなたが妾と住んでいる別邸は娘の名義ですから、すみやかに退去願おう。そのうえで、住んでいた期間の家賃は請求する」と、言い渡した。


 そこでやっと自分は気が付いた。

 あの、別邸は「彼女」の持ち物であって、侯爵家の別邸ではないことに。


 伯爵は娘の名誉を地に落としたとにも慰謝料を求めてきた。

 散々、今まで自分と君を好きにさせた理由はこれだったのだ。

 長年にわたり融資された金銭を一括で返すことは到底不可能であり、彼女と住むはずだった別邸も、真珠の君と暮らしていたのは事実で、なにひとつ反論が出来ない。

 伯爵は狡猾な手段で自分を追い込んできたのだ。


 結局、王族であった母が降嫁した名門侯爵家という表面上だけでも取り繕う必要のある我が家は、農作物などを運搬するための港の権利の一部と、陸地の通行料の一部を伯爵家に売り渡すとともに、王家の保証を受けて、通行料の一部で残りの弁償を行う事になった。

 事実上、侯爵家の名前は残せるが、今までのような「侯爵家」を維持するのには難しい。

 伯爵には「領地が減るわけではないのだから良いだろう」と嫌味を言われたが、恐らく、彼はずっと昔からこれを狙っていた。


 多額の資金を投入して、農作物の運搬路の為の港を整備し、その事業のすべてを侯爵家に任せてきたのは、自分の娘が婚姻し子供が生まれれば、その子供に継がせることが出来るからだ。

 けれど、自分が彼女に見向きもしなかったことで、彼は別の手段を講じた。

 侯爵家が金銭の調達にあえいでいた頃から、計画していたのだろうと思う。

 彼女との婚姻は資金を回収するための手段の婚姻でしかなかった。


 伯爵は娘の遺体を引き取ると、伯爵家の所有する霊廟で派手に葬儀を行った。

 結婚式が行われてから、わずか3日後には同じ場所で葬儀が行われたのだ。

 貴族の間で噂話をするなという方が無理だ。


 夫として葬儀を行うでもなく、ただそこに立つことの苦痛。

 誰もが自分に蔑みの目を向け、真珠の君のことを売春婦よりたちが悪いと噂した。

 伯爵には「最後くらいは誠意を見せてほしいものだな婚約者殿」と、意地悪く言われ両の掌を握りしめて、その時間を必死に絶えた。


 なぜ、命を絶つような愚かなことをしたのだ、この女は。

 せめて一日、待てなかったのか。


 確かに初夜は真珠の君のもとへ出向いたたが、次の日にはあらためて彼女との初夜をと考えていたのだ。


 我が家と彼女の家との契約は複雑だ。

 販路のためには、水路や陸路など、伯爵家側の協力が必要だ。

 ただ、それを無償で使えるのは、彼女が生んだ子供だけだ。

 だから、彼女とは子をなさなければならなかった。

 君が生んだ子供では爵位は継げても、商いは方は継げないのだ。

 我が侯爵家が生き残るためには、その商い部分が必要なのだ。


 なのに。

 初夜の夜に服毒死を選ぶとはなんと愚かな不始末をしてくれたのか。

 愛せるかは別として、子供くらいなら、その腹にくれてやったし、愛することはしないが、

 侯爵家の為の子供なら、養育くらいは許したのに。

 本当に、最期まで忌々しい。


 なぜ、初夜に命を絶ったんだ、と、彼女に対して理不尽な怒りを感じ、混沌の原因はすべて彼女のせいだと責任を転換しようとした。

 今までにないほど酒を飲み、酔いつぶれた自分に執事が逢いにきた。

 職を辞すための挨拶に来たのだ。


「若様はご自分で、ご自分の幸せを放棄しただけですよ」と言われ、反論の為に酒のまわっ頭で考えた。


「若様は、一度でも婚約者だった彼女と話をされましたか。彼女が何を考えていたのか」


 考えたこともなかった。


「どうぞ、ご息災で。遠くから侯爵家の繁栄をお祈りいたします」


 執事は父にも挨拶に行き、この後は隣国に嫁いだ娘のもとに身を寄せたと聞いた。

 娘が嫁いだのは隣国の裕福な商家で、彼は請われて商家の執事として働いたと、父から聞きいた。




*****




 彼女の葬儀が終わり、社交シーズンも終わりを告げた頃、両親は周囲からの好奇の目や、嘲りに耐えかねて領地に引きこもるようになった。

 なによりも、息子である自分には関わり合いになりたくないのか、彼女の葬儀以来、顔を合わせていない。


 彼女が死んで1年もたたずに真珠の君と子供を本邸に呼ぼうとしたら、両親や親類からは反対され、両親からは孫にも会う気はないと言われてしまった。

 今の当主は自分であるから「好きにする」と告げたら、両親は早々に領地の隣にある母名義の邸に行ってしまった。




 彼女が命を絶ってからすでに3年の年月が過ぎ、真珠の君との間に生まれた子供は3才になった。

 辺境伯は前の年に任を解かれた後、もとの階級である準子爵として北の砦の総責任者として赴任した。


 真珠の君は自分が用意した王都にある、小さな邸で子供とともに暮らしている。

 前の別邸に比べると質素で時々、別邸に戻りたいと呟いたが、あの別邸は彼女の名義だからと、なだめすかした。

 買い取れないのかと言われた時に、侯爵家の財政を話したが、真珠の君はその手の話は苦手なようで、何度告げても理解できないようだ。


 折を見て子供とともに本邸に呼び寄せることも考えたが、周囲の反応を考えると実行には移せないまま時だけが過ぎた。

 自分は一日おきに子供に会いに行き、真珠の君と愛を語らい二人で慎ましやかな幸せを積み重ねている。

 いまは穏やかに生活が出来ている。



 あの事件以来、夜会などの招待は来ないが、王家主催の夜会と茶会には出席している。

 きつい言葉もかけられるが、子供と3人で幸せをかみしめている。

 彼女の事さえなければ、自分たちはもっと一緒に生活ができたはずだと思う事もある。

 時々、真珠の君の口から洩れる現状に対する不平不満は、聞かなかったことにするすべも身に着けた。



 彼女の死から4年を過ぎ、自分は真珠の君と結婚をした。

 侯爵家への嫁入りは家の格からして難しいが、すでに子供が生まれ、真珠の君のお腹には二人目の子供がおり、早めに婚姻する必要性があった。


 初夜に花嫁を殺した男と言われ、縁談はひとつも入らない侯爵家。

 同格の高位貴族との縁は無理だろうと、宰相からも君との結婚の許可を得た。

 ただし、この結婚は、貴族同士の結婚とは違い、侯爵家への婚姻ではなく、あくまでも自分の個人的な妻としての婚姻だ。


 結婚式は領地にある教会で、家族だけの小さな結婚式を挙げた。


 両親は参列はしてくれたものの、会話を交わすこともなく、孫を抱きしめることもない。

 息子である自分とも会話を交わすことなく、式が終わると教会を出て行った。


 真珠の君は最後まで貴族らしい王都での結婚式を望んでいたが、教会側からはっきりと断られてしまった。

 それも致し方ないと思う。

 君はとても残念がったが、最後には納得したので侯爵領地での式にした。

 君の父は、領地をもたない騎士階級であるうえ、父方の親戚からは一連の出来事で距離を、おかれているので、他に場所がなかった。


 真珠の君には言えないが、自分は君の両親が好きではない。

 まるで高位貴族のようにふるまうが、マナー一つとってもひどいものだ。

 一時は王都の本邸や、領地のマナーハウスに我が物顔で出入りしたが、

 父が「真珠の君のご両親は下町育ちなのか。ならば、マナー講師を雇ってあげよう」と、あからさまな嫌味を言って以来、犬猿の仲だ。

 王女であった母に至っては真珠の君の母親の無礼さに、完全な無視を貫いている。

 ただ、あの事件で、真珠の君の父は恩給をかなり返上し、今後の出世の道の完全にふさがれたことも事実だ。


 宰相に結婚を報告をしたとき、王家からは祝いは出せないと事前に言われていたので、それも仕方がないと思っている。


 この4年の間に、自分は王太子の近衛騎士団を退任した。

 事実上の退職勧告を受けたこともある。

 幼馴染として育った王太子からは、

「君はただの愚か者になったのだ。残念だ」と、冷たく告げられた。


 幼馴染としての絆は、この程度たったのだと思う一方で、自分の傲慢さが招いた結果を受け止められるだけの度量は自分にはなかったのだ。

 現在は王都の治安騎士団の責任者として、勤務しながら領地運営をしている。

 金銭的にはさほど変わらないが、名門侯爵家の当主としてはかなり痛手は被った。


 真珠の君は、あの後、泣きながら彼女に対して自分がしたことを打ち明けてきた。

 調子に乗って傲慢だったのだと。

 正直、驚いたが今更、過去は変えられないし、彼女はすでに死んでいる。

 何より、なぜ、彼女は自分に伝えてこなかったのか。

 伝えてきたなら自分も、君に対して気をつかったはずだ。


 領地での結婚式を決めてから、真珠の君は彼女が婚姻時に着ていたドレスにこだわった。

 普段、過度な要求をあまりせず、贅沢もさほど求めない君の我が儘を聞いてやりたい気もしたが、彼女が着ていたドレスは伯爵家が引き上げていったし、何より縁起が良くない。


 結婚の時くらい新しいドレスが欲しいと懇願されたが、今の侯爵家にあれほどの贅を凝らしたドレスを作成する費用などはない。

 そもそもすでに子をなしてしまっている身だ。

 なので、ドレスは母が嫁入りの際に、王家より下賜されたドレスを手直しした。

 母は最後までドレスにハサミを入れることを拒みはしたが、父が侯爵家の財政では新調は出来ない事や、領地での小さい結婚式とはいえ、侯爵家の当主の結婚式でドレスがないことは、やはり見栄えが悪いことなどを伝えて説得した。


 王家の下賜品だけあって母のドレスは、素晴らしいものだった。

 若干、流行遅れではあるが一品ものだった。

 ドレスの仕上がりに上機嫌の真珠の君は、ティアラはないのかと聞いてきた。

 伯爵家以上の高位貴族の家には、家の伝統のティアラがある。

 当然、侯爵家にもティアラはあった。

 母が降嫁した時に、下賜された王女のティアラも。

 けれど、そのふたつのティアラは、現在、王家に借財として召し上げられている。


 その時、自分はやっと真珠の君にそれを説明した。

 君は今まで見たことがないほど自分をののしり、彼女をののしった。

 ティアラがない結婚式なんてする意味がない。

 私はティアラを身に着けたいと、とにかく手の付けられない状態だった。

 母に土下座をする勢いで頼み込み王家に手紙を出してもらい、結婚式の間だけ、侯爵家のティアラを貸してほしいと要請した。


 結婚式当日に、王家より届けられた侯爵家のティアラ。

 美しく光を放つさまを見て、真珠の君はとても喜んでいた。

 今まで苦労をかけたことから喜んでもらえてよかったと思う。


 式が終わりティアラを王家に返す段になり「これは私のよ」と泣いて手放さなかった。

 真珠の君がこれほど拘るとは思っていなかったので正直、困惑した。

 けれど終了次第、確実に返還がされるように、監督官が付いてきており、君がどれほど泣いても彼らは王都に持ち帰った。



 結婚式の後、半年後には二人目の子供が生まれた。

 女の子だった。



 その後も、侯爵家にはあるまじきことだが、夜会には出席をしなかった。

 人は過去のスキャンダルを忘れてはくれないからだ。

 時には「結婚初夜に花嫁を殺した男」と陰口を言われ、妻も「婚約者のいる男を寝取った女。妊娠までした卑しい女」と陰口を言われた。


 領地でひっそりと暮らしていた父は、最期まで孫の顔を見ることに拒み続け静かに息を引き取った。

 ときを置かずに母も精神的な疲れから、ひっそりと命をたった。

 彼女が死んでから5年を過ぎたあたりだった。


 母が死んだときにも王家からはお悔やみの一つもなかった。

 現王の異母妹であるにもかかわらずだ。

 侯爵家の置かれている現状が突き付けられた出来事だった。

 遺品の整理に出向いた際、王家からとくに陛下から母を叱責する手紙が見つかった。

 これでは母が命を絶つことも仕方ないことだと思ったが、これに苦情を言う事は出来なかった。

 書かれていたのは、すべて自分の不始末に対することだったからだ。


 遺品整理をしていると、王家から派遣された管財人が訪れ、面会を求めてきた。

 両親が住んでいた別邸は、母への下賜されたものなので、母の死亡と同時に王家に返還を求められた。


 妻は、また王家に召し上げられたと、王家に対して不満を漏らした。



 ****



 妻との間には3人の子供に恵まれて、慎ましやかな生活を送った。

 妻の父は北の任期があけると騎士団を退団し、王都にある侯爵家の別棟で暮らすようになった。

 邸の者から、侯爵家の縁者でないものが当主顔をしていると陰口を言われて、憤慨していたが、娘から「夫を困らせないで。迷惑だわ」という言葉に負けて、自分の恩給で暮らせる郊外の小さな貸家に移っていった。


 貴族生活を夢見ていた夫人は、離れたくないと泣き喚き部屋に籠城した。

 最近、気がついたが、妻はこの母によく似ている。

 この二人を勘違いさせたのは、自分も一因だ。


 代々支えてくれたいた執事やメイド長はあの事件で引退し、その後両親も逝った。

 長年仕えていた数人のメイドたちが、年老いたこともあり職を辞していった。

 静かに、静かに、名門侯爵家の歴史が終わりつつあることに、自分はまだ気づいてなかった。


 伯爵家への弁済は、まだ続いている。


 幾度か不作の年もあり、支払いが大変なこともあったが、王家が保証人として伯爵に口利きをしてくれ、利息なしで待ってくれた年もあった。

 最終的には、宰相からの助言で、侯爵家のティアラの宝石部分をすべて売り、母の死亡後に母のティアラの宝石部分を売り、足りない部分は、王都にある侯爵家の本邸を王家に売却することで借財をすべて返済した。


 今は、領地にあるマナーハウスと、王都にある小さな別邸のみだ。



 ****



 あの時父が言っていたことの意味を最近知った。

 宰相が代替わりする際に、打ち明けてくれたのだ。


 名門侯爵家が領地経営に失敗し続け数年にもわたり王家への納税をしていなかったことや、母が陛下の妹であることから、祖父母も王家に甘えた。

 陛下は妹も嫁いでることから、管財人を派遣して立ち直りを希望したが、父がそれを嫌がった。

 そこで、考えあぐねた宰相が、若い頃から懇意だった伯爵に相談したのだそうだ。


 まず伯爵の娘を自分と婚約させ資金援助を行う。

 結婚の段階で自分が侯爵位を返上し、借財を返済すれば、伯爵位を自分に引継ぎ、侯爵家の屋敷も借財として受け取るつもりだったらしい。

 その後、結婚の祝いとして娘に侯爵家の屋敷を譲るり、王家も祝いとして侯爵位を返却するつもりだったと。

 自分は彼女と結婚すれば、何一つ、手放すことはなかったのだ。

 ただし、根っからの商人である伯爵は、万が一の保険をかけることにした。

 それが娘の固有資産であり、侯爵の領地の整備をしたのち、反故にされれば伯爵のものになる。

 という取り決めだった。


 なのに妻と出会い、彼女をぞんざいに扱ったことから、伯爵は自分に見切りをつけたのだ。

 自分は、あのやり手の伯爵に見切りをつけられたのだ。


 新しく伯爵をついだ彼女のいとこは、若い頃は修行のために外商に出向き、人からも慕われたいるらしい。

 いまや国一番の裕福な貴族となり、権勢をふるっている。

 二人いる娘の一人は現王太子と婚約し、未来の王妃となる。


 かたや自分は名門侯爵家は名前ばかりで、貧乏ではないが裕福でもない。

 ただ、貧乏貴族のように身売りをしなければならないほど落ちぶれる事もないことは感謝しなければならない。



 ここ数年で妻は、己の不遇を嘆くようになった。



 5年に一度行われる建国際に選ばれる聖女たちは、みな良い結婚し社交界でも有名な貴婦人になっている。

 片や自分は…と妻は最近、泣くようになった。


 今年、聖女に選ばれたのは伯爵家の娘だ。

 皮肉なもので、亡くなった彼女によく似ている。

 そして年を取ったせいだろうか。

 陰口を言われた彼女の苦しみが理解できるようになった。



 *******



「おとうさま…彼が婚約の話をなかったことにしてほしいと言ってきました」と、

 長女が静かに泣いた。


 自分と妻の間には、2人の男の子と1人の女の子がいる。


 娘は今年16才になり、一応は侯爵令嬢として社交界にデビューした。

 派手なドレスは新調出来なかったが、恥ずかしくない程度には仕立てられたドレスで。

 同時期に、伯爵家の令嬢がデビューしたが、それは美しいドレスだった。

 昔の侯爵家なら仕立てられたはずだと、妻はとても悔しがったが、恐らく出会った頃の侯爵家では無理だった。


 侯爵家であれば、早くから婚約者を定めてもおかしくはないが、我が家は過去のスキャンダルもあり、高位貴族の間ではあまり評判がよくない。

 それに、自分の両親は侯爵と元王族だが、妻の両親は父は一代限りの騎士子爵位、母は平民のなので格が落ちる。

 自分たちの過ちを子供たちに背負わせたくないことから、昔のことは話していない。

 それが裏目に出てしまった。


 長女は社交界で出会った、伯爵の息子と恋仲になっていた。

 地方の小さな伯爵だが、工芸品で名を馳せる裕福な家柄だった。

 自分とくに妻は、大変喜んだ。


 伯爵の妻は、彼女の異母妹だった。

 あのスキャンダルは、伯爵家だって巻き込まれて、かなりの陰口を言われたのだ。

 だから彼女の妹は、ひっそりと婚姻したのだと思う。


 娘は本当にその長男が好きだったのだろう。

 ずっと泣きどおしだ。


 妻が怒って伯爵と夫妻とその息子を自宅に呼んだ時、はっきりと言われたのだ。


「我が実家にあれだけの汚辱を与えた侯爵家の娘なんて、輿入れされても迷惑だわ」


 あの当時、自分たちだけがひどい目に遭ったと思っていたが、そうではないことを初めて知った。

 引退した執事の言葉がよみがえる。


 伯爵夫人は帰る際に、一通の手紙を自分に渡してきた。

 ふるぼけた手紙。

 亡き父から、いつか時が来たら使えと言われたものらしい。


「今夜、彼が来くれたら、今後の話をしようと思う。でも来なければ、私は死のうと思う。少しでも私を思ってくれるなら、私も彼の立場を考える。でも、考えてくれないなら、私は復讐のために死ぬ」


 それを読んで妻は卒倒した。

 出仕していた長男も、同時期に恋仲になった男爵令嬢との破談が言い渡された。

 私と妻は子供たちに、過去のことをかいつまんで話をした。


 その時もまだ、自分たちの都合の悪い部分はぼかしてしまったのだ。

 社交の場に行かない自分たちは、噂話がどれほどなのかわからなかったのだ。

 長男はそれを聞いて、絶望した顔をしていた。

 1週間後、手紙をおいて家を出てしまった。

 長男はすべてを知っていたのだ。

 自分たちの都合のいい話をしたことで、親に見切りをつけてしまったのだ。


 家を出た長男はその後、家に戻ることはなかった。


 風の便りに聞いたところでは、伯爵家の商会にはいり、船乗りとして生計を立て、その後、伯爵家の商会の支店長となったらしい。

 侯爵家の血筋であることは、一言も言わずに、独り身のまま逝った。


 長女はその後、貴族の家に嫁ぐことは諦め、一介の騎士の妻に収まった。

 相手は男爵家の次男。

 侯爵家の令嬢としては格下ではあるが、貴族世界では受け入れてもらえない立場だ。

 婚姻できただけでも十分だ。

 贅沢は何一つできない生活で、娘はそれでも幸せにくらした。

 子供に恵まれなかった。


 次男は、すべてを理解したうえで侯爵位を継いだ。

 この頃には、もう、本当に名前だけの侯爵家になっていた。

 次男は文官として王城に努めている。



 人が忘れるまでは、長い時間がかかる。


 *****


 王都での生活には、使用人が多ければ多いだけ出費がかさむ。

 けれど人数を絞ってしまうと、大きな屋敷の維持は難しい。

 妻とともに領地のマナーハウスに引っ越したものの、数年でここの維持も難しいことから、母が残してくれたこの別荘に移り住んでまだ、10年は越えていない。

 王家の直轄地に佇むこの別荘は、母が降嫁の際に、祝いとして贈られたものだ。


 保養地の一角にあるので、静かな環境ではある。

 ただ、休暇であるとか、療養をする意味合いでは良い場所だが、生活をすることを前提とすると随分と不便である。

 王都からは馬車をつかえば半日の距離だが、寄合の馬車だと一日はかかるうえに、村の中心部からは多少外れていることから、生活に必要な品物をそろえるのも苦労する。


 体が動くころは、野菜など最低限のものは、妻と二人で栽培した。

 素手で土をいじる等、体験したことがなかった。

 近くの湖からは、水が通る道が整備されているので、風呂には困る事がないが、これを沸かすにはまた一苦労で、若い頃に騎士団で集団生活を体験していなければ、自分たちは何もできなかったと思う。

 飲み水は庭の井戸でくみ上げることが出来る。


 最初は随分と不便をした生活で、マナーハウスが良かったと妻は文句を言っていたが、この別荘の調度品は気にっていたようだった。

 ここは母の持ち物だったので、調度品も王家が用意したもの。

 売り払う事はできない。


 人は生活に疲れると、愚痴が増えると聞くが、妻は確かに愚痴が増えた。

 自分だって思う事は沢山あるが、今更、言いつのったところで何も変わらないのだ。

 若い頃は二人で一緒に居られるだけで感じた幸せは、いまはもうない。


 昔は年を経ても仲睦まじく、互いに手を引きあいながら、庭で散歩をしたり、花をめでたりすることを夢見ていたが、現実とは辛いものだ。

 この別荘は景観は素晴らしいが、妻が病気が付いてからは外出も難しくなくった。


 妻は時々、わが身の不幸をののしる言葉を吐く。

 その中には、すでにいない彼女への呪詛が多い。

 自分にとっては遠い過去の人だ。

 今では、名前はしか思い出せないというのに。


 ある時、妻が言った。

「私はあなたに一目ぼれしたの。だからどうしてもあなたが欲しかった。あの日…とても強いお酒を飲ませて、抱いてもらったの。侯爵夫人になれると思って。平民は嫌。なのに、あなたと結婚したことで、私は妻になったけど、侯爵夫人ではない。くやしい」


 妻は愛しているといいつつも、ずっとわが身の不幸を呪う。

 自分だって呪いたいのだ。

 すくとなくも自分は、名門侯爵家の当主と、国王の異母妹という両親のもとに正当な血筋の嫡男として生を受けた。


 家令も使用人もいない、小さな別送で生活するような身分ではない。

 恋とか会いに溺れ、色々なことを間違えた自分の結果だと思う。

 自分が愛した妻と幸せに人生を終えたかったのだが、最近、自分は妻の何にひかれたのか疑問に思う事がある。


 妻は3人もの子供を産んでくれたし、慎ましくも幸せであったと思いたかったが、妻はいまだに彼女の呪詛を吐く。

 妻の中には私への愛はもうないようだ。


 侯爵夫人なりたかった。

 貴族として贅沢がしたかった。

 なのに、「ひとつも叶えられなかった」という。

 一目ぼれで、あなたが欲しかったというけれど、「愛している」という言葉を聞いたのはもうずいぶんと昔な気がする。


 時々、心の蔵あたりが痛むことが増えた。

 けれど、妻を医者に見せられないと同様に、自分も医者にかかる金銭的な余裕がない。


 騎士に嫁いだ娘が時々、多少の金銭的な援助をしてくれるが、これ以上、お願いするのははばかられる。

 なにより自分たちのせいで、娘は婚約破棄をされたうえ、侯爵令嬢であったのに、爵位も持たない騎士に嫁ぐ羽目になったのだから。

 幸いなのは夫となった男爵家の次男が、娘を大切にしてくれてることだ。


 娘が婚約破棄をされた時、貴族階級の娘が婚約破棄をされたなら、それが高位であれば、

 身の振り方の選択肢がないことを身をもって知った。

 自分には女の兄弟がおらず、一人息子だったので、そのあたりに疎かったのだ。


 今ならわかる。


 彼女があの日、死を選んでも当然だったのだ。

 彼女が自分たちに復讐をして当然だとも思う。

 月日とともに後悔が募る。


 次男はすべてを理解したうえで、落ちぶれた侯爵家の爵位と名を継いでくれたものの、先日、ひっそりと命を絶ってしまった。

 文官として王城で勤めていたが、やはり財政が苦しく、爵位の維持が出来なかったようで、

 宰相と相談し、爵位を返上したらしい。

 爵位を返上してしまうと、貴族の特権は何も受けられず、身分は平民になる。

 様々な苦労があったのだろう。

 遺書に綴られていた言葉はどれも、世をはかなんでいた。


 妻に次男の死を伝えたら、やはり今はいない彼女への呪詛を吐いた。

 君の中ではいまだ彼女は生きているのか。

 自分の君とのこの何十年は一体なんだったのかと思う。


 家の為に伯爵令嬢の彼女と婚約した。

 婚約者として愛せなくて、妻との恋にのめりこんだ。

 その結果は、彼女を死なせ、侯爵家は没落した。

 すべてが借金のせいだとは言い難い。

 借りたお金で自分は妻にドレスを買い、宝石を買い与えた。



 国王の妹が嫁いだ名門家が没落することを王家としても心配し、宰相に相談して伯爵家との婚姻だった。

 なのに、自分は何をしたのか。

 貴族としての義務は何一つ果たさず、政略結婚にも嫌悪し、好き勝手した。

 父と母は没落する侯爵家を見てどう思っただろうか。

 むなしかっただろうか。


 妻に1週間ほどで帰ると告げた。


 次男の弔いと遺品の整理をしなくてはならない。

 妻は一人は嫌だと泣いた。

 息子の死でショックをうけたのだろうが、それよりも傍にいてくれと。


 若い頃は妻の「傍にいて」をすべて聞いた。

 婚約者との語らいも無視して、妻を優先した。

 夜会にも茶会にも、妻を連れだった。

「傍にいて」と言われたから、結婚式の夜ですら、妻を優先した。


 だけど、今回の「傍にいて」は聞いてあげることはできない。

 独り逝った次男をそのままには出来ない。

 何もできなかった親だとしても、せめて最期の弔いはしたい。

 しくしくと泣く妻をなだめて家を出た。


 今住んでいるこの家は、自分が死ぬと他の家族は住む権利を失う。

 すでに病が重くなりつつある、妻をいまさら見捨てることも出来ない。

 せめて、妻が息を引き取るまでは自分が長生きしなければならない。



 家を出るとき、心の蔵がまた痛んだ。


 ****


 娘とともに対面した次男の亡骸は王都の騎士や商人が多く住む二の格の小さな教会の好意で大切に保管されていた。


 暫く会えていなかった次男の体は、やせ細りとても小さなくなっていた。

 次男にたったひとりついていた侍従の話では、精神的な疲労が蓄積した処に、愛した女性から、侯爵家の過去のスキャンダルを知られ破談し心を病み、食事をとれなくなっていた。


 その女性は裕福な商家で新興子爵家の令嬢たった。

 女性側の家族も侯爵家であることで、乗り気だったそうだが、さすがに過去のスキャンダルを知ると、二の足を踏んだらしい。

 親の因果は子にめぐるというが、慚愧の念に堪えない。


 もう少し慎重に、それこそ妻の伯父が言っていたように、手順を踏んで出来なかったのかと、後悔ばかりが胸に去来する。

 様々な思いがあふれ出して、次男の亡骸にすがりつき咽び泣いた。

 参列者のいない簡単な葬儀の後、次男の亡骸は、平民のように骨にして共同墓地に埋葬した。


 領地にある侯爵家の墓地に埋葬してやりたかったが、すでにその土地も侯爵家の領地ではなく、王家の直轄地となっている。

 両親の棺も、先祖の棺も、灰にして共同墓地に埋葬した。

 いずれ自分もここに骨だけを埋葬されるのだろうと思う。

 貴族のそれも高位侯爵家の当主だったころを考えるとなんとも頼りない事か。


 次男が自宅として利用していた小さな家は、家具が殆ど置かれていなかった。

 どうやら、金目の売れるものはすでに処分したようだった。

 妻と出会った頃は、愚かにも伯爵家からの資金援助を受けていながら、別邸の内装費をつかい、豪華な調度品を購入したこともある。

 本邸にあった調度品の一部は、現在の家に移したが、価値のあるものは残っていない。


 この家は婿の実家が買い取ってくれることになった。

 そのうち、娘夫婦が移り住むことになっているが、妻には伝えていないし、言わないつもりだ。

 自分たちの最期を娘に迷惑をかけることはしたくない。

 なにより、妻は若い頃から難しい話になると、逃げることがある。

「侯爵夫人」になりたかったと言っていたが、妻の考えてる侯爵夫人は、煌びやかに着飾り、夜会や茶会に出る事であって、邸のすべてに目を光らせ、時に代理として領地の経営をするという実務的なことは理解できていなかったのだと思う。


 認めたくはないが、妻はその点では軽薄で貴族の妻としての義務は理解できてない。

 父が、貴族が貴族同士で婚姻するのは、政略的な意味だけではなく、同等の教養部分が大きいと言っていた。

 身代が大きくなれば、なるほど、妻の役割も増える。

 煌びやかなドレスを着て笑っているだけの頭の悪い女ではだめなのだ。

 妻は「男爵家」相当の教養は持ち合わせていだが、高位貴族としての教養はなかった。


 平民出の人間では当然なのだから、そこは教育をしなければならなかったが、妻にはそのあたりの向上心は皆無だった。

 だから、自分は娘にだけはその点の教育を施したつもりだ。

 爵位のない人間と結婚したので、それも意味のないものだったが、いつか役に立てばいい。


 次男のことに関するべての手続きを終えて、明日には妻のともに帰ることになった。

 王都からは馬車で半日、明日の備えて早めに次男が使っていた寝台に身を横たえると、

 急に体が鉛のように重たくなった。

 次の日も回復することはなく、体の重たさを抱えたまま、寄合の馬車に乗った。

 妻のいる自宅に戻ったら、私も少しゆっくりと休もう。


 近衛時代の恩給はあるが、高級な貸し切り馬車をかりれるほどの裕福さはない。

 日々の生活には困らない程度だが、その恩給も、自分が死ねば打ち切られる。

 妻の為にももう少し生きながらえなければならない。


 半日かけけて近くの村までたどり着き、宿に一泊をして、再び寄合の馬車に乗った。

 家のある近くの停留場で降りると、歩いて30分ほど。

 その距離がこれほど長く感じたことはなかった。

 歩いても歩いても、前に進んでいる気がしない。



 心の蔵の痛みは前々からあったが、突然、今までない痛みにうずくまった。



 妻のもとには帰れそうにない。






※ 恋に溺れた愚か者の末路は大抵不幸である。


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