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聖女の愛は傲慢と欺瞞で出来ている

小説にするのが面倒になった残骸

 私は大切にはされていたけれど、愛されてはいない。

 一番愛していた人にすら、愛されていなかった。


 気が付いた時、私は何も持っていなかった。

 ただ、ここは自分が今まで生きてきた場所ではないことは断言できる。

 何より、自分の名前もわからない。

 でも、言葉は理解できる。

 茫然と立ち尽くした私に、まず話しかけてきたのは、聖女の使いだという人間たちだった。


 彼女らは「私のような」人間が現れることを不思議に光る石から教えられるそうだ。

 何もわからない無垢なままの人間を庇護する目的のために現れた彼女たちは、私のことを「時渡の聖女」と言い、名前を「セリナ」だと告げた。

 そこで初めて自分が「時渡の落ち人」という存在なことは理解した。

 私は、この時点で何かを刷り込まれていたのだ。


 何も持たない事、何もわからない事の恐怖や不安はきっと誰にも理解されない。


 泣いても、喚いても、いつも何も分からなくなる。

 自分がなぜ泣いているのか。

 自分は何を訴えたくて喚いているのか。

 帰りたくても「帰る場所」が思い出せない。

 何かがひっかかっているのに。


 聖女だと言われても、私は特別な力を秘めていたわけではない。

 せいぜい、神殿にある石を触ると七色に光る程度だ。

 でも、ここの人たちが言うには、聖女には「存在だけで大災害」を防ぐ能力があるという。

 だから、周期的に聖女が堕ちてくるのだそうだ。

 そもそも「聖女」に堕ちてくると使うあたりで、自分は疑うべきだったのだ。


 大神殿いる大聖女は、齢90を超えていると紹介された。

 みるからに矍鑠としてとても壮健な女性だった。

 真っ白になった長い髪を一つに束ね紺色の光沢のある聖女衣をまとっていた。


 その彼女が私に言ったのだ。

「あなたはまだ若い。だから、再び時渡が出来る。ただし、この世で大切なものを作ってはいけない」と。

 その時の私には理解できなかっけれど、今なら、意味していることが解る。


 私は恋に生きてはいけなかったのだ。

 時渡の聖女が、堕ち人が、この世界で「生きて」はいけないのだ。

 それを知ってしまった瞬間に、私は時渡の資格を失ってしまった。

 愛していた人との間に子供も授かれなかった。

 何より、愛する人から「愛されない」呪いがかかっている。



 大聖女が最後に告げたのは、

「時渡の聖女が元の世界に還るには、大切なものはつくってはいけない」だった。


 それを破ってしまったとき、私は愛されない地獄を味わうことになった。

 時渡の聖女の真実は誰にも解らないというけれど、今の私にはただ、一つだけ断言できる

 時渡の聖女は堕ち人である。

 誰かを愛してしまったら、不幸を産む存在になり、ただの堕ち人になる。

 そしてその堕ち人は本来なら存在してはいけない。

 だから、子を孕むことは許されない呪いが降りかかる。

 誰かを愛しても、満たされることない。


 私は、堕ち人になってしまったのだ。

 美しく残酷な人を愛したことで。


 ****


「セリナ様、お聞き及びかしら」


 おっとりとした口調で話しかけてはくれるが、目にはあきらかな嫌悪が見える。


「申し訳ございません。お義母様。どのお話をされているのでしょうか……」

「来月、王宮で王太子殿下の婚約式がございますでしょう。そのパーティーでは、我が家は筆頭公爵家として、各国の王族方の接待を拝命致しました。そのことです」


 病を得てから、床に就くことの多い義母ではあるが身繕いをし、ドレスを纏うと、威厳もあり、公爵家の令夫人としての品位もある。

 見ほれるほどの美しい所作。

 どれをとっても私には無いものだ。

 それなりに所作も学んだけれど、付け焼刃で身につくほど甘いものではなかった。

 今にして思えば、彼女はいつもその「美しい所作」を当たり前のようにこなしていたのだ。

 幼い頃からどれほどの努力を積み、鍛錬をしてきたのか、今の私には理解が出来る。

 それこそ、血のにじむほどの努力をしたのだ、あの美しい人は。

 それを私は「幼い頃から高位貴族として何不自由なく育ったのだから、当然だ」などと言い放つった。

 高位貴族であればあるほど、求められるものが大きいことを私はひとつも理解していなかった。

 どれだけ練習をしても何もできない私にマナー教師はすでに匙を投げている。


 私は嫌になるほど本当に何もできていない。



「セリナ様、ご事情があるにせよ、婚姻によってあなたはもう聖女の地位にはおりません。この公爵家の次期公爵夫人です。すでに婚姻して1年が過ぎています。何もできないままは、はっきり言って迷惑です。泣いている暇があるのでしたら、所作の一つでも覚えてください。せめて公爵家の人間として、恥ずかしくない程度には成長してくださらないかしら」


 本来、このような嫌味を口にする人ではないらしい義母は、俯いて唇を震わせる私に大きなため息を投げつける。


「あなたはいつもそうやって、俯いて耐えるそぶりをなさるのね。こちらが虐めているような気分を与えるとは思いませんの。顔をお上げなさい。公爵子息の妻として、もっと堂々となさいませ。そのような態度が許されるのは小さな子供だけです」


 義母のキツイ言葉に顔を上げるが、意図せず涙がぶわっとせりあがる。

 再び、大きなため息が聞こえる。


「お義母様にこんなことを言われたと、また、あの子にすがるのでしょう。部屋に戻ります。私、あなたが本当に大嫌いだわ。素直で明るく誰からも好かれる聖女様と聞いておりましたけど、どなたが流した噂なのかしら。いまのままでは公爵家の疫病神よ。あの子と一緒に早く別邸に移りなさいな」


 はっきりとした悪口を告げて、義母が席を立つ。

 数人の侍女たちが、侮蔑めいた視線を私に投げつけてから、義母を追いかけた。

 身近な人からの攻撃は、想像以上に精神を抉る。

 言い返したくても、今の私には言い返すだけの力はない。

 悔しさより、情けなさと悲しさで涙があふれてきて、その場で声も出さず咽び泣いた。


 いつまでこんな辛い日々が続くのだろうか。

 あの義母が死ぬまでだろうか。

 私は誰かの死を望むほど、あさましい人間ではなかったはずなのに。

 今は、早く死んでほしいと望んでしまう。

 付き人のマリーナが気づかわし気に、背中をさすってくれる。


「聖女様…大丈夫ですか。フレイ様にこのことは私から伝えておきます。公爵夫人はひどすぎますもの。聖女様の責任ではございません。」


 それだけは辞めてと止めなければならないのに、その言葉も出ない。

 私は人にかばわれて、一方的に庇護されることに慣れきってしまっていて、自分で戦うことが出来ない。


 告げ口なんかしたくない。

 だけど日々、強くなる義母の冷たい態度に、遠慮無く投げつけられる悪意に精神は限界を迎えている。

 私は、ただ、あの人と愛し愛される穏やかな生活をしたいだけなのに。


 そこでふっと考える。

 現実的にどんな愛し合あう生活なのだう。

 今はもう、答えることが出来ない。


 ただ、傍にいて。

 ただ、同じものを見て。

 ともに生活して、ともに年を取って…子供たちに恵まれて、私は公爵夫人として…

 その何一つ、出来ない事を理解しているのは私自身だ。


 幼く芽生えた淡い恋心に焦がれ、胸が高鳴ったあの頃のままでいたかった。

 たとえ失恋しても、結婚できた今よりきっと良い思いのままでいられたはずだ。


 だけど、好きで、好きで、好きで。

 心から愛していた。

 何よりいつも傍に居たくて、ずっと彼からの愛だけが欲しくて、この世界に残る事を選択し、彼も同じ気持ちだと思っていた。

 けれど、それは大きな間違いだと、身をもって突きつけられる日々。


 あの頃の私は、もっと輝いていたはずで、好きな人の前でははにかんで笑う事しかできなかった。

 彼はいつも私に優しく、親切で、礼儀正しく接してくれた。

 王城に住むようになってから慌ただしくなつた周囲の悪意からも全力で守ってくれた。

 柔らかな笑顔で話しかけてくれて、労ってくれて私をいつも笑顔にしてくれた。

 聖女という肩書しかない私にとっては、すべての人だった。


 彼の婚約者のあの美しかった公爵令嬢は、彼を大切にしていなかった。

 だから、私が彼の理解者になって、彼の心を安らげる恋人になりたいと思った。

 あの美しい人より容姿は劣るかもしれないけれど、誰よりもあの人を愛している。

 彼女のような完璧なマナーはないけれど、行動力があって誰とでも打ち解けた。

 それに彼女のように冷たくはなく、優しくて思いやりもあるはずだと思っていた。

 私は、あの美しいエウリディーチェ様より、彼を理解できると自負していた。


 でも、彼は私が守らなきゃいけないほど弱い人でもなく、子供でもない。

 理解者が必要なほど孤独な人でもない。

 心安らげる恋人を欲していたわけでもない。

 全部、全部、全部、私の独りよがりの思い込みだった。


 その思い込みを私は周囲の人たちに利用されたのだ。

 冷たく傲慢な彼女より、私の方が素直で明るくて男性が好む女性だと言ってくれた。

 誰もが私が彼と一緒にいる事を微笑ましく見つめて、応援してくれていた。

 お茶会や夜会などではいつも、私が彼と一緒にいられるように取り計らってもいた。


「きっと聖女様とのほうが、フレイ様も心安らげるはずです。だってエウリディーチェ様はあのとおりですもの」

「きっと聖女様とのほうかお似合いになられます。だってエウリディーチェ様は完璧すぎて何かと鼻につきますもの」

「きっと聖女様のことをフレイ様も好ましく思っております。だってウエリディーチェ様とは政略ですもの」


 そう。

 彼女たちは私と彼との応援をしているふり、持ち上げてるふりをして、悪口を言っていただけなのに。

 裏を返せば、あの美しい人をやっかむ人たちに私は乗せられていただけだった。

 当時の私はそのことに思い至ることはできなかった。

 乗せられて、褒められて、彼に似合うと煽てられて有頂天になり、傲慢になっていた。

 謙虚な振りをして、心の中では彼女の美しさと婚約者である地位に醜く嫉妬していた。


 どす黒い感情を押し込めて、笑みを浮かべ「私なんか、とても…」といえば、みんなが注目して、励ましてくれる。

 今まで不安だらけだった私を皆が受け入れてくれることが嬉しくて、私はあの美しい人を周囲の人が悪しきざまに言うのを聞くことで精神の安定を得ていた。

 卑怯者。

 醜い卑怯者。

 それは私が一番、よく理解していたけれど、恋心には勝てなかった。

 どうしても、どうしても彼が欲しかったのだ。


 私とあの美しい人のうわさを聞いたのだう。

 ある時、神殿の大聖女から呼び出しを受けた。

 そして釘も刺された。

「あの方には婚約者がいる。王家も認めた婚姻である」と。

 そして「あなたは時渡の聖女から堕ち人になるつものか」と。


 それでも、日々、想いは募る。

 恋い焦がれる。

 この恋心を消す魔法があるならいいのに。

 消してしまえばこれほど狂おしい恋心に押しつぶされることはないのに。

 泣きたくなるほどあの人が恋しくて。


 消せない恋心は狂気を孕んで暴走した。

 結ばれないと思えば思うほど、切ない思いが膨れ上がってしまって、自分でも手に負えなくなった。

 周囲は無責任に「恋を応援する」という。

 やがて、私は彼と結ばれるべきは、私だけだと信じ込むようになった。

 運命の恋。

 なんて甘美で残酷な響きだろう。

 そして、なんて浅はかで軽薄な言葉だろう。


 何も持たず、何もわからず、何も出来ない私が、唯一、手に出来そうなもの。

 周囲の無責任な声におだてられ、私の方が彼に似合うと、私の方が彼を愛していると本気にしてしまった。

 あの美しい公爵令嬢を蹴落として不幸にし、凄惨な最期に追いやった犠牲の上に成り立つ私の幸せは幻だったのに。

 この時の私にはそれが見えていなかった。


 周囲の声とは裏腹に、この頃から私の絶対的味方だったマグノリアが、不安な顔をするようになった。

 マグノリアは美しいあの人と同じ公爵令嬢で私の最初の友達になってくれた人だ。

 何も知らない私に優しく接して、いつも側にいてくれた。


 私の彼への募る思いを聞くごとに「聖女様…どうか落ち着いてください」というようになった。

 それが不満だったから、私は「私の恋を応援してくれる」令嬢と過ごすようになっていた。


 あの頃の私はただ彼女が羨ましかった。

 公爵令嬢として誰よりも美しくて、すべてにおいて完璧で、圧倒的な自信に満ちた人。

 私とは違って自分があって、家族もいて、蝶よ花よと育てられたわがままな人。

 だから、好きな人くらいは、譲ってもらってもいいのではないかと思っていた。


「フレイ様との婚約を破棄してくれませんか。私の方がずっと彼を愛しています。私は公爵令嬢ではないけれど聖女です。聖女として彼の傍にいることは、彼のためになるはずです。何より、私はあの人の優しさや正直さを愛していて、地位や名誉を大切にしているあなたとは違う」

「何か違うのですか」

「あなたは彼を愛してないでしょう。政略的に定められたことで、あなたはいつも彼を年下扱いして、弟のようだと皆さんに噂されています」

「それはどなたがおっしゃつていたの」

「周囲の皆さんが言っています。誰もが…あなたにはフレイ様はもったいないと」

「私があなたに劣るとおっしゃつていらっしゃるの」

「そんなことは…言ってません。でも私はフレイ様より年下です。何よりあの方を心から愛しています」

「私がフレイ様を愛していないとなぜ言い切れるの」

「だって、あなたは傲慢だから…。だから、お願いします。彼を開放してください。彼もあなたとの関係は、政略結婚だと言っていました…。あなたは公爵令嬢だから、あなたなら、どんな相手とも結婚できるはずです。この先、あなたを愛する人だって現れるし、あなたが愛せると思うる人もできる。だけど私にはフレイしかいないんです。私からフレイをとらないでください。あの人があなたと結婚する姿を思っただけで、胸が張り裂けそうなくらい切ないんです。眠れなくなるほど恋しいの…」


 私は「フレイと結婚をして幸せにしたいのです」という言葉を、国王の前で言ってしまった。

 地位を振りかざしたのは、彼女ではなく私の方だった。

 あれほどマグノリアから、権力者の前では発言を注意するようにと言われていたのに。

 言い訳になるけれど、私は貴族の令嬢が婚約破棄された後の事を知らなかった。


 国王が「わかった。では結婚を認めよう」と言ったときに、今までずっと味方でいてくれたマグノリアが真っ青な顔をして私を見た。

 そして彼女の父親が隣にいた娘を「なんてことをしてくれたのだ」と言わんばかりに睨みつけていた。

 可哀そうにマグノリアは震えていた。

 正直、私にはなぜそのような反応なのか、理解できなかった。

 周囲の人たちも言葉を噤んだ。

 何より、一番喜んでくれると思っていた彼がうつむいて握りこぶしを作っていた。

 王太子がまずいことになったと私を射抜かんばかりに睨みつてきた時になって、私は自分が大きな過ちを犯したと気が付いた。


 今まで一番の親友だと言っていたマグノリアが、その後、一度も会ってくれなかった。

 あれほど毎日、お茶をして、会話をして、二人で好きな人を言って喜びあったり、笑っていたのに、突然、もう会えないという一言だけ書いた手紙だけが届いた。

 その時は「私は裏切られた」のだとひどく落ち込み、そして腹も立った。


 貴族階級には歴然とした階級があり、複雑だと教えられたのに私は覚えていなかった。


 しばらくすると聞こえたきてのは、私が彼と結婚することになったため、貴族間のパワーバランスが崩れることを危惧した王家が、マグノリアの婚姻の取り消しをしたのだ。

 幼い頃から好きだった人と婚約が出来るとあれだけ喜んでいたマグノリアから私は婚約者を奪ってしまっていたのだ。


 私は彼女に「知らなくてごめんなさい」と謝る手紙をつづった。

 返事が来なくても、自分の気持ちが収まらなくて、必死で謝罪の手紙を何通も送ったけれど、すべて開封されないまま戻ってきた。

 でもどうしても気持ちが収まらせなくて、彼女の邸に使いを出したけれど、マグノリアとは逢わせてもらえなかった。

 マグノリアの父である侯爵に

「聖女様の御心を乱す事をしでかし申し訳ない。娘はいま誰とも会えない状態ですので、お引き取りを」と、慇懃無礼に対応されて追い払われた。


 マグノリアから1通だけ届いた手紙には、

「父がお怒りなのです。セリナ様と今後一切かかわるなと」と

「そして、私も。あの方と結婚できなくなってしまって…いまはセリナ様を恨むことしかできないのです」と、告げてわたしのもとを去っていった。

 とてもショックだったが、それも仕方がないとあきらめた。

 きっといつか、マグノリアも許してくれる時が来るだろう。

 それにあれほど、私と彼との恋心を応援してくれた人でもある。

 きっと、理解してくれるはず。


 私にはまだ慕ってくれる神殿の巫女も侍女もいる。

 そう思い込んでいたのは私だけで、この頃から、あれだけ私を応援していると言っていた令嬢たちが一人、また一人私からあからさまに離れて行った。

 理由もわからないままで困惑するしかなかった。


 その知らせは突然だった。


 侍女のマリーナから「マグノリア様の輿入先が決まりました」と聞かされた。

 20才も上の隣国の伯爵家の後添えとして。

 相手にはすでに前妻との間に3人の子がおり、後継者もいるとのことだった。

 マグノリアが子をなしたとしても、それは庶子扱いになるとも聞いた。

 そんなあからさまな政略結婚は不幸でしかない。


「聖女様はご存じないかもしれませんが、高位貴族の令嬢が輿入れできる先はとても少ないのです。だから、みな幼い頃から婚姻が決まります。たとえ自分に痂疲のない婚約破棄だとしても、破棄された事実だけで、より良い婚姻は望めません。婚前交渉がなかったとしても。破棄された時点で修道院に入るか、未婚のまま恥を忍んで生きていくか、すでに後継者のいる殿方の後添えになるかしかないのです」


 マリーナから齎された話は初耳で瞬間、息をするのを忘れた。

 なら…あの美しい公爵令嬢は…。

 怖くて聞けない。

 王太子の婚約者になると聞いたから、少なくとも修道院に贈られることはない。

 私は、彼女が不幸になるのを見たくはない。

 だって、私の責任で彼女が不幸になってしまったら、私と彼との結婚にとても困るから。


 だけど、彼女が皇太子妃になってしまったら、彼と彼女は毎日、顔を合わせることになるのではないか。

 彼は王太子の近衛の一人だから。

 それは、それで困る。

 でもそれならば、また陛下にお願いをすればいいのだ。

 彼を王太子の近衛から外してくれと。


 自分の幸せを考え始めていた時点で、自分でも気づかないうちに、傲慢になっていた。


 私は聖女として大切にされていただけで、政治の何たるかは何も知らない。

 あの美しい人は、それを上手にさばいていたのだ。

 マグノリアの事は悲しかったけれど、私は好きな人と結婚できる。

 確かに20も年上との婚姻かもしれないけれど、マグノリアもきっと幸せになれるはずだと自分に言い聞かせた。

「子供をつくらない」ことを条件とした婚姻だなんて知らなかった。

 恋は私は愚か者にした。

 違う…私はもとからきっと愚か者だったのだ。


 王家の命令の婚姻だったから、私は豪華な婚礼衣装を用意してもらえた。

 見るたびにうっとりとする、お姫様になったようにドレスだ。

 結婚が決まってから貴族たちからも沢山の送り物ももらった。

 心の底から浮かれていた。

 やっと場分の居場所が出来たことにとても満足していた。

 堕ち人になることもなく、神殿の聖女たちのようにならず、愛し愛されて生きていける。


 いままで傅かれたことがなかった私は、高位貴族の彼と結婚して、聖女ではなく、公爵夫人セリナとして存在できることが何よりもうれしかった。


 その矢先に、あの美しい人が、殺されてしまった。

 男たちに凌辱されて。

 すでに結婚式の日取りは決まっていて招待状は発送され、準備も終えていた。

 その日は、王都の大神殿で国王陛下の参列を賜り国中の貴族が祝福をしてくれることになっていた。


 私は彼が彼女より私を選んでくれたのだと、幸せにの絶頂にいて、彼女に勝ったという優越感で人としての大切なものを見失い、嫌な女に成り下がっていたのだ。

 彼女が死んだことに対する悲しみより、自分の婚姻が延期されることの理不尽さと、不愉快さが勝ってしまって「なぜ、いまなの…来週は結婚式なのに…」と口に出してしまったのだ。

 それを聞いていた王太子たちがぞっとするほどに冷たい瞳を私に向けていた。

 零れてしまった言葉はもう戻らない。


 ごめんなさい、ごめんなさい。

 違うの、私……ごめんなさい。

 動転してしまって…と泣いた。

 いつもなら、ここで「聖女様のせいではございません」と言ってくれる人は誰もいなかった。


 美しい彼女の葬儀には参加出来なかった。

 彼女の父であるラボエンヌ公爵から、今までにないほどの冷たい対応で門前払いにされた。

 正直、すごく傷ついた。

 せっかく出向いたのにとも思った。

 多数の貴族の前で「恐れ多くも聖女様におかれましては、このような場所においで下ることはない。穢れてしまいますぞ」と言われて、持っていた花を手向けることも出来なかった。


 なにより、彼女の弟君に

「人の婚約者を奪うような品のない聖女様に参列頂くなど…我が家の恥となります」と言われた。

 周囲の冷たい視線が突き刺さって、その場から動けず、神殿の巫女の手を借りてその場を後にした。

 私の自業自得だったけど、どうして私がこれほどの目に合わないといけないのか。

 すべては、彼女が死んでしまうからだ。

 なぜ、こんな不幸な死に方をするのだろう。

 彼を奪われた当てつけなのか。


 葬儀には、元婚約者だった彼も参列できなかった。

 なによりグリンフィール公爵家一門からは誰一人、参列が許されなかった。

 王家に一番近い公爵家の人間が誰も参列できずにいたのだ。

 それが何を意味するのか、明白だ。


 高位貴族の公爵家令嬢が、聖女に婚約者を横取りされたうえ凌辱され殺された。

 本来ならば彼女を庇護し守る騎士が側を離れたからだ。

 裏をかかれて誘拐された上に、手をこまねいている間に殺されたのだ。

 しかも当時、彼女を警護していたのは、元婚約者のフレイだった。

 彼は、邪魔になった元婚約者を効率のいい方法で、消し去ったのだという陰口まで叩かれた。


 私たちは結ばれることができない可哀そうな二人から、結ばれるためには手段を択ばない、冷酷な二人という地位に落とされていた。


 彼は…悲壮な顔をしていた。

 葬儀に参列することもかなわず、婚約者を切り捨てた冷酷な男と後ろ指をさされた。

 彼は彼女を愛していたわけではないから、すぐに聖女の乗り換えたのだと噂された。

 私は、それが許せなかった。

 確かに彼女は気の毒な死に方をしたけれど、公爵家の令嬢ならば彼女は自分で身辺に気を付ければよかっただけなのに。

 あの時…私の傍を離れないでと彼に泣いてすがったのは私だったのに、それすら忘れていた。


 本当の地獄はここから始まった。


 延期されていた結婚式は半年後、国王の晩酌で執り行われた。

 けれど王家から参列したのは、第二王子ただ一人だった。

 彼と懇意なはずの王太子は公務があると理由をつけて欠席。

 一時は仲良く接してくれたはずの王妃様や王女様たちも、それぞれに公務と理由をつけて欠席した。

 彼女の実家であるラボエンヌの公爵門下の貴族も彼女の死から一年が経過していない事を理由に軒並み欠席。

 祝いの言葉も何もなかった。


 一番悲しいことは、彼のご両親すら結婚式に欠席したことだった。

 義母は体が弱く静養の為に領地におり、義父もそれに付き添っているという理由だったけれど、領地は馬車で半日の距離だ。

 だれもがそのメッセージを明確に理解したはずだ。


 義両親の代わりに門下の伯爵が参列していたけれど、歓迎とは程遠い対応をされた。

 義両親とは一度、顔合わせをしたが、とても友好的な雰囲気ではなく、私はそれに怯えてしまい言葉すらも交わせなかった。


 その夜、私は彼に泣きついた。

「両親とはそれほど顔を合わせることはないと思いますよ。気にせずに過ごしてください」

 といって優しく抱きしめて励ましてくれた。

 今はそれだけでいい。

 私は彼と結婚できるうれしさと、幸せで、すべてのことを乗り越えられると思っていた。


 結婚式での参列者の少なさは私を打ちのめし、私は自分たちが祝福されていないことを知り、とても傷ついた。

 彼はこの時も「大丈夫です。あなたの傍には私がおります」と優しく微笑んでくれた。

 だから、信じてしまった。

 彼のこの優しさに。

 なにより彼の優しい笑顔は、私を惑わせる。

 私に「愛されている」と錯覚をさせ、考えることを放棄させる。


 結婚パーティーも散々だった。

 それでも、彼はずっと優しい笑みで

「気にすることはありません。覚えて行けばいいだけです」と励ましてくれた。

 愛されている。

 私はこんなにもこの人に愛されている。

 それにこの人は私を選んでくれた。

 あの美しい彼女より。


 彼女のことを思うと多少胸は痛むけれど、彼女は選ばれなかったのだ。

 いつも貴族令嬢として完璧だけれど、婚約者をないがしろにしていた。

 これほど優しい人にいつも難しい顔をさせるほどに。


 でも、それが間違いだった。

 何もかも私の勝手な思い込み。

 気づいた時には取り返しがつかなくて、後戻り前も向かなくなってた。

 その逃げ道をふさいでいたのは、私が誰よりも愛したこの人だった。


 私は愛されていなかった。

 私が愛していた思いなんか、この人はかけらも持ち合わせていなかった。

 だからこそ、どこまでも優しくしてくれたのだ。

 大切にはしてくれたけれど、それは愛ではない。

 私はバカだから、それを理解できなかった。


 散々な晩さん会の後、泣きつかれてしまい初夜を失敗してしまった。

 半泣きの私に次の日にも彼は優しく微笑んでくれた。

 仕切り直しの褥の夜は優しさに満ち溢れていて、ついばむようなキスも、体を支配する快楽も、からめとられた指先も、おしこまれるその熱の塊にも、愛情を感じてた。

 私は本当に好きな人に愛され求められて婚姻したのだと、錯覚し勝利に酔っていた。

 この人は私だけのもの。

 政略結婚ではなく、恋愛で結ばれたふたり。


 私はこの公爵家で夫人として生きていける。

 だけど初夜の夜から、しばらくは彼は私を抱くことはなかった。

 痛いばかりの褥ではなかったから、もっと求めてほしいとも思った。

 肌を重ねたあの甘美な時間、二人での親密な行為。

 囁く言葉も、肌の心地にさも、あの美しい彼女は知らないのだ。

 なんて幸せなのだろう。

 彼が私を選んでくれたらこそ、私は彼のすべてを知ることが出来るのだ。


 私の体を気を気遣い、無理をしない程度に抱いてくれる。

 優しい人だと感激もした。

 それは大きな間違いだったけど、与えられた痛みと快楽は幸せの糧と思い込んでしまった。


 邸の中には冷たい言いようのない何かが存在していたけど、愛に酔っていた私はそれを気づかないようにしていた。


 そのうち、私はあることに気が付いた。

 彼は夜に私に部屋に訪れて私を抱いてくれるけど、朝まで一緒にいてくれたことは一度もないことに。

 私を抱いた翌日は、いつも早くから外出してしまう。

 どこに行っていたのかと聞けば「見回りに行っていました」と微笑む。

 それを言われてしまうと私はそれ以上のことを追求できなかった。


 愛し愛されて結婚したのに、なぜ、彼は朝まで一緒にはいてくれないのか。

 優しく抱いてはくれるけれど、そこに情熱を感じないのはなぜだろう。

 私を抱くときの彼の目に、冷たさを感じるのは私の気のせいなのだうか。

 不安が頭をもたげるけど、きっと幸せであるからだと自分に言い聞かせる。


 早く子供が出来ればいいと思った。

 二人きりで愛し合うこの時間も大切だけれど、何も持たない私は持てるものは沢山持ちたかった。

 愛する人も、愛する家族も、家も、肩書もなにもかも。

 手に出来るものは全部ほしい。

 たとえどん欲だとしても、何も持たない私の心はきしむのだ。


 だから「早くあなたの子を授かればいい思っています」と彼に伝えた。

 はしたなくも「だから、どうか抱いてください」とばかりに。


 彼は「いづれ、時が来れば授かりますよ」と笑った。

 私が周囲から早く子供をと責められていると思ったのか、

「あなたは気にしなくていいのです。いずれ程よきときに授かることもあります。母が余計なことでも申しましたか。その点は俺が謝罪します」

 違う。

 そうじゃないの。

 私があなたの子供が欲しいの。

 その話は結局、濁されたけど、婚姻してまだ半年。

 別邸に移ったことで義両親という心の重しも外れて、やっと新婚生活を満喫できたこともあり、私も深くは追及しなかった。


 追求すればよかったのだ。

 この時、私が夢見ていた新婚生活とは大きく違っていたのに。


 蜜月期が終わりをつげ婚姻してから1年が過ぎたあたりから、徐々に招待状が届き始め、社交界に出るようになり、再び地獄が始まった。


 私は社交界の夜会マナーを何一つ知らなかった。

 今までは、知らなくても許される立場だった「聖女」として。

 一貴族の人間になったからには、それは必須だったけれど義母との事や、上手にこなせない自分に嫌気がさし、マナーの講師からも匙を投げられたこともあって、本当に最低限のことしかできなかった。


 私は多分、この世界の常識的なものの外にいた存在なのだと思う。

 けれど、それは言い訳なのかもしれない。

 彼は何も言わない。

 ただ笑って「仕方ありません。聖女様は時を渡っていらしたんですから。だからこの国の事を知らなくてもしかたないのです」と励ましているかのように聞こえるが、その言葉端々に何か含まれたもの、たとえば諦めを感じるようになったのもこの頃だった。


 シーズンを告げる夜会は王家主催で行われて、私は緊張しながら王城に向かった。

 彼が仕立ててくれたドレスに身を包んで。

 本当は別の色を身につけたかったけれど、彼がやんわりと「あなたには別の色の方がお似合いです」と告げてこれを送ってくれた。

 最初はうれしかった。

 やっと二人きりで生活が出来て、義母の嫌味を聞かされることも、使用人たちの嘲りもなくなったから。

 だけど、ドレスを身に着けてから私が欲した色が「彼女」の色だったと気が付いた。

 いつも彼女が好んできた色。


 きっと私と彼女が比べられてしまうから、彼はそれを避けるために、気を使ってくれたのだと思いこんだ。

 逆だった。

 その色は彼にとっては「彼女」だけの色だったのだ。


 久しぶりに訪れた王城は随分と空気が変わっていた。

 王座に座るべき王は、病気を得て静養中で、かねてより公務の殆どを王太子が担っていて、事実上の王位についていた。

 そして私は、この王太子がとても苦手だ。

 いつも笑みを浮かべているが、目はいつも笑っていない。

 こちらを探るように、見透かすような視線にさらされると、とても不安になる。

 無意識のうちに彼のテールコートの英から除く華やかな刺繍のされたレースをつかんだ。

 彼はそれを振り払うことはなかったけれど、震えるわたしのを手を握る事もなかった。

 それだけのことだけど、なんだかとても傷ついた。


 それから何度か夜会に出ることになったけれど、受け入れられていないのは空気で感じていた。

 彼はいたって平気な顔はしていた。

 ただ、彼の友人や知人などは、私が一緒にいるときは誰も近づいてこなかった。

 公爵家の跡取りとしての立場的にそれが問題なのは私にも理解できる。


 それは王太子も感じていたのか彼は度々、近衛として夜会にでるようになり、夜会で一人になる勇気もなかったことから、私は徐々に足が遠のいてしまいがちで、彼はそれを咎める事もなかった。


 だけど、それでいいのか。

 私はもっと社交的で明るく、人と話すことが好きな人間だったはずだ。

 なのに、どうしてだろう。

 今はすべておいて自信がなく、何をするにしても悪い事ばかり考えてしまう。


 貴族の階級は大変な事ばかりで、美しいうわべだけ私は見ていた。


 私は彼の公爵令息の地位にひかれたわけではない。

 彼の美しい相貌にひかれたわけでもない。

 それは彼を形成する一つであって、私は彼のやさしさや実直さ思いやりを好きになった。

 だから、社交界は息苦しく、どうしても煮詰まる。


 この日も、王太子への挨拶も終わり最低限の礼儀は通したので、帰ろうとしたとき。

 彼が王太子に仕事のことで呼び止められて、私は待つことになった。

 手持無沙汰で話す相手もなく、逆に周囲の視線にいたたまれなくて、彼にあてがわれた控室にいくと伝えて部屋のソファに座っていた。


 ドアの向こうから、貴婦人たちの会話が聞こえてきたのだ。

 確実に、私の耳に入るように音量で話している。

 彼女たちは最近、彼がいる前でも堂々と私の悪口を言う。

 私だけではない。

 彼も彼の一族のもだ。


 政治的な駆け引きなんか私にはわからない。

 違う。

 私が夢見ていた生活はこうじゃないのに。


「聖女と言ってもねぇ、所詮はどこの馬の骨とも知らぬ身ですねのねぇ」

「聖女なんて、得に何ができるわけではなく、ただの肩書でしかございませんもの」

「昔から突然、沸いてきた人間を神殿が勝手に聖女に祭り上げただけですわ」

「奇跡の一つも起こせばよいのに」

「あら? 奇跡は一応、起こしてますでしょ。あの方がたはお年をおとりにならないし、

 天災の時は一応、聖なる力とやらで災害を食い止めますもの」

「あら、いやだわ。聖なるではなく、性なるの間違いではなくて」

「おほほほほほ」


 と、まるで私たち聖女が薄ぎたいなものみたいな陰口。


 それより、まって。

 さっき何か大切な話をしていた気がする。

「聖女は年をとらない…」

 思い当たる節がある…。

 どういうこと。

 そんなことだれも教えてくれない。


「神殿って女性だけでしょ? 娼婦まがいの聖女もいるとか」

「あら、だって。セリナ様だって同じようなものよね。エウリディーチェ様を押しのけて、

 陛下にフレイ様と結婚したいと皆の前で無邪気な顔しておねだりしたのですもの」

「そうよねぇ。聖女の言い出したことなら、基本的に断れませんものね。なのにあの方、自分の方がエウリディーチェ様より優れているとか言ったそうですわよ」

「所作一つできないくせに。随分と無知な聖女様ですこと」

「そのせいでエウリディーチェ様は、生きていたとしても修道院ですものね」

「ほんと、我が息子が目を付けられなくて良かったわ。こんな時は普通の相貌が得ですわ」

「それにしても、よく社交界に顔出せますわ。そのあたりは所詮は娼婦よね。」

「だって、聖女って子を孕まないから、援助と寄付を受ける代わりにねぇ…」

「あら? でも、年を取らないという奇跡はこおしてましてよ」

「ご自分の傍に殿方が近づかない理由を、妻だからとか思ってらっしゃるのかしら」

「聖女は娼婦。という事実が知れ渡ったからですのに」


 聖女は別名娼婦。

 その言葉に屈辱を感じ、私はドアを開けてつい言い返してしまった。

 私は彼に抱かれるまで純潔だった。

 私は娼婦ではない。


「彼は私を選んでくれた。エウリディーチェ様はご自分が彼を大切にしないから、選ばれなかっただけ」と。


 女性は顔いっぱいに侮蔑を含めて私に言った。

 すでに私を敬って言葉を交わしてくれる人はいなかった。

 聖女であったときとは明らかに違う態度に戸惑った。

 彼といるときには一定の礼儀を持ってくれる人も、私にだけはそれがない。


「あなたが陛下にフレイ伯と結婚したいと言ったからよ。あの頃、第三夫人はグリンフィール公爵を恨んでいて、正当な血筋のフレイ様が邪魔だったの。フレイ様がいなければ、あの出来損ないの第三王子を公爵に出来るかもしれないって、浅はかにも考えたからよ。あの方は、陛下を操るために、ご自分の息のかかった若い妾をあてがって操っていたんです。だから、王太子殿下も警戒していたし、フレイ様だって警戒していた。なによりウエリディーチェ様が盆暗に何かをされるかわからないから、一定の距離を保っていた。

 ご存じないのは、愚か者のあなただけ」


 キツイ言葉だった。

 別の人がもっと歪んだ顔で私を嗤う。

 まるで薄汚いものをみる目つきだ。

 辞めてほしい。


「それより、あなた、聖女が娼婦の別名の理由、お知りになりたいの」


 彼女はとても意地悪な顔をした。

 聞かない方がいいと頭の中で警鐘がなる。

 今すぐ、この場を立ち去って、彼のもとに向かった方がいい。

 そう思うのに、私の足は動かない。


 心の奥底ですっと巣食っている何かが、答えを求めてる。

 聞かない方がいいけれど、そこには私の知りたかった何かがある。


「別に、あなたが純潔だろうと男を知っていようと関係がないのよ。聖女が娼婦という言われるのは、子を孕まないからよ。聖女と婚姻したら子ができないの。意味わかるかしら? あなた月のものはありますの? ありませんでしょ。神殿の巫女たちは年を取りませんでしょ? 聖女の呪いというのですって。その呪いは、当人たちだけじゃなくて、周囲にも影響するの。たとえ、フレイ様が子を持ちたくて妾を持っても、あなたとかかわっている間は子供が出来ない。それはフレイの一族も。だからかしら、聖女は誰にでも股を開くのですって。神殿にいる巫女の半分は、娼婦まがいのことをして寄付を頂いてるのよ。子供が出来ないから大層、殿方に喜ばれているそうよ。ただ、貴族の方が通うとお子ができないから、通うのは神殿や教会の方ばかりで、大っぴらに子をなせない方たちの楽園だそうよ。ご存じなかったの?」


 言葉の意味を理解するまでに、どれだけかかったか。

 息が出来ない。

 真っ青な顔をした私に差し伸べる手は一つもなかった。

 そこからの記憶は何一つない。


 聖女の呪い。

 子ができない。


 なら私たちの営みは絶対に実を結ぶことはない。

 確かに、彼はまるでこうあるべきだとでもいうように、週に2度私を抱く。

 抱いてくれる。

 私を優しく導いて快楽を教え込んでくれる。

 だれど、彼が私の中で果てたことは一度もない。

 子供が欲しいと言った後も、彼は一度も私の中で果てることがなく、私は体で子種を白濁を受けたことがない。


 ずっと、そのことが腹の底に巣食っていた。

 一度でも、彼は私の体で快楽を感じたことがないと思ったから、吐き気がする。

 寒気がする。

 めまいがする。


 実を結ばないと知っていながらの行為はむなしいだけだ。

 確かに子を授からなくても仲の良い夫婦はいる。

 でも、ここは公爵家。

 血をつなぐことこそ価値がある。

 ましてや、一度も妻の体で快楽を覚えない男との行為はなんのためにあるのか。

 息が出来ない…。

 私の幸せはどこに行ったのか。


 だけど、私はそのことを彼に問い詰めることが出来なかった。


 そんなときある夜会で聞いてしまった。

 王太子と彼の会話を。

 彼が彼女に優しくできなかった理由を。

 お互いに意地の張り合いをしてしまい、互いにきっかけを失っていたこと。

 第三王子が彼に敵対していたため、大切なものを守るためらは、時期が必要だったこと。

 何もかも私が見ていたとこは表面上でしかなかった。

 私はその表面上だけのことで、美しい公爵令嬢を愛ではないと糾弾し、人前で彼にいちゃつき、自分を選んでくれたのだと有頂天になっていたのか。


 結婚して2 年を過ぎる頃から社交界に呼ばれなくなった。

 彼女の喪が明けて、夜会に出席をしだした彼女の弟が、私が参列してる夜会には参加しないと公言したのだ。

 国を代表す公爵家が出ないなら、夜会を開く意味がなくなってしまう。

 出会いの場でもある夜会。

 それなら、グリンフィール公爵家を締め出すことを社交界は選んだ。


 義両親からは怨嗟の手紙が届けられた。

 彼はそれを私にみせないようにして焼却したが、ある時、召使の一人がわざと私に見せたのだ。


 彼はその時も

「気にしなくていい。妻として邸にいてくれればいいのです。それに公爵家とかぶらない夜会もあります」と優しくいってくれた。

 けれど、その言葉を真に受けて喜びを感じることはもう出来なかった。

 社交界からつまはじきにされる公爵家に価値はあるのだろうか。

 私のせいで彼は社交に出られなくなったのだ。

 それを詫びたとき

「社交なら、王太子殿下の警備として参加しているから、気にしなくても良い」と言われた。

 それじゃまるで、私が邪魔だという言い方ではないのか。

 こんな結婚を夢見ていたわけじゃないのに。


 彼と言い合いをすると、彼はいつも「私はあなたを大切にしたいだけです」という。

 あるとき勢いが高じて子供が出来ない事を知って私と結婚したのか問うと「はい」といった。

 なぜ、もっと早く教えてくれなかったのかと言いつのれば「あなたが望んだのです。私との婚姻を」と返された。

「私は陛下に忠誠を誓っているわけではなく、王家に誓っております」だから、王家の指示には従うと。

 それではまるで、私を選んだわけではなく、王命だから婚姻したと言っているようなものではないか。

 私が嫌った政略結婚と何が違うのか。


 その後も事あるごとになし崩し的に彼に抱かれる。

 無垢だった体に叩き込まれた快楽は、思考力を鈍らせる。

 すがるものがない私にとって、彼との性交を拒むことはできない。

 なのに一度も、私の体で果ててはくれない。


 彼はわざと私を快楽を与えることで罰しているのではないのかすら思うようになる。

 だけど、あえて彼は「変えない」。


 夜会に出なくなってしばらくすると、彼の父である現公爵は「子供が出来ないのなら、後継者を変えないといけない」と言い出した。

 公爵夫人からは「あなたが大嫌い」と面と向かって言われるようになった。


 彼は、父が死ぬまでに子供が出来なければ、自分が公爵になれないのは既定路線だと言っていた。

 後継者をどうするのかと聞いたら、様々な争いが起こる可能性があるため、自分の死後は爵位返上を考えていると言われた。


 屋敷内ではマリーナ以外は、私に話しかけてくれる侍女は一人もいない。

 執事も家令も警護の人も、「将来を約束されていたフレイが後継者から外されるという現実」に憤りを感じている。

 それはそのまま私に降り注がれる。

 私は人の悪意にされされることになれていない。

 かわすことも出来ない。

 そつなく対応することも出来ない。

 マリーナ以外はだれも私に敬意をもってくれない。


 私やマリーナが苦痛だと彼に泣き言や愚痴を訴えると、彼は「それはつらかったですね」といって、侍女たちを本邸に戻し始めたのだ。

 最初はよかった、それでも。

 気が付けば、この別邸には通いの厨房担当と通いの使用人しかいない。

 彼女たちは私たちとは顔を合わせないまま、やるべきことだけやって帰っていく。

 最低限の警護はいるけれど、この現状を見れば、私とマリーナは間違ってしまったのだ。

 女主人として、失格、役立たずという烙印を既に押されていたのだ。


 彼はここ最近、別邸に還る事が少なくなった。

 執事も家令もいないため、仕事や領地運営のことなどは、本邸以外では対応できない。

 通いの料理人の話では、彼は本邸の方に還っているらしい。

 私を「抱くときだけ」別邸に帰ってきているのだ。

 そして、抱くだけ抱いて、明け方には本邸に戻っていく。

 これではまるで私は愛人や妾みたいな扱い。


 私はそれに文句を言った。

 黙っていたのでは何も改善しないし、なにより好きで愛してるから結婚したのに、このような待遇は間違っている。

 色々ともめたのち、彼は私を週に3回抱くようになった。

 子供が出来ないのに行為は続く。

 愛してるも、好きも言わない男に抱かれるのは、屈辱なのだと知った。

 優しくても情熱もなく抱かれることが、これほどつらいのだと知った。

 キスをして、愛撫されて、お決まりのコースのように塊を入れられて。

 けれど、何より一番、屈辱なのは、教え込まれた快楽に抗えない自分の体だと思う。


 彼は私に快楽を与えるだけ与えて自分は、息も乱さない。

 そんなに私といるのが苦痛なの?

 それに対して彼は「そんなことはありません。セリナ様」という。

「セリナ」とは呼んでくれない。

 何不自由ない生活を与えられて、守られても何一つ、愛を感じない。

 私は、初めて一人にしないでほしいと泣きながら告げた。

 彼は「でも本邸での生活は苦痛ですよね。いま母が領地から戻っているのです」と告げる。

 それでもいい。

 一人はいやだ。

 さみしいから。

 そう告げると、彼は、明日には本邸にもどれるように手配しますと穏やかに告げる。

 私は彼の穏やかで優しいところを愛していたはずなのに、今はそけがとても冷たく感じる。


 義両親や邸の人間たちの冷たさを彼も感じていたのだろうか。

 私に再び別邸に移らないかと打診してきた。

 二人でやり直せるなら、私には好都合だと思った。

 もう一度、彼とあの頃の二人に戻りたい。

 だけど、ふっと気が付く。

 あの頃の二人って、なんだろう。


 本邸は居心地はよくない。

 廊下にでれば使用人たちと顔を合わせ、言葉も交わしてくれない。

 なにより、義母の態度は心を抉る。


 それでも、彼とこのまま離れてしまっては、私は壊れてしまう。

 私の幸せは逃げてしまう。

 この時になってもまだ、幸せな結婚は最初からまがい物なんだと納得できずにいた。


 独りでいると次から次へと考え事が出る。

 そもそも私はそれほど悩んで考えたことは今までなかったのではないか。

 私が目指していた幸せってなんだろう。


 私は誰一人幸せにできてない。

 彼女を死に追いやり、友達を不幸にして、なにより愛する人からすべてを奪ってしまった。

 しばらく彼が任務の為の外泊が続き1か月が過ぎようとしていた時、邸の使用人たちが話している事を聞いてしまった。


「フレイ様は毎月、20日には必ずウエリディーチェ様の墓参りをしている」と。


 ここ1か月、仕事が忙しいと外泊をしているのに、彼女の墓参りはしているのか…。

 それに怒ったのは私ではない。

 マリーナだった。

「聖女様をバカにしている。失礼すぎます」と。

 今にして思う。

 私はマリーナも付け上がらせしまったのではないだうか。

 彼女はずっと私の味方ではあるけれど、何かといっては聖女様と慕ってくれるけど、「セリナ」としての私ではなく「聖女セリナ」としての私を見ているだけではないのか。


 もう何もわからない。

 けれど、何かの答えが欲しくて、私はこっそりとかの地へ行ってみた。

 いつも穏やかに、褥ですらも感情を崩さないこの人の、彼女の名前を呟くときの温度差に私は悲しみすらも感じなかった。


 ごめんなさい。

 何も知らなかったの。

 彼が心の底から彼女を愛していたことを。


 私はその足で神殿に向かった。

 大聖女にすべてを打ち明けて。

 その後、しばらくは無気力なまま神殿で寝起きするようになった。

 私が屋敷を出てから、彼は毎日迎えに来たけれど、そのうち、仕事が忙しいことも相まって帰りたい時に連絡をくれと言い残して帰っていった。

 どこまでも優しい人。

 どこまても残酷な人。

 そしてなによりも愛しい人。


 彼は私を愛していないから、優しさだけを注げるのだ。

 どうして、気が付かなかったのか。

 私はこの人に愛されていると思ったから、彼女から奪ったのに。

 ……そう。

 私は奪ったのだ。

 彼が選んでくれたと言っていたけれど違う。

 私は彼女から奪ったのだ。

 彼が逆らう事の出来ない王家を味方にして。


 自分が一番、卑怯なことをしていたのに、きれいごとを並べて。


 あの美しい彼女は一度も弁明はしなかった。

 私がいかに彼を愛しているのか。

 彼女とは違うのか。

 それを押し避けて、彼を奪ったのだ。


「あなたは何でも持っている。家族も。家も。豊かさも。なにより記憶も。公爵家の令嬢として何でも持っていて恵まれている。でも私には何もない。だから、ください。彼を私に。私には彼しかないの。彼の愛だけが私の生きる全てなの」


 過去の自分の言葉が跳ね返る。

 身勝手であさましく、嫌な女は彼女ではなく私だった。

 泣いても、泣いても、もう戻れない。

 過去の月日。


 吐き気がするほど嫌な女は、彼女ではなく私だった。

 自分の愛を理解しろと押し付けただけで、だれも幸せになってない。

 何より自分が一番、不幸だと考えて、未だに自分が不幸だと考える浅ましさに吐いた。


 大聖女は私に考えなさい。

 自分の頭で考えて答えを出しなさいと言った。


 1か月ほどして、彼が再び私を迎えに来た。

 痩せた私を心配もしてくれた。

 どこまでも優しい人。

 優しくて残酷な人。

 はっきり振ってくれたら諦めたのに。

 でも一番、残酷なのは私。


 全員を不幸の底に落とした。

 なのに差し出された手をこの期に及んでも、手放すことが出来ない。


 私を神殿から連れ帰ったその日。

 彼は義両親に近いうちに公爵家を出て、騎士として生きることを考えているといった。

 公爵家の一人息子として望まれて生まれ、両親の血筋も良く、王太子の覚えもめでたい。

 なのに、私のせいで平民に堕ちるという。


 私の身分が平民になっても、あなたは私を「愛している」といってくれますか。と私に聞いた。

 突然のことで、私は答える事は出来なかった。

 過去の私の言葉がよみがえる。

 私は「彼」の肩書や地位や恵まれたものにひかれたのではないの。

 私は「彼」のやさしさや正直さを好きになったの。

 エウリディーチェ様の独占欲とは違うわ。


 取消たい。

 消したい。

 真っ黒に塗りつぶしたい。


 義母は毎日、私に呪詛を吐くようになった。

 それを彼は叱った。

 義母を。

 そして、はっきり言ったのだ。


「彼女のせいではない。聖女の呪いを知っていて婚姻したのだから」と。

 けれど、それ決して愛しているからの発言ではなかった。

「彼女をエウリディーチェを死に追いやってしまった自分は贖罪をするために聖女と結婚したのです」はっきりと宣言された。


 もうだめだ。

 私はいまの彼を愛することはできない。

 傍にいることは苦痛以外の何物でもない。

 愛されていないのに彼に抱かれ、傍にいるのは私が可哀そうでならない。

 だって、彼ははっきり言った。


 私を愛してはいないと。

 押しつぶされる。

 感情に。


「離縁してください…もう耐えられないのです」

「あなたの愛はその程度ですか」


 初めて聞いた彼の冷たい声。


「あなたは私を愛しているといった。愛しているから傍に居たいと。エウリディーチェより、私を愛しているからと。添い遂げる覚悟で陛下に結婚を申し出たのでしょう。私はたとえどんな結果になってもあなたと添い遂げる覚悟です。たとえ君を愛していなくても、君といることで、僕はウエリディーチェを忘れるずにいることが出来る。罪悪感とともに。

 彼女を死に追いやり裏切った者同士として、最期までともにありましょう」


 彼の笑顔がこれほど怖いと思ったことはなかった。

 そして酷いという言葉は出なかった。

 ただ、ただ、泣く事しか手出来なかった。


 やっと気が付いた。

 私は彼に復讐されているのだ。


 愛してもいない女を妻にして、愛してもいない女を抱き、しばりつける。

 自分から愛する女性を奪い、その座に何食わぬ顔をして収まった愚かな私に、自分の人生をとして復習しているのだ。


 私にも、彼自身にも。


 そこからはもう、毎日、別れてほしいと言い続けた。

 彼はいつも笑って、「最期までお傍におります。聖女様」微笑む。

 傍から見たら、とても美しい物語だ。


 だけど、この物語は残酷だ。

 彼は愛してもいない私を義務感と惰性で抱くのに子を孕まない妻の中に果てる事もない。

 行為そのものは出来るけれど、子種を出すことがない。

 それは、私の体を使った快楽を伴わない自慰行為と大差ない。

 そして私もどんなに拒んでも、体に叩き込まれた快楽は、人肌を欲して疼く。

 行為のたびに私の心はすり減っていく。


 私の中では果てることをしない彼は、あの美しい人の名前を呼びながら、自分の手の中には吐き出すのだ。

 白濁を。

 人のもととなる子種を。

 恍惚な表情を浮かべて。

 これほどの屈辱があるだろうか。

 その屈辱を与える彼を私はまだ愛している。

 決して、私を愛することのない彼を。


 最終的には私は神殿に逃げた。

 もう無理だった。

 彼は相変わらず優しくて、私を大切にしてくれる。

 だけど、破滅的な関係だ。


 わたしの評判が地に落ちてもいいから離婚したい。

 いっそ、地に落としてくれていいから離婚したい。

 でなければ、彼の触れる暖かな手や優しい笑顔に、愛されている幻を見る。


 神殿に逃げ込んでから数か月後、陛下が病死し、王太子が王位を継いだころ私と彼の離婚が認められた。

 王太子がこれぞ幸いとばかりに、離縁を推し進めたらしい。

 静観の立場だった彼女の父公爵も、私と彼との結婚で貴族間が分裂することは望んでいないので根回しに協力したと聞いた。


 私は聖女としてあるまじき悪女と言われた。

 彼を振り回した酷い女だと言われているらしい。

 それと同じ内容を彼女もよく言われていた。

 なにより、私はそれを信じた。

 仕方ない。

 だれど、もう何一つ、気にならなかった。


 愛などまやかし。

 気が付くと私は21才で彼女がなくなった年齢になっていた。


 あれから、彼とは一度も逢っていない。

 時々、地方神殿をめぐる以外は、大神殿の奥深くで日々を淡々と過ごしている。

 今更、市井に興味もなく、神殿から外の世界に興味も引かれることはない。


 あの人のことは、今でもしても大好きで、優しかった思い出が突然フラッシュバックして、私を甘く攻める。

 人肌を覚えてしまった体は自分でもどうすることも出来ない疼きを産む。

 それすらも、あの人の復讐なのだと思う。

 彼女を死に追いやったことに対しての。


 この神殿に来て独りで体を慰める事を覚えた。

 飢えるほどの快楽をごまかす方法を覚えた。

 だけど胸をつまんでも秘処に手をはわせても、彼がくれた快楽とは程とおく、もっと疼く。

 優しい腕も、囁く言葉も、抱きしめてくれた胸も、恋しくて、恋しくて、泣きたくなるほど切ない。

 けれど、愛してくれない事を理解して、傍にいることは今の私にはもう出来そうもない。


 あの人はどうだろうと考えて、彼は最初から私の体など大して興味はなく、自分を慰めるほうがよりいいのだろうと思う。

 だって一度も、あの人は私の中で果てることがなかった。

 抱きしめて「愛している」とささやくこともなかった。

 私を初めて抱いたあの夜から、あの人は記憶の中の彼女を抱いていた。


 心をだまして、一緒にいることは可能でも、それは互いの不幸でしかない。

 いつか、互いの醜い感情をぶつけ合うことになる。

 いや、あの人は私に自分の感情をぶつける事すらしない。

 きっと、一生のあの美しいほどの色気のある偽物の笑顔で「大切にしますよ」とつぶやくのだ。


 公爵家では離婚の話を聞いて、公爵がみるからにほっとし、公爵夫人は泣いて喜んだと聞いた。

 酷いとマリーナが言ったけれど、私は彼らにもっとひどい事をしたのだ。

 血をつなげることを何よりも大切にしていた公爵家に、呪いをかけたのだから。

 マリーナは公爵家を解雇になり、いま、ともに神殿にいる。


 マリーナも私と同じような持たざる者だった。

 幼い頃に神殿に捨てられていたのだとう。

 マリーナは私を通して、持たざる者になりたかったのかもしれない。

 私は、侍女の教育も間違っていたのだ。


 美しい彼女はそれも警告してくれた居たのに。

 今更もう、すべてが遅いから、出来る限りマリーナを傍に置いておこうと決めた。


 最近、考える。

 呪いの意味を知っていたら、私はあの人との結婚を望んだだろうか。

 それとも呪いがあるからと、身を引いただろうか。

 多分、恋しい思いを抱えたまま、引き裂かれた恋人のようにふるまって結局、周囲を巻き込んで誰かを不幸にしたのではないかと思う。

 そう考えられるくらいには、私も大人になった。


 聖女の呪い。

 聖女は娼婦。

 その意味を私は身をもって知った。

 彼に愛された体は、人肌が恋しくて疼く。

 自分で慰める事も限界がある。

 結局のところ、世界において、聖女とは異質なものなのだ。

 だから、この神殿が存在している。

 今はたた、ただ、不幸にも命を落としたあの美しい彼女の冥福をいるのことしかできない。


 ただね。

 フレイ様

 本当に、心から愛していたの。

 私を私でいることを認めてくれたのはあなたが初めてだったから。

 今でも愛してるけど、返してくれない愛情を待てるほど、私は素直ないい子ではなかった。

 今はただ、あなたに愛されたいと疼く肌を己でなぐされて、時渡を望んでいる。



 ****


 その知らせはマリーナから伝えられた。


「フレイ様が婚約をしたそうです」と。

 ラボエンヌ門下の辺境伯のご令嬢で、名をオルフェディーチェというと。

 彼女を髣髴とさせるデーチェという響きに胸が騒いだ。

 どんな人か興味はあるが、私はもう神殿を出る気はない。


 幸せでいてくれるといい…。

 あの人が幸せでいてくれるなら。


「結婚は貴族には異例の3か月後だそうです。すでにともに暮らし、ご寵愛とのことです」


 そう。

 あの人もやっとウエリディーチェ様以外の女性を愛することが出来るのか。

 私の呪いは薄れるだろうか。

 私はやっと、愛する人の幸せを願うことが出来るようになったのだ。


  


 そこで今の私の意識が途切れた。






※愛とは利己的なものである。愛とは時に傲慢である


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